影踏み

壱原 一

 

斜向かいの安っぽい家。灰色のブロック塀にクリーム色のトタン外壁、赤茶色の瓦屋根のいちおう庭のある平屋。


雑草が伸び放題で、三輪車やボールが散在している。暖かくて窓を開ける時季、いかにも気持ちに余裕のない張り詰めて耳障りな声が、子供を激しく叱り付けるのが度々きかれていた。


最近きかないと思ったら、距離を置くとか、お別れとか、何かしら変化があったらしい。


ベランダで煙草を吸っている時、遠目にも活きの良い子供が、どこかしょんぼり肩を丸めた善人そうな大人と手を繋ぎ、盛んに喋っている姿を見掛けた。


大人はきっと、感情的な大声の片方を、困惑気味に宥めていた片方だろう。


大変と他人事の感想を抱き、常設の空き缶に吸殻を捨てて部屋へ戻る。


そろそろ酒と煙草が切れる。ついでに飯も買ってくるか。


こちとら気楽な独り身で、ああ言う苦労に縁はない。一方、こうして時間があったって、金も気力もなく汚い部屋で無味乾燥に過ごしている。


で、そんなの彼らには他人事。世間ってそう言うもの。


達観した心地に浸りながら、代り映えのない毎日を浪費して迎えたある日の午後。


例によって不健康な嗜好品を求めにコンビニへ繰り出した帰路の途中で、門前にて通行人を値踏みする斜向かいの家の子供と目が合う。


何がお眼鏡に適ったのか、勢い込んで走り寄られ、足元に伸びた影法師をじゃかじゃか踏みにじられ始めた。


*


日常のちょっとした変化に飢えているし、子供に好かれる柄じゃないのに物怖じせず寄って来られて悪い気がしない。


愛嬌ある珍獣を眺める気持ちで、めっちゃ踏むじゃんなど声を掛けつつ、ぱっと見にも配慮して、やんわり身を引いて距離を取る。じゃれつかれたので付き合っていますと示して子供のするに任せる。


子供は影に熱中して、俯き、一言も漏らさない。肩を怒らせ、両腕を広げてバランスを取り、大きく足を泳がせてこちらの影を踏みしだいている。


腰を落とし、膝を曲げて力を込め、なすり続ける靴底で影をねじ切らんばかりで、あまりの気迫に鼻白む上、影とは言え物悲しく、何より面白味がないのですぐに飽きた。


早々にばいばいしようと口を開き掛けるが早いか、脇でガチャンとドアが開いて家から大人が飛び出してくる。


「すみません!うちの子がすみません。□□ちゃん、それお□さんとやろうって言ったよね。影踏み、人にしないって約束したよ。人にしちゃ駄目って言ったでしょ。駄目だよ、やるならお□さんとしよう」


大人は、つくづく人の良さそうな、気の弱そうな調子で、屈んで子供と向かい合い、一心に諭し、立ち上がってすみませんすみませんと頭を下げる。


以前にも子供が他者の影を踏んで、いざこざが生じたとかの経緯があるのかもしれない。


その表情は、ただ眉を下げて目をしょぼつかせる恐縮の様子とは違って、眉間を緊張させ、見張り気味の目で慎重にこちらを窺っている。


今にも降り掛かる非難は、全て我が身で受け止めようと、固く口元を引き結び、覚悟と構えの気配をありあり漂わせている。


いやほんと大変。


全然いっすよじゃあねと言って、家路へ戻る視界の端に、灰色のブロック塀の中の、雑草が伸び放題の庭の一端がちらりと見えた。


生き生きと茂る草の根元の合間に、かなりの数の小さな盛り土がぽこぽこ乱立していた。


*


ぱっと思い付くのはペットの墓で、にしては数が多過ぎる。あれこれそういう感じかと流れかける思考を自制する。


子供なんて無邪気にいろいろする。ただの土遊びかもしれないし、仮に墓として、大きさはアリや羽虫ほど。


そこらの自然死を弔っているやもしれず、よしんば翅やら肢やら千切るなりして死なせたにせよ、律儀に全部供養しているなら却って敬虔だろう。


ちょうど切らしたタイミングで、吸いたい飲みたいといそいそ手に入れた帰り道で、さっさと帰って望みを叶えれば良いのに欲を掻いて珍事に足を止め、結果、曖昧に期待していた何か気分の上向くような体験を得られなかった。


