第十二話「初陣は、はじめてだから初陣というに決まっているでしょ」
─────── お前の人生はどうしたいんだ?
昨夜、
ぼくの描く〝我思う故に、我ありの向こうに行きたい〟は、線路の先にあるものではなく、レールを走る上で必要な自分の律し方や生き方であって、どういう人生を形作りたいのかとは違う。
「そりゃ、就職活動すら……忘れる…………」
なりたい自分。その形すら考えていなかった事に酷く情けなくなってきて、ため息混じりの小声で現実を吐いた。
「
「あー、いえ」
少し暗い本棚と本棚の間、その奥から
「なるほど、就活かあ」
「忘れていたなんて、馬鹿でしょ?」
「湖径くんは、急に忙しくなったからね」
微笑み目を閉じて、同情をしてくれるのは大人の優しさ(人妻としての包容力)なのか、それとも第三の選択戦線に理解を示しているのか。その閉じられた瞼、長く伸びる綺麗なまつ毛、本に値段のシールを貼る機械〝ハンドラベラー〟を使い、ノールックで誤差なく、同じ位置に次から次へとラベルを貼っていく、びっくりテクニシャン。本に値札シールを貼る以外には、まったく役に立つ使い道が思い付かない技能だけど……やはり、そのテクニックは人妻として、夜に培われたものなんだろうな。空さん、ずるい。ずるいナリ!
「あれ? 今の本……」
「ん?」
古書店には似つかない本。手に取った小説には【ヲトブソラ】という著者名が記されていた。その本は雨美ちゃんも読んでいた『少女騎士団』と同じ作者の『このクソ素晴らしき世界。』だ。
「この著者の本をよく売りに来る方がいて、つい買い取っちゃった」
「んー……でも、古書では無いですから」
小さく舌を出して「ごめん」と謝る詩羽さんの、女性としての可愛らしさと人妻としての魅力が同居するのも、ずるい。つまり、この表情をいつも隣で見ている空さんも、ずるい。ずるいナリ! 手に持った小説『このクソ素晴らしき世界。』は、確か人生や自身の在り方に焦点を当てた物語だった。高校生の女の子が同性に恋をし、付き合う事になるが、真逆の性格と現実と理想のギャップがぶつかり合いながら〝ふたり〟を作っていくという【名作】だ。高校生に突き付けられる現実に戸惑いながらも、人生を進めようとする姿を描いている。二人の恋や人生というものに、どう立ち向かうのか……それは『このクソ素晴らしき世界。』を一読してみるのが、一番良いだろう。そうだ、それが良い。明日からでも読み進めると良い。ぼくは雨美ちゃんが持っていないか聞いて、借りることにする。しかし、他作品を堂々と宣伝をするヲトブソラも怖いナリ。怖いヲトブソラ! こんな悪人の名前【ヲトブソラ】なんて覚えなくてもいい! 『少女騎士団』ならずとも『このクソ素晴らしき世界。』まで他作品に持ち出してきた悪人ヲトブソラの策略にハマっちゃいけない! 今すぐ【ヲトブソラ】という小説家だか、シナリオライターだか、イラストレーターだか、映像作家だか、何でもやっているマルチクリエイター【ヲトブソラ】は忘れた方が良い。依頼をすれば【ヲトブソラ】は良いものを作るだろうが【ヲトブソラ】は悪人だ! くそう、悪人【ヲトブソラ】め!! めっ!!!
