【アップ】男山教会2022年12月4日礼拝説教/讃美歌とMY NOTEもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2022年12月4日礼拝説教/讃美歌とMY NOTEもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=GspxFigUqPQ&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12778270749.html

(讃美歌や聖書の内容を閲覧できます)



前奏

招詞 イザヤ書63章15,16節

詩 編 歌 100番(1節)

開 会 祈祷

主 の 祈り

十戒・祈祷

子ども説教

子どもと親のカテキズム問12

「三位一体の神さまの働き」

こどもさんびか

きたりたまえわれらのしゅよ[改64(1節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 68番(1,2節)

聖書

ヨハネによる福音書1章1~5節(新P163)

箴言8章22~31節(旧P1001)

説 教

「言は神と共にあった

~神の知恵となられたキリスト」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 68番(3節)

使 徒 信条

感謝のささげもの・祈祷

頌 栄  539番

祝 祷

執り成しの祈祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌68番(歌詞付)54年版「父なるみ神に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=nthFXVycnzs


1

父なる御神に み栄えあれかし、

よろずを造りて 永久(ときわ)に統(す)べます

上なきみいつと またなきみ恵み、

かしこみたたえよ。

2

み神の独り子 我らの主イエスよ、

おかしし罪とが ことごと赦(ゆる)して、

み前にささぐる せつなる祈りを

うけいれたまえや。

3

慰めぬしなる 聖なるみたまよ、

誘うものより 我らを守りて、

たえざる悩みと つきせぬ憂いに

かたしめたまえや。


讃美歌539番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RLNZOZY75YY

THE ALFEE - 頌栄539番 (1993)

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=WGLmyfdrb3w

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2022年12月4日 礼拝説教 中心聖句


初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。

ヨハネによる福音書1章1節


わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

箴言8章24節


はじめに

主の到来を待ち望み、神の聖前に近づく礼拝を求め、神の言葉に聞く。

「言(ことば)は神と共にあった」との、「共に」とは、元は「前に」を強調する「真近に」を意味する。つまり、「言なるお方」は、神のそば近くにおられた、ということ。「言は肉となった。わたしたちはその栄光を見た。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」から、わたしたちは、「言なるお方」と人間の隔たりを知る。それは、遠くへだっているだけでなく、聖なる方が、罪をほかにしては、わたしたちと同じ人間としての性質、「肉」とならねばならかった、もうひとつの隔たりを含む。「共に」とは、「向かって」とも訳される。つまり、「言なるお方」は「神に向かう」ことのできる、唯一のお方。そこには何の障壁もない。ヨハネの手紙一でも、同様に、「命の言」について、「この命は現れました。御父と共に(真近に、向かって)あった」「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」(1章1,2,3節)。罪の世においていっしょにいることは何の交わりも保障しない。むしろ、関わらない方が身のためという傾向すらある。人が人に向かう言葉すら失っている。意思疎通のために与えられた言葉を正しく用いることができない。しかし、「言なるお方」と「神」の間には、完全な交わりがある。この交わりこそ、世から見て、愛と真実に満ちた交わり。

「父よ、今、御前(近く、そば)でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもと(近く、そば)で持っていたあの栄光を」(ヨハネ17章5節)と、十字架にかけられる日の直前、御子イエスは、「天を仰いで(目を天に上げて)」祈られた。「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのもの(近く、そば)であることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもと(近く、そば)から出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」(ヨハネ17章7,8節)。ここに、驚くべき、罪人と神との和解の道が明らかにされている。「彼ら」とは、御父が、「世から選び出してわたし(御子)に与えてくださった人々」であり、「わたし(御子)」が「御名を現した」人々。わたしたちのささげる祈り(礼拝・賛美・交わり)は、ただ、御子と御父の交わりと御子の謙遜と贖いにおいてのみ、神のそばに近づく道を与えられる(コリント二3章16~18節)。

箴言8章における「知恵」は、町の人々に向かって、自分自身を受け入れるように呼ぶ女性(人格ある者)としてたとえられている。この「知恵」は、「永遠の昔、わたしは祝別(任命)されていた。太初、大地に先立って」と言う。ここに、キリスト教会は、初期の頃から、「初めに言があった」と、世の人々に啓示されるお方、「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリント一1章30節)キリストを信じ、苦難の中で、主の言葉と知恵を証した(ルカ21章15節)。

おわりに

「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」(ヨハネ一1章3節)。わたしたちは、この永遠の神との交わりを、聖霊の恵みによって共にし、世のただ中で、まことに、神は、独り子の命を与えられたことを、証しする。



(Mynote)


二〇二二年一二月四日(日曜日)、今日も自宅礼拝を守らせて頂いた。この環境が与えられて居る事を神様に感謝する。

〈子供礼拝〉

『子供と親のカテキズム問一二』

「三位一体の神様の働き」

〈公同礼拝〉

『言は神と共にあった〜神の知恵となられたキリスト』

宮武牧師

【聖書】

『ヨハネによる福音書』(第一章一〜五節)

『箴言』(第八章二二〜三一節)

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。全てのものは、これによって出来た。」(『ヨハネによる福音書』(第一章一三節)

聖餐式をまた持つ事が出来、神様に心から感謝する。待降節とは人々が更に神様に近付き、その機会が人々に与えられる事を喜ぶ時期でもある。神様の言、神様が人々に与えられた言(言葉)により聖書が記され、人々は信仰を持つ事が出来、過去に起きた出来事を知り学ぶ事が出来、神様の事、イエスキリストの事を知る事が出来た。言葉は神様が人に与えられた大きな恵みに在り、信仰の基を築ける礎とも成る。

