17.地下墓地
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第二聖女隊が地下墓地ラナへ向かう
暗い石の部屋にいるのは、1人だけではない。王都へと移送される最中に、エリカ・フォルダンを人質に逃げ出そうとした暗殺者ズィーマン・ラットンもまた、そこにいる。互いに正教軍に引き渡される人物として、
長い沈黙を破ったのは、ズィーマンの方であった。枯れて消えいるような声で、問う。
「大白亜は正教軍に占拠されたのか?」
ターナーは、今、正教会内で何か良からぬ事が起きていると推測しているが、実際にはどのような状況なのかは分からない。だから、物知り気なこの男から少しでも情報を仕入れるために、話を合わせてみることにした。
「……良く分かったな」
そう言うと、ズィーマンは小さく肩を揺らしてくつくつと笑う。そして、感慨深そうに頷き始める。
「何となくな。勘だよ。そうか。ついにやったか、そうか……」
この男は、本部教庁に深い繋がりがある人物を葬ろうとした。
信仰を広める主たる組織であり、正教会の中枢を担う本部教庁と、正教会の持つ軍事組織である正教軍は軋轢が激しい。正教軍大総帥ヴィルヘルム・マーシャルが本部教庁のクリストフ5世を追いやり、教皇と名乗った事でそれは決定的となった。
これらを前提とした上で、ズィーマンの意味ありげな態度を見ても、やはり彼は軍部と深い関わりがあるのだろう。
「正教軍はどういう考えでクリストフ5世を追いやった……? 大層な
「決まっているだろう。腑抜けた正教会を変え、この世を正すのだ」
ズィーマンはニヤリと笑って、続ける。
「正教会が全世界を統一する役目を負わねば、滅びゆく世界を変えることは出来ない」
瘴気で狭まる世界に、5つの王国だけが残った。
まず一つは正教会が生まれた、この国『神聖カレドニア王国』。今では一番の大国である。次に隣国『アングリア王国』。『グリフィズ王国』。これらは瘴気で小国になりつつある。領主同士で分裂間近の『ロングランド諸侯地方』。もはや瘴気により虫の息の『ナヴァラ朝カタロニア』とがある。
ターナーは少し考えて、小さく溜息を漏らした。
(……成程。水の聖女が光の聖女を討とうとするのを許可したのにも、納得がいく)
全ての国が信じるのは正教会。神は同じくして、女神リュカである。
確かに、神に選ばれた聖女達を従え、我こそが世界を救世する者だと権力を振り
「ヴィルヘルム・マーシャルは王になりたいのか」
果たして
水の聖女は聖女達の中から
「王……? ヴィルヘルム・マーシャルはそんな所に落ち着くお方ではない」
「では何を目指す?」
「
ターナーは耳を疑った。
「何一つとして人を救いはしない神を消し去り、真に人を救う神となるのだ」
神になろうとしている? 今この男は、そう言ったのか?
「人は神になどなれない。人が神として立てば、それは
ターナーがそう言うと、ズィーマンはこう返した。
「何を言っている? 4人の聖女がいるではないか。もはやヴィルヘルムは神の資格を得ている」
──しまった。
ヴィルヘルムを神とする根拠に、4人の聖女がいる。聖女を作ったのは彼だと言うならば、それは嘘だとも言い切れない。
彼女達は全員、ヴィルヘルムに選ばれた。教育を施したのも彼であると言える。聖隷カタリナ学園は正教軍が作ったものであり、学長の名はヴィルヘルム・マーシャルとなっているからだ。
聖女は神により選ばれ、その力を与えられると『原典』にある。即ち、4人の聖女はヴィルヘルムを神とするための根拠として存在している。
もしヴィルヘルムが神リュカより威光を賜ったと宣言し、正教会が新たなる神として認めれば、どうなるか。
「クリストフ5世の
ズィーマンは続ける。
「ヴィルヘルム・マーシャルは神としてこの世界を征服し、瘴気と戦う。これは何年も前から準備してきた事なのだ。誰であろうと、もはや流れを変えることは出来ないんだよ」
神が生んだ救いの聖女を己の為に利用するなどと、神に対する冒涜の極みである。その上で神そのものを踏み躙り、自分は神に成り替わろうとしている。
──光の聖女を。光の聖女を殺してはいけない。
神が生んだ最大の希望、光の聖女を失えば、世界は瘴気に満ちる。
原典には光の聖女が聖女達を率いて、平和を成すとある。原典とは神が記した人類のシナリオ。そこから外れてはならない。それが神の教えだ。道を逸れては、滅ぶと言っているのだ。
