終末絵図(智也の場合)

 九月三日、午前八時時六分のことであった。出勤のため、身支度を整えていた東条智也とうじょうともやのスマートフォンが不快な周波数で音をたてた。通知を見ると“緊急事態宣言発令”とあった。通知から政府のホームページへアクセスすると緊急記者会見の様子が放送されていた。いかにももっともらしい顔をした中年が三人、腰かけていた。

「昨夜、アメリカの天体観測所から発表がございまして、直径九〇〇キロメートルほどの巨大小惑星が現在地球に接近しているとのことです。軌道の計算上、直撃はまぬがれず、何処どこへ落下したとしても、地球全土に深刻な影響をもたらすものと推測されます。これほどの大きさの小惑星の接近がこれまで発覚していなかったとは考えにくく、不要な混乱を避けるためにおおやけにされていなかったものと推測されます。いずれにせよ、小惑星の接近は間違のいない情報であり、地球への衝突は確実なものとみなされております。そしてZと命名されましたこの小惑星は現在……」

禿げた頭の役人だか研究者だかが手元の原稿をさもスピーチでもするように淡々と読みあげていた。

「小惑星? 地球へ衝突? 嘘だ。何かの間違いだろ」

智也はすぐさま動画が配信されているホームページを確認した。間違いなく、本物の政府のホームページであった。テレビをつけるとニュース番組は全て緊急記者会見の様子を報道していた。

「これ、まじ?」

普段であればとっくに家を出なければならない時間になっていた。少しでも早く、確かな情報を得ようとインターネットに接続しようとした途端、メッセージが入った。

“ねえ、ニュース見た? 本当かな”

恋人の美濃部優希みのべゆきからであった。やはり、この情報は間違いなく、日本国中に向けて発信されているらしかった。

“まあ、一旦落ち着こう。まだこれが本当の情報だとも限らない。もしかしたら手の込んだフェイクニュースだったりするかも”

そんなメッセージを送りながら、智也はその可能性を真っ先に自身で否定していた。フェイクニュースにしてはでき過ぎていた。

“だよね。何かの間違いかもしれないし”

“うん。とりあえず俺は出勤するよ。仕事が終わったらまた連絡する”

“分かった”

いつもより少し遅れて仕事場へ車を走らせながら、智也は浮足立っていた。

「もしもあのニュースが本当だとしたら、これから世界はどうなる。どれくらいの確率で助かる? もし駄目なら、残された時間は? 数日? 一週間? 一か月? 一年? 俺は、夢を見ているんじゃないか」

痛い程ほおを殴打してみても、夢からは醒めなかった。じわじわと、空想の世界にしかなかった世界の終末が実感を伴って発現しようとしていた。そんな中、智也にとって一番の疑問は、自分が出勤しようとしていることであった。未来が消え去るかもしれないという人類に突き付けられた途方もない現実を前に、出勤とは最も縁遠い行為に違いなかった。しかし、想定外の衝撃を前に、身体は条件反射として平穏な日常を求めているらしかった。そんな多くの人間が、通勤ラッシュの渋滞を作っていた。遠くでクラクションが激しく鳴っていた。


 智也の勤務先である甘木あまき製紙ではいち日中、終末の話題でもちきりであった。ある者はこれが皆壮大な出鱈目でたらめであると言った。ある者は権威ある海外の天体観測所がこれまで隠してきた紛れもない真実であると言った。ある者はニュースのことなどまるで関心がないように取りつくろいながら、平生では絶対にしないようなミスを連発していた。

 昼休み、智也は同僚の先崎せんざきと並んで弁当を食べていた。

「なあ、先崎。どう思うよ。これ」

「まあ、ほぼ確定でしょ。どんどんいろんな情報でてきてるけど、大手の新聞社が出してるネットニュース、皆今朝の会見のとおりだもん」

「やっぱそうか。いつまで、生きられるのかな」

狭い休憩室に智也の声が響くと、皆、一斉に黙り込んだ。

「ま、分かんないけどね。もしかしたら、普段バッシングされてる政治家の連中が仕掛けたドッキリかもよ。だとしたら大成功だよな」

先崎が笑いを誘うために作った笑顔と知りつつ、智也は応じた。

「あ、そうだ」

智也はふと家族の安否が気になり、スマートフォンを立ち上げた。

“ニュース見たわよね。これ、本当かしら。そっちは大丈夫?”

返信をしようとした途端、新たな通知が入った。優希からであった。

“会社でも騒ぎになってる。大丈夫かな、これ。ねえ、今日会えない?”

巨大な不安を抱えた今、誰かと身を寄せ合っていたいのは智也も同じであった。

“うん。会えるよ。仕事が終わったら連絡する”

そうメッセージを返した途端、昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。


 夕方になって智也が自宅アパートに戻ると、部屋の前に優希が立っていた。

「ごめんね。押しかけて」

優希は地域随一ずいいちの業績を誇る美濃部貿易の令嬢らしい上等な衣服をまとい、大きなかばんを提げて智也に微笑みかけた。

「優希、待っててくれたの? ごめんね。さ、入って」

智也は優希を部屋に入れると部屋着に着替え、冷蔵庫から珈琲コーヒーを取り出し、お揃いのグラスに入れた。しばらくは二人とも黙ったままでグラスを眺めていた。

「あのニュース、本当かな」

沈黙を破ったのは優希であった。

「さあ。まだ、分からないと思うけど」

二人ともいずれは覚悟を決めなければならないのであろうと予測はしていた。

「これから、どうなるんだろうね。ねえ。もし、もしもだよ。世界が本当に終わっちゃうなら、智也はその時まで私と居てくれる?」

両手でグラスを持ったままの姿勢で優希が尋ねた。

「でも、優希にもご両親や友達がいるだろう。俺でいいの?」

「いいの」

強く、優希は言い切った。

「世界が終わるなら、私はそれまで本当に大切な人と過ごしたい。両親は過保護なだけだし、友達だって上辺だけの付き合い。私が本当に大切だって思えるのは智也だけだから。ねえ。一緒に居てくれる? 智也が周りの大切な人と過ごす時間を邪魔するつもりはないの。でも、最後のその時は私と居て。ねえ。お願い」

泣き出しそうになりながらそう訴える優希の肩を、智也は知らぬ間に抱き寄せていた。

「分かった。約束するよ。最後の時は優希と一緒に居る」

「ありがとう」

二人は尚固く抱き合った。智也は終末のその日まで、自分が優希を守るのだと、揺らぐ心で決意しつつあった。やがて優希は智也から離れると改めて彼に向き合った。

「じゃあ、最後の日まで、私が智也のことを守ってあげる」

平生しとやかな優希には似合わない台詞であった。

「優希が、俺を?」

「だって、私の方が四つもお姉さんなんだもの。任せて」

その瞳は依然いぜん恐怖に染まっていたものの、智也にはそれが心強かった。

「大丈夫。最後まで私が一緒だから。ね。約束」

その後、二人は買い物に出かけ、少し豪華な夕食を揃って食べた。なんでもないはずの日常が持つ意味が、昨日までとはまるで変って思えた。夕食後、ニュースを見ていると、小惑星衝突がいよいよ事実として報道されていた。字幕では“これは試験放送ではありません”という文字列が目障りな程点滅していた。


