第六話「知りたい理由」
「……でも、それはぼくのじゃない」
偽物とは言わないけれど、ぼくのものじゃないから使えないものばかりかもしれない。
暗いはずのぼくの家に灯りが点っていて「電気くらい消していってよ」と呟いたけれど、その後の悪態はやめた。
「おー、おかえりぃ」
「……
右手に持った包丁で「夜ご飯を作ってるに決まってるだろうがあ」と刺される茄子。食材は悠希さんが持ってきたものだから、食費は安心しろとガスコンロの火力を調整する。強く握ったぼくの両手と、何故か、目が熱くなってきて水分で出来た何かが、ぼろぼろと落ちていく。装備をお玉に変更した悠希さんが、意地悪な笑顔で振り返り「小童、今日は悪かったね。みんなに
「私に惚れるなよ〜。これでも人妻なんで、旦那に訴えられると面倒臭えぞ。マジで」
民事裁判舐めんなよー、と念を押され、二階に上がると
おかえりなさい。
「やはり、わたくしも片付けの手伝いを……」
「あー、いーって。絵深さん長旅だったんだ、早く休みな」
「悠(靴を履く音)だから、あま(靴紐を結ぶ音)」
「こんな小童に手ぇだすかよー!ウケる!」
四人で悠希さんが作ってくれたご飯を食べ、それぞれがそれぞれの家に帰ったのに、悠希さんは後片付けにと食器を洗ってくれて、ぼくは食器を背の低い棚に片付けていた。
「石井ちゃん、良い子だねえ」
「ただ付きまとわれているだけです」
「何だっけ?読み聞かせ会でバブみがどうのこうの?」
「読書部。内輪揉めです。話、聞いたんですか」
まあ?話というか相談というか?と濁される内容。食器をしまい終わり、振り返ると流し台に肘を付いて、こちらを呆れたような顔で見ていた。珍しく、何も言わずに二階に上がっていくから、その後を追う。夜風を迎える窓に足を掛け「哲学者はさあ、あの子の気持ちに気付いているんだろ?」なんて戯けるから「危ないので、その〝あんよ〟を窓枠から下ろしてください」と呆れて目を閉じた。
「悠希さん?」
返ってこない言葉に急いでまぶたを開けると、そこに悠希さんがいない。
嘘だろう。いくら悠希さんでも、こんな高さから落ちたら、いや、こんな高さから落ちても、いや、きっと♪フリーリ〜ぃ♪空も飛べるはず〜♪とか考えるまでの馬鹿では、いや、あり得る。違う、そもそも、そこまで想像出来る脳が、急いだ窓までの三歩の間に色んな事を考え、真っ暗なアスファルトに家々の灯りだけが落ちている事を願った。
「ほら、こっち来いよ。哲学者!」
軽く蹴られる後頭部に、見上げた屋根の影に消えた小さな足。
「子どもの頃、よく屋根に登ってた」
「だとしても、危ないで」
「今の家はさー、元々、おばあちゃんの家なんだ〜」
屋根の上から見る景色はおかしくて、山椒魚町の外まで真っ平で、凸凹していなくて、どの家も同じ高さで、一本だけ空に突き出た河童浴場の煙突があるだけ。町の向こうは高さを競うビルやマンションが、壁のように立ち並んでいる。夏の陽射しに焼けた瓦はまだ温かいのに、そこにごろんと寝転がる悠希さんに合わせると、月がよく見えた。
「人間って不思議だよなーぁ」
「急にどうしたんですか?今日のこ」
「哲学者はさあ?どうして、人に干渉しそうでしないの?」
ぼくの人との接し方。積極的に人と接しているにしては距離が遠く、遠ざけようとしているには近過ぎる距離にいて、面倒臭そうにする割に離れない。
