52.火の聖女

 

 聖堂には2人の声だけが響き、2人の影だけが蝋燭の灯りで揺れている。マリアベルは真っ白な煙を吐いた。辺りには香草と丁子クローブの香りが漂っていた。


「聖女様は、あの子と友達だったのですか?」


「まさか」


 論外とでも言うような返答があって、クララはちくりと心を痛めた。


「調べたのです。──お高くとまる聖女候補達の化けの皮を剥がしてやりたい。美しい面の下に、どれだけ醜い獣が潜んでいるのかを見てやる。所詮、私と同じで貴女たちも醜いに違いない。そう思って、聖女達については、たくさん調べた。私、本当に性格が悪いので」


 マリアベルは、にっと悪戯っぽく笑い、続ける。


「ねえクララ。一つ、疑問に思ったことはありませんか? なぜ、ニスモ・フランベルジュは故郷が攻められているのに、助けに行かない?」


「え? それは──、ロック卿が言う通り、模様眺めであって……」


「仮に。あなたの家族があらぬ罪を着せられて禁軍に攻められたとしたら、どうしますか? のほほんと模様眺めを洒落込みますか?」


「……居ても立っても居られません。助けに行きます」


「私も同じです。でもね、焔聖はそれをしない。助けに行けるはずですが、行こうともしていない。これは模様眺めではなく、です」


「どうして無視を……?」


「彼女は一族が絶えても良いと思っているんですよ」


 マリアベルはトン、と煙管を叩き、長椅子の脇にあった燭台に灰を落とす。


「フランベルジュ家は名門ですが、その内情は私利私欲の渦巻く腐敗の温床となっています。長い歴史の中で、訌争こうそうが幾度もなく起きた」


「訌争……?」


「有りていに言えば、お家騒動です」


 言って、何処から話せば良いか、と呟いた。クララが待つ事5秒ほど、マリアベルは語り始める。


「──今から30年程前。フランベルジュ家の当主が若くして死んだそうです。それで、騎士かしん達は随分と浮足立ったらしい。やがて公爵領の実権を狙い始めた。誰に味方し、誰を敵視し、誰を陥れ、誰を裏切り、誰を殺せば良いか、騎士達の脳内はそればかりになってしまった」


 クララは聞きながら、瘴気に呑まれた自らの家と領の事を思い出していた。ドーソン家にもたくさんの騎士はいたが、彼らがいがみ合う瞬間など見た事がないし、みな、己ら家族のために尽くしてくれていたと思う。なんとなく、現実味がないように感じた。


「もうそれは笑い話に近いですよ。それから公爵は2年の間に3度もたおれて、その度に公爵が変わった。長男から次男に、次男から三男へ、そして三男から四男へ」


「えっ!」


「こうなれば、王が動くしかありませんよね」


 マリアベルは説明を続ける。


 国王アルベルト2世は自身の妹マチルダと、新たなる当主ジュール・フランベルジュとを結婚させた。王家の嫁を貰ったのだから、さすがに騎士達も黙るだろうと目論んでの事だった。ジュールは今でも当主であり、つまりリンカーンシャー公爵であるから、その後、公爵の座に限っては安定した事を意味する。当時、ジュールは18歳であった。


「マチルダは3人の子供を産み、1人はすぐに儚くなったらしい。2番目はジャンヌ・フランベルジュ。3番目がニスモ・フランベルジュです」


 ジャンヌ、とクララはその名を呟く。意識を混濁させたまま寝台に横たわった、あの赤髪の少女が、たった一度『姉さん』とうなされていたのを思い出した。その姉というのが、ジャンヌに違いなかった。


「ジュールという男は神を重んじ、神を愛していた。正教会、特に本部教庁とも好誼こうぎを深めていたようです。なので、正教会と王家の力を借りて、何とか領を正常な状態に戻そうとした。だけど、結局それは成功しなかった」


「正教会と王の後ろ盾がありながら、ですか?」


「もはや騎士達は宿主を食い殺す寄生虫ですよ。──公爵に仕える騎士が子を攫って人質としたのです」


 ジャンヌは、公爵領貴族の筆頭格アッテンボロー家が奪い、ニスモはバーダー家が奪った。理由としては暗殺の危機から守る為の一時的な処置だとしたが、実際には領内の不純を改めようとした領主に対する反抗であった。