「ねえ智也。今日、泊ってもいい?」

録画しておいた映画を見終わった後、優希が尋ねた。

「俺は構わないけど、いいの?」

「うん。着替えなら持ってきてる」

そう言いながら優希は持ってきていた大きな鞄を開けた。

「それに、ピー助も一緒だよ」

優希は鞄から大きなウサギのぬいぐるみを取り出した。それは智也と優希が交際するきっかけを作った、思い出のぬいぐるみであった。それを見て笑顔を見せた智也であったが、その表情は直ぐに曇った。

「いや、その。こんな最中だし、家に居た方がいいんじゃないかと思って。ご両親とか、心配するんじゃない?」

「ううん。いいの。家にはもう連絡してあるから。智也さえよければ、泊めてくれない?」

「うん。ならいいけど」

連絡してある、と、優希は言ったものの、彼女が一方的に両親に決断を告げただけであろうとは簡単に予測できた。しかし、無理に優希を彼女の家へ送り届けることも気が進まず、何よりまだ、智也は優希と一緒に居たかった。

 布団に入ってからも、優希は話題を途切れさせることなく、智也に話しかけていた。恐らくそうすることでしか、不安を紛らわすことができないのだと、智也も気づいていた。終末のことを考えぬよう、考えぬよう。しかし、いち日の心労が影響したのか、いつの間にか智也は眠りに落ちていた。

 深夜、智也が目を覚ますと、すすり泣く声が聞こえていた。顔を向けると、優希がピー助を抱いたまま、こちらに背を向けて泣いていた。彼はなんと声をかけてよいか分からず、黙って優希の背中を抱きしめた。優希は寝返りを打つと智也の胸に顔をうずめた。

「ごめんね。寝ちゃってたよ」

優希は返事もせず、ますます激しく泣き続けた。

「ごめんね。私、智也のこと、守るって決めたのに。智也のこと、守らなきゃいけないのに。怖くて、どうしていいか分からなくて。でも一緒に居られるのが嬉しくて、それが終わっちゃうかって思うと。ごめんね、智也。智也だって怖いよね。私がもっと強かったら。ごめんね」

二十年以上、生きてきた筈の智也はこんな時にかけるべき言葉を、まだ知らなかった。

「ごめんね、智也。ごめん。でも、大丈夫。私が守るから。智也のこと、守るから」

泣き続ける優希の頭を、ただで続けていることしかできなかった。深夜をうんと過ぎた頃、優希はようやく眠った。智也もそれを見て安心すると、まぶたを閉じた。

 翌朝、智也はうっかりと設定していたままのアラームに起こされた。昨日のことが全て夢であってくれたらと、布団の中でスマートフォンで情報をあさってみたものの、昨日のニュースがより正確に、物々しく彩られているばかりであった。深く、ため息をついた彼は隣で寝ている優希に目を向けた。泣き疲れたように深い寝息を繰り返していた。

「どうしようかな」

そう呟き、天井を見つめていた彼は布団から出て、仕事着に着替えると、机にメモを置いた。

“外の様子を見ながら、仕事場の人にお別れを言ってくる。昼までには戻るよ。安心して”

もし、優希が目を覚ましたらと思わないでもなかったが、終末から遠ざかった夢の中にいる彼女を無理に起こすことは気が引けた。彼は音をたてないようにアパートを出て職場に向かった。律義りちぎに別れを言いに行く必要もなかったが、何かしていなくては、とても落ち着いていられなかった。


「というわけで、その。これまでありがとうございました」

智也が頭を下げると上司はうなずいた。

「ああ。こちらこそ、これまでありがとう。実はね。私も君と同じなんだ」

上司はきまりの悪そうな顔で智也を見た。

「同じ、というと?」

「私も、明日以降はここには来ない。残された時間は少しでも家族と一緒に居たくてね。他にもそんな者は大勢いるだろう。皆、本当に大切なもののためにここを去るのだろうね。君には、いるかい? そんな人が」

眼鏡の奥の温和な瞳が彼に向けられた。

「はい。います」

「そうか。なら、大切にしてあげるんだよ、その人を。世界はこれからどんどん、おかしくなるだろうけれど、絶対に守ってあげなさい」

「はい」

決意を鼓舞こぶされ、智也は力強く答えた。

「じゃあ、これで失礼します」

「ああ。また会おうとは、言えないね。最後まで、元気でな」

妙な挨拶を交わし、智也は休憩室に顔を出すと、同僚たちに挨拶をして回った。昨日会話した先崎は来ていなかった。

 職場を出て車に乗ると、まだ家を出てから一時間程しか経っていなかった。

“もう起きたかな。今から帰るよ”

そうメッセージを送信し、智也は車を走らせ始めた。今更になって優希を家に置いてきたことを少し後悔し始めた。車道に出ると、いち台の車がとんでもないスピードで走り抜けていった。

「危ないな」

そう呟きながらも、智也は終末が決定した世界で法定速度を守り、車線に従っている自分に違和感を覚えた。

「どうなるんだろう。これから」

智也は少しスピードを上げ、優希の待つ自宅へと向かった。


 自宅が近づいてきた頃、彼は道路沿いにとある看板を見つけた。全国チェーンの珈琲の店であった。以前、彼は優希からここのフラペチーノとやらが美味しいと聞いていた。

「やってるみたいだな」

智也は駐車場に車を停めると中へと入った。

「いらっしゃいませ! お決まりになりましたらご注文うかがいます!」

今が終末の世にあるとは思えないような快活な声が聞こえた。そちらの方を見るとカウンターの奥で緑色に発光するインカムを着けた大学生程の女性が立っていた。店内を見渡すと数組の客が座っており、もう一人の店員が落ち着いた様子で働いていた。智也は入り口にあったメニューを眺めてみたものの、普段、訪れない洒落たなその店で何を注文してよいか分からなかった。

「巨峰フラペチーノを二つお願いします」

迷った挙句に智也はこれ見よがしに馬鹿でかく広告されていた商品を注文した。

「お持ち帰りでよろしいでしょうか!」

日焼けした、活力の権化のような店員は語尾に大きな感嘆符かんたんふを付けて確認した。

「こちらの番号札を持って隣でお待ちください!」

智也が言われた通りの場所に立って様子を眺めていると栗原くりはらという名札の彼女が見事な手際でフラペチーノを作り始めた。

「お待たせしました! 巨峰フラペチーノお二つです!」

出てきたのは智也が想像していたよりもひと回り以上大きなカップだった。今更になって彼は果たして自分がそれを飲みきれるだろうかと不安になった。代金を支払った彼は疑問を口にした。