「湖径くんは車の免許は持ってたよね?」
「え? あ、はい! 十八の時に取りました」
「そう。今の状況だと免許を持っているだけでも……」
「それからフォークリフトもあります。トラクター等を運転する為に大型特殊も取りましたね。後、大型の農耕機とかを運べるように大型免許にショベルローダー運転者免……」
「ちょっと、ちょっと待って? ちょっと待とうか、湖径くん。あなたは何屋さんをする人になりたいの?」
詩羽さんの言葉に首を捻り、取得した多くの免許をどう活かすつもりで、教習所に通っていたのかすら考えていなかったと気付く。この免許類も、親に取れと言われたから取ったものだ。実家が農家で、母方は林業もしているからと重機の免許も取った……だけ。特に、その資格で何をするという考えは深くなかった。
「ははは。本当に、ぼくは何になりたいんでしょうね? 山でも開拓して要塞でも造るんですかね?」
自虐らしい、自虐。お手本のような乾いた笑い声。中身が無いのは資格を取った理由と使えないスマートフォンと同じ。
てれん♪ てれん…♪ てれん……♪
「いらっしゃ……あっ、空さん」
「湖(詩羽さんが駆け寄る音)は(てれん…………♪)良い(詩羽さんが空さんのシャツに手を乗せる衣擦れ)かい?」
「え、あ。えっと?」
「あなた。昨日の今日なのだから、湖径くんにそんな事を言わない!」
空さんが何を言ったのかは分からないが、あんな風に詩羽さんに叱られたいという感情だけは分かった。雨美ちゃんも、ぼくを叱ってくれるだろうか。……ん? 叱る……? 叱られる………? 叱りつけられる……………? 叱られ……たい? 叱る? もしかして、ぼくは………。
湖径、齢二十にして己の可能性に気付き、新たなる境地へと扉を少し開いた瞬間だった ──────── 。
空さんがレジカウンターの上に置いたのは、齧られたリンゴが描かれた白い紙袋。そこから小さな箱が出てくる。それはスマートフォンの箱で「こ(箱を開けようとする音)使うと(スマートフォンを取り出すのに手間取る音)い」と空さんが言う。首を捻り、目を閉じて、聞こえた音をヒントに脳に血液を送るため、全身の血管を振り絞り血圧を上げて、脳を活性化させ、空さんの言葉を解析する。いつの間にか、こんなビックリ能力を取得しているぼくもぼくだが、やはり、空さんの声を言葉に変換するのは、ネクスト・コ◯ンズ・ヒントより難しい。ぼくが◯藤◯一だったら分かったかもしれないのに、と、毎回思う。解けない謎に眉をひそめていると、詩羽さんが笑顔で「大丈夫よ。あくまでも〝仕事用のスマートフォン〟だから料金はウチ持ちです」と差し出してくれた。恐らく、お尻のポケットに入っている〝ただの板〟では、生活し辛いだろうと用意してくれたのだ。両手を出し、その上に置かれる〝色んな人と繋がる板〟。
「湖径くん、あなたは変わるべき人なのよ」
「料金とか持つって言われても………」
「仕事用と言いました。私達や石井さん、長屋の皆さんと連絡を取っても、変な事に使っちゃ駄目よ?」
しっかりと毎月の明細は見るからね、と、細い指で弾かれる額。いいな………空さん。いつも、こうやって叱られるなり、注意されるなりしているのかなうらやましくやしいいやいやもうぼくには雨美ちゃんがいるから駄目駄目だめだってそんなああ詩羽さんだめですだめですぼくにはもう……(しばらくループ)
「もっもしっ、もし! ぼくが悪い事をしたらッッ、しっっっかり叱ってくれますか……ッッ!!!?」(ループの末に出た解)
「駄目ですよ、湖径くん。悪い事をする前に思いとどまって下さいね」
っあ。また詩羽さんの優しさ(人妻力)と、ほんのり香るお怒りに……少し頭が………時間(とき)が見える……………。
大学の構内を歩いていれば、
「だーれだっ?」
「え? 誰?」
「湖径さんの彼女ですケドっ!?」
今回は後ろから目隠しをされるまで待ってみた。彼女がやってみたい事を叶えたかったのだけど、少し意地悪をしてみたくなったのだ。ぐるりと前に回ってきて、爪先立ちに鼻がぶつかりそうなくらい顔を寄せる、ぼくの彼女。眉をひそめ、唇を尖らせて、さぞかし不満らしい。
「ほら! 彼女ですよ! あなたの雨美ですよー!」
「ごめんなさい。意地悪をしてみたくなったので」
「むぅ、なるほど。そういう湖径さんも悪くないですね」
