オジャケバサエルの花
イヤ、突然引っ張り込んで申し訳ございませんな。どうぞ、おかけになってください。まだ少し夏の暑さが残ってますな。アイス
すみません。アイス珈琲を二つとね、あ、ひとつはブラックで、もうひとつはシロップをお願いしますよ。それとティラミスを二つ。ハイ、以上で。
じきに珈琲が来ると思いますがね、まず、確かめさせてください。貴方、本当にあすこに何も見えてなかったんですか? いや、貴方、ベンチに座って空を眺めていらしたじゃありませんか。ジッと空の一点を。何を見てたんです? 何もって……。本当に何も見えてなかったんですか? フム、フム。なるほど。じゃあ、本当に貴方はただボオっとしていらしただけなんですね……。そうですか……。イヤ、お気になさらず、私が勝手に思い違いをしていただけのようですから。ハハハ。イヤ、しかしね、それでも後悔はしてないんですよ。貴方をこうして喫茶店にお連れしたのを。ウム、これも何かのご縁、少し話を聞いてはいただけませんかな。
オット、もう運ばれてきましたよ。どうです、この店はなかなか気が利いていましょう? ありがとう。こっちがブラック? あ、貴方のだ。どうぞ。で、こっちがシロップ入りね。ありがとう。ささ、ここのティラミスは絶品ですよ。少し小ぶりですがね。どうぞ、お召し上がりになってください。
エエト、なんでしたっけ。あ、そうそう。お話と言うのは……。あの、お断りしておきますが、どうか私の話をお終いまで聞いてしまってください。決して私は精神異常者だとか、そういう
と申しましても、さてどこからお話ししたものか……。実はあなたが先程偶然に見つめていらしたあの空中には「オジャケバサエルの花」というものがあるんですよ。そら! 顔をしかめなすった! ハハハ。冗談ですがね。マア、致し方ありませんな。フム、フム。そうですな、それは
奇妙なことに、それがある日突然、現れたのですよ! イヤ、正確には急に私の目に映るようになったのです。ウム、サテ? そうですなあ。ひと月ほど前からでしたでしょうか。エエ、そりゃあ、最初は大いに驚きましたよ。突然空にあんなものが現れたんですから。ちょうど私はその時、銭湯の帰りだったのですが、お恥ずかしながら公衆の面前で
ですから、あなたがベンチに座って空を眺めていらっしゃるのをお見かけした時には、私はやっとのことで同志を見つけたと勘違いしてしまいました。その結果、古くからの馴染みの喫茶店に貴方を連れ込んだ、と、こういう訳なんですよ。何せあなたの目にもあの花が見えているとすれば、私は奇跡の友に巡り合ったことになりますからね。アハハ。どうですか。信じていただけますか。なんと! 信じてくださる。嗚呼、ありがとうございます。たとえ、この場しのぎのお言葉であったとしてもこれ程嬉しいことはありませんよ。イヤア、やはり貴方にお声をおかけしてよかった。
あ、これは失礼しました。ついしゃべりすぎてしまいました。珈琲が薄くなってしまいましたかな。どうぞ、お召し上がりください。そうそう、ティラミスを口に入れるときは気を付けてくださいよ。むせますからな。どうです、美味いでしょう? それは良かった。ここはティラミスも美味いんですがカヌレも絶品なんですよ。オヤ、カヌレをご存じでない? それはいけません。ぜひともお召し上がりにならなければ。ハハハ。とはいえ、今日はティラミスだけにしておきましょう、お互い糖尿を患っちゃあ仕方ありませんからね。アッハハハハハ。
そうだ。この次に貴方にカヌレを御馳走したい。どうでしょう、連絡先を教えてはいただけませんか? エエ、メエルで結構です。ありがとうございます。ぜひまた、貴方とは花についてお話しがしたい。どうかご迷惑でもありましょうが、その折にはよろしくお願いしますよ。タダで珈琲が飲めると思ってお付き合いください、もちろんカヌレも。ハハハ……。
いやはや、お久しぶりですな。先に私の馬鹿げたお話にお付き合いいただいてからどのくらいになりますか。アア、そうでしたか、もうひと月になりますか。早いものですな。光陰矢の如し。ハハハ。さあ、これが前回お話ししたカヌレですよ。どうです。面白い形をしていましょう? 小さいプディングのようだと? 鋭いですなあ。味もプディングに近いですがね、これは焼き菓子ですよ。まあ、
