俺とじいちゃん ~封印の部屋とオミキノツボ~

百々嗣朗

前編

 身近な人に霊能者が居ると、面白いけど大変って話。


 俺の母方のじいちゃんってのが、S県の山奥の寺で坊主をしてた。

 じいちゃんはその地域ではちょっと有名な霊能者。

 葬式とか法事とは別に、噂を聞いたそっち系で困ってる人がちょいちょい訪ねてくるので、そういう場合には除霊だか、お祓いだかをやってあげてたみたい。

(しかもほぼ無料!)


 昔は家族で遊びにも行ってたんだけど、俺の母親は寺生まれの癖に超常現象の超否定派。

 曰く、「じいちゃん本人は嫌いじゃないんだけど、やってることが嫌い」らしく、最近はあんま近付きたがらない。(あえて疎遠にしてる、って感じか?)

 だけど俺個人はまったく別で、夏休みになるとよく一人で遊びに行っていた。


 その夏も、俺はいつものようにじいちゃんの寺に行った。

 寺はちょっとした山のてっぺんにあって、それこそどこまでも続くようなボロい石段を登った先にある。(正直、除霊を有料にしてこの石段を直せ! って思う)

 

 俺がヒイヒイ言いながら石段を登りきると、そこには見えるのは巨大な入口の山門。その中央には、分厚い一枚板をくり抜いて作った古い龍の彫刻があった。

 俺はこの龍がけっこう好きで、寺に着いたときは必ずこれを眺めるのが習慣だったんだが、今日に限っては忘れてしまった。


 というのは、境内から騒がしい声が聞こえたんだ。

 見ると、少し先の地面を何かがうごめいている。

 それはせわしなく辺りをのた打ち回りながら、こんな奇声を発してた。


「あああああああ! あああああああ!」


 俺はぎょっとし、数秒間固まった。

 が、すぐに解った。人間だ。

 灰色のワンピースを着た、十代前半くらいの女の子だ。

「あああああああ! あああああああ!」

 女の子は絶叫しながら、参道として舗装されたコンクリの上を、まるで駄々をこねる幼児のように転げ回っていた。


 ただ、その動き方が普通じゃないんだ。

 自分の身体がどうなろうが知ったこっちゃない、って感じで、あらゆる部位をバシン、バシンとコンクリに打ち付けている。

 あっちこっちに擦り傷ができ、なかには血も滲んでた。

 それを見て、俺はようやく「助けなきゃ!」って思った。

 で、その子に駆け寄ったんだ。「ど、どうした? 大丈夫か!」

 すると、遠くから爆音の怒声が飛んできた。


蒼太そうたッ(俺の名前)! に近寄んな!」


 見ると、真っ黒な袈裟衣をまとったじいちゃんが、本堂の方から猛ダッシュで駆けて来るところだった。

 瞬間、今まで駄々をこねてた女の子が跳ね起きた。

 両手両足を大の字に開き、こっちに迫って来る!

「ひっ!」

 俺は後退ったが、飛び付かれ、がっちりホールド。

 そして耳元で例の、「あああああああ! あああああああ!」

 

 正直、鼓膜が破れたかと思った。

 が、もっとヤバいのは締め付けの方だ。

 とてもじゃないが、十代女子の力じゃない。大人の男か、それ以上だ!

「痛い痛い、痛いっ! くっそ、ふざけんな!」

 