 当主ジュールはジャンヌとニスモを救う為に兵を集めようとしたが、他の貴族たち、騎士たちが動かなかった。アルベルト2世への取次もされず、正教会への取次もされなかった。城内の騎士たちは妙に連帯してジュールを隔離した。そして程なくして、妻であり王の妹であるマチルダが死んだ。


「マチルダの死は、記録では花嫁霊ニンフに泉に引き摺り込まれたとされていますが、果たしてどうだか……」


 花嫁霊ニンフとは女の霊である。気に入った者を攫い、仲間にしてしまうとされた。王国北部の一部地域では、よく見られる。


 結局マチルダの死は彼女の女官達の責任となった。茶番のような裁判が行われ、殆ど全員が首を刎ねられて王の元へ送られた。それから王都で晒された。


「ともかく当主ジュールは、マチルダの死があって以降、領内の大掃除を諦めたようでした」


 それでも、2人の娘がフランベルジュ家に帰ってくる事はなかったとマリアベルは言う。


「ジャンヌを攫ったアッテンボロー家は名門です。貴族間では大変人気でした」


 アッテンボロー家は学問を重んじる家柄で、みな優秀であった。公爵領での地位も高く、騎士達のまとめ役で、彼らにとっても頼れる存在であった。法務を取り仕切る者も多くいるし、領内のまつりもアッテンボロー家無しには回らない。


「一方でバーダー家は逆、ですかね」


「逆とは……」


「民衆から人気があったんですよ」


 ニスモを手中に収めたバーダー家は、貴族としての歴史は浅く、政にもさしたる影響力は持たない。だが、民の間では英雄として持て囃されていた。


「バーダー家は弱きを助け、強きを挫く。良い気風きっぷであり、貴族として実に清々しく、潔癖である。そのように民からは見えていたようです」


 バーダー家は武を重んじた。民を良く助け、時には施した。領内で被害があれば、軍を率いて魔物や野盗を倒す。身分によって対応は変えない。


「そして無宿ナッカーの頭領だったのも、貴族としては特殊だし、人気の秘訣でもあったのだと思います」


 正教会の階級ヒエラルキーで『不良』にあたる人間で、戸籍を持たない者を特に無宿と呼んだ。


 無宿は普段、病死した家畜を解体して石鹸や飼料にしたり、腐った魔物を処分する仕事をした。その延長線で処刑人として働く事もあった。また、死罪となった罪人の骸から、頭皮や臓器を外して売り物に加工する事もあった。


 バーダー家が無宿の頭領を務めるきっかけとなったのは、今から約200年前に起きた内乱であるとされる。とある貴族が街を歩いていた子供を捕らえて虐殺した事から、民衆が蜂起した。公爵領に於いて、民は貴族に虐げられる事が多かったから、それがついに弾けた形となった。


 武器を持った民衆は城や屋敷を占拠。民を不憫に思ったバーダー家が民衆に味方した事で、一部の領軍もそれに加わった。悪行を働いていた貴族や騎士達は捕えられ、公爵領のいたる所で貴族やそれに仕える者の処刑が行われた。下女までもが対象であった。


 処刑するべき者が多かった事から処刑人の無宿が足らず、バーダー家の人間もそれを務めた。バーダー家は無宿の処刑人としての功績も認め、無宿の生活を保障し始める。


 その後、禁軍と領軍の同盟軍によって民衆の城が包囲された事で、和議が結ばれた。領内に平和が訪れても、無宿の頭領としての役目だけはバーダー家に残った。


 この蜂起をきっかけに、バーダー家は英雄となった。悪の貴族を断罪する正義の貴族、首を天に掲げるその姿は民達の誇りだった。


 一方で、無宿という忌避される身分を統轄そうかつする事から、貴族間では軽蔑の対象となった。人気取りの為に身分を穢したとまで言われていた。


「以降、バーダー家は処刑人の仕事も行います。だから、そこに匿われたニスモ・フランベルジュも、6歳頃から火炙りを手伝わされたようです」


「嫌じゃなかったのでしょうか……」


「さあ……。彼女の心情は分かりませんが、良くこなしていたようですよ」


 焔聖の当時の様子は、フランベルジュ家の訌争を詳しく伝える『神官カーナウの手記』に残っている。


 ニスモは叔父であるマーヴィン・バーダーから処刑の手解きを受けた。齢6の頃は50人余りの罪人を焚刑に処し、齢10を超えてからは斧で100人余りの罪人の首を落とした。