さて、わざわざご足労いただいたのは他でもない。例の「オジャケバサエルの花」についてですよ。やはり、貴方の目には映りませんか? ウム、そうですか、残念です。最近ますます美しくなってまいりましてね、新月の夜にはうっすらと光を放つようになりまして。夜空に浮かぶ大きな薄桃色の花弁が
イエ、今日貴方にお話ししたいのは花の美しさについてではないのですよ。あれの美しさは一度見てみない事にはどうにも仕方ありませんよ。
オット、失礼な物言いでした、謝ります。どうか今日もしばらくお付き合いください。ご承知くださる。ありがとうございます。では早速本題に入りましょう。実は私もあれから花について、いくらか調べましてね、と言ってもそれとなく方々の人に尋ねてみたというだけですが。ですから時には随分と妙な顔をされることも多ございましたよ。アッハハハ……。一度なんか異常者だってんで交番に引っ張られるところでした。まあ、こんな髭面の中年が妙なことを尋ねるのですから無理もありませんがね。ハハハ。しかしね、そのおかげで得るものもございました。と言うのは、居たんですよ! 同志が! 今では私も含めて四人になりましたよ。もう最初のひとりと出会った時の感動といったらありませんでした。お互いにあれが見えると分かった時には思わず手を取り合って喜んだものです。と、その時にふと頭に浮かんだのが、他でもない、貴方の事ですよ。すぐにこの感動を分かち合いたかったんですがね、ひとり見つかったんですから他に居てもおかしいことは無かろうというのでその同志と話しましてね、二人それぞれで調べてみることにしたんですよ。そうしてお互いがひとりずつ同志と巡り会えたというわけで。定期的に集会を開こうということになっているんです。イヤア、実に嬉しいことです! 感動ですよ!
失礼、少し興奮してしまいました。同志四人で集まって話してみましたところ、少しずつですがあの花について分かってきたことがあるんですよ。たまたま同志の中に帝国大学を主席で卒業したという学のある者がいましてね、彼を中心にして研究しているのです。
まず、私が「オジャケバサエル」と呼んでいるあの花の名についてですが、
それで「概ね」という点についてですが、どうもあの花の名前については我々日本人の舌では発音が難しいようなのです。それで個人差が生まれたのでしょう。ある同志はあれを「オヤケバサエル」と呼んでおりましたし、他にも「オヤアクバザル」、「ウジャバザル」と四人が四人ともわずかに異なる名前で呼んでおりました。しかし、それらの名を聞いても私は、いや、四人とも何の違和感も覚えませんでした。確かにそんな風にも思われたのです。不思議なものですよ。やはり、私ひとり、気が違ったのではなかったということがはっきりと証明されたということですからね。アッハハハ。
そうして次に、どうして我々にはその花が見えるのか、また、何故見えないという者の方が圧倒的多数なのかと言うことについて議論しました。そしてひとつの仮説を立てたのですよ。つまり、あれは高次元の多様体であろうというのです。即ち「オジャケバサエルの花」は非エウクレイデス的幾何学体であり、局所的にはエウクレイデス的幾何学体と
お分かりでない? ハハハ。実は私もなんですよ。今のは例の学のある同志の受け売りですよ。私も何のことだかさっぱり分かりません。なんでも彼は大学で幾何学を専攻していたようでその見地からの仮説だそうです。しかし、マア、おこがましいようですがね、早く言うと、花が見えるのは我々の何か先天的な能力のようなものの為だろうという結論に至りまして。いや、決して自慢のためにお話ししたのではありませんから、どうかご機嫌を損ねないでいただきたい。私はただ貴方と「オジャケバサエルの花」について語りたいのです。妙なもので同志四人で議論しているよりも貴方とこうしてお話ししている方が私にはよほど愉快なのですよ。