「相手から離れるのを待っているのかあ?」
「そんなこ」
「湖径。もしかして、人が怖い?」
石井さんは、ぼくに好意を寄せてくれている。〝読書部のごたごた〟に対して動いていたぼくに、〝ありがとう〟と言いたいんだろうというのも想像がつく。いつも、それを言わせないように、ぼくは逃げ回るのだ。ぼくだけが感謝の言葉を言われるのは、怖いんだ。
「世界って広いじゃないですか。それよりも近くにいる人達の方が広いじゃないで」
「その広さに脚がすくむから、上手く立ち回ってるつもりなんだな」
「でもさー、湖径。そのやり方は酷いぞ。悲しくなるじゃんよ」
「石井さん、そんな事を言ってい」
「私が思っている事だよ、馬鹿が」
まだ昼の熱を持つ屋根に寝っ転がりながら、ぼくを蹴る、月の下。
「良い夜だな、小僧」
ぱきん、と、金属製のライターで点けられる煙草。木製の長椅子に座り、女子高校生の指の速度とフリックの効果音で〝ぽこっ♪ぽぽぽぽこっ♪ぽこぽこっ♪〟とスマートフォンで文章を打つ
「おっちゃんはビールが好きなの?」
「まあな。特に七福神の一人が鯛を抱えているやつをよく飲む」
なかなかリッチだな、おい。
「小僧がここに来て、明日で一週間だな」
「そうだね」
「どうだ?この町は?」
どうって、言われても答えに困る。変な人が多くて、変な町だ。だけど、人が温かいとしか言えないから困る。後、隣に座っているあなたが、物凄く変な存在だ。
「良い……町だと思う」
「ふぅうううう。そうだな。良い気概を持つ人間ばかりだしな」
「おっちゃんはさ…………………」
「何だ、小僧?」
「寂しくないの?怖くないの?」
魚人なんて生き物は、初めて見た。恐らく、怪人とか妖怪とかそういう類いの存在なんだろうと思う。そんなおっちゃんが人間の町にひっそりと住んでいる。周りも気を使っているだろうし、おっちゃんも気を使っているだろう。
「人間は寂しいだの友達百人できるかなだの、大変だな」
「ぼくは友達が少ないから、行く場所が少なくて辛い……と、思う」
ぽこっ♪ぽこぽこっ♪
ぼくに差し出されるおっちゃんのスマートフォン。どういう事だろう、と、その機械を眺めていると「画面を見な、小僧」とドスの効いた低い声が、ゆっくりと言う。こういうのは個人情報だし、あまり見るべきではないと思うも「本人が〝見ていい〟と言っているんだ、見ろ」とまで押されたので、少しぬめっとしたスマートフォンの画面を覗いた。
◆◇卍おともだちグループF(16人)卍◇◆
まりこ:魚のおじさんって、すごいんだよ〜♡
永野(係長):お前と魚さんって、そんな関係だったの?wwww
魚類(人):昔の事を掘り返すなって(ドヤァ
くに彦:えっっ??魚さん、女の子に手ぇ出すの早いっすよ!
魚類(人):出してねえよ!
まりこ:それは確かに!くにちゃんの心は汚れている!
くに彦:えっ?えっ?どゆこと?
永野(課長):これだからコドモは!
まりこ:女の子が惹かれちゃって、おじさんを誘うんだよね〜
くに彦:えぇ!そんな!魚さん、ズルいっすよ!
魚類(人):うるせえよ。次から次に相手するの面倒なんだぞ!
.
..
...
....
.....
おっちゃんの人間関係、すごく充実してね?