 手記によれば、当時のニスモの様子はこうである。彼女はマーヴィン・バーダーが命令するままに刑を執行した。彼女は誰からも忠実なしもべに見えて、感情はあまり持ち合わせていないようだった。表情も乏しく、あまり喋ることがなく、精神薄弱ではないかと周囲からは心配された。


「とにかく、ニスモもまた民衆に人気があった。無慈悲に正義の鉄槌を下す美しい少女に民衆は熱狂した。公開処刑はすごい数の見物客で賑わったみたいです。彼女を主題とする絵画は私も見たことがありますし、噂によれば、隣領の貴族が法を無視して罪人を寄越す事もあったとか」


 一方で、アッテンボロー家は民衆に人気のあるバーダー家を危険視した。処刑人は穢れた人間のやるものだ、貴族として相応しくない。高貴な血の流れるニスモに処刑人を真似させるのは、王家を穢すのと同意だ、と糾弾した。領内の力の均衡が乱れる事を恐れた。


「そして、バーダー家の策略はついに成功します」


「策略、ですか?」


「バーダー家が公爵の娘を奪った目的は、フランベルジュ家に対する脅しではなかったと、私は思います。目の上のであるアッテンボロー家を滅ぼし、揺るぎない権力を手にしたかったんです」


 ニスモが齢14となった年。聖暦1659年の朔風さくふうの節。アッテンボロー家嫡男が従騎士を殺害した事を発端に、再び民衆の蜂起が起きた。バーダー家がこれを虐殺であるとし、民衆を煽動したからであった。実際には訓練中の事故であったとされる。


 領内の権威をほしいままにしていたアッテンボロー家は、民には良く思われていなかった。民の怒りは正義のバーダー家が煽った事で、あっという間に沸点に達し、アッテンボロー家とそれに与する者は私刑に遭った。


 民や冒険者に殺されなかったアッテンボロー家の人間は捕らえられ、いつもの如く茶番のような裁判を経て、一族の殆どが死罪となった。


「そして、焔聖は処刑人として姉ジャンヌの首を落とした」


「え……?」


 バーダー家にとって、高貴な血を引くジャンヌの存在も邪魔であった。公爵の娘であろうと関係はなかった。死罪であった。


「その後、彼女はどうしたと思いますか?」


 クララは呆然としながらも、首を横に振った。


「焔聖はバーダー家の人間を全員殺した。それだけでなく、バーダー家に味方する貴族も。騎士も。残るアッテンボロー家の人間も。一族皆殺しです。それには赤子も含まれていた」


 最終的にニスモはバーダー家の屋敷に立て篭もり、領軍に包囲されたが、巡礼中のヴィルヘルム・マーシャルによって捕縛され、聖女候補に選ばれた。


 この事からリンカーンシャー公爵領、及びフランベルジュ家は事件を隠蔽。正教会も隠蔽を補佐し、焚書や情報操作を行った。今ではアッテンボロー家とバーダー家の謀反からなる事変として記録され、ニスモ・フランベルジュは謀反を鎮めた正義の乙女として、北方の領では未だ民衆の支持を得ている。


 アッテンボロー家と深い繋がりがあった神官カーナウが他領に逃れ、そこで密かに手記を書いて稼ぎを得たが、それくらいでしか当時の正確な記録は残っていない。


「そして学園では輝聖リトル・キャロルに酷く執着していた。嫌いで嫌いでしょうがなかったのだと思う。その理由は調べても分からなかった。きっとあの子の中で、許し難い何かがあるのでしょう。──そうした気持ちを輝聖に抱くのは理解できなくもない」


