第六話「知りたい理由」


 山椒魚町さんしょううお四丁目河童三番地までの路地が闇に包まれていくのに、これを囲む家からは温かい灯りと夕げの香り、たまに賑やかで楽しそうな会話が路地にまで漏れる。アスファルトに落ちていく、このたくさんの灯りと〝楽しい〟を拾う事が出来るのなら、ぼくは腕いっぱいに抱えるだろうか。


「……でも、それはぼくのじゃない」


 偽物とは言わないけれど、ぼくのものじゃないから使えないものばかりかもしれない。


 暗いはずのぼくの家に灯りが点っていて「電気くらい消していってよ」と呟いたけれど、その後の悪態はやめた。


「おー、おかえりぃ」

「……悠希ゆうきさん、何してるんで!?」


 右手に持った包丁で「夜ご飯を作ってるに決まってるだろうがあ」と刺される茄子。食材は悠希さんが持ってきたものだから、食費は安心しろとガスコンロの火力を調整する。強く握ったぼくの両手と、何故か、目が熱くなってきて水分で出来た何かが、ぼろぼろと落ちていく。装備をお玉に変更した悠希さんが、意地悪な笑顔で振り返り「小童、今日は悪かったね。みんなに湖径こみちを紹介したかったんだけど、面子が面子だったからな」とまた口許を歪ませた。ごしごしと腕で目に居座る水分を拭い「ぼくは……」という感情を、いつものように遮る声。


「私に惚れるなよ〜。これでも人妻なんで、旦那に訴えられると面倒臭えぞ。マジで」


 民事裁判舐めんなよー、と念を押され、二階に上がると絵深えみさんとそらさんがいて、二人の優しい表情でかけられる、この家で初めての、


 おかえりなさい。


「やはり、わたくしも片付けの手伝いを……」

「あー、いーって。絵深さん長旅だったんだ、早く休みな」

「悠(靴を履く音)だから、あま(靴紐を結ぶ音)」

「こんな小童に手ぇだすかよー!ウケる!」


 四人で悠希さんが作ってくれたご飯を食べ、それぞれがそれぞれの家に帰ったのに、悠希さんは後片付けにと食器を洗ってくれて、ぼくは食器を背の低い棚に片付けていた。


「石井ちゃん、良い子だねえ」

「ただ付きまとわれているだけです」

「何だっけ?読み聞かせ会でバブみがどうのこうの?」

「読書部。内輪揉めです。話、聞いたんですか」


 まあ?話というか相談というか?と濁される内容。食器をしまい終わり、振り返ると流し台に肘を付いて、こちらを呆れたような顔で見ていた。珍しく、何も言わずに二階に上がっていくから、その後を追う。夜風を迎える窓に足を掛け「哲学者はさあ、あの子の気持ちに気付いているんだろ?」なんて戯けるから「危ないので、その〝あんよ〟を窓枠から下ろしてください」と呆れて目を閉じた。









「悠希さん?」


 返ってこない言葉に急いでまぶたを開けると、そこに悠希さんがいない。


 嘘だろう。いくら悠希さんでも、こんな高さから落ちたら、いや、こんな高さから落ちても、いや、きっと♪フリーリ〜ぃ♪空も飛べるはず〜♪とか考えるまでの馬鹿では、いや、あり得る。違う、そもそも、そこまで想像出来る脳が、急いだ窓までの三歩の間に色んな事を考え、真っ暗なアスファルトに家々の灯りだけが落ちている事を願った。


「ほら、こっち来いよ。哲学者!」


 軽く蹴られる後頭部に、見上げた屋根の影に消えた小さな足。


「子どもの頃、よく屋根に登ってた」

「だとしても、危ないで」

「今の家はさー、元々、おばあちゃんの家なんだ〜」


 屋根の上から見る景色はおかしくて、山椒魚町の外まで真っ平で、凸凹していなくて、どの家も同じ高さで、一本だけ空に突き出た河童浴場の煙突があるだけ。町の向こうは高さを競うビルやマンションが、壁のように立ち並んでいる。夏の陽射しに焼けた瓦はまだ温かいのに、そこにごろんと寝転がる悠希さんに合わせると、月がよく見えた。


