久下の悩み
「檜垣、ちょっといいか」
夏休み前の短縮授業を終え、午後から授業のない教室では、帰りにどこで昼食をとるだとか、どこへ遊びに行こうかと浮き足立つ会話が飛び交っている。そんな中、帰り支度をする冬亜の前に久下が仁王立ちしてきた。
「何?」
嫌な顔をわざとしてやった。こちらが反抗的な態度をとっても、今の久下には冬亜を咎めることが出来ないのがわかってる。分かっていての強気な態度だ。
「この間の件の、報告だ」
「ああ、中絶──」
「ばっ! お前声デカいんだよ」
そんなのワザとに決まってる。ほんと、バカなやつ。
腹の中で嘲笑いながら、「で、どうなった」と、軽く聞いてみた。
「ここ……じゃ」
周りを目線で伺うよう、久下が気不味そうに口籠る。
「分かった、じゃこの前のとこで」
鞄を持つと席を立ち、冬亜は教室を出た。その後を慌てて久下が追いかけてくる。前回とは反対の構図が、二人の立場が入れ替わっていることを示唆していた。
屋上に繋がる階段の踊り場で、冬亜は気怠そうに壁へもたれると、胸の前で腕を組み、挙動不審な久下を見据えた。
「で、病院は行ったのか」
話すきっかけの言葉を見つけられずにいる久下に、口火を切ってやる。
正直、久下の件は忘れていた。声をかけられるまで、どんな話しだったかも思い出せないくらいに。
「いや、それが……」
「まさか行ってないのか。金渡してから十日は経ってないか? 腹ん中、大丈夫なのか」
大丈夫──なんてセリフ、よくもまあ自分の口から出たもんだ。自分言葉に辟易する。
冬亜にとって、久下の妹や両親がどうなろうが知ったこっちゃない。中絶しようがしまいが、それがきっかけになって愉快なことにならないかと期待する程度だ。
「……金貰ってすぐ一緒に病院へ行こうとした。なのに綾香は一人で行くって言うし、しかも夏休みになってからって。同意書も付き添いもいらない、そう言われたんだ」
「まあ、同意書はいらないよな。拒絶できない状況で
「カンイン? 何だ、それ」
「不道徳なセックスのことだ。よかったな、一個賢くなったろ」
「はっ? 馬鹿にしてんのか──あ、いや何でもない。……不道徳か、確かに行為も相手も不道徳だよな」
以前の久下なら金を借りる相手であろうが自分がマウントを取り、頭ごなしに暴言を吐くのが常だった。だが、妹の話はただ金を貸すだけでは終わらない。自分の父親が妹をレイプしたなど、周りに知られれば格好のネタになる。
あっという間にSNSで面白おかしく拡散され、退屈な人間へ最大の好奇心を植え付けることになる。
冬亜がスマホで呟けば、自分の行く末がどうなるかなんて馬鹿でも想像できるから久下も警戒しているのだろう。
今日も借りてきた猫のようにおとなしい。
「じゃこの話は、今じゃなくて病院行ってからでもいいだろ」
「まあ、そうなんだけど……」
奥歯に物が挟まった言い方の久下に、若干の苛立ちが生まれる。
「はっきりしないな、何が言いたい?」
「いや、その……俺──」
「俺?」
胸の前で組んだ腕の左右を組み替えながら、鬱陶しさを溜息で表した。
冬亜の態度にビクつく久下がまた面白い。
「……この前お前に言われて、やっと気付いたんだ」
「俺が言ったこと? 何て言ったか覚えてないんだけど」
「あいつ──綾香のことが好き、だってことだよ」
「ふーん。で?」
「だ、だから親父に謝罪させたい! 綾香にした事を……。でも相手は親だ。どうすればいいか分からない。だからお前に相談したいんだ、母さんには知られないように」
一気に思いを口にした久下を見下げ、冬亜は「無理なんじゃないか」と、吐き捨てるように言った。
「どう言うことだ」
「母親に知られないよう親父を罰したいんだろ? でもそんなこと無理だ。母親にはきっとバレる」
「お前は頭良いんだろ? そんなこと言わずに何か考えてくれよ」
壁に体を預ける冬亜に、久下が目の前まで詰め寄ってくる。今にも崩れそうな弱々しい顔だ。
家庭内に起きたスキャンダルを学校の連中が知れば──。久下はそれを一番恐れている。
久下がどうなろうと、冬亜の答えは最初から決まっていた。ただ、どんな形で拡散するかはゴールが見えてから決める。
週刊誌の記事に例えると、今はまだ書き出し部分。続きを次週に──と引き伸ばされると、今の読者は飽きてしまう。早いとこ結末が知りたいと欲求が止まらないのだ。
久下の家族が晒し者になっても、この国の人間は自分が関与していなければ、ドラマを観るようにただの傍観者を決め込む。いや、どこの国の人間も同じかもしれない。
世の中の人間、みんな自分が優位に立って幸せなら、そこを守ろうとして他人の不幸から目を逸す。
実際、冬亜は親に売られた。モノ扱いされて、たまたま拾われただけ。長く生きようなどとは鼻から思ってない。幸せなんて言葉は物心ついた時に諦めて捨てた。
「母親に言ってみればいい」
「いや、だから母さんに知られないようにって、今そう話したばっかだろ」