意地悪をされたのに得意げな笑顔で雨美ちゃんは胸を張り、背筋を伸ばして歩き出す。その小さく細い背中と揺れるマフラーを追って並ぶと、互いに指を探ってギクシャクしながら指先を繋ぐ。〝石井さん〟から〝雨美ちゃん〟に呼び方が変わって、以前より近くで見られる真っ直ぐ前を向いて歩く姿。こんなに可愛らしく素敵な子が観たいと言った映画が『うだる暑さに火照る身体を持て余す人妻』とは………。所謂、〝ギャップ悶え〟というカテゴリーなのかとも思ったのだが、その括りに入れていいのかどうか、分からない。未だに分からないのだ……………。
高圧電線が張られた鉄塔に夕焼けがとまっていた。駅のホームで就職活動の話をしていると、雨美ちゃんに希望職種はあるのかと訊ねられたのだが、そんな単純な質問にも詰まってしまう。だから「院に進む……のは無いんですよね?」と、最初から無い選択で助け舟を出されてしまう。仮に大学院に進んだとしても、ぼくが欲しいのは知識や研究に、論文を定期的に提出する環境じゃない。魚人のおっちゃんとの会話で分かった事は、息巻いて人間の愚行に吠える馬鹿と、中身が無く自分に都合の良い知識だけを蓄えた馬鹿。これが二十年という月日をかけて育てた、ぼくという生き物。
「湖径さんは卑屈過ぎるんですよ」
「根暗である事も認める」
「湖径さんの今までなんて関係無いじゃないですか。今の悩みは〝これから〟の事なのだから、好きなだけ勝手気ままに進めばいい」
雨美ちゃんが言った通り、彼女を風よけにして進めばいいのだろうか……と、考えていると読心術でも使えるのか「私の背中に、ぴったりくっついていて下さいねっ」と答えられた。駅のホームに電車が流れ込んできて、いつもの背筋を伸ばして、少しだけ視線を上に、得意げな顔をしている、きみの長いマフラーが巻き上げられた風に舞う。
その姿は、子どもの頃に観たヒーローのようだった。
「本当にご飯とか行けなくて、ごめん」
「お家で食べるのが一番ですよっ」
第三の選択戦線で、戦闘継続中であるぼくには潤沢な資金などはなく、それでも一緒にもう少し過ごしたいと願ったら、家でご飯を作ってくれるという事になった。数が少ない夕飯の材料ですら折半。情けないとも思うし、きみがにこにこと「楽しみですねえ」と笑うから、これで良いのかもしれないとも思う。お地蔵さんの祠と古いたばこ屋さんの路地を曲がると「ぃやさっしぃいい〜♪」という
「ただいま帰りました」
「おーおかえ小童ぁああアアアッ!!?」
「何っ!? 何っ何ッ!!?」
「早速! 湖径が! 石井ちゃんを! 連れ込んでるぞぉおッッ!!」
「違っ! 違います!! ご飯食べに行くお金が無!!」
「えっち! 湖径のえっち! ご飯食べた後に石井ちゃんを食」
「その期待をして、私は来ていますけど?」
「え…………」
「……っと?」
「湖径さん、悠希さん、何か?」
え? 雨美……さん……?
からん、からんからん……亜希さんが何かを落とし、頭上からは「不潔。でもそれでこそ生命」という言葉とともに台所と上の窓が、からからからから……、と、ゆっくり閉められた。ぼくと悠希さんは固まり、飛行機が山椒魚町四丁目の上空、低い所をゆらゆらゆらゆらと飛んでいく。
「う、雨美ちゃん!? それは幾ら何でも気が早いというか? まだなんじゃないかなあというかっ! ねえッ!? 悠希さん!」
「だっ、だよなーっ。最近の子は、そーゆーの? 早いって聞くけれど、やっぱ、じっくりと互いを知りつつ……っ!? だ! なあッッ!? 湖径ぃっ!?」
「確かに恋人としては浅漬けのように浅いですが、湖径さんがどういう方かは〝へしこ〟の発酵期間くらい見てきましたよ」
えっと……〝へしこ〟? 〝へしこ〟って何だ? と、また悠希さんと二人で固まる。
「分かり合いたい恋人、パートナーに触れたい、知りたいと思う行動や想いは、そんなにもおかしい事、卑しい事ですか?」
「もっ、もしかして……っ。石井ちゃんて、ヤ(※とても下品な発言につき表示不可)《成人指定だよ》」
「雨美ちゃんになんて事言うんですか!? 悠希さんっ!!」
「私、初めてですケド」
「何が初めてなんですか?」
振り返ると、そこに絵深さんが立っていた。これは……話がややこしくなる。
さあ、ショーの幕開けDA☆
迷路へのグレートジャーニーに出発、出発っ!
……………………………………………………
この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第十二話、おわる。
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