「あの、この店はいつまでやってるんですか」

「分かりません!」

栗原は元気よく即答した。

「働く人は減ってますけど、当分はやってるんじゃないですかね! お客さんも来ますし!」

「そうですか。その。お姉さんも小惑星のニュース、知ってますよね」

そう確認したくなる程に、栗原の笑顔は眩しかった。

「はい! 世界が終わるんですよね!」

言葉の内容とそれを発した人物の表情がここまで違っているのを、智也は初めて目にした。

「怖く、ないですか」

「全然!」

それが決してハッタリや虚勢ではないと直感されると同時に、智也にはそんな人間がこの世にいるとは思えなかった。

「あの、どうして?」

気づいた時にはそう尋ねていた。

「私、にぶいんで!」

「は?」

「私、人より鈍いんですよ! だから今回のことも、あと、なん日かしてから怖くなるんだと思います! それまでは無敵です!」

彼女の笑顔に、智也は太陽を見た。己の心の中にあった不安や恐怖が一瞬だけかれたように消えるのを感じた。

「無敵、ですか。すごいな」

智也から思わず笑みが零れた。

「それに、お客さん、見ました? 空!」

「空? そういえば、今日は見てないかも」

「なら、見てください!」

「何かあるんですか?」

不安が戻ってくる気配がした。

「ありません! 何も!」

「え?」

戸惑う智也をよそに栗原の笑顔は変わらなかった。

「なんにも無いんです! ニュースでやってる小惑星なんか、何処にも無いです! きっとしばらくは大丈夫ですよ!」

楽観的な宣言ではあったが、それが彼女の口から出たというだけで、智也には信頼できる事実であるように思えた。

「ありがとうございます。おかげで少し、気が楽になりました。また、来ます」

「はい! お待ちしてます! ありがとうございました!」

腰を悪くするのではないかという勢いでお辞儀をした栗原はカウンターの隅に頭をぶつけていた。


「栗原さん、元気な人だったな」

そう言いながら車内に戻った智也はフラペチーノのカップに何か文字が書いてあるのを見つけた。

“よい終末を!”

ブラックジョークには違いなかったが、栗原がそれを書いたと思うと、自然、笑みが浮かんだ。智也はその店員のことを優希に知らせたくなった。


 自宅アパートの玄関にたどり着いた時、智也ともやは血の気の引く思いがした。ドアが何かでこじ開けられたかのように変形していたのである。

優希ゆき!」

智也はそう叫び、部屋の中へと足を踏み入れた。然程荒れてはいなかったが、優希の姿はなく、彼女の荷物も全て、なくなっていた。

「なんだ。泥棒か?」

ふと、智也が机の上に目を向けると、今朝、自分が書いた置手紙のかたわらに真新しい便箋びんせんと小さな紙袋があった。智也は持っていたフラペチーノの袋を雑に床に置くと、便箋の文字を目で追い始めた。

“私たちは終末を家族で過ごしたい。優希が家族よりも君を選んだのは分かっている。しかし、それでも私は優希を手放したくないのだ。君に罪は無い。だがこれ以上優希に関わってくれるな。ドアを壊してしまってすまない。修理代と手切れ金を置いていく。今日から君と優希は他人だ”

 紙袋には智也が見たこともないような厚さの札束と、優希の父親である美濃部源一郎みのべげんいちろうの名刺が入っていた。

「優希」

智也は家を空けていたことを激しく後悔しながら家を飛び出した。車に乗り、海沿いへ。大きな庭のある美濃部邸に着いたのは正午を少し回った頃であった。急いで手切れ金とやらの入った紙袋を持って大きな屋敷のインターホンを鳴らした。三回、四回。返答の聞こえる気配はなかった。それでも彼は諦めきれず、インターホンを鳴らし続けていた。

「東条君だね」

ようやく返事があった。

「はい。優希さんと会わせてください」

「手切れ金は渡した筈だよ」

「僕は受け取ったつもりはありません」

智也はその場に紙袋を投げ捨てた。

「今、こんな世界になってしまって、私は家族でゆっくりと過ごしたいんだ。今、優希と君を一緒にしておくと、優希はもはや私たちの元には戻ってこなくなってしまうだろう」

「だからって、強引すぎます」

智也は叫んだ。

「もし、いずれ、世界がどうなるのか詳しく分かって、優希の心が落ち着いたら、もう一度くらいは君に会わせてもいいと思ってるんだ。だから、今は、私たち家族のことに関わってくれるな。君も一旦、優希のことは忘れて家族と過ごしなさい。さあ、もう話すことはない。引き取ってくれ」

声が途切れると、もう智也がいくらインターホンを押しても返答はなかった。智也は玄関を離れ、大きな屋敷の窓に目を向けた。何処かから優希の姿が見えないものかと目を凝らしてみたものの、窓までは遠く、またカーテンが引かれているようで何も分からなかった。智也は後ろ髪を引かれるような心地で車に乗るとエンジンをかけた。スマートフォンを取り出し、優希にメッセージを送った。

“大丈夫? 優希の家まで来たんだけど、結局、会わせてもらえなかったよ。また明日、来ようと思う”

しばらくの間、メッセージの画面を開いていたものの、既読の表示がつくことはなかった。


 家に戻ると九月の温気うんきに放置されていたフラペチーノが泥のようになっていた。智也はそこに、優希と並んでそれを味わっている自分の幻を見た気がした。彼女と過ごすはずだった時間が膨大な無として智也の前に広がり、その中を智也は呆然ぼうぜんとしたまま、優希に送ったメッセージを眺めながら過ごしていた。まだ、返信はなかった。昨夜、自分のことを守ると言いながらも泣きじゃくっていた優希のことが思い出され、そんな彼女が今、どう過ごしているのかと考えると、終末の不安が上書きされるようであった。空虚な時間を前に心がむしばまれてゆくことを感じた智也は、たまらず、部屋を飛び出した。

 あてもなく街を歩いていた彼はとある喫茶店の前で足を止めた。そこは智也が優希と出会う前から時折訪れていた場所であり、優希と交際を始めるきっかけになった場所でもあった。入り口の看板には“OPEN”という札が掛かっていた。小さな窓から覗くと、店内に人は居ないようであった。彼は恐る恐る、ドアを開け、店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥で新聞を読んでいた店主、鎧塚はいつもと変わらぬ様子で智也に声をかけた。

「お久しぶりです。今、やってるんですか?」

「ええ。どうぞおかけください」

あくまでも普段通りの調子で鎧塚は智也を呼び込んだ。カウンターに座った智也がアイス珈琲を注文すると店主はサイフォンに火を灯した。

「それにしても、大変なことになりましたね」

鎧塚がサイフォンの湯が沸騰するのを見守りながらこぼした。

「ええ。全く。色んなことが起こり過ぎて、混乱してます」

智也は頭を抱えながらため息をついた。

「まあ、落ち着いて。一服、どうぞ」

そう言って鎧塚が智也に勧めたのは煙草の形をしたラムネ菓子であった。

「おや、ありがとうございます。懐かしいですね、これ。小さい頃、よく食べてました」

智也はラムネを受け取ると煙草と同じ要領でそれをくわえた。

「実はね。先月辺りから煙草、止めたんですよ。家内が“長生きできないわよ”ってやかましいものですから。でも、こんな世の中になってしまっては、長生きも何もあったものじゃありませんね」

「ええ、本当に」

智也がラムネをかみ砕いたと同時に、珈琲の入ったグラスが置かれた。

「実は今朝まで、優希と一緒に居たんです。でも、優希のお父さんに連れて行かれまして。家族で過ごしたいとかなんとか。家まで訪ねていったんですけど、結局、会えませんでした。これから、どうしたものか」