 そこにようやく、じいちゃん到着。

 女の子の腕の隙間に、自分の腕を滑り込ませ、俺から引き剥がすと羽交い絞め。

 とはいえ奇声の度に、女の子が頭をぐわんぐわんと揺らすので、じいちゃんは何度も顔面に頭突きを食らいまくる。

 俺が手助けようとすると、

「いいから動くな!」と怒鳴り、体重をかけて女の子をうつ伏せに倒していった。


 じいちゃんは女の子を押し潰したまま、何事がブツブツと呟き始める。普段のお経とは違う、呪文のような言葉だった。

 その間にも、女の子は体重の掛かっていない両足を、じいちゃんのケツとコンクリの地面に往復させる。

 これがまた、どうなってもいい本気の力なんだ。

 蹴りが当たると「うっ」となって、じいちゃんの呪文が止まる。

 また女の子の足も、バチンッ、とコンクリを鳴らすんだ。

 俺がビビり散らかしながら見守っていると、

「おい! ぼーっとしとらんで手伝え!」じいちゃんが怒鳴る。

 動くなと言ったり手伝えと言ったり、一体どっちなんだと思いながら、俺は女の子の足をつかみにかかった。


 初めは押さえるのも精一杯だった足は、呪文が続くようになると徐々にゆっくりになり、やがて動かなくなった。

 じいちゃんは女の子を抱き留めていた片方の腕を外し、手の平を開いて彼女の後頭部に置いた。続いて、ぐいっと何かをつかみ出す動作をした。

 

 俺は、一生忘れられない光景を見た。

 ズルッと、女の子の頭の中から黒い霧の塊が出てきたんだ!

 サッカーボールくらいあるそれは、しばらくじいちゃんの手の中で滞留していたが、やがて日の光にとけるように霧散していった。

 俺は理解が追いつかず、しばらくその場で呆然としてしまった。

 正直、これが初めて幽霊を見た体験だった。

「──いやあ、よう来たな、蒼太。電車は混んでなかったか?」

 女の子の上から下りて、じいちゃんが言った。

 俺は答えなかったが、「──他に言うことあるだろ」と思った。



 ※  ※  ※



 じいちゃんの話では、女の子は隣県からの客で、ここへ来るまでにずいぶんと霊能者をたらい回しにされてきたようだった。

 最初の計画では、本堂に閉じ込めてお祓いするつもりだったが、付き添いで来ていた女の子の母親にいきなり体当たりをかまし、逃亡を図ったのだという。そして追いかけて行ったら──俺が居た、という訳だった。

 幸いにも、女の子はすぐに意識を回復したが、身体の傷が心配なので、じいちゃんの紹介する近場の病院へ行くこととなった。

 問題は、あの長い石段だ。

 俺とじいちゃんは二人がかりで、汗だくになりながら女の子を担ぎ下ろした。(正直、女の子から食らったベアハッグよりこっちの方がキツかった!)

 とはいえ、母親が運転する軽自動車の後部座席に彼女を乗せたとき、弱々しい笑顔だったが「──ありがとう」の言葉を聞いたときには、何だかすべてが報われた気がした。


 俺とじいちゃんはようやく一息ついた。

 庫裏くり(寺の住居部分)の台所に移動し、冷やしてあった麦茶と、女の子の母親が持参した温泉饅頭でまずは乾杯する。

 口の中に黒糖の甘さが広がり、それをキンキンの麦茶で流せばもう最強!

 だけどやっぱり俺の中には、さっきの恐怖と興奮が渦巻いていて、じいちゃんのしてくる軽い世間話も頭に入らない。

「──ね、じいちゃん。さっきの黒いヤツ、一体何なの?」

 話の途中にそう俺が割って入ると、じいちゃんは急に神妙な顔になり、



 じ「──お前、あの悪霊が見えたのか?」

 俺「見えた。ハッキリ見えた」

 じ「どんな風に見えた?」

 俺「黒い霧だった。大きさはサッカーボールくらい。とけるように消えてった」

 じ「──そうか。見えてしもうたか──」



 じいちゃんはそこで一旦、黙り込んだ。

 俺は、見えてはいけない物だったのではと思い、急に不安になった。



 じ「──お前、毎年ずっとウチへ来とったろ? 多分その所為で、しもうたのかも知れんな──」

 俺「──開いたって、何が?」

 じ「新しく、、ってことだ」



 じいちゃんは俺の額に指を当て、短い一本の線を引いた。



 じ「どうだい、お前? こういう世界に興味あるか?」

 俺「無くはないかも。てか、実際見ちゃったし──」

 じ「だったら一つ、手伝ってみんか?」

 俺「え! 俺に手伝いなんて出来るの?」

 じ「なあに、難しいことは期待しとらんよ。ジジイの体力じゃ大変なとき、ちょっと補助して欲しいというくらいだ。ただでさえ、ばあさんが亡くなって以来、一人で何でもしなきゃならん。年寄りの身体には堪えるのよ──」



 ばあちゃんが亡くなったのは二年前の事。

 死因は脳卒中で、徐々に弱って行ったのでない、本当に突然の事だったから、家族で酷く驚いた記憶がある。

 俺はじいちゃんの提案にちょっとの恐れを感じつつ、同時に強く興奮していた。

 何か特別な霊感が欲しい訳じゃなかったが、あちらの世界をちらりと覗くことについては、「怖いもの見たさ」的な関心があった。



 俺「うん、解った。俺、手伝うよ。なんせ、じいちゃんには長生きして欲しいからね?」

 じ「おお、そうか。そりゃ有難い。それならちょっと、面白い物を見せてやるとするか──」



 立ち上がったじいちゃんは、部屋を出るよう促した。

 俺は最後の麦茶をぐいっと飲み干すと、一緒になって部屋を出た。



 ※  ※  ※



 庫裏くりの薄暗い廊下を進んで行くと、まず見えてきたのは明るい裏庭だった。 中央にちょっとした池と短い石橋があり、生前のばあちゃんが命より大事にしていた場所だった。

 じいちゃんはその更に奥、寺に二つある渡り廊下の一つを進んでいった。

 それは本堂の表側ではなく裏側、いわゆる裏堂うらどうに通じるものだった。


 裏堂の引き戸を開けると、むわっとした空気が飛び出し、湿ったほこりと、カビのような臭いが鼻に届いた。

 戸の向こうはまさに漆黒の闇。

 当然俺は入るのをためらったが、構わずじいちゃんはずんずん進んで行く。

 しかたなく追っかけると、足で何やらぐしゃりと踏ん付け、暗闇で眼を凝らして「G」の死骸だと理解し、絶叫する。

「──情けない声出すな。ほれ、こっちだ」暗闇の奥からじいちゃんの声。

 俺は手探りで、そちらへと進んだ。


 パチリ。

 急に辺りに電気が灯り、俺は一瞬、眼が眩んだ。

 徐々に明りに慣れてくると、そこはがらんとした長方形の畳敷きの部屋。

 振り返ると開け放たれた引き戸の少し先に、さっき踏ん付けた「G」が見え、それほど大きな部屋ではなかったと気付かされる。

「──さて、お前に見せたかったのはこの奥だ」

 声の方を見ると、そこにはじいちゃんと、四枚のふすま

 どうやら、更に部屋があるらしいのだが、俺はその光景に後退りする。

 なんと襖と襖の継ぎ目には、びっしりとお札が貼り付けられていたのだ!



 俺「──ちょ、これ、大丈夫?」

 じ「ん? 前と同じで何か見えたか?」

 俺「い、いや。何も──見えないけど」

 じ「じゃ、大丈夫だろ? どうして見てもないのに驚く? 見えてから驚け」



 じいちゃんは慣れた手つきで、お札をぺりぺり剥がして行く。

 ──本当に大丈夫か? と思っていると、やっぱり大丈夫じゃなかった。

 すべてのお札を剥がし終ったとき、室内の温度が急に下がったように感じたからだ。

 じいちゃんは、そんな俺の様子を見て取ったのだろう。



 じ「何か感じたか? 大変結構。危機を察知する直感はさながら智慧ちえだ。まずはっきり言うておく。ワシは今からこの襖を開けるが、絶対にその中に入ってはいかん。また中にあるものに触れてもいけないぞ。──解ったな?」



 俺はこっくりと頷いた。

 じいちゃんがまるで空気でも押すように、すうっと襖を開く。

 瞬間、俺は鼻を押さえた。

 異様な臭気を感じたからだった。

 それはゴミの腐敗臭というよりか、溝や下水のヘドロみたいだった。

 が、それは本当に一瞬のことで、消臭スプレーでも撒いたように、すぐによく分からなくなってしまった。


 襖の向こうにあったのは、幾つもの棚だ。

 まるでちょっとした図書室みたいに、背の高い棚が続いている。

 ただ、そこに並べられているのは本ではなかった。

 例えばそれは、刀剣であったり、高い茶碗でも入っていそうな木箱であったり、巨大な陶器の皿や漬物石風の岩、木彫りの仏像、あるいは日本人形などなど──



 俺「なにコレ? じいちゃんのお宝コレクション?」

 じ「まさか。これはみな全て『いわく物』よ。その内側に何かを宿し、人に障りがある物だ──」

 俺「え! じゃあ、これ全部──ってこと!?」

 じ「最近はそういう言い方をするのかね? まあまじないによって物もあるから、あながち間違いでもないが──」

 俺「だけど、どうしてこんなにたくさんあるのさ?」

 じ「さっきの母娘おやこと同じだよ。障りに困った寄る辺ない人々が自然と持ってくるのだ。いつの間にか、ここまで増えちまった」



 俺は改めて、その大量の呪物を眺めた。

 決して良い趣味ではないし、じいちゃんにその気もないみたいだが、なかなかに圧巻のコレクションだ。もしかしたら、本来はそれぞれ博物館とか資料館に納められるべき品々かも知れない。

 

 不謹慎な話だが、俺はちょっと興奮していた。

 ここに並んでいる一つ一つに怪奇なストーリーがあり、恐ろしくも不思議な何かがその内に宿っている──そう考えると、イヤでもテンションがあがってくる。

 俺は試しに、頭が二つあるミイラとか、子供の指が入った小箱はないかと訊ねてみたが、「そんなもんは無い!」の一言にガッカリする。ただし、「人魚と鬼のミイラはある」とのことだった。(見せて! と頼んだが、絶対駄目! だそう)



 じ「──さて、お前にこれを見せたのには理由がある。実は明日、ここに新しく仲間が一つ加わる予定なのだ」

 俺「え! 更に呪物が増えるの?」

 じ「ああ。初めは断ったんだが、相手はうちの総代そうだい(檀家の代表)さんでな。どうしてもと押し切られてしまった。

 ワシは何かを新しく引き取るとき、まずは供養を行い猛りを鎮め、その後ここへ納めることにしておる。残念なことに、中のものは。長い年月をかけてそれが成仏したとき、本当の供養となるのだ。

 お前に手伝って欲しいのは、その最初の供養だ。執り行う儀式は場合によって、長時間に及ぶこともある。なので、助けてくれると有難いのだよ」



 俺が再度、了解の旨を伝えると、じいちゃんはしばらくその場で読経を始めた。

 さすがにお経のことは解らないので、俺はとりあえず目を閉じ、手を合わせる。

 それが済むと、じいちゃんはさっきとは逆に、ぺたぺたとお札を貼っていった。

 ふいに、また微かなヘドロの臭いを感じたが、お札を貼り終わる頃にはきれいさっぱり無くなって、部屋の中にも夏の蒸し暑さが戻ってきた気がした。


 俺たちはやや遅めの昼食を取り(じいちゃんが作るカレーは必ず水のように薄い!)、その後は夜が更けるまで、明日の手順について話し合った。

 なんだかんだ言っても、やっぱり俺の感情はおかしくなっていたのだろう。

 じいちゃんが客間に用意してくれた布団に入った後も、俺の頭の中には今日一日の出来事がぐるぐると回っていた。


 今日の体験を友達に送ったら、どんな返事がくるだろう?

 驚くだろうか?

 ──いや、待て! 頭が狂ったと思われるぞ!


 俺はスマホの画面を眺めながら、なかなか寝付けなかった。

 その日の眠りは浅く、内容は憶えていないが、何度も短い夢を見ては覚醒を繰り返した。


 ただ一度だけ、夢うつつにあのヘドロの臭いを嗅いだように思ったのが、少しだけ気になった。



 ※  ※  ※



 翌朝、俺は遠くから聞こえる読経の声で目を覚ました。

 声の主はすぐに解った。じいちゃんは毎朝、本堂で二十分程度お経をあげるのを日課にしていたからだ。

 寝ていたのと同じ姿だったが、俺は本堂へ行ってみることにした。

 普段じいちゃんから、「朝の読経に参加しろ」と言われたことはない。

 けれども、この日は何だかそうした方が良いと思った。


 本堂の引き戸を開くと、じいちゃんは本尊の正面に座り、一定の間隔で木魚を叩きながら読経を続けていた。

 俺は隅に積んである適当な座布団の一枚を取ると、じいちゃんの遥か後ろにそれを敷き、昨日と同じように目を閉じ、手を合わせた。

 やがて、読経が止んだ。

 じいちゃんは本尊の名を何度も唱えると、振り向き、俺が居るのが解るとこう言った。



 じ「おはよう、蒼太。よく眠れたか?」

 俺「じいちゃん、おはよう。──正直、微妙」

 じ「それは良くないな。これからお前には大役があるというのに。しかし時間もないので、手短に今日の手順を確認するぞ?

 まずワシはこの本堂の邪気を払い、もしもに備えて結界を施すので、しばらく飯は要らん。なのでお前は台所に行って、適当にある物を食べてくれ。

 そして総代さんがやって来たら、お前が出迎えて本堂まで案内するのだ。

 ただし、ここが一番重要だが、絶対に総代さんが持って来た物に触ってはいけない。もしお前に受け渡そうとしたら、必ず断って、総代さん本人にここまで運ばせるのだ。──どうだ、解ったか?」



 俺が頷くと、じいちゃんはパンパンと平手を打ち鳴らし、



 じ「さあさあ、さっさと朝飯を食べちまえ。これは直感だが、今日は長くなりそうな気がする。だから総代さんにも、早く来るよう伝えてあるからな──」



 実際、総代さんがやって来たのは、俺が台所で朝食を取ったすぐ後だった。

 そして自分でも奇妙だと思うのだが、俺は相手が来るのが事前に解ってしまった。

 どこかから薄っすらと、肉の腐ったような臭いが漂ってきたからだ。

 俺が台所の窓から外を覗くと、境内の奥に人影があり、それがこちらに向かってゆっくり進んで来る。

 人影が近付けば近付くほど、臭いはどんどん酷さを増していった。


 遂にその人物が、メガネをかけた中年のおじさんだと判るくらいになると、俺は激しい臭気に堪えられず、さっき食べた物をほとんど吐いてしまった。

 場所が台所だったことが唯一の救いだ。

「御免下さーい。住職さーん、住職さーん!」

 お客さん用の玄関から、さっきのおじさんの声がする。

「何で飯なんか食えと言ったんだ!」と、じいちゃんを恨みながら俺は台所を出た。


「──あ、どうも。私、■■と申しますが──住職さんは?」

 総代さんの前に出ると、臭気は本当に鋭さを増し、まるで鼻自体が腐ったみたいだった。

 俺は失礼だと知りながら、出来る限り顔を手で覆い、こみ上げる吐き気を必死に堪えた。総代さんの腕に抱えられた、ちょっと大き目な風呂敷包み──それが臭いの中心なのは明らかだった。

「──住職は──本堂でお待ちです。どうぞ、お上がり下さい──」

 俺はようやく、そう言葉を絞り出した。

「そうですか──じゃあ、失礼します」

 たぶん、変な奴だと思われているのだろう、総代さんの態度もよそよそしい。

 けれども、そんなことに構っている状況じゃなかった。

 俺は出来るだけ総代さんと距離を取りながら、本堂へと進んでいった。


 臭いが急に消えたのは、総代さんと本堂に入ったときだった。

 見た感じ、堂内はついさっきとほとんど変わりはない。

 だがその空気は冷たく清んでいて、俺はここぞとばかりに何度も深呼吸をする。



 じ「おはようございます、■■さん。早朝に呼び付けて、すいませんでしたね」



 じいちゃんは本尊の前ではなく、外陣げじん(一般の礼拝席側)に座していて、そこに敷かれた座布団に、俺と総代さんを促した。



 総「おはようございます、ご住職。こちらこそ、無理を言って申し訳ありません」

 じ「本来なら、お茶とお菓子でおもてなしすべきですが、今日は事情が事情ですから、無作法をお許し願いたい」

 総「いえいえ。構いませんので。──あの、ところで、こちらに居られるお若い方は、一体?」

 じ「ああ、彼は私の孫です。今日は一緒に、儀式に同席致します。勿論、総代さんの広く口外したくない情報については、彼も秘密を守りますからご安心を」

 総「へえ! そうだったんですか! いや、別に情報漏洩なんて心配しないのですが、普段ご住職お一人のお寺に、突然若い人がいらっしゃったので。だから正直、最初は新しいお弟子さんか、あるいはか何かかと──」



 俺は、お化け扱いされたことに一瞬ムッとした。



 総「同席されるというと──つまり、アレですか? ご住職と同じでがおありになる、と?」

 じ「いえいえ。それはまだまだこれから。ちょっとした見鬼けんきの眼が朧に開いたという程度。彼の力が本物かどうかは、今後自然に判って行くこととなりましょう。さて、そろそろ本題に移るとしますかな──」



 総代さんが風呂敷包みを解いた。

 現れたのは、薄っすらと黒ずんだ古い木目の木箱だった。

 総代さんはそれを手渡ししようとしたが、じいちゃんは受け取らず、外陣の端に置いてある、香炉卓こうろたくの上へ置くよう指示した。

 そして、蓋は絶対に開けるな、とも付け加えた。



 総「──端的に言えば、中に入っているのは壺です。

 実は最近、我が家にあった古い蔵を解体したのですが、まずは一旦、何か値打ち物が眠ってないか調べようという話になって。これはその時に出てきた物なのです。

 初めのうち、壺はかなり古そうに思われましたし、面白い物が出てきたと喜んで自宅に置いていたのですが、そのうち妻が変なことを言い出して。『腐ったものの臭いがする』と云うのです。

 私はそんなものは感じませんから、気のせいだと思ってしばらく放っておいたのですが、その間に妻の様子がどんどんおかしくなってしまって──。

 今はご住職の勧めもあって、壺から引き離す意味でも病院に入院させ、状態はだいぶん落ち着いています。

 また、関係あるのかどうか解りませんが、蔵の解体中にもおかしな事がありました。

 解体は地元の土建業者に依頼したのですが、作業中の事故で、従業員の一人が重傷を負ったのです。ただ、詳しい経緯については、皆さん口をつぐまれて、はっきりしたことは聞けていません──」

 じ「いつからお宅の蔵にあったのか、わずかでも心当たりはありませんか?」

 総「──残念ながら。ただ、うちの家系は元々山梨県の出で、大正から昭和初期にかけ、こちらに移って来たと聞いております。蔵は私が生まれる前後に建て替えたと云いますから、仮にその頃からあったと考えると、五、六十年前から、でしょうか」

 じ「なるほど。最大では、貴方のご先々代まで遡る可能性もある、という訳だ」

 総「そうですね。──あの、ところで、物はお渡しした訳ですし、私はこのまま失礼しても──?」



 じいちゃんは一旦、大きな咳払いをした。そして、俺を見た。



 じ「──さて、蒼太よ。たった今総代さんはお帰りになると仰った。そこで、お前の所見を聞かせて欲しいのだ。果たして総代さんはこのまま、お引取り頂いて構わぬか否か? どうだ?」



 俺はそろそろ気が付き始めていた。

 なんとじいちゃんは、俺の能力を試そうとしているのだ!

 「ちょっと補助」とか言っときながら、全く食えないジジイである!



 俺「うーん。どうだと言われても──。一体、どうすれば?」

 じ「襖の前を思い出せ。感じたままで良いのだ」

 俺「──この本堂に入って来てから、だいぶ判らなくなったけど、臭いのもとはやっぱり残ってる。で、それと同じものを、すごーく薄めたようなのが総代さんからも感じられる──って感じかな?」

 じ「大変結構。さて、総代さん。うちの見鬼がこの様に申しております。恐ろしい物からすぐにでも逃げ出したい気持ちはよく解りますが、それは後々、貴方に良からぬ事態を招くでしょう。しばらく残って、儀式に参加されませんか?」



 総代さんは無言のまま、こっくりと頷いた。

 じいちゃんは立ち上がり、「今後、箱は触らぬように」と言い残し、本尊の前に移ると、そこに座した。

 大き目のおりんが何度か打ち鳴らされ、堂内に響き渡ってゆく。

 そして、読経が始まった。


 俺は前回とは違って、目を開いたまま、例の木箱を凝視した。

 襖の奥にあったのと違って、何か恐ろしいものが、それも薄められもせず原液百%で入っていると思うと、やはりどうしても警戒してしまう。

 例えば女の子のときに見たようなアレが、急に中から飛び出して来るところを想像すると、目を離さずにはいられなかった。

 時折、消えたと思っていた腐敗臭が、ぶり返して一瞬臭うことがあり、それが余計に意識を木箱へと集中させていた。

 それだから、俺は堂内で起こっている深刻な変化に気が付くのが遅れてしまった。


 読経が二、三十分も続いた頃だろうか、俺は隣から振動を感じた。

 見ると、総代さんが身体を震わせていた。

 たった一人で地震に遭っているみたいな、異常な揺れ方だった。

 ぶんぶんと、前後に振られる頭。

 前に突き出された腕は、まるで奇妙な手招きでもするようにぐにゃぐにゃだ。

 ロックやメタルのライブで、ヘドバンしまくるとヤバいと聞くが、まるでその高速小刻みバージョン。

 俺はじいちゃんに声をかけようか迷った。

 が、これが読経によって引き起こされている良い兆候なら、それを中断させるのはマズい──そう、判断した。

 俺は立ち上がり、総代さんの肩に手を置いた。以前のように押さえつけようと思った。

 次の瞬間、俺は自分の身体が飛んだ感覚がした。

 そして、思いっ切り、畳に叩きつけられた。

 衝撃と痛みで何が起こったか分らなかったが、全力で突き飛ばされたのは明らかだった。


 総代さんは上体を戻すと、むっくりと立ち上がった。

 身体の揺れは治まっていたが、その動きは操り人形のようにぎこちなかった。

 一歩、二歩。

 確実に、その足は箱に向かっていた。


「じいちゃんッ!」俺は叫んだ。

 叫んだと同時に、視界の中で、じいちゃんが総代さんに向かって来るのが見えた。

 すでに、気付いていたようだった。

 俺は加勢しようと跳ね起きた。

 が、目に飛び込んできたのは嫌な光景だ。

 総代さんの、どうなってもいい力で振りかぶった平手──

 それが、じいちゃんの頬に打ち付けられた。鞭で肉を叩いたような、高く鋭い音。

 一回転でもするように、じいちゃんが畳に沈み込んだ。


 俺は面食らったが、すぐに背後から総代さんに飛び付いた。

 上半身ではなく、両脚をがっちりホールド。渾身の力で締め上げ、固定する。

「大丈夫か、じいちゃん!」俺は言う。

 と、総代さんが、顔面から畳に倒れ込んで行った。

 バン、という鈍い音と共に、総代さんのかけていたメガネが吹っ飛んだ。

 俺の力が緩んだ隙に、総代さんは全身をくねらせる。

 葉の上を芋虫が進むような、不気味な動きだった。

 下半身の動きで這いずりながら、やっぱり箱に向かって行く。

 俺は立ち上がり、未だモゾモゾしている総代さんの服をつかむ。

 引っ張って足止めしようとするが、動きが変わった。

 まるで四つ足歩きの獣のように、パタパタと畳を駆け出したのだ。

 それでも手を離さなかった俺は、ズッコケるように倒れ、引きずられた。

 その時点で、箱までの距離は大したことなかったが、スピードは緩まらなかった。


 どんっ、と音がして、総代さんは真っ直ぐ頭から香炉卓に突っ込んだ。載っていた木箱が転がり落ちた。

 俺の目の前だった。

「触るなよッ!」激しい怒鳴り声。

 見ると、頬を押さえながら駆けてくるじいちゃんの姿。

 俺は香炉卓を動かした。

 それを使って、転がった木箱を押して行く。少しでも、総代さんから離そうと思った。

 急に、背中の服を引っ張られる感触。そして、また飛ぶ感覚がした。

 俺は近くの柱に叩きつけられた。

 あまりの痛みで、声も出なかった。

「大丈夫か!」

 見ると、じいちゃんが総代さんを背後から締め上げていた。

 けれども、それが効いているように見えなかった。

 総代さんは組み付かれたまま、平然と進んだ。そして、しゃがみこんで木箱をつかんだ。


 めりめりと箱が軋む音。やがて箱板が割れ、中身があらわになった。

 辺りに異臭が立ち込める中、俺はそれを見た。

 奇妙な形、奇妙な文様が施された、赤茶色の壺だった。

 まるで歴史の教科書にでも出てきそうだったが、その上面には何か、編んだ藁と縄で封がされていた。


 総代さんが、その封を破ろうとする。

 が、間一髪、じいちゃんの呪文が間に合った。

 封にかけた手が止まり、やがて最初のように身体を揺らし始めた。

 ──いや、そうではなかった。総代さんの動きには、まだある種の規則性が残されていた。

 小刻みに、前後へと振られる頭──

 それがさっきから、ごつんごつんと壺に当たっている!

「じいちゃん、ヤバいッ!」俺は叫んだ。

 総代さんの頭が、ひときわ大きく振り降ろされた。

 パンッ、という乾いた音。

 次の瞬間、堪え難い腐敗臭が風のように押し寄せた。

 それは何か腐ったものを、鼻の中に無理矢理詰め込まれたような不快さだった。酸っぱいものが激しくせり上がり、俺は我慢が利かず液体だけを嘔吐した。

 総代さんは動きを停止し、額から出血した一筋の流れを滴らせながら、ぼんやりと宙を眺めていた。


 手に握られている欠けた壺──

 その中から、ぶわっと黒い霧が噴き出した。

 前回と違って、それはじいちゃんの手の平には留まらず、総代さんの見上げる中空に、何か丸まった幼虫か最初期の胎児を思わせる形に集まって行った。


 じいちゃんは総代さんから手を解いて、さっきからそれと対峙するように呪文を唱え続けていた。果たしてじいちゃんが勝っているのか、相手が勝っているのか、それは分らなかった。

 ただいつまでも臭いは消えず、霧散もして行かなかった。

 やがて霧はゆっくりと漂うように進むと、まるで掃除機で吸い込んだようにじいちゃんの中に消えていった。


 辺りの臭いが、嘘のように掻き消えた。

 総代さんが前のめりにぺったり倒れ、じいちゃんも大の字に倒れ込む。

 堂内の空気にも、徐々に冷たさが戻ってきた。


 けれども、俺にはとてもすべてが、問題なく終わったようには思えなかった。

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