アア、申し訳ございません。また喋りすぎてしまいました。オヤ、カヌレがひとつ余りましたな。どうぞ、お召し上がりください。
お元気でしたか。三か月ぶりとは。本当はもっとまめにお会いしたいのですが、どうもここのところ立て込んでおりましてね。エエ、無論「花」についての集会の為ですよ。なんと私が代表に選出されましてね。それからはめっきり忙しくなりました。そうそう、同志も随分増えましてね、確か今では十六人になりました。嬉しいものです。
そうだ、飲み物は何になさいますか? ホウ、今日は紅茶になさる。結構ですな。では私もそれに
そうそう、同志が増えまして。しかし、
フム、その者の見間違いではないかと。もちろんそうも考えました。しかしそういう者がひとりでないのがどうも気がかりでしてね。驚くべきことには、そのしおれた「花」の様子も三人それぞれがわずかに違った意見を言うのですよ。
ひとりは花の色が薄れたと言いました、別の者は花弁に黒い
学のある同志が言うには我々局所的観測者はそれぞれ別な次元の多様体を見ているのだそうです。何でも「花」という存在は集合であり、その元と我々観測者の集合の元との間に何らかの写像関係、それも恐らくは全単射の関係があるそうなのです。どうです、お分かりになりますか? アア、そうですか。私にも分かりません。その同志も理論に確信は持てないと言って詳しい説明はしてくれず、今も研究に没頭しています。
なんだか私にはいやな予感がするのです。あの「花」が一層不吉に感じ始めているのですよ。だから以前ほど空に目を向けられないのです。嗚呼、もしかするとあれは見えぬ方が安楽なのかもしれません。やはり不吉です。
イヤ、今日の所はこれで失礼いたします。実はこの後に同志との集会が控えておりまして。エエ、何やらよくないことが起こりそうな気がいたします。
珈琲を二つ! 失礼、もしかすると今日があなたとお話しする最後の日になるかもしれません
フウ、先の集会で同志が三人、
すぐに彼らを病院に運んで検査をしてみても原因は不明。ただ、彼らの背にはそれぞれ大きな
結局、花が何なのかは分からず仕舞いです。しかし、その後、残った同志で何とか話し合いを続けたところ、ある事実が分かってきました。我々の背には、揃って妙な痣が出来ているのです。ハイ、もちろん私とて例外ではありません。イエイエ、花の形はしておりません……。今のところは。しかし、その痣には共通点がありまして。同志たちの目に映った花、その欠損した、あるいは
今日は貴方にお願いがあって参りました。明日、正午にこのメモにある住所を訪ねてきてくださいませんか。私のアパアトです。きっとその時間には私の命は尽きていることでしょう。どうか警察に知らせてください。そして、お手を
その後、私たちは黙って珈琲を飲み干した。彼は住所の書かれたメモを残して「では、これで」と言い残すと、先に店を出てしまった。私はまだ、彼の言うことを全て信じることができないでいた。決して彼が狂人だと思うわけではないのだが、いや、そう思いたいのだがひょっとすると……。とにかく、明日、彼の家を訪ねることにしよう。不思議なことに恐怖は無かった。それどころか私は「オジャケバサエルの花」を見られるということに心を躍らせてさえいた。
店を出た。当然彼の姿は無かった。私はしばらくの間メモを見つめていたが、やがてさっきまで一緒にいたあの男の言動への不信感が積もり始めた。やっぱり彼は異常者だったのではないだろうか。考えてみれば彼が私に声をかけたきっかけからしておかしいではないか。別に私以外にあの公園でぼんやりしている人間がいなかったわけでもない。それに冷静になってみると、話に出てきたような「花」がこの世に存在するはずがない。何のことはない、非現実的、そのひと言で充分ではないか。結局、私は彼に
私は肩を落とした。なんということもない日常。その中で私は心の底であの「オジャケバサエルの花」という超自然的存在を求めていたのかもしれない。
私は一つ、息をついた。少し笑みがこぼれた。
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