『神殺し』が神を殺し、頂点に立つなどあってはならないのだ。
□□
その一方で聖女マリアベル・デミとリアンは、正教軍、プライズ辺境伯軍を連れ、子供達の待つ街の広場へと向かっていた。プライズ辺境伯軍にはエリカ・フォルダン、ミッシェル・マクロランなどの精鋭が集っている。
辺境伯は別に隊を指揮することとなった。聖女らが地下墓地に入り次第、ウィンフィールドの街全体を警護する隊を率いる。
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マリアベル・デミは道中、妙な感覚に襲われた。
足が重いのだ。まるで膝上まで泥のある、深い沼地を歩いているようだった。いや、それだけではない。時折、足首を直接掴まれているような気配さえ感じた。下を見れば、骸骨の手や、毛むくじゃらの獣の手が、足首から
恐ろしくなり、つい、足を止めた。顔は青ざめ、汗は冷えていた。
マリアベルが立ち止まると、リアンも、追従している兵達も足を止めた。そして、一様にマリアベルを見た。マリアベルには彼らの瞳が、限りなく漆黒に近い
「……どうされましたか」
リアンは、ここで考え直せと言わんばかりに、問うた。
マリアベルは目を閉じ、纏う小蠅を振り払うようにして首を振った。
──ここで立ち止まれば、光の聖女が生まれてしまう。光の聖女が世間に認知されれば、水の聖女の価値は大きく下がる。自分の力は、自分で保たねばならない。誰も自分を守ってはくれない。
大丈夫。神は私の味方だ。見捨てるはずがない。
マリアベルは、拳を握り、強く一歩を踏み出した。その足に、泥を纏わせたままに。
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広場には多くの子ども達が集まっていた。特に乙女達は数十人と集まり、みな伝統的な白いワンピースを纏い、頭には花冠をあしらい、化粧を施していた。
腰には3つの巾着袋をつけ、一つは山羊のチーズ、もう一つは山菜、最後の一つには貝殻が入っていた。これは
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聖女マリアベルが到着すると、巡礼の祭典が行われた。祭典は、穢れを祓う際に行う祈祷に準ずるものだった。
聖女が
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隊に子供達が加わり、地下墓地へと向かう。
マリアベルは乙女達に囲まれながら、歩みを進める。
「私、こうして聖女様と共に歩く事ができて、それだけじゃなくてお話までする事ができて、何と表現していいか分かりません。何だか、夢みたいで、ふわふわしています」
クララは、アルトバーグ伯爵の子である。緑豊かな領は瘴気に飲まれ、既に消滅した。
彼女の家族は命からがら逃げ出したが、領を満たした毒のせいで、父母は大病を患った。このプライズ辺境伯領に逃げ込んでからは、父母を看病しながら自らも働いた。やがて父母は娘の顔さえわからなくなり、自らの糞尿で遊ぶようになって、喉を掻きむしって死んだ。
仕事は辺境伯が紹介してくれた、職人の手伝いをした。石材を加工し、小さな像を作る仕事であったが、働いた事などないクララにとっては慣れぬ作業で大変だった。手は乾燥してひび割れ、血が滲んだ。周りは親切な者ばかりで恵まれていたとは思えど、それでも父母を看病しながら慣れない作業をするのは辛かった。日々、神はどうして私を見捨てたのだろうと嘆いていた。
それでもクララが人生を諦めずにいたのは、聖女の存在があったからだった。自分とはそう変わらない歳の娘が、世界を救おうと
「故郷も失って、お父様とお母様も死んでしまった私にとって、聖女様は本当に救いの人だから。私には聖女様しかいなかったから……。その、嬉しくて……」
マリアベルは優しく微笑む。クララのはにかむ表情が、どこか愛おしくも思えた。そして、彼女の荒れた手を見て、自分との共通点を見出してしまった。
この子は、一緒なのだ。聖女になる前、サウスダナン領を追われたばかりの自分だ。
「クララ様は、聖女様のお力になりたいと魔法も勉強しておいでです。それはもう評判で、もしかしたら聖女様以上の働きをなさるかも」