「人間って不思議だよなーぁ」

「急にどうしたんですか?今日のこ」

「哲学者はさあ?どうして、人に干渉しそうでしないの?」


 ぼくの人との接し方。積極的に人と接しているにしては距離が遠く、遠ざけようとしているには近過ぎる距離にいて、面倒臭そうにする割に離れない。


「相手から離れるのを待っているのかあ?」

「そんなこ」

「湖径。もしかして、人が怖い?」


 石井さんは、ぼくに好意を寄せてくれている。〝読書部のごたごた〟に対して動いていたぼくに、〝ありがとう〟と言いたいんだろうというのも想像がつく。いつも、それを言わせないように、ぼくは逃げ回るのだ。ぼくだけが感謝の言葉を言われるのは、怖いんだ。


「世界って広いじゃないですか。それよりも近くにいる人達の方が広いじゃないで」

「その広さに脚がすくむから、上手く立ち回ってるつもりなんだな」






「でもさー、湖径。そのやり方は酷いぞ。悲しくなるじゃんよ」

「石井さん、そんな事を言ってい」

「私が思っている事だよ、馬鹿が」


 まだ昼の熱を持つ屋根に寝っ転がりながら、ぼくを蹴る、月の下。


 河童浴場かっぱよくじょうまでの行き帰りに、次、石井さんに声をかけられたらどうしようと馬鹿な事を考えていた。ただ、彼女の言葉を最後まで聞けばいいだけだと教えてはもらっても、怖い。真っ暗な山椒魚町四丁目の路地もずいぶん歩き慣れてきた。ぽつん、ぽつんと佇む、街灯の有り難さが身に染みてきた。古いたばこ屋とお地蔵さんの祠がある角を曲がり、更に暗く細い路地を奥へ進む。


「良い夜だな、小僧」


 ぱきん、と、金属製のライターで点けられる煙草。木製の長椅子に座り、女子高校生の指の速度とフリックの効果音で〝ぽこっ♪ぽぽぽぽこっ♪ぽこぽこっ♪〟とスマートフォンで文章を打つ魚人ぎょじんのおっちゃん。でも、よく考えたら……いや、よく考えなくても変だ。上半身が魚で、下半身が人間。煙草吸って、ビールを飲みながらスマートフォンを使いこなして、鱗がカバーになっているポケットがあるとか、普通じゃない。普通じゃないのに、おっちゃんの隣に普通に座るぼく。


「おっちゃんはビールが好きなの?」

「まあな。特に七福神の一人が鯛を抱えているやつをよく飲む」


 なかなかリッチだな、おい。


「小僧がここに来て、明日で一週間だな」

「そうだね」

「どうだ?この町は?」


 どうって、言われても答えに困る。変な人が多くて、変な町だ。だけど、人が温かいとしか言えないから困る。後、隣に座っているあなたが、物凄く変な存在だ。


「良い……町だと思う」

「ふぅうううう。そうだな。良い気概を持つ人間ばかりだしな」


「おっちゃんはさ…………………」

「何だ、小僧?」




「寂しくないの?怖くないの?」


 魚人なんて生き物は、初めて見た。恐らく、怪人とか妖怪とかそういう類いの存在なんだろうと思う。そんなおっちゃんが人間の町にひっそりと住んでいる。周りも気を使っているだろうし、おっちゃんも気を使っているだろう。


「人間は寂しいだの友達百人できるかなだの、大変だな」

「ぼくは友達が少ないから、行く場所が少なくて辛い……と、思う」


 ぽこっ♪ぽこぽこっ♪


 ぼくに差し出されるおっちゃんのスマートフォン。どういう事だろう、と、その機械を眺めていると「画面を見な、小僧」とドスの効いた低い声が、ゆっくりと言う。こういうのは個人情報だし、あまり見るべきではないと思うも「本人が〝見ていい〟と言っているんだ、見ろ」とまで押されたので、少しぬめっとしたスマートフォンの画面を覗いた。


◆◇卍おともだちグループF(16人)卍◇◆


まりこ:魚のおじさんって、すごいんだよ〜♡

永野(係長):お前と魚さんって、そんな関係だったの?wwww

魚類(人):昔の事を掘り返すなって(ドヤァ

くに彦:えっっ??魚さん、女の子に手ぇ出すの早いっすよ!

魚類(人):出してねえよ!

まりこ:それは確かに!くにちゃんの心は汚れている!

くに彦:えっ?えっ?どゆこと?

永野(課長):これだからコドモは!

まりこ:女の子が惹かれちゃって、おじさんを誘うんだよね〜

くに彦:えぇ!そんな!魚さん、ズルいっすよ!

魚類(人):うるせえよ。次から次に相手するの面倒なんだぞ!

..

...

....

.....


 おっちゃんの人間関係、すごく充実してね?