 煙管、葉は灰となってもう煙は出ていない。


「私たち聖女は輝聖を回る星。輝聖の運命が大きく動く時、私たちは巡り合う。私の為に働くあなたは、焔聖に会う。そんな予感がしている」


 続ける。


「クララ。こんな事を言うのは心苦しいのだけれど、あなたが輝聖の味方として兵を率いる以上は、もう焔聖とは友達ではいられないかも知れない」


 マリアベルは覚えている。あのデュダの水路。割れた頭をそのままに星を仰いだ夜。クララに対して『焔聖に友達だと伝えてあげて』と言って、その気にさせた事を。


 状況が変わり、それを裏切る形になった。クララを部屋に呼び出す前から、その罪悪感はずっと胸でつかえていた。もしかしたら、クララも己と同じように、もう戻ることの出来ない日々、その影に苛まれるかも知れない。


 でも、クララにしかこの役目は果たせない。クララにしか任せられる人間がいなかった。輝聖を守るには、それが最良の選択だと、マリアベルは確信していた。だからこそ切なかった。


「私がその分、埋め合わせをする。私が友達ではいけない……?」


 マリアベルはクララの手を握る。その手は冷く、僅かに汗が滲んでいた。


「そっ、そんなことは……っ! いや、でも……」


 クララは少しばかり俯き、続ける。寝台の上の、焔聖の事を思い出しながら。


「私には、あの子がそんな残虐な人には見えなくて。まるで、別人の話をされているよう。仮に、それがあの子の物語なのだとしても、きっと話せば分かってくれる。たとえあの子が輝聖の事が嫌いでも、きっと話せば分かってくれる。そう思うのですが──」


「美しい容姿であろうと、普通に口が利けようと、心に訴える何かがあろうと、たとえ聖女であろうと、あれは一度壊れてしまった人間です」


 マリアベルはひたとクララを見る。


「あの子は炎」


「炎……?」


「内なる炎と同化して、辺りの全てを傷つけてしまう」


 クララはその力強い瞳を見て、何も言うことが出来なくなった。


「肌と一緒で、心も焼け爛れてしまったら、痕になってもう2度と元には戻らない。ふとした瞬間に、痛みが蘇り、それが炎となる。──あなたが思うほど、人間は簡単じゃない」


 □□


 クララは教会から出て、城の裏門に向かっていた。篝火の一つもない中庭を歩く。星空だけが辺りを照らしている。1人であった。


「……あ」


 木の影。闇の中、誰かいる。


「リアンさん……」


 星の光が、その黄金の髪と碧の瞳を影に浮かせた。


「クララさん。城を出るみたいだね」


「知っていたんですね」


「さっき、ロック卿から聞いた。城内が慌ただしく感じたから、尋ねたんだ」


 リアンは、クララとマリアベルが教会で話をしているのを窓から認めて、彼女が出てくるのを待っていた。少しだけでも話をしておきたかった。リアンにとっても、もうクララは知らぬ顔ではない。友人の1人でいるつもりだった。


 2人並んで、惜しむようにゆっくりと歩く。誰が言うわけでもなく、互いになんとなく、歩みを緩めていた。くさむら、しきりに秋虫が鳴いている。


 リアンはクララの表情をちらりと見やった。星明かりしかなくても、その物憂げな様は分かった。


「不安、だよね……」


「はい……」


「こんな事を言うのは少し無神経に感じるかも知れないけれど、あのマリアベル・デミに任せられたのだから、自信を持って良いと思うよ」


「──本当のことを言うと」


 クララは一度言葉を詰まらせて、改めて続ける。


「本当のことを言うと、聖女様のことが良く分からないんです。私、兵を率いて城を発てと言われた時、捨て駒にされたのだと思いました。初めは凄くショックで、それから、何と言えばいいか……、諦めのようなものが押し寄せました。でも、抱きしめられた時に、聖女様の体が震えていたのに気がついたんです。凄く、弱々しかった」


 リアンは黙って聞いている。


「聖女様は平然と嘘をつきます。目的の達成の為なら、平気で手を汚します。冷たい表情で人を見下す事だってある。でも、あの時の弱々しい聖女様は、そんなことをする人だとは思えないくらい、儚くて、消え入りそうで、私の事を1番に考えてくれているようだった。まごころを感じました。……本当の聖女様はどっちなんでしょう」