「それは無理だろう、これもさっき言った。あのな、お前の話だけじゃ信憑性がないんだ。妹の自白がないと、親父を処刑することも母親に信じてもらうのも今の段階では無理だ。お前に信用性がないのは自分が一番わかってるだろ」
「処刑ってそんな言い方……」
「親と縁を切る覚悟くらいないと親父には挑めない。お前は妹が好きなんだろ?」
「ああ、初めて兄妹になった時から、たぶん」
久下の返事を聞いて、冬亜は吹き出しそうになった。一昔前のドラマのようなセリフを今時の高校生が口にするのはなんて滑稽なんだ。
「──母親を味方に付けるしかないだろう。妹と一緒に話せばいい。親父と離婚してもらえよ。一家離散よりはマシじゃね?」
意見を──と求められた末、自分がえらくまともなことを言ってると思った。そんな自分に虫唾が走り、ぶるりと小さく身震いしてしまった。
「なんだよその言い方! 人の家のことをなんだと思ってるんだっ」
突きつけられた言葉に心を抉られたのか、睨みつけるような目で久下が凝視してくる。
「じゃあなかったことにして、これまで通り親父と暮らせるのか? それにこんな話し、クラスの連中が知れば
「なんだよギフって、さっきから小難しい言葉ばっか使うなよ」
「本当に大切な人間だけ守ればいい。それが久下に取っては妹なんだろう、実の父親を捨ててでも。家族が壊れても、俺はそれが最善だと思うけど」
前向きに聞こえる冬亜の言葉が心に響いたのか、久下が脱力するようその場にしゃがみ込んだ。平伏した体から差し伸ばされた手が、冬亜のズボンの裾を掴んでいる。
「わ……かった、それしか方法がないのならまず綾香に話す。そして母さんに相談してみるわ。正直ビビるけどな。病院にもやっぱり付き添うよ、あいつの体が心配だしな」
「まあ、好きにしたらいいけど。俺は関係ないし」
そろそろ話の終焉が来たと思い、床に置いてあった鞄を肩にかけたその時、階下から誰かが上ってくる気配に気付き、冬亜は唇の前に人差し指を当て、久下に口を閉ざす仕草をして見せた。
足音は徐々に近付き、久下の顔が音に比例して蒼ざめていく。もしかして誰かに話を聞かれたのかもしれない、頭の中で久下が焦っているのが手に取るように分かる。
「あー、こんなところにいた。探したよ冬亜。一緒に帰ろって、あれ、久下と一緒……。ちょ、もしかして──」
「何でもない。それよりこんなとこまで来て、ストーカーか」
久下から何かされたのか、あらかたそんなことを考えている表情の葵葉を遮ると、冬亜の真意を悟ったのか、言いかけた言葉を喉へ押し込み、頬を伝う汗を拭いながら、安堵したような笑みで冬亜を見てきた。
もしかして自分を探し回った汗かと想像したけれど、同時にバカじゃないかとも冷嘲した。姿を見かけなければさっさとひとりで帰ればいいのに。
「だって来週から夏休みだろ。今週を逃すと冬亜と一緒に帰る日が当分ないしさ。それに話したいこともあったから」
最後の言葉に含みがあったと思ったのは考えすぎだろうか。心当たりがあるだけに、葵葉を優位に立たせくはないと、防衛本能が顔を出す。
取り敢えず、今日は大人しく付き合おう。そう思った冬亜は久下を一瞥し、視線で先に帰れと指示を出した。
「えーっと、じゃあ俺帰るわ。じゃあな、檜垣」
白々しく退散する久下が、階段を上ってくる葵葉の横を通り過ぎ、早足で駆け降りて行った。
「なあ、久下と二人で何してたんだ」
不安そうな顔のままで葵葉が踊り場まで上ってくると、徐に冬亜の腕を掴んできた。
「何すんだ。離せ」
「久下のやつを追いかけて問い詰めようか? お前にもし何かしたなら──」
「何もされてない。それに何かあってもお前には関係ないだろうーが。ってか何だよこの間から。ほっとけ、この手を離せよ」
放った声がコンクリートの壁に反響し、音の大きさに一瞬、ピクっと反応した葵葉の手を思いっきり振り解いた。すると、今度は階段を降りようとする冬亜の鞄をすかさず掴んでくる。
「俺は冬亜をほっとけないんだ。冬亜があいつらを何とも思ってないって分かってるけど、目の前で友達が酷い目に遭ってるのを無視はできないよ」
「酷い目? アイツらがすることなんて大した事ない。くだらない正義感で俺にかまってくるんじゃねーよ」
いい加減に腹が立つ。これまで蓄積された感情が爆発し、理不尽なこととわかった上で苛立ちをぶつけた。
これまでなんの苦労も知らず、この年まですくすく成長してきました、みたいな考え方の人間に何がわかる。ヘラヘラ笑いかけてくる呑気な顔にもずっとイライラしていた。
「大したことあるよ。だって冬亜の笑った顔を俺は見たことがない」
「はあ? 何言って──」
「せっかく縁あって俺達は同級生なんだ。もっと親密な関係になりたいって欲張ってもいいだろ」
「なんだ、親密ってっ」
こいつは何をいきなり言い出すんだ。冬亜の表情で何かを悟ったのか、葵葉が鞄を掴んだ手に力を込めると、冬亜の体を自分の方へと引き寄せようとしてくる。
「そう、親密。いや、親友か。それにほら、俺ら二人