『箴言』に記されて居る「神様の傍らに初めから居た者(私)」とはイエス様の事。ヨハネもその言葉により聖書の言葉を記す事が出来た。その言葉は初めから神様と共にあった。

『ヨハネによる福音書』に在る「言葉」とはイエス様の事をそのまま表して居るとも取れる。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。全てのものは、これによって出来た」と言う内容には一つの展開が在る。言葉の事を先ず強調して居る。イエス様の御言葉に近付く為にも言葉が必要であり、その言葉を知る必要がある。詰り言葉とは、神様に近付く事を意味する。信仰に近付く事を意味する。「前に行く」と言うのは、神様に近付く事を意味するものだ。前の方が神様に近いのか?後ろに座る事は離れるのか?そうではない。何故なら全地に聖霊が働いて居るからである。神様が我々(人々)に臨んで居られる事を覚える上で、信仰に近付く事が先ず大事になる。

この言葉には命が宿って居る。言葉によって成らないものは一つも無かった。そしてこの命(言葉に宿る命)は人の光であった。光は闇の中に輝いて居る。そして、闇はこれ(光)に勝たなかった。

三位一体とは、初めから在ったものである。これを履き違え、曲解しては成らない(間違って覚えては成らない)。イエス様は、初めから神様と聖霊と共に存在して居た。新約聖書の時代に成って初めてイエス様が現れたのではない。イエス様は神様と聖霊と共に在る上で、人々の上に初めから存在して居たものである。天地創造の前から神様と聖霊とイエス様は既に存在して居た(三位一体である)。神様と聖霊とイエス様は同心一体である。この事を憶えなければ成らない。

電車の中に人が沢山乗って居る…これは交わりか?韓国で沢山の人々が亡くなった…これは交わりだったか?これ等は交わりとは言わない。群衆である。ただ共に居たと言う事。詰り神様と聖霊とイエス様が「共に居た」と言うだけでは完全ではない。大事なのは「愛による交わり」である。「共に居る」だけではない。これだけの理解なら、御子への理解が足りない。何故「三位一体なのか?」と言う事への理解が成らないのである。単純に共存して居ただけではない、愛による交わりに於いてそこに居たと言う事、この事への理解が最も大事に在る。

礼拝とは即ち、生ける神様との交わりを約束するものである。生ける神様との交わりを意味して居る。生ける聖霊との交わりを約束し意味して居る。

友達関係・結婚にしても「一緒に居る事」は中々難しい時がある。関わり合う事がとても注意深く、難しい事に成る事がある。言葉の取り方を間違えて曲解し、それにより他人を責めてしまう様に、人との交流に於いても曲解が芽生え、関係がギクシャクする事もある。だから人は言葉を引っ込め、その言葉を生む感情を引っ込め、無関心を装い、助け合いも最低限に抑えて必要以上にせず、愛が冷める時代を迎えた。

人は全て罪人に在る。詰りその「愛が冷める時代を迎える本質が在る・具えて居る者」と成る。これが人間と言う存在なのだ。だから人間には救いが必要である。その救いが神様とイエス様と聖霊に依る助けであり、詰り三位一体への理解とその三位一体を信じる事による信仰の受け入れである。クリスチャンはこの「三位一体」の事を大体聞いて居り、理解して居ると思って居る。しかし又この旧約・新約の当時では、この三位一体への理解がまた安定して居らず、譬えクリスチャンでも知らない・理解出来て居ない者も居た。新約時代では、イエス様が現れたのがつい最近の事であり、そのイエス様の事を「普通の大工の息子だ」と言う事への認識・理解が在ったからだ。その人間の常識と理解が、三位一体への認識・理解を得る事を邪魔して居た。イエス様はそれまで天から地上の人々を見下ろす立場に在った。しかし新約の時代になり、イエス様は神様(御父)に依り地上に降ろされ、地上から天を見上げる立場に立たれた。この事への理解が、人間の常識(人知)では理解出来ない。だから信仰がその点に於いて鈍り、イエス様を(宗教・信仰に於いて)たぶらかす者として糾弾し、十字架に掛けた。罪人である人間はその罪の基準により、救い主であるイエス様の存在を見抜く事が出来ず、その人間の罪の内に見定めて仕舞った。これが先ず人間の理解の限界に在る。だからこそ心の目を改めて開き、更に神様に、聖霊に、イエス様に、信仰に近付かねば成らない。その第一の方法が悔い改めである。信仰生活を送る為の努力に在る。栄光から栄光へと作り替えられて生く。これこそが、神様から愛の交わりを与えられた人間の大きな恵みに在りその機会が与えられた証明である。

「思慮の無い者よ、悟りを得よ。愚かな者よ、知恵を得よ。聞け、私は高貴な事を語り、我が唇は正しい事を語り出す。我が唇は真実を述べ、我が唇は悪しき事を憎む。我が口の言葉はみな正しい、その内に偽りと、邪は無い。これは皆、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。」(『箴言』第八章五〜九節)

我々も正しき信仰を持ち、神様の福音を宣べ伝える者と成れる(作り替えられる)様に。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=q0lc_w0zV-I&t=30s


「主にあって喜びなさい」THE DAILY with Arthur Hollands 2024/09/26

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=mo2ia_RkYC4


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)








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