「小僧のスマホを出しな」
「どうして、あなたなんかに?」
ぼくの描いていた魚人のおっちゃんの生態とは違う、遥か斜め上の充実した生活に無感情の声が出た。いつも尻のポケットに入れてんだろ、と、持ち歩いているのがばれているスマートフォンの存在。いつも通り、いつも通りに充電どころか契約すらしていない、この板で嘘を吐けばいい。
「あー、なんかバッテリー切れみたいです」
「貸しな」
首を傾げながら渡すと、端末のボタンを押し「この機種はもう無いよな。それとバッテリー切れどころか充電がされていない」と明かされていく、ぼくの嘘。
「く、苦学生なのでっ!新しいのは!あっ!今日使えなかったのは充電器が壊れていたからか〜!」
「まあ、最近の機種はレアメタル多用に高機能化で高額、学生身分にはきつい。だが、内部電源は一日二日では無くならないだろ」
「す、スマートフォンが壊れていて!それで!じゅ、充電とか、かっ、か火事になったら怖いので!」
かちゃ、かちゃ、しゅ。
「SIMが入ってねえ。この世代の型はeSIM不対応だ。どういう事か説明しろ、小僧」
「おっちゃん、そこまで追い詰めなくてもいいじゃないですか……」
大人になって初めて、小学校の先生に不条理なまでに叱られた時の事を思い出した。
ぱきん、金属製のライターで、再び点される橙色の蛍。煙を深く吸った後、ぐいぐいと飲み込まれる〝七福神の一人が鯛を抱えたラベル〟のビール。こっ、と、長椅子に缶が置かれ、一息付いて「人が怖い、世界が寒い……か」と、ぼくの言葉を復唱する。ぼくが持つスマートフォンは、ぼくの人付き合いに対する象徴みたいなものだ。連絡先を教えてくれという言葉に断る理由が欲しいけれど、関係が破綻するような言葉は言いたくない。
「寂しいから人付き合いをするのは違うと思う。でも、だからといって、遠ざけるのも違う」
一人でいるのは寂し過ぎるけれど、みんなといると酷く寒い事が分かる。
「腹を括れば、そういう生き方も出来るだろう。しかし、小僧は決めかねている。違うか?」
「決める為に、どうして世界が廻っているのか知りたい」
わざわざ、色んな人達がこの世界を廻す為に生きて、触れ合い、離れ、手を取る理由が知りたい。ぼくがどう生きればいいのか選ぶ為の参考にしたい。
「今日の月は青いな」
遠回しに〝若い〟と言われた事くらい分かっている。でも、そう言葉にしなかったのも、魚人のおっちゃんの優しさであると分かっている。
「マサァあああああああああ!!!起きろぉおおおお!!!」
「うるせえぇえええええ!!是智ぉおおおおお!!もう起きとるわぁあああ!!」
この右隣の声で起床する朝。スズメの鳴く声に「ぃやさしーいー♪」と植物に水を与える馬鹿うるさい唄声。ぎしぎしと鳴る階段を降りて、台所でコップ一杯の水を飲む。この町、この家に来て一週間目だ。ピンポ〜ン♪とチャイムが鳴り、戸を開けると亜希さんが「おはよう、湖径くん。良かったら、お味噌汁もらってくれないかな?」と小さなお鍋を持ってきてくれた。ご飯とお漬物だけでは寂しかった朝食に増えたお味噌汁。きらきらと窓の外で光る山椒魚町四丁目の屋根。
「おはようございますっ、湖径さん」
「おはようございます、絵深さん」
この町に似合わない、隣の美女。
「良い一日をお過ごし下さいね」
マンガや小説に出てくるヒロインのような丁寧な言葉使いで、絵深さんは飛行機のように少し腕を〝ハの字〟に広げて鼻歌を唄いながら、路地の向こうへ消えた。
がちゃがちゃと鍵を締めて、アルバイト先へ歩く一歩目が、今日は何だか……、
「今朝は早いなっ、哲学者〜」
「おはようございます、悠希さん」
「あ。おはようございます、悠希さん、湖径さん」
長い髪に白いワンピース、大きなトートバッグと麻のアウターを羽織る
「湖径は今日、アルバイトあんのかあ?」
「午前がアルバイトで、お昼過ぎから学校に行っ」
「がんばれよ!いってらっしゃい、湖径!」
「……いってきます!」
山椒魚町四丁目の上を低空飛行の飛行機が飛び去っていく。
……………………………………………………
この町は、きょうもあなたがいるから廻っている。
第六話、おわる。
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