「や、やめてよアンナ! なんてことを言うの!」
クララの隣にいる、ドーソン家に仕えていた40半ばの女性アンナ・テレジンは、焦るクララを無視して、胸を張って自慢げにこう説明した。
クララは仕事熱心で周囲にも頼られるようになってきたし、仕事に慣れてきたら自分の時間を作れて、魔法の研究に時間を割いた。一節に3度ほどの
「きっと聖女様のお役に立つはずですから、お側に置いてやってくださいまし。損はなさいませんわ」
「アンナ! いくらなんでも失礼でしょう! ご、ごめんなさい! 私のことになると、いっつもこうで!」
マリアベルは困ったように笑い、"気にしないで"と首を横に振った。そして、こう思った。きっとクララ・ドーソンにとってアンナという女性は、マリアベル・デミにとっての"女中エスメラルダ"のような存在なのだろうと。
「私はクララ様の為ならば、多少の失礼など苦にも思いません」
「苦に思うのは失礼をされた
口喧嘩を始める2人を見て、マリアベルは急に胸が苦しくなった。
クララの真っ直ぐな目。張りのある声。可愛げのある仕草。全てに、人を惹きつけるものがあった。それらは、マリアベルにとってあまりにも眩しかった。
きっと、この子は光の聖女だろう。
なぜだろうか。心臓を直接握られたように、胸が痛む。
「聖女様? 気分を害されましたか……?」
クララは心配そうにマリアベルを覗き込んだ。
「いいえ。なんだか、懐かしい気持ちになって」
それを聞いて、クララはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。嫌われちゃったらどうしようかと」
マリアベルは、逃げるようにして歩みを早めた。この子と一緒にいると、自分が危うくなる。自分が、自分でなくなってしまうような気がする。
だが、どうしても考えてしまう。
──もしも己が領を追われた時に、既に世界に聖女が存在していたならば、この子のように健気でいられたのだろうか。
□□
街から続く長い石畳の坂道を登ると、急に道が無くなり、森に入る。この森は『大きなシュバルツバルト』と呼ばれ、地元の人間も寄りつかない。木々が生い茂り、昼なお暗い禁忌の地である。
プライズ辺境伯領の民達の間では、"入ってはいけない"と言い伝えられており、入って探検しようとすると竜が来て頭を齧られるという歌まである。とにかく、人の寄りつかない聖地だ。
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森をしばらく進むと、木々の間に縄が張り巡らされた箇所に差しかかる。縄にはたくさんの鈴と、木の板が吊り下がっており、音が鳴るようになっている。これ以上入るな、と警戒しているのだ。
さらにこれを無視して進んでいくと、動物達の痕跡も無くなってくる。動物も魔物も寄り付かない、妙に静かで暗く、気味の悪い森へと変貌していく。これには、地下墓地ラナにかけられた封印の術が影響している。
人間にもその効果は現れる。敏感な人は『何か気分が悪い』『船酔いするようだ』といって嫌がる。
「なんだかちょっと怖いですねぇ、クララ様」
アンナは、女性にしては大きめの体をクララに引っ付けて進む。
「大丈夫。聖女様が守ってくださるわ」
クララも少し怖いと感じていたが、前を進む聖女の髪が風に揺れて煌めくのを見て、木の根を踏み越えてゆく。
男子の1人が、方位磁針をその場に捨てた。狂って回りだしたので、壊れたと思ったのだ。
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突如、森が途切れて、芝の原が広がる。
がらんとした原の中央に、異様に巨大な
その唸るような木の幹根に開いた大穴が、地下墓地へと続く唯一の道である。
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大穴から、苔むした石の階段を降りる。滑りやすいので気をつけるよう、子供達は互いに注意しあっている。階段は螺旋状になっていて、長く続いていた。
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階段が終わった先は、どこまでも暗闇であった。
マリアベルが小さく息を吸い込み、呪文を言いながら手を暗闇に翳すと、あたりに光が満ちた。大小様々な光の玉が、螢火のように現れたのだ。