 信じて裏切られたら、怖い。その想いがクララにはあった。


「どう思いますか、リアンさん……」


「僕は、どっちも本当のマリアベル・デミなんだと思う」


 言われて、クララはリアンを見る。そこには僅かな笑みがあった。まるで、愛おしい人を語るような、仄かに薄桃に色づく、そんな笑みであった。


「目的の為なら手を汚す。本当は手は汚したくないけれど、汚さなくてはならない時が来てしまったら、迷わずそうする。人によってはそれが冷たく感じる事もある。でも本当は愛の深い18歳の少女。それだけですよ」


「……本当に冷たい時もあると思います。人をけなしたりとか」


「あはは。あれはただ性格が悪いだけです。僕もあそこまで性根が曲がった女性は他に知らない」


 リアンが笑うので、クララも釣られてくすりと笑った。


「僕は、聖女様はクララさんが事を成せると考えているのだと思うな。……それ、策か何かが書いてあるんでしょう?」


 手に持つ羊皮紙を指差す。クララは頷く。


「クララさんはハイドラを一撃で倒した。にえを使ったとはいえ、やっぱり魔法の核はクララさんの火の魔法。聖女様も、まさか一撃で殺してしまうとは思っていなかったんじゃないかな」


「そう、なんですか……?」


「少なくとも僕は後から聞いて驚いたかな。地下墓地ラナに向かう最中、君の使用人さんがクララさんの腕を自慢しているのが聞こえたけど、確かに自慢できる程の実力があるんだな、と思った。身内贔屓じゃなかったんだって、ハッとした」


 クララはアンナの無礼な様を思い出し、赤面した。


「聖女様も、クララさんにそれだけの可能性を秘めていると思ったんだよ。あの人、滅多に褒めないから、分かりにくいよね」


「な、なんか。むず痒くなって来ました。褒められ慣れてないので……」


「僕はね、勝率の問題でクララさんを選んだのだと思う。きっとあなたなら、兵に囲まれた時や咄嗟に攻撃を受けた時に、脱せられる能力があると思ったんだ。兵法は必要ない。経験が薄くても大丈夫。マリアベルの頭脳は、その羊皮紙にしたためてあるから」


 言って、リアンは口元に指を当て、うーんと小さく唸る。


「とは言え、それでも不安だよね。だって、これは僕の感想でしかないわけだから……」


「いや! そんな! 私は嬉しかったです。リアンさまからそう言うふうに思われてるってだけで、本当に嬉しい」


「マリアベル・デミがクララ・ドーソンを大切に思っている確かな証拠……、のようなものなら、幾つかあるよ。それで安心できるかどうかは分からないけれど」


「証拠?」


「まず一つはね、地下墓地ラナでの事。あの時、聖女マリアベルはあなた達を秤にかけて、光の聖女を見つけるつもりだった。そして、自分の為に殺してしまうつもりだった」


 クララは頷く。その件は鐘塔で聞いたし、それがあるからマリアベルを信じ切る事が出来ない。


「君が雄牛に弾き飛ばされて、廃屋を倒壊させた時。何とか瓦礫の中から抜け出そうとする君に、目に見えない雄牛が再び迫っていた。──その時、聖女様は身を投げ出してあなたを護ったんだよ」


 クララは目を見開く。知らなかった。その話は、聞いた事がない。


防御壁バリヤーを体に張るのも忘れて、ただ全力で走って、飛び込んだ。そして弾かれて、血まみれになって気絶した。マリアベル・デミが普通の人間だったら死んでいた。考えるよりも先に体が動いたんだろうね。それ程まで、彼女はあなたを助けたいと思ったんだ。変な話でしょう? 自分が狙って起こした惨事なのにね」


 そしてリアンはクララのつけている象牙の腕輪バングルを指差す。


「それから。その腕輪、お母さんの形見なんですよ」


「ええっ⁉︎」


 クララは声を裏返して驚いた。目が更にまんまるになって、一気に汗が噴き出た。


「それはダメです‼︎ お、重すぎます!」


「僕にダメですと言われても……」


「いやいや! ダメですよ!」


「そうかなあ……」


「そそそそっ、そんな大切なものをどうして⁉︎ な、何も言ってなかったですよ⁉︎ さらりと、みたいな感じで腕につけてくれて……。ええっ⁉︎」


 腕輪は星明かりを映して、神秘的に輝いている。形見だと聞いたからか、それは強烈な気を放っているようにも見えて、クララをさらに焦らせた。こんな綺麗な腕輪、しかも亡くなったお母さんのだなんて、どうしよう。