「小僧のスマホを出しな」

「どうして、あなたなんかに?」


 ぼくの描いていた魚人のおっちゃんの生態とは違う、遥か斜め上の充実した生活に無感情の声が出た。いつも尻のポケットに入れてんだろ、と、持ち歩いているのがばれているスマートフォンの存在。いつも通り、いつも通りに充電どころか契約すらしていない、この板で嘘を吐けばいい。


「あー、なんかバッテリー切れみたいです」

「貸しな」


 首を傾げながら渡すと、端末のボタンを押し「この機種はもう無いよな。それとバッテリー切れどころか充電がされていない」と明かされていく、ぼくの嘘。


「く、苦学生なのでっ!新しいのは!あっ!今日使えなかったのは充電器が壊れていたからか〜!」

「まあ、最近の機種はレアメタル多用に高機能化で高額、学生身分にはきつい。だが、内部電源は一日二日では無くならないだろ」

「す、スマートフォンが壊れていて!それで!じゅ、充電とか、かっ、か火事になったら怖いので!」


 かちゃ、かちゃ、しゅ。


「SIMが入ってねえ。この世代の型はeSIM不対応だ。どういう事か説明しろ、小僧」

「おっちゃん、そこまで追い詰めなくてもいいじゃないですか……」


 大人になって初めて、小学校の先生に不条理なまでに叱られた時の事を思い出した。


 ぱきん、金属製のライターで、再び点される橙色の蛍。煙を深く吸った後、ぐいぐいと飲み込まれる〝七福神の一人が鯛を抱えたラベル〟のビール。こっ、と、長椅子に缶が置かれ、一息付いて「人が怖い、世界が寒い……か」と、ぼくの言葉を復唱する。ぼくが持つスマートフォンは、ぼくの人付き合いに対する象徴みたいなものだ。連絡先を教えてくれという言葉に断る理由が欲しいけれど、関係が破綻するような言葉は言いたくない。


「寂しいから人付き合いをするのは違うと思う。でも、だからといって、遠ざけるのも違う」


 一人でいるのは寂し過ぎるけれど、みんなといると酷く寒い事が分かる。


「腹を括れば、そういう生き方も出来るだろう。しかし、小僧は決めかねている。違うか?」


「決める為に、どうして世界が廻っているのか知りたい」


 わざわざ、色んな人達がこの世界を廻す為に生きて、触れ合い、離れ、手を取る理由が知りたい。ぼくがどう生きればいいのか選ぶ為の参考にしたい。


「今日の月は青いな」


 遠回しに〝若い〟と言われた事くらい分かっている。でも、そう言葉にしなかったのも、魚人のおっちゃんの優しさであると分かっている。


「マサァあああああああああ!!!起きろぉおおおお!!!」

「うるせえぇえええええ!!是智ぉおおおおお!!もう起きとるわぁあああ!!」


 この右隣の声で起床する朝。スズメの鳴く声に「ぃやさしーいー♪」と植物に水を与える馬鹿うるさい唄声。ぎしぎしと鳴る階段を降りて、台所でコップ一杯の水を飲む。この町、この家に来て一週間目だ。ピンポ〜ン♪とチャイムが鳴り、戸を開けると亜希さんが「おはよう、湖径くん。良かったら、お味噌汁もらってくれないかな?」と小さなお鍋を持ってきてくれた。ご飯とお漬物だけでは寂しかった朝食に増えたお味噌汁。きらきらと窓の外で光る山椒魚町四丁目の屋根。


「おはようございますっ、湖径さん」

「おはようございます、絵深さん」


 この町に似合わない、隣の美女。


「良い一日をお過ごし下さいね」


 マンガや小説に出てくるヒロインのような丁寧な言葉使いで、絵深さんは飛行機のように少し腕を〝ハの字〟に広げて鼻歌を唄いながら、路地の向こうへ消えた。


 がちゃがちゃと鍵を締めて、アルバイト先へ歩く一歩目が、今日は何だか……、


「今朝は早いなっ、哲学者〜」

「おはようございます、悠希さん」

「あ。おはようございます、悠希さん、湖径さん」


 長い髪に白いワンピース、大きなトートバッグと麻のアウターを羽織るあおいさんも出掛けるようだ。駅まで行くのなら一緒に行きましょう、という葵さんの一言に、つい浮かれてしまう。


「湖径は今日、アルバイトあんのかあ?」

「午前がアルバイトで、お昼過ぎから学校に行っ」

「がんばれよ!いってらっしゃい、湖径!」


「……いってきます!」


 山椒魚町四丁目の上を低空飛行の飛行機が飛び去っていく。


……………………………………………………


この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。

第六話、おわる。

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