「凄い……。これが聖地……」
クララは目を輝かせて立ち尽くした。いや、クララだけではない。アンナも、何人かの付き添いの大人達も、子供達も、辺境伯軍も、正教軍も、リアンも、エリカも、みな驚いた。そこには、かつてのウィンフィールドの街が、殆どそのまま残っているのだった。
大通りにはいくつかの馬車があって、荷が積まれたままである。店の形もそのままだ。通りに仕立て屋があって、床屋があって、バーがあって、抜歯屋があって、少し離れた場所に酒蔵がある。傾いた時計塔が示すのは15時52分。封印されたその時刻である。そして、大小の木の根が無数に降りてきており、その街を侵蝕していた。
街のあちらこちらに、塔のような石柱が幾つも聳え立っていた。この街の天井を支えるものである。建築用に組み立てられた足場がそのまま残されていたので、これは封印がなされた後で作られたものなのだと、見る人なら分かった。
一行はゆっくりと大通りを進み、街の中央広場に辿り着いた。噴水の中央に美しい装飾を施された椅子があり、そこに首のない女性のミイラが腰掛けている。首は、その亡骸の
何百年と経つのに、服は残っている。白く、薄い生地だ。頭の花冠も枯れてはいるものの、残っている。
ミイラの足元に、石板がある。これは墓標であった。名は『ラナ』。姓はなく、奴隷の身分であった。
□□
マリアベルは亡骸に対して祈りの言葉を3つ捧げ、後ろで待つ皆を向き、言う。
「それでは今より封印を解き、『風を食む雄牛』を討伐します」
子供達はざわざわと湧き立ったが、兵達には緊張が走った。
リアンは全ての意識を、子供達に向けた。もし魔物が封印から解かれ、乙女達の中で光の聖女の力を覚醒させる者がいたならば、急ぎこの場から脱出しよう。それを成功させるためには、マリアベルよりも早く、光の聖女が誰であるかを見定めなくてはならない。この計画を知っている、自分だけが
エリカは腰に携えた
□□
マリアベルは
これで封印の
マリアベルは荊棘槌を手に、背後の子供達をチラリと見た。みな、どんな事が起きるのかとソワソワしながら待っている。興奮6割、緊張4割の空気が、時の止まった
次いで、子供達の中の、黄金の髪の少女クララを見た。隣にいるアンナの手を握り、他の子供と同じように目を輝かせている。その憧れに潤う瞳が、自分を捉えて離さない。
マリアベルはふと、自分の足元に目をやった。足首から
(──私は間違ってない)
マリアベルは荊棘槌を強く握りなおした。そして、あの美しい千の丘と遥かなる青い地平線、爽やかな潮風と、愛する父の眼差しを強くイメージした。まるで、己の迷いを振り払うようにして、望郷に努めた。
自分の為に他人を犠牲にしなくては、報われない世界ならば。つまり報われる為には、自分の為に他人を犠牲にしなくてはならないのだ。どんなにそれが軽蔑されることであっても、どんなにそれが人の道に外れることであっても。
(──私は間違ってないッ‼︎)
マリアベルは勢いよく、少女のミイラの頭に向かって、槌を振り下ろした。
□□
ミイラの頭部にヒビが入り、中から赤い光が漏れた。1秒、2秒と経って、頭部はほろほろと崩れていき、体は糸が切れたようにして、どさりと横に倒れた。
その時、風のない街に風が吹いた。天から垂れる木の根の内、細く長いものがさわさわと揺れた。
兵士達は集中している。果たして、どんなものが飛び出してくるのか。自分達は、どう動けば良いのか。トラブルが起きたら、どう聖女をサポートしたら良いのか。
リアンは少女達に目をやる。光の聖女は、誰だ。
エリカはマリアベルを見て、考えていた。なぜ、この聖女は封印を解いたのにも関わらず、戦う態勢に移ろうとしないのか。手をだらりと下げ、何か陣を描こうとすることもなく、魔道具の類を出すこともなく、占術の時に見せた石の剣を持つことさえしない。
(もう倒したの……? いや、違う……。まさか──)
──倒す気がないのでは。
隣に立つミッシェルに対して、その疑問を口にしようとした時だった。
少女のミイラを中心に、あり得ないほどの突風が吹いて広がった。例えば見えない巨大な腕で殴られたような、そんな突風だった。音もゴオというでもなく、ビュウというでもなく、パンという弾ける音がした。
