第2話 文化祭で
(明日は、文化祭だっ! 目一杯、楽しまなきゃ!)
今日は、 『8時10分』 いつもの電車に乗った。いつもよりも揺れる車体に、
いつもの場所に視線を泳がせた。
すっと伸びた背筋。綺麗に着こなされた制服。全てを飲み込んでしまいそうな真っ黒な瞳。その瞳は、どこか遠くの景色に想いを馳せている。
今日は、彼の隣に同じ席服を着た男の子が並んだ。
「
元気な声で、胡桃が見つめる彼のことそう呼んだ、今まで、ひとりでいるところしか見たことがなかった。
(はるくんって言うんだ)
なんだかストーカーのようだと思い、ぎゅっと目を閉じて窓の外へ視線を投げた。
「こんな早く行っても入れないと思うよ?」
「でも、悠だって楽しみなんだろ?」
外を眺めていても聞こえてくる、テノールボイス。癖のない、優しい響きの声に意識はそちらに引っ張られる。
(あれ? ここでいつも降りるのに、今日は降りないの?)
胡桃の伸ばした視線の先には、扉から入ってくる人。そしてたくさんの人が雪崩れ込んできて、ふたりはどこかへ紛れ込んでしまった。
学校のある駅で胡桃は、さっと降りる。
「胡桃っ! おはよ!」
学校に着くと、雫が後ろから元気な声をかけてきた。ふわりと笑う笑顔に、胡桃までも笑みが溢れる。
「おはよ! 今日ね、あの人に会ったの!」
「えっ! 良かったね!」
胡桃のこの笑みは、朝から会えたことのおかげな気もする。鼻歌を歌いながら、廊下に出た。
――バンッ
一歩教室の外へ出ると、大きな音共にザワザワとしていた。数人が集まっている所に、顔を出した。
そこには、ぽたりと鼻血を垂らしている人とあたふたとしている人を囲んでいるようだ。
咄嗟に、胡桃の身体が動いた。ブレザーのポケットに入れてあったティッシュを急いで、手渡した。
「大丈夫ですか?」
制服に垂れないように押さえているので、表情までわからない。相手も焦りながら渡されたティッシュで、鼻を押さえる。
「……保健室って……」
鼻を押さえていて、言いにくそうに言葉を絞り出した。その言葉に胡桃は、ハッとなって立ち上がった。周りには、先ほどよりも人だかりができてしまっている。
「こ、こっちです! 案内します」
こんなたくさんの人の中心にいたのかと思うと、恥ずかしくて相手の顔を見れない。視線を自分のローファーの先に落とす。鼻を押さえていてくぐもった声が、頭上から降ってくる。
「ありがとうございます」
「いえ!」
人がまばらになった廊下を2人で歩く。静かな空間が、ふたりを飲み込んだ。
(ちょ、ちょっと待って? クラスの男子としか、隣で歩いたことないんですけど!?)
ドキドキと心拍が上がる。赤くなる頬を誤魔化すように、急いで保健室の扉を開けた。
「あら、どうしたの? ……鼻血? それなら、こっちのソファを使って」
養護教員が、中から出てきてテキパキと処置をしてくれる。そこへ別の生徒がやってきて、安静にするようにと言い残してそちらへ行ってしまった。
胡桃は、手が汚れてしまった彼の代わりに保険室の紙を書いた。柔らかなテノールボイスが、聞こえてくる。
「
(うん? 悠って、今日の朝聞いた名前だよね? それに、この制服って……)
そこまで考えて私は頭を上げた。パッと上げた視線が、彼と絡み合う。目が乾くほど目を大きく見開いて、私は驚いた。数回瞬きをして、驚きで薄く開いた唇から言葉が溢れた。
「電車の……」
「いつも同じのに、乗ってるよね?」
認識されてるとは思わず、言葉にならない。代わりに、赤く染まった顔を必死に頷いて答える。
「最近いないな、と思ってた」
「文化祭だったので……」
彼からの返事を待つ前に、扉をガラッと開けられた。勢い良く入ってきた人物は、元気よく声をかけてくる。
「悠、鼻血止まったか?」
悠のスラッと高い身体の陰に隠れているようで、胡桃の存在に気がついていなさそうだ。
軽い足取りで、地面とスニーカーが触れる音が近づいてきた。心地よい高い音と、高鳴る胸の音が反芻する。落ち着いた悠が、短く返事をした。
「うん」
チラリと見えた声の持ち主は、今朝の電車内で見た悠の友達だった。付き添いとして胡桃は、ここに座っていた。友達が来たのならと、胡桃はソファから立ち上がった。
その友達はようやく、立ち上がった胡桃に気がついたようだ。
「あれ? 噂の?」
(見てくるストーカーっていう、噂ですか!?)
認識というのもそちらの意味なのではないか、そう思い震える足に力を込めた。軽く頭を下げて、胡桃はその場を後にしようとした。
しかし、胡桃の腕を大きな悠の手が包む。軽く力を込められて、足を止めた。
「違うんだ……気に、なってたんだ」
胡桃の心の中まで覗かれているのか、優しく違うと否定をしてくれる。その優しさが、胡桃の心に侵入してくる。
胡桃は自分の黒目を、スゥーと流すようにして動かした。そして、掴まれた手のひらに視線を落とした。
「別に、ストーカーでここに来たわけじゃ!」
「えっ??」
胡桃は自分のことをそう思われているのではないか、とヒヤヒヤしていた。しかし、彼の口からは想像してない言葉が飛んできた。優しい力で包まれた悠の手から、あたたかな温度が伝わってくる。
「確かに、気にはなってたんだけど……その……」
言葉を濁して、胡桃の腕からするりと手を離した。そして悠は、軽く頭をかきながら立ち上がった。
「鼻血も止まったし、教室まで一緒に行ってもいい?」
「え、もちろんです!」
胡桃の心は、跳ねるように喜ぶ。足が軽くなり、ふわふわと飛んでいけそうだ。胡桃の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。友達も後ろをついてくる。
「あ、あのぉ……」
「ん?」
「私のこと気づいてくれていて、嬉しいです!」
胡桃の頬に熱が集まるが、これまでにない彼との距離に嬉しくて顔をまっすぐに見た。柔らかな笑みを浮かべ、胡桃のことを見てくれている。
「それはこっちのセリフだよ」
そんな時間も一瞬で、自分の教室に着いてしまう。手を振って別れた。
教室から、置いてけぼりにした雫が顔を出す。胡桃の顔を見るなり、ニヤニヤとしてきた。
「あれが、例の電車の彼?」
「えっ、顔に出てた?」
胡桃は自分の頬を包んで、恥ずかしさを隠そうとする。顔から煙が出てきそうなほど、真っ赤にした。
「それで?」
「悠くんっていうみたい……。あ! 私、名乗ってない!」
「でもまた、電車で会えるんでしょ?」
胡桃は雫の言葉に、こくりと頷いた。また、明日……会えるかな?
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