 傷などつけてしまったら大変だ。例えば、鎧を脱ぐ時に金属で擦ってしまったりしたら──。ザリッと音が鳴って──。


「絶対ダメッ‼︎」


 背後から覆い被さるような悪寒が襲って、ぞわぞわっと鳥肌が立った。そして居ても立っても居られなくなり、踵を返す。


「か、返してきますッ‼︎ まだ教会にいると思うのでッ‼︎」


「まあまあ。貰っておこうよ」


 リアンはその腕を掴んで止めた。


「どうして彼女が身を投げ出してクララさんを守ったり、形見の腕輪を与えるような事をするのか、分かる?」


「いやいやいや、分からないですよっ。どうしてこんな乳臭い小娘に、聖女様が……っ!」


「それはね、多分なんだけど、マリアベル・デミはクララ・ドーソンに自分を重ねてしまっているからだと思うんだ」


「わ、私に……⁉︎」


 腕を引っ張られ、『行こう』とリアンに促される。それで、クララは再び裏門に向けて歩き出した。そわそわしながらも。


「前にも話したかな。聖女様はクララさんと境遇が似ている」


「私と同じで、没落貴族だったって……」


「もし、マリアベル・デミが聖女ではなかったら。どこにでもいる、聖女に憧れる乙女の1人であったなら……。きっとクララ・ドーソンのような子だったのだろうと、そう思っているんです。彼女」


 それを聞いて、クララは黙った。それで腕輪を見た。戦支度と聖盟の儀礼イニシエーションを思い出して、胸がギュッとした。


 マリアベルは聖女。聖女とはいえ、己とそこまで年齢は変わらない。だから、その本質は、運命に翻弄される乙女である。


 そんな娘が、他人に自分を重ねて、戦支度や儀礼を行った。出来る精一杯をやって送り出したかったのだろうと、思った。それが今になって、少しだけ理解できた。理解できたが、やっぱりそれは切なかった。涙が滲み出た。


「その書簡は、読んだかな」


「いや、まだ……」


「ならば、そこに書いてある事を信じてください。そして、決して、策を誤ることのないように。これは海聖が書いた筋書きシナリオ。言わば、クララ・ドーソンの原典。そう思う気持ちで、頑張ってください。そうすれば、絶対に上手くいく」


 クララは心の中で、唱えた。──私の原典。


「少し、不安は取れた?」


「はい。少しまだ怖いけれど。お話できて、良かったです」


 リアンは笑んで、言う。


「もし、聖女様がクララさんの事を、本当にただの捨て駒としてしか見ていなかったら。その時は僕が懲らしめるから、安心して」


「懲らしめる? どんなやり方で?」


「──彼女を撃ち殺す」


 クララは冗談なのか本気なのか分からず、瞬いた。


「狙いを外さず額を撃つ。魔弾で聖女の脳漿のうしょうを散らし、その顔を踏みしだく。中身と砂とを混ぜてやるんだ。そしたら、クララさんは黄泉よみで聖女の顔を思いっきり引っ叩いてやってください。それはもう、顎が砕けるくらいに」


「じょ、冗談ですよね?」


 リアンは問いには答えず、正面をじっと見た。


「……ん? 誰かいるね」


 裏門へ続く下り坂に差し掛かった所、その木々の陰、1人の騎士が立っている。その騎士はクララの事を認めると、何も言うでもなくクララに近寄った。そしてポンポンと2度、軽く肩を叩いてから、その後ろを歩いた。浮かない表情だった。


「どうしたのでしょう?」


「見送りかな?」


 妙な事に、裏門に近づく度に、騎士はぽつぽつと増えた。みな、何を言うわけでもなく、似たような表情で、ひっそりと後をついていく。リアンが見送りだろうと言うので特に彼らに尋ねはしなかったが、クララは疑問に思い続けながら坂を下った。