子供達は悲鳴をあげた。そのうちの半数以上が体を浮かせて、転がり倒れた。同様に、何人かの兵がバランスを崩して倒れる。塵や埃や砂が体にあたり、痛い。遠くからガラガラと音がして、建物が崩れた。
垂れる木の根を掴み、体を支えながら、エリカは思った。
(封が解かれた……‼︎)
だが、『風を食む雄牛』の姿はまるで見えない。
次いで、もう一度同じような強い風が吹いた。油断していた軍人たちの武器や盾は、吹き飛ばされた。リアンが腰に携えていた剣も、ものの見事に吹き飛ばされた。ミッシェルは剣の柄を触ってはいたが、それでも吹き飛ばされた。不思議なものである。武器を持つ者が、総じて一瞬のうちに丸腰になったのだ。
──600年前に一度負けた雄牛は、覚えていた。
人間は厄介だ。動物の中で最も厄介だ。だが武器さえなければ、さしたる脅威でもない事を、覚えていた。
エリカは吹き荒ぶ風の中、ゆっくりと立ち上がる。その手には剣がある。エリカだけは、剣を離さなかった。キャロルから貰っていたお守りの紐を、縁起物として柄に巻きつけており、それを自分の手首にかけていたのだ。
子供達の悲鳴が飛び交う中、エリカは意識を集中させた。目を凝らす。耳を澄ます。
(どこだ。どこにいる)
気配がして、エリカは天井を見上げる。無数に垂れる木の根が、弾かれたように揺れている。それが、ぐるぐると旋回しているように見える。細い根は千切れ、ボタボタと地に落ちていく。
(確かに、いる! 目に見えないだけで、いる‼︎)
(これが風を食む雄牛だ……‼︎)
この場にいる兵の中で、エリカだけが唯一その
そして、マリアベルを見る。彼女は戦う気か、そうではないのか。戦う気があるなら、連携して攻撃を仕掛ける。上手く合わせて見せるし、その自信はある。だが、そうでないなら。
(そうでないなら、どうしたらいい……⁉︎)
マリアベルが見ているのは、子供達だった。
子供達は慌てて、怯えている。腰が抜けて立てず、飛ばされないように地面を掻いている。親や友達が作ってくれた乙女達の花冠は飛ばされ、編んでくれた髪も解けてしまった。中にはどうしたらいいか分からず、ただうずくまる者もいる。聖女を信じて、祈って待っている者もいる。
マリアベルはそれをただ、冷たい瞳で、何かを見定めるようにして眺めている。エリカには、そのように見えた。
□□
雄牛は旋回しながら600年前を思い出していた。
あの敗北を喫した日、油断した。ただの少女を、武器とも思わなかったからだ。少女によって、己は封印されてしまった。少女は武器になり得る。だから、少女は危険だ。真っ先に処理しなくてはならない。あの時、生贄に使われた少女は驚くほどに美しかった。だから、美しい少女から殺すべきだ。
雄牛は困惑する乙女達の中で、1人の少女に目をつけた。ただ顔の前で手を握って祈り、涙を我慢しながら目を瞑る、黄金の髪の少女、クララ・ドーソンである。
雄牛は急降下し、見えない体を地にぶつけて、地を抉りながらクララに突進した。当然、クララは気が付かない。
クララは全く防御することなく弾き飛ばされ、高速で回転しながら宿屋に衝突した。宿屋の廃墟は土煙を上げながら崩壊した。
隣でクララの肩を支えながら恐怖で泣いていたアンナも弾かれてしまった。だが、直撃はしていない。すぐに立ち上がる。
「クララ様が……‼︎」
愛する主人が、ひとりでに吹き飛んだ。華奢な体が建物にぶつかり、それが崩壊している。それを理解した瞬間、ゾッとして、全身の毛穴が閉まるようにアンナの筋肉が硬直した。
「だ、誰かーーーっ‼︎ クララ様がーーー‼︎」
アンナはクララに近寄ろうとするが、近くにいたリアンがそれを抱きついて止めた。
「今動くと危ない‼︎ 屈んで下さい‼︎」
「クララ様‼︎ クララ様ーー‼︎」
アンナはそれでもクララの元に向かおうとする。
クララは腰から下を瓦礫に埋めて、倒れている。頭からは血が流れ出ている。奇跡的に意識はあるようで、何とか瓦礫から出ようとするも、力が入らない。潰れた虫のように、カサカサと腕を動かすだけである。
だが、涙は流さない。声も上げない。助けも呼ばない。聖女を信じて、聖女の足手纏いにならないように、とにかく自分の力で危機を脱しようとしている。
マリアベルはその様子を見て、顔面蒼白になっていた。手も足も震え、目はおよぎ、息は荒い。今、マリアベルの中にあるのは、大きな疑問だ。
──何故、クララの力が発動しない? 聖女の力を覚醒しない?