そのせいか、ぶり返した欠乏に気が急いて、少し頭がぼんやりし、思考が散漫になってくる。


それにしてもあれだけの数を作るとは大した根気。影踏みの没頭ぶりといい、お約束を反故にしてまたやったらしい頑固ぶりといい、中々むつかしいところのある子供なのかも。


鍵を開ける。部屋へ入る。壁の半ばまで積み上がったごみ袋が視野を埋め立てて押し迫る。


普段は景色と化していて少しも気にならないのに、感覚を鈍麻させている酒と煙草が切れてしまって、むき出しになった神経をすり下ろす強さで逆撫でされる。


だとしたら、見なくなった片方がやたら厳しく叱っていたのは、案外、子供の素行を矯正しようと躍起になり過ぎていたのかな。


残った片方のあの反応も、少し過剰だったもんなぁ。子供の個性が尖ってて、相棒が戦線を離脱して、その上もし子供が変なののとこに行っちゃって、たかが影踏みくらいで難癖つけられるなんてしたら、あんな感じにもなっちゃうよなぁ。


こっちはなんもしてないのに。


するつもり全然ないのに。


あんな、何かされるかもみたいな感じに。


袋から缶を取り出して、飲みながら通路を進み、ベランダで煙草へ火を点ける。いつもは酒と煙草に溺れさせている見苦しい被害感情が、干上がって浅くなった水面から顔を出している。


はいはい。落ち着け。言い掛かり。酒飲んで煙草吸って黙っとけ。


そもそも頭ぼさぼさで風呂入ってないし着替えてない。だから引かれて当たり前。通報されないだけ良かった。


すっごい警戒してたからなぁ。常識通じないやばいやつ判定されたんだ。好きでやってると思ってんのかな。こっちがどんな目に遭ってこうなってるか知らないで。


そんなの彼らが知る訳がない。関係ない。だよなぁ。他人事だよ。本人すら知らん顔だったんだから。あれだけ無茶苦茶しておいて、何のお咎めもないって、そっちの方がどうかしてる。


おかしいよなぁ。ふざけんなよ。


酒を飲む。煙草を吸う。普段と違う事をしたからか、どうもさっきから良くない。


こうして過去にばかりこだわっていたから、当初は親身に同情してくれていた人達も疲弊して離れてしまった。


反省して、記録だのワークだのきっちりやって、歯ぁ食いしばって向き合って、受け入れて、乗り越える努力を、必死に積み重ねて。


なんでやられたこっちの方がこんなありさまになってんの。


*


飲み干したアルミ缶を握りつぶし、俯いて常設の空き缶に吸殻を入れる。


黒ずんだベランダの床に、みすぼらしい輪郭の人影が、良く晴れた午後の日差しを受けて黒々と切り抜かれている。


どうしてだ。どうしよう。ごみも捨てられなくなる位ありったけの気力を振り絞って、漸く飼い慣らした筈の怒りが、込み上げて込み上げて止められない。


ばかな真似はするな。この上まだ迷惑かけんの。でももう呆れられてるし。一時的に悲しませたって。


どうせ皆しばらくすれば今みたいに忘れるでしょ。


結局こうなる奴のことなんか。


部屋に戻り玄関へ向かう。途中で台所に潰したアルミ缶を放る。ドアの外へ立った時には、片手に何か別の物を握っている。


やっぱり、こうなる奴って、分かる奴には分かんだろうな。だからそのうち自滅するって舐められて好き勝手踏みにじられたんだ。


あのとき止めろと制されて、別のやりようがあると窘められて、臆面もなく嘯いた不機嫌な声が蘇る。


だってそれじゃ面白くない。


そうだね。面白くないよ。


どうしてこんなことになったのか、思い知らせてやらなくちゃ。


握り締めた片手を見下ろす。


踏まれた影法師が見える。


ぐんぐん歩き出している。



終.

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影踏み 壱原 一 @Hajime1HARA

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