 そして、坂を降りて門扉の前。ロック卿が立っていた。愛馬ソロモンも隣に立つ。


「……なんだ、貴殿ら。ふなの糞の如く小娘の後をついて回って」


 騎士達はみな互いの顔を見て、それで、少し俯いた。


「まあ良い。クララ・ドーソン、行くのか」


「はい。もう発てと、マリアンヌに……」


「儂は詫びに来た。領軍が不甲斐ないばかりに、お主のような未来のある若者を死地に向かわせるなど……。武人の名折れじゃ。儂の代わりに、ソロモンを連れて行ってくれ。これは人間を8人も蹴り殺した益荒男ますらお。必ず貴殿を守ってくれよう」


 芦毛の馬ソロモンはクララに近寄り、顔を体に擦り付けた。クララはその頬を撫でてやる。


「本来であれば儂が行くべきところであった。だからソロモン。お前が盾となってを守れ。主人が死してお前だけが帰る事は許さぬ」


 ソロモンは『そんなことは分かっている』とでも言うように、尻尾をぶんと振った。


「外には兵らが待っている。遊撃戦の心得のある手練れを選んだつもりではあるが、我が軍はいささか──」


「クララッ!」


 甲高い声がして、クララはその方に振り向く。提燈ランタンを持ったパトリシアが坂から駆け降りて来ていた。そして騎士達を押し退けながら、クララに寄って、抱きつく。


「書記官から詳しく聞いたわ。危険な戦場に行くのね」


「すみません、お嬢様。ご挨拶も無しに行こうとして……。でも、必ず戻ってくるつもりです。ソロモンと一緒に。そしたら、また、お茶会をしましょう」


 パトリシアはクララから離れ、周りの騎士達を見まわした。ぽろぽろと目から涙が溢れ、顔は赤く染まり、眉間には皺が寄っていた。


「あなた達は最低よッ! 何が騎士よ、クララに危険な役目を押し付けて! 心細いに決まってるわ! 悲しいに決まってるわ! あなた達は、彼女を行かせてしまう事に何も思わないの⁉︎」


 騎士達は皆、肩を落として項垂れた。軍議でクララが行く事に賛成をしたが、それが終わって1人でその事を考えると、虚しく感じた。だから皆、示し合わせた訳でもないのに、クララの見送りに現れた。パトリシアの物言いは、耳に痛かった。


「私、ピピン公爵領軍は剛毅の益荒男だって聞いたわ……ッ! 他領の軍や冒険者達からは『白牛』と謳われて、尊敬されてたって聞いたッ! これが、そうなの⁉︎ 女の子に戦を押し付けるあなた達が⁉︎ なんて情けない……ッ。私、恥ずかしくて……」


 言い切る前に、パトリシアはわあわあと泣き出してしまった。ロック卿がパトリシアを連れて行こうと肩に手をやると、触らないで、と怒鳴って手を払い除けた。騎士達は静かに佇む。


 星の下、泣き声だけがある。皆、長い時間に感じていた。誰も語り出す者はいなかった。


 少し経ったろうか、ソロモンが顔を上げ、耳をパタパタと動かした。それから、何人かの騎士も顔を上げる。何処からか声が聞こえた気がした。パトリシアの声が城の壁に跳ね返るのではない。確かな、大勢の声であった。それは徐々に近づいて来て、何を言っているのかが浮き彫りになる。『公爵を出せ』と合唱している。


 城の正面の方も赤く明るんで来た。夜明けにはまだ遠いはずなのに。


 ロック卿が神妙な顔で、呟く。


「民が松明を手に集まっているな。城への不信感が高まったのだろう。この情勢では無理もない。……民は公爵の威光を求めている」


 騎士達はまさか蜂起か、と各々焦る。


「……私、言うわ」


 パトリシアが小さく言う。目からはまだ、涙が流れていた。


「全部、民に言うわ。お父様はもう死んでしまった事も、領を守るために剣を取るべきだって事も、世界のために立ち上がる時が来たって事も。──そして、私も戦に出る。ヒンデマン家の人間として、軍を率いて簒奪者さんだつしゃを討つ」

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