マリアベルが感じるに、クララの魔力は徐々に薄まっている。戦おうとする気がまるでない。恐怖で震えている。逃げようとするばかりである。
火の聖女も、風の聖女も、大地の聖女も、己も、そしてあのリトル・キャロルでさえも、聖女候補達は窮地に立たされた時に、急激に血が熱を帯び、魔力を何倍にも高めた。それは空気を伝って、離れていてもヒリヒリと肌で感じることが出来た。生きようとするエネルギーが波動となって、周りの人間にも力を与えた。
だが、クララ・ドーソンは違う。聖女たちに漏れなく感じることが出来た、野生的な力強さのようなものが一切ない。
いや、クララだけではない。この場にいる誰からも、その命の昂りとも言える鼓動を感じることが出来ない。
それは、この場に聖女たる人間が存在していないことを意味していた。
──では、この惨状は何のために引き起こされたのか?
何のために、健気なクララ・ドーソンは傷ついている? 何のために、ただ穏やかに暮らしていた子供達が怯えなければならない?
みな、死ぬ。間違いなく子供達は足手纏いになり、兵士の守る余裕がなくなって死ぬ。すると、この子達の親は泣くだろうか? 彼女たち、彼らに、死ななければならない罪はあったか?
──私は何がしたかった?
父の涙が脳裏をよぎり、泣き叫ぶアンナの顔がエスメラルダに見えた、その時、マリアベルは飛び出した。足に絡む
その瞬間、雄牛がマリアベルに激突する。防御体勢を取れていないマリアベルは直撃を喰らい、鉄砲玉のような速さで弾かれて、石柱に衝突した。ボールのように跳ね返り、次いで2回石柱に衝突したあと、離れた時計塔に激突し、それを崩壊させながら地に落ちた。
腐った鐘の音が地下に鳴り響く。遅れて、少量の血の雨が降った。
「聖女様……⁉︎」
リアンは走り、倒れたマリアベルに近寄った。
マリアベルの体はいびつに曲がり、血溜まりがサラサラと早いスピードで広がっていった。血は波立ち、彼女の体を修復しようとしているが、肝心のマリアベルは頭を強く打ち気絶している。目を力無く開いたまま、一定の間隔でごぽごぽと口から黒い血を吹き出している。
「あなたが今ここで気を失って、どうするのですか‼︎」
揺らし、頬を叩く。だが、まるで返事がない。
「……!」
マリアベルは涙を流していた。だがそれは今、流しているのではない。クララ・ドーソンの前に身を投げ出そうと馳けた時、涙を流しながら、そうしたものだった。
リアンは固まった。一瞬、考えてしまったのだ。この悪女は、何を思って泣いたのか。
「こちらへ! 早く!」
子供達を誘導するエリカの声を聞き、リアンは我に返って顔を上げた。聖女が気を失った今、ここにいる兵士達で雄牛を何とかしなければならない。固まっている場合ではない。
だが、自分には武器がない。吹き飛ばされた。どうする。
ふと、マリアベルの腰にある石剣に気がつく。この伝説の武器は、どうやら吹き飛ばされることがなかったらしい。これならば、雄牛を斬る事が出来るかもしれない。
リアンは石剣をマリアベルの腰から外し、手に持つ。そして、剣を抜こうとするが──
「──抜けない!」
刃を包む布がまるで剣から離れない。マリアベルは簡単にスルスルと布を外していたのにも関わらずだ。では、何か留め具があるのか。確認してみても、それらしきものが見られない。ただ布を巻き付けてあるようにしか見えない。
「聖女じゃなくちゃ、抜けないのか……⁉︎」
その瞬間、リアンを女子と勘違いした雄牛が迫り、彼を弾き飛ばした。手から石剣が離れ、転がる。
リアンは地に叩きつけられ、二、三と跳ねて倒れた。体を強く打ったので、息が出来ない。が、何とか立ち上がる。