二人の仲を良く知る鎧塚はラムネ菓子を食べながら何かを考えているようであった。

「なるほど。私も人の親ですから、美濃部さんのお父様の気持ちも、分からないわけではありませんが、東条さんの立場になってみれば、寂しいでしょうね」

誰も居ない店内に有線から流れてくるジャズと二人のうなる声が響いていた。

「あ」

鎧塚が突然、何か打開策でも思いついたような表情で人差し指を立てた。期待の眼差しで智也が見つめる中、彼は冷蔵庫から箱を取り出した。

「東条さん、シュークリーム食べません?」

「え?」


「まあ、今後数日はしばらく様子を見てもいいと思いますよ」

二人でシュークリームを食べていると、鎧塚がそう提案した。

「そうですかね」

「ええ。今、急激に世の中が変わって、皆、動転しています。だからこそ、一時的に不安になったりするものですよ。美濃部さんのお父様もきっとそうでしょう。だからこそ、なんとしてでも娘を連れ戻したかった。でも、少しずつ必要のない不安が取れていけば、元通りとまではいえないでしょうけれど、平穏が戻ってくるのではないでしょうかね。今後のことはその時に考えてもよいのではないでしょうか」

智也は冷め始めた珈琲をひと口飲んでスマートフォンの通知を確認した。優希からの返信はまだ届いていなかった。

「平穏が早く戻ってくるといいのですが」

「そうですね。まあ、人類とは意外としぶといもの、大丈夫でしょう」

鎧塚はシュークリームの最後のひと口を口へ放り込んだ。智也は行く当てのない外に出る気にはなれず、二杯目の珈琲を注文した。店内を見渡しているとかつて優希と初めて知り合った頃のことが思い出された。災難が続いていた常連の優希を智也が半ばヤケになって笑わせようとしたところから交際が始まったのであった。そんな過去の自分は世界の終末を生きることになるなど想像すらしていなかった。無垢むくな過去が愛おしかった。

「これから、どうなっていくんでしょうね」

智也は再び運ばれてきた珈琲を混ぜ、そこにミルクを落とした。白と黒、二つの色が完全に混ざり合うことなく流れに乗ってマーブル模様を作っていた。鎧塚は窓の外を眺めてしばらく何かを考えていた。

「きっと、濃淡のうたんがはっきりするでしょうね」

「濃淡?」

智也が聞き返すと、鎧塚は洗い物をしていた手を止めた。

「清いところは清く。みにくいところは醜く。よりはっきりしていくと思いますよ」

安堵と不安が同時に智也の心に宿った。

「終末が近づいていると知り、ヤケを起こす者もあるでしょう。悪事を働く者もあるでしょう。そういう者たちは同じような者同士で集まり、部分的に世界は醜くなるでしょうね。これまで聖人と呼ばれた人が非道の人物になることも不思議ではありません」

智也にはそんな未来が、いとも簡単に予測できた。手元から目を上げると、鎧塚と目が合った。

「しかし、人間はそればかりではない筈です。清い者は終末を前にしても尚清く、いや、一層輝きを増すものだと、私は信じています。そういう者はそういう者たちと惹かれ合い、世界をより美しく彩るでしょうね」

そんな世界があればよいと、智也は半ば他人事のようにして聞いていた。

「それにしても、不思議なものですねえ」

鎧塚はシュークリームを乗せていた皿を布巾で拭いながら呟いた。

「これから世界が良くなるのか悪くなるのか。本当のところは分かりません。そう。分からない筈なのです。なのに私たちは悪い方へ向かう予想はたてられても、良い方へ向かう予想はたてづらい。可能性は半分ずつだと思うのですがね」

そんな鎧塚の疑問が、智也には新鮮だった。自分の思考習慣をかえりみても、いつでも未来予想図には不安や恐怖の標識が蛍光色に主張し、自分を疲弊させていた。それに比べ、希望や安寧あんねいの温かさを自分はいつでも遠ざけて考えていた。

「確かに、不思議ですね。可能性は、半分。確かにその筈なのに」

「でしょう?」

鎧塚は笑いかけた。

「今の状況もそうです。きっと大丈夫だと考えてもいいでしょう。いつか終わりが来るなんて、誰の人生でも同じです。なんとかなりますよ」

智也は半分の可能性を信じてみたくなった。


 その日、智也は喫茶店が閉店するまで店内に残っていた。夕暮れになった頃、彼は店を出た。スマートフォンを見ても、まだ優希からの返信は無かった。半分の可能性を信じようと思った彼にも、不安は残っていた。智也は帰り道にコンビニでアルコールを買い込み、自宅で晩酌を始めた。半分の可能性は酒で不安を紛らわせることでもなかなか信じられなかった。“明日、何かが好転している”自己暗示のようにそう言い聞かせながら、彼はうんと早い時間に眠りに落ちた。


 翌日、智也が目を覚ましたのは正午に近かった。スマートフォンを見ても優希からのメッセージはなく、その代わりに母親から大量のメッセージが届いていた。

“無事? 何してるの?”

“こっちに帰ってくるわよね”

“早く返事をちょうだい。心配してるの”

“私たち家族でしょ”

“お父さんと彩花も心配してるのよ”

“私たちのことがどうでもいいっていうの?”

“早く返事をして。元気なのよね”

怒涛の勢いで紡がれている言葉に重圧を感じ、彼はため息をつきながらスマートフォンの画面を閉じた。思い返してみれば、終末が発表されてから、自身の心は常に優希に向いていた。家族よりも優希が大事だったのかと、今更ながら自分の本質に気がついたような気がした。

別段、空腹でもなかったものの、冷蔵庫にあった適当なもので昼食を作り、食べ終えてしまえば、もう、すべきことはなかった。優希と過ごす筈だったささやかな時間は、ひとりになってしまえばあまりにも広大であった。布団に横になり、母親からのメッセージになんと返信しようかということや、連絡がつかなくなっている優希の身の上を考えているうちに、全てのことを投げ出したくなった。何処かへ出かけ、誰かと話す方が精神衛生に良いとは分かっていたが、今は何をするにもただ億劫であり、抱えている不安とともに消えてしまいたいような、そんな気がした。


知らぬ間に眠り込んでいた智也は夕暮れを過ぎてから目を覚ました。母親からのメッセージは変わらぬ勢いで届いていた。

“こっちは、無事。安心して。連絡返さなくてごめん。そっちに帰るかどうかはまだ分からない”

智也は支度を済ませると、美濃部邸へと向かった。優希と会えなくとも、何かが変わるかもという半分の可能性にけたのであった。しかし、無情にもその期待は裏切られた。もはや返答はひと言も帰って来ず、彼は肩を落として狭いアパートに帰ってきたのであった。

“今日も優希の家に行ったよ。ダメだったけどね。家にいるんだろ?”

返信が来ないと予感しながらも何らかの行動を起こさずにはいられなかった。

 次の日も、その次の日も、彼は美濃部邸を訪れたものの、優希はおろか、彼女の父親にすら会えなかった。自由な筈の時間が恐ろしく長い苦痛に思え、終末のその日が来るのを心待ちにすらしていた。もちろん、時折あまりにも眩い笑顔の栗原がいる店や鎧塚の喫茶店に行き、だれかと交流する時間は彼の心をうるおした。しかし、最も重要なひとしずくだけが、智也には足りなかった。いっそ実家に帰ろうかという考えが頭をよぎったものの、優希に会えるかもしれないという可能性を考えると、できなかった。


 日が経つごとにネットには物騒なニュースが流れ、かつての友人たちとは連絡がつかなくなっていった。終末は少しずつグロテスクを増し、智也ともやを侵食していった。そんな彼の日常に変化が訪れたのは終末の発表から二週間が経とうとしていたある朝のことであった。彼はドアのチャイムが鳴る音で目を覚ました。誰か友人が訪ねてきたのかと期待しながら出ると、思わぬ人物が立っていた。優希ゆきの父親、美濃部源一郎みのべげんいちろうであった。

「久しぶりだね。東条君」

智也の胸にやっと優希と会えるかもしれないという期待と、何かよくないことが起こるという動物的な直感の二つが渦巻いていた。

 智也は散らかっていた部屋を手早く片づけると、貿易会社の社長を部屋に招き入れた。美濃部は正座すると小さく彼に頭を下げた。

「先ずは、すまない。君と優希を無理に別れさせた。そして勝手にこれが手切れになると思っていた。いや。そうなる筈だったんだ。それが、私たち家族や優希本人にとって良いことだと思っていたんだ。だが、そうはならなかった」

そう言葉を切った美濃部の表情に、智也は暗い未来を見ていた。

「単刀直入に言おう。優希を、君の元へ帰そうかと思うんだ」

美濃部は智也の目を真っ直ぐに見ていた。

「本当ですか」

彼の表層が歓喜の波をたてた。

「ああ。これから世界が終わるその日まで、ね」

あれだけ家族にこだわっていた美濃部がそう言うのは明らかにおかしかった。

「何か、あったんですね」

智也が尋ねると、美濃部は黙って頷いた。

「優希はな。もう以前の優希ではない。君に会えなくなったことや世界の終末による恐怖でおかしくなってしまった。夜中に奇声をあげることもあり、食事もとろうとしない。会話が成り立たないこともずいぶん増えた。最近では周りに誰が居ようが、ぬいぐるみとおしゃべりだ。これでは、私たちがもたん」

想定していたよりもはるかに酷い状況を、智也は信じることができなかった。

「そんな。一体、どんな環境に優希を置いていたんですか」

美濃部は罪人が己の罪を告白するようにして語り始めた。

「ずっと、自分の部屋から出てこなかった。なんとかしようと考えてはみたものの、結局、今日まで一歩も外には出ていないよ。君と連絡を取り合って逃げ出してしまうことを考えて、スマートフォンは私が預かっていた。私はなんとしても家族で最後のひと時を過ごしたかっただけなんだよ。ただ、それだけのことだったのにね」

悔しそうな表情の美濃部に、智也は同情することができなかった。

外部との関係性を断たれ、十日以上も終末の恐怖に怯えながら過ごせば、精神に異常をきたさない方がおかしかった。美濃部の“家族で過ごしたい”という純粋な思いが、そんな簡単な予測をもたてさせなかったのであった。

「東条君がそんな優希の状況を知って尚、一緒に居たいと思ってくれるなら、私は優希をここへ連れてきたいと思うが、どうだろうか。もちろん、無理にとは言わない。私の知り合いには精神科の医師もいる。最後のその時まで入院させるのも仕方あるまい。どうだろうか」

「結局貴方は、優希を見捨てるんですね!」

あまりにも身勝手な美濃部の主張に思わず智也は声を荒らげた。

「ああ。そうだ」

美濃部は落ち着いて非情を肯定した。

「貴方は優希の親でしょう。どうしてそんなことができるんですか!」

畳みかけるような智也の言葉にも、美濃部は動じなかった。そのうち、彼は固く結んでいた口をゆっくりと開いた。

「私はね。今年六十を超すんだよ。君も優希から聞いているかもしれないが、彼女の母親は病身でね。入院したり帰ってきたりを繰り返している。今はずっと家に居て、私が看病しながら、なんとか暮らしているんだ。そこへ優希があんな状態ではとても私の身体がもたないんだよ。本当は私だって、できることなら一緒に居てやりたいが、とても無理だ。優希にはすまないと思っている」

それは決して上辺の言葉ではない響きで智也に届いた。

「でも、無理やり連れていってまで一緒に居たかったんでしょう。少し精神が不安定だからって、僕の所へずっと置いておくなんて、それでいいんですか。それは結局、優希を捨てることと同じじゃないですか」

優希と一緒に居たかったはずの智也が家族としての在り方を問うていた。美濃部は深く息を吐くと観念するように話し始めた。

「今が、終末の世でなければな。それなら私はなんとしてでも優希を見捨てなかったろう。人の目、というものがあるからな。体裁ていさいを取りつくろうという心は人に残された安全装置のようなものだったのかもしれない。しかし、世界の終わりを前にして、その安全装置は意味を為さなくなった。本当に大切なもの以外は少しずつ切り離されてゆくのだろう。私にとって本当に大切だったものとは、妻と過ごす穏やかな時間だったのかもしれない」

親子の絆ですら、終末の前には無力であるようであった。智也はこれまで信じてきた常識や価値観ががれてゆくのを感じていた。

「もし、東条君が優希を受け入れてくれるつもりなら、ある程度の覚悟はしてほしい。急に泣き、急に叫び、何処かへ連れていけとせがむこともある。どうもこの頃ではぬいぐるみ第一の行動になってきている。過去のことをほとんど忘れているようでね、恐らくは君のことも。そんな彼女でも、君は共に居てくれるか? 無理にとは言わない。君に義務はない。君にも大切なものがあるだろう。優希と共に過ごすということは、自由を失うということだ。その覚悟が、あるかい?」

脳裏に浮かんだ家族に、智也は黙って詫びた。

「あります。僕は優希と最後まで過ごします。家族に見捨てられた彼女を放っておくことはできません」

迷いがなかったわけではない。壊れ始めた優希を見る恐怖もあった。だが、それでも、智也は優希を見捨てられなかった。彼女を守ると、約束したのであった。美濃部はそんな智也の眼差しを確かめると頷き、頭を下げた。

「ありがとう。優希のことを、よろしく頼む」

美濃部は持っていた紙袋を智也に差し出した。中にあったのは智也が先日、美濃部につき返した手切れ金よりも尚厚い札束だった。

「これを受け取ってくれ」

「要りません」

「そうじゃないんだ」

即座に智也が断ったが、美濃部も譲らなかった。

「先日、半分の額の金を君に渡した。あれは手切れ金のつもりだった。今度は違う。あの子は今、急に何を言い出して、何が必要になるか分からない。そんなときに不自由はさせたくないんだ。もはや金を出すことでしか示せない情けない親の愛情を、どうか受け取ってくれ。あの子のために、使ってくれ」

美濃部は無理にそれを智也に渡した。

「終末の世でさえ、共に居てくれる人がいて、優希は幸せだ。優希を頼む」

非情だと思っていた筈の親が涙を流していた。


 帰り際、美濃部は名刺を智也に渡した。

「明後日の正午、優希をここに連れてくる。もしそれまでに気が変わったら、連絡をくれ」

「そんなことはありません」

「そうか」

安心した顔で、美濃部は去っていった。紙袋がやけに重く、指に食い込んでいた。

 彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、妹にメッセージを送った。

“彩花、家にはもう、帰らないことにした。優希と過ごすことにするよ。母さんたちには彩花からうまく言っておいてくれないか。よろしく頼む”

謝罪の装飾はしなかった。智也は家族よりも恋人を選んだ自分に、娘よりも妻との時間を選んだ美濃部の姿を重ねていた。

 押入れの隅に札束の入った紙袋を押し込んだ彼は、鎧塚の店へと向かった。珈琲を飲みながら優希の状態に不安を募らせている彼に、鎧塚は微笑みかけた。

「良い可能性と悪い可能性は半分ずつ、ですよ。優希さんがどんな状態でも、必ずまた二人で来てください。私でよければ相談に乗りますよ」


 翌日、彼は朝早くから起きて部屋を片付け始めた。優希と共に終末を歩き始める第一歩に相応しい部屋になるようにと。狭い部屋の中で危険になりそうなものは可能な限り取り除いた。昼を過ぎて、智也は栗原くりはらの居る店へと出かけた。

「いらっしゃいませ! いつもどおりホットラテMサイズですね!」

裏表のない彼女に事の一端を打ち明けると満面の笑みを見せた。

「いいですね! 彼女さんと同棲! 羨ましいです! 私も彼氏欲しいです!」


 その日、優希を連れた美濃部は正午の少し前に智也の家を訪れた。

「やあ。東条君。今日から優希を頼む」

部屋へと入ってきた優希は外見上は、以前と然程変わっていなかった。彼女はぬいぐるみのピー助を固く抱いたまま、無言で辺りを見回していた。

「優希。久しぶり」

智也が近づくと彼女はピー助の形が変わる程強く抱きしめ、後ずさった。

「大丈夫だよピー助私が守るから大丈夫私が居るから大丈夫大丈夫」

小さな声で繰り返し“大丈夫”と呟いていた。

「東条君、注意点を伝えておくとね。ピー助というこのウサギのぬいぐるみ、決してうかつに触れてはいけないよ。どうやらこのぬいぐるみが余程大事らしいんだ。私もなん度うっかり触れて優希に殴られたことか」

美濃部はそう言いながら大きな旅行鞄を部屋へ入れた。

「この中に優希の着替えや身の回りに必要なものが入ってる」

そう言うと、今度は優希の方へ向き直った。

「優希。東条智也君だ。覚えているかい」

優希はチラリと智也の顔を見て首を振った。

「こういうわけだ。気は、変わらないかね」

「はい」

絶望を背筋に感じながらも智也の決意はかろうじて変わらなかった。

「そうか。では。私はこれで失礼する。優希。元気でな」

警戒する優希を、美濃部は半ば強引に抱きしめると、部屋を出ていった。

 優希はまるで初めてこの部屋へ入ったかのようにきょろきょろと辺りを見回していた。ぬいぐるみを抱きかかえているそんな彼女は彼よりも年上の筈であったが、智也の目には小学生のようにも映った。

「えっと、優希。座る?」

智也は中へ入ることを促したものの、優希は黙って首を横に振るだけであった。智也が頭を抱えたその時、優希のお腹が寂しげな音をたてた。

「あ、お腹減ってる? 何か、食べる?」

「私は、いい」

私”は”。そう言ったのを智也は聞き逃さなかった。

「そうか。ピー助、お腹すいてるだろう。な」

顔を覗き込むと、優希はほんのわずか、頷いてみせた。

「よし。ええと、ピー助は何が好きなの? 人参?」

冷蔵庫に人参を入れていなかったことをやみながら尋ねると、思いもよらぬ答えが返ってきた。

「ツナマヨ」

「え」

「ツナマヨ」

智也は二十年以上続いてきた人生で初めて、自分の好物がツナマヨであり、常にそれを家に欠かさない習性があったことに感謝した。

「ツナマヨか。よし、そうしよう」

智也はパックに入った白米を電子レンジで温めながら、台所の引き出しからツナ缶を取り出し、マヨネーズと共にそれを居間の机へ置いた。

「さ、優希も一緒にツナマヨ食べよう」

そう呼ぶと、優希は机のそばに座った。智也は温まった白米のふたがし、その上にツナとマヨネーズをかけ、優希に勧めた。しばらくそれを眺めていた優希はこれまで抱えていたピー助をようやく放し、ツナマヨご飯に向かうようにして置いた。

「優希も食べる?」

もうひとつ作ったツナマヨご飯を再び彼女に勧めたものの、首を縦には振らなかった。

「ピー助の後で食べる。いいよ。食べて」

そう言われた智也は空腹に後押しされ、ツナマヨご飯を頬張ほおばった。優希はピー助がツナマヨご飯を食べているのであろう様子を、時々彼に話しかけながら眺めていた。そんな様子を横目に、彼は以前の優希が決してツナマヨを口にしなかったことを思いだしていた。

「よくそんな気持ち悪いもの、食べられるね」

智也が家でツナマヨを食べる度に、優希は何処か感心したようにそう口にしていたのであった。

「ピー助、全部食べた! 美味しかったって」

優希がふいに、満面の笑みでこちらを向いた。

「そう。よかった。優希も食べたら?」

「うん」

気持ち悪いと拒否されることを予想していた智也であったが、優希はピー助が食べた後のツナマヨご飯に手を合わせ、いただきますと声をあげると躊躇ちゅうちょなく食べ始めた。

「本当だ。美味しいね、ピー助。だからピー助はこれが好きなんだね。ピー助が好きなら私もツナマヨ好き。ねえ、お兄さん」

急に年上の女性から“お兄さん”と声をかけられ、智也は固まった。

「お兄さん、名前は?」

「智也だよ。東条智也」

名前を聞くと、優希の表情が一瞬、歪んだようにも見えたが、それは智也の見間違いかもしれなかった。

「智也さん!」

「智也でいいよ」

「智也。ピー助、とっても喜んでる。ありがとう」

少しずつ、新しい優希は智也に打ち解け始めていた。


「ねえ、優希。これから出かけないかい」

食事を終えて、ピー助と会話し続けている優希に、智也が提案した。

「お出かけ? ピー助も一緒でいい?」

「ああ。もちろん」

「じゃあ行く」

二人と一匹は晩夏の晴天を歩いた。時折鼻歌交じりに、時折ピー助に語りかけながら歩く優希に、もはや終末はその恐怖の色を落とすことができないようであった。例え自分のことを忘れてしまったとしても、この方が優希にとって幸せであったのかもしれないと、智也は自分を納得させようとしていた。


「こんにちは」

智也ともやたちが戸を開けて店内へ入ると、鎧塚よろいづかは微笑んで彼らを迎えた。

「おお。ご一緒ですか。お待ちしておりました。美濃部さん、お元気でしたか」

優希ゆきは鎧塚の方を向くでもなく、店内をぼんやりと見回していた。智也は鎧塚に近づき、耳打ちした。

「僕のこと、覚えていないんです。それに言動も以前と違っていて、何かこう、幼児退行でもしたような、そんな具合なんです」

「幼児退行? そうですか。私のことも覚えていないんでしょうな」

「はい。恐らく」

神妙な面持ちで話をする彼らをよそに、優希が大きな声をあげた。

「ここ! ピー助のお店!」

二人が困惑していると、優希はぱたぱたと店の角にあるテーブル席へと歩いていった。智也が後を追うと、優希はそこに座っていた高校生と彼の父親程の男性たちを前に立ち尽くしていた。彼らは揃って突如として現れたぬいぐるみを抱えた成人女性に警戒していた。

「えっと、優希、この人たち知り合い?」

智也が問うと優希は首を横に振り、親子は一層警戒の色を強めていた。

「ここ、ピー助の席」

優希が親子を見たまま、つぶやいた。

「親父、そろそろ行こうか」

「ああ、そうだな。浩輔こうすけ、忘れ物ないか」

彼らはグラスに半分以上も残っていた珈琲を飲み干すと、そそくさと店を出ていった。それを見た優希が嬉しそうにその席へと座り、対面にピー助を置いた。

「ピー助の席。私の席」

その時、鎧塚がトレーと布巾を持って現れた。

「直ぐ片付けますね」

「なんだか、さっきのお客さんには悪いことをしてしまいまして。すみません」

「いえ、大丈夫です。北塚さんはよくお見えになりますから、次回にでも私からうまく説明しておきますよ」

そう言って空いたグラスを片付け始めた鎧塚の目にピー助が止まった。

「おや。このウサギは。懐かしいですな。ええと、この子は美濃部さんのお友達ですか」

「そう、ピー助」

「ピー助。いい子だね」

そう言って思わず鎧塚がピー助を撫でようとした。

「ピー助に触るな!」

優希が怒号とともにその手を払いのけると、鎧塚の手元にあったグラスが飛び、床に落ちて激しい音をたてた。それを見た優希は小さく悲鳴を上げるとピー助をつかみ、胸に抱いたまま震え始めた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。でも、ピー助を守らないといけないから私が守らないと約束だもんでもごめんなさい許して本当はこんなの違うのに。でも守るんだ。ピー助をじゃないと私が私じゃなくなるからピー助を守るのは私しかいないから。だからでもごめんなさい違うの私じゃないのピー助を守るってピー助はピー助はピー助は、ピー助? ピー助?」

「優希、大丈夫。落ち着いて」

独り言を呟き続ける優希を落ち着かせようと、智也は優希を抱きしめた。それ以上言葉は出てこず、彼はいつか彼女が終末におびえ、泣いていた夜のことを思いだしていた。鎧塚は優希に謝ると、散らばったグラスを片付け始めた。客の居なくなった喫茶店に、その音がやけに大きく聞こえた。


「ご注文を伺います」

優希の様子が落ち着いた頃を見計らって鎧塚は二人の居る席へと戻った。

「私はカフェオレ! それから、ピー助はミックスジュース」

「ミックスジュース……」

鎧塚は注文用紙から目を離し、ピー助をじっと見ていた。

「あの、どうかしましたか」

智也はそんな彼を見て不思議そうに尋ねた。

「ああ。いえ。なんでもありません。東条さんはいつもどおりアイス珈琲でよろしいでしょうか」

「はい。それで」

「かしこまりました。しばらくお待ちください」


 ほのかに珈琲の香りが立ち込める店内で、智也は優希と出会った場所がちょうどこの店のこの席であったことを思い返していた。ひどく雨の降る日、注文した飲み物にひと口も口をつけることなく、静かに泣いている姿から目が離せなかった。そんな姿を黙って見ていられず、声をかけたのが、彼女との交際のきっかけであった。少し抜けているところがありつつも優雅な立ち振る舞いが高貴な百合のように智也の目に映っていた。

 そんな彼女は今、彼の向かいで熱心にぬいぐるみのピー助とおしゃべりをしていた。

「ね、それでね。お母さんがアイス落としちゃったの。どうしようってなってるところにね、ミッキーが来てアイスくれたんだよ。うん。うん。そうなの。それでね、ジェットコースターもすっごく怖かったけど、楽しかった。うん。そうだよ。次はさ、ピー助も一緒に行こうよ。きっと楽しいよ。約束ね。絶対、絶対だよ」

幸せな記憶の世界に住みついているのであろう優希を見て、思わず涙が零れそうになった。

「智也、どうしたの?」

優希はピー助から目を離し、智也を心配そうに覗き込んだ。本当はひと言、確かめたかった。“俺のこと、本当に覚えてないの?”と。しかし、尋ねるのが怖かった。分かりきっている回答を彼女の口から直接聞くことが、どうしてもできなかった。

「大丈夫。なんでもないよ」

智也が優希に笑顔を見せた時、鎧塚が飲み物を持って現れた。

「お待たせしました。カフェオレと、ミックスジュース、それからアイス珈琲です」

鎧塚は飲み物を置くと、小さなチョコレート菓子を三つ、机に置いた。

「よろしければ、こちらもどうぞ」

「ありがとうございます」

智也が礼を言ったその時、店の扉が力強く開いた。

「こんにちは!」

聞き覚えのある元気いっぱいの声に智也が振り向くと、チェーンの珈琲店で働く栗原くりはらであった。

「あ!」

栗原は智也の姿を見つけると、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

「たまに店に来てくれるお兄さんですね! こんにちは!」

「おや、栗原さん、お知り合い?」

鎧塚が驚いた様子で尋ねた。

「はい! バイト先のお客さんです!」

「ほう。東条さん、他のカフェに浮気なさってたんですな?」

鎧塚がにやりと笑った。

「いえ、その。そういうわけじゃ」

智也がしどろもどろになっていると、栗原が助け船を出した。

「大丈夫ですよ、店長! うちの珈琲、不味いんで! お客さんは取られません!」

鎧塚が噴き出したのをきっかけに笑い声が起こった。優希はそんな様子をピー助の前足を握りながら眺めていた。


「ええと、お客さん! 名前なんていうんですか!」

智也たちの隣の席に腰かけた栗原は珈琲を飲みながら問いかけた。

「東条智也です」

「なるほど、じゃあ、東条さん! そっちに居るのが言ってた彼女さんですか!」

栗原はぬいぐるみとたわむれる優希を興味深そうに見ていた。

「そう。恋人の美濃部優希です。優希、この人は俺の知ってる人なんだ」

「智也の知り合い? じゃ、いい人?」

「うん。裏表のない、いい人だよ」

「へー。こんにちは」

優希が恐る恐る声をかけると、活力を破裂させる勢いの挨拶が帰ってきた。

「こんにちは! そのウサギ、かわいいですね!」

彼女の声量に一瞬間たじろいだ優希であったが、ピー助を褒められ、悪い気はしなかったようであった。

「でしょ? ピー助はかわいくて、かっこいいの」

「最強!」

「そう。ピー助は最強なの。私が困ってると、いつでも助けてくれるの。だから、私もピー助のこと守るんだ」

「すごい!」

栗原はぱっと顔を智也に向けた。

「東条さん!」

「え、なんです?」

「彼女さん、とっても綺麗きれいな方ですね! 羨ましいです!」

栗原が、優希の何を綺麗だと感じたのか、智也は尋ねてみたくなった。


 ある日の深夜のことであった。

「智也! 智也! 起きて!」

優希が智也の身体を揺さぶった。

「何? 何? どうしたの」

寝ぼけた思考では内容の無い疑問の言葉を発することしかできなかった。

「ピー助が居ないの! ねえ! どうしよう。ピー助、何処か行っちゃった」

慌てふためく優希の様子に、優希が寝ていた布団をまくった。果たしてそこに、ピー助はいつもどおり転がっていた。

「ええ? 居るじゃん。ここに」

「居ないの!」

優希の目にはピー助が映っていないようで、浴室、戸棚、カーテンの向こう、必死にピー助を探していた。

「居ない居ない。やっぱり居なくなっちゃったんだ。出てっちゃったんだ。私が嫌いになったの? 私が弱いから? ねえ、ピー助出てきて、お願い。ピー助が居ないと駄目なの。ねえ、お願い! 絶対、ピー助のこと守るから! お願いお願いお願いお願いお願い弱くてごめんごめんごめんごめんごめん。ごめんなさい!」

叫びながら部屋を駆けずり回る優希は、もはや錯乱さくらん状態であった。なんとかしなければ。その責任感が、智也の頭に妙案みょうあんを与えた。彼はピー助を掴むと急いでそれを押し入れの中へと押し込んだ。

「優希、ちょっと来て! 変なんだ」

「変? 何が?」

「ここ! ここ!」

智也が押入れを指さすと優希はふらふらと近寄ってきた。

「押入れ?」

「うん。何か音が聞こえるんだ。もしかしたらピー助かも」

「ピー助?」

その名前を聞いた優希は素早く押入れを開け、顔を突っ込んだ。

「ピー助だ!」

押入れから顔を引き抜いた彼女の腕には、ピー助が固く抱かれていた。

「ピー助。居たんだ。心配した。大丈夫? 何処も怪我してない? そっか。そっか。よかった。ねえ。もう居なくならないで。私、駄目になっちゃうから。絶対、絶対、ピー助のこと、大事にするから。ねえ、だからお願い、一緒に居て」

優希はいつまでも、ピー助に語りかけ続け、早朝まで眠ろうとしなかった。


 また別の日にも、智也は優希に叩き起こされた。

「智也、智也! 起きて! 灯台! 灯台!」

「へ? 交代? 誰と?」

「違う! 灯台! 連れてって。ピー助が行きたいって」

寝ぼけ眼で電気をつけると、優希がキラキラとした目で訴えていた。

「灯台? 灯台って神崎灯台のこと?」

「そう!」

「なるほどね。じゃあ、明日行こうか」

再び横になろうとする智也を優希は許さなかった。

「駄目! 今! 星の出てるうちに! ピー助が行きたいって」

なんとか説得しようとしたものの、優希はがんとして譲らなかった。結局彼は深夜に二人と一匹で少し離れたみさきまで深夜のドライブをすることになった。

 灯台の付近までやってくると、優希は待ちわびたかのようにピー助を抱いて車外に飛び出した。

「わあ。星がいっぱい出てるね。綺麗きれい。ねえ。あれ、なんていう星座だっけ。あの大きなバツになってるの。あ、そうそう。白鳥座。じゃああっちのはウサギみたいな形のやつ。え、あれウサギじゃないの? 牛なんだ。ピー助はなんでも知ってるね。すごい。じゃあ、あれは……」

無邪気に夜空を指さす優希の姿に、智也はかつての優希の面影を探していた。交際を始めた当初、よく、この場所までドライブに訪れ、二人で星座を探したことがあったのであった。

 灯台を訪れ、満足したのか、優希は帰りの車内でぐっすりと眠っていた。


 時間を問わず、優希はさまざまな場所を訪れたがった。ピー助が連れていけと言っているらしかった。不思議なことに、智也の知らない場所はひとつとしてなかった。


「とね、こういうわけなんですよ。次は一体、どんな所に連れていけと言われるかと思うと気が重いですよ」

季節が変わり始める気配を漂わせた頃、智也は鎧塚の店を訪れ、優希をいつものテーブルでピー助と遊ばせていた。カウンターに腰かけてそれを見守りながら彼は鎧塚に愚痴をこぼした。

「なるほどね。それはさぞや大変でしょうな」

鎧塚は相槌あいづちを打ちながらも、何かしきりに考えているようにくうを見つめていた。

「時々ね。思うんですよ。変わらないままの以前の優希といろんな場所をそうやって巡れたら、どんなにいいかと。今の僕は保護者みたいなものですから。こう言っては今の優希に申し訳がないですけど、今、僕は以前の優希が堪らなく、恋しいんですよ」

自嘲じちょうにも似た笑顔を浮かべる智也を、鎧塚は真剣な眼差しで見つめていた。

「ねえ。東条さん。実はね、先日、栗原さんと話したんです。その時にね、私も彼女も、とある同じ予想を立てていたんですよ。さっきまでは予想でしたが、私の中で東条さんの話を聞いているうちにそれが確信に変わりましてね。申し上げても?」

鎧塚と栗原の予想とやらに興味が湧いた智也は大きく頷いた。

「ぜひ」

「では、申し上げます。予想とは、あのぬいぐるみ、ピー助についてですよ。ピー助とは誰なのかということです」

「誰? というと」

智也にはまだ、鎧塚の言う予想とやらが分からなかった。

「美濃部さんはしきりにピー助に話しかけているようですね。まるで本当に人格が宿っているかのように。私はね、そこに美濃部さんが誰かを重ねているのではないかと思ったのですよ。私がピー助の正体について気づき始めたのは、実は貴方が美濃部さんとピー助を連れて初めてここにいらしたときです。あの時、美濃部さんは迷うことなく、あの席に座りましたね? 貴方が以前の美濃部さんと二人でこの店を訪れてくださったとき、いつも変わらず座っていた席ですよ?」

少し、鎧塚が言おうとしていることが分かってきた。

「いや、しかし、それは偶然でしょう?」

思い過ごしだと、精神の安定を望む声がささやいた。

「ううむ。確かに、偶然かもしれません。では、ピー助がいつもミックスジュースを注文するのも偶然ですかね? 貴方は美濃部さんと交際を始めた頃、まだ珈琲が飲めず、ミックスジュースばかり注文していましたが」

「それは……」

思いもよらなかったピー助と自身の一致点を提示され、智也の脳裏にはピー助の好物が自身と同じく、ツナマヨであったことが浮かんだ。

「それから、貴方が今日お話ししてくれましたね。美濃部さんが時間を問わず、何処かに連れていけとせがむと。行った場所は神崎灯台に山辺の杜、貴方の生まれ育った隣の市の海岸、そしてありがたいことに私の店。東条さん。以前貴方は美濃部さんが幼児退行したようだとおっしゃいましたね。私にはそれらの場所が、幼児退行した人の行きたがる場所だとは、とても思えないのですよ。きっと、ピー助に投影している誰かさんとの思い出の場所だったのではないでしょうかね」

予想した事実を認めてしまえば、何かが決壊しそうであった。智也は返事もせず、黙って聞いていた。

「東条さんは先程、以前の美濃部さんが恋しいとおっしゃいましたね。私は、何も、変わっていないと思いますよ。少し精神が不安定になって、感情を向ける先がぶれているだけです。私に敵意をむき出しにしてまで、ピー助を守ると美濃部さんは言っていましたね。美濃部さんは、より純粋に誰かへの思いを露わにしているのではないでしょうか。ねえ、東条さん。ピー助って、誰なんでしょうね」

微笑みながら、問いかける鎧塚はサービスのお菓子を手渡した。


 夕陽が街を照らす時間帯、二人と一匹は帰路についていた。智也は鎧塚の予想を思い返していたが、それを優希に直接確認することはできなかった。ふと気がつくと、隣を歩いていた筈の優希がいなかった。慌てて振り返ると、彼女はピー助を抱いたまま、大きな写真館の前に立っていた。屈んで写真を見ている彼女の視線を背後から覗くと、ピー助によく似たウサギの写真があった。

「ピー助によく似てるね」

「違う。こっち」

彼女はその隣にあった写真を指差した。

「いつかね、私がピー助をここに連れていくの。私が、連れていくの」

大人びた、落ち着いた口調でそう呟く優希が見ていたのは、美しい額縁に入ったウェディングフォトであった。


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