続けて、雄牛が攻撃を仕掛ける。リアンは風を切る音だけを頼りに、無理やりに転がって一撃を免れた。そして、2度続けて己に攻撃を仕掛けられたことが分かって、標的は自分に向いていると確信した。つまり、雄牛はクララ・ドーソンの次に美しい女子はリアンであると格付けしたのだ。
リアンは周りを見る。辺境伯軍のミッシェルとエリカが、子供達を避難させようとしている。だが、瓦礫が衝突してか血を流す子供や、落ちてきた巨大な根の下敷きになっている子供がいて、上手く行っていない。
「僕が引き付けている間に、早く‼︎」
エリカは叫ぶリアンを見た。──彼はボロボロではないか。
左腕は肘からあらぬ方向に曲がっていて、頭から血を流している。こんな状態で引き付け役など、全うできるはずがない。
そう思った時、パンという音が響いた。リアンの前方から地を抉り、瓦礫を巻き上げながら、空気が迫り来ている。雄牛だ。先の2発よりも、巻き上げる瓦礫の勢いが良い。直撃すれば、間違いなくリアンは死ぬ。
「来るッ‼︎ 前ッ‼︎」
エリカが叫ぶ。
だが、叫ぶより前に、リアンもその存在を認めていた。上手く避けるつもりでいるが、膝が笑って上手く力が入らない。
それで、リアンは覚悟を決めた。どうせ己は妾の子。城に戻ったとしても、歓迎されない材料だ。ならば、ここで少しでも多くの子供を助けるために、その身を犠牲にするのも悪くはない。
そう思って迫る空気を見据えた、その時であった。向かって来る見えない身体が、自分の左脇を勢いよく突き抜け、建物をいくつか薙ぎ倒したのだ。リアンの体には、雄牛の体は掠らなかった。
リアンは目を見開き、振り向いた。
『ブオオオオオオオオオ‼︎』
猛々しい鳴き声が響く。
瓦礫の上に、何かがいる。苦しんで、のたうち回っている。
全身を鈍い黒と緑を混ぜたような色に覆われた、半透明の、細長い、蛇のような、あるいは
リアンは一瞬、新しい魔物が出現したのかと思った。だが、すぐにそれを自分で否定する。間違いなく、自分のすぐ横を雄牛は駆け抜けたのだから、あの蛇のような魔物は『風を食む雄牛』の他ならない。
雄牛と名付けられてはいるが、それは600年ほど前に、この見えない魔物の猪突猛進な様を『雄牛』と例えただけで、まさにそのような姿だとは限らないのだ。
リアンは雄牛が抜けていった軌道に、ふわふわとした緑色の何かが舞っているのを見る。肩に乗ったそれを、つまむ。一瞬、なんなのかと考えたが、すぐに答えがわかった。以前、これを見たことがあるのだ。
城の中、しばらく使われていなかった古い食糧庫を整理しろと兄弟に言われた時。そこに放置されていたオレンジの箱を誤って倒してしまった。すると、緑とも黒とも言えないふわふわしたものが舞った。
これは、カビだ。
(雄牛はカビたのか……?)
雄牛はその長い体をジタバタとさせていたが、ようやく落ち着きを取り戻し敵を見据えた。敵とは、リアンではない。その後ろにいる者に目を向けている。
「キャロルさん……‼︎」
エリカが、叫んだ。リアンは振り向く。
そこにいたのは、紺の髪をした女だった。長い髪を風に躍らせ、掌を雄牛に向けている。鋭い目の金の色は、眼力だけで敵を喰らわんとするほど猛々しい。
「リトル・キャロル……?」
リアンは自分の知る、学園にいた頃と少し様子の違うリトル・キャロルに戸惑いながら見る。
キャロルは雄牛から目を離さず、言った。
「マリアベルを連れて、離れてくれ。少々派手にやる必要がありそうだ」
そしてタバコを吸おうと思ったが、風が強くて火を付けるのに苦労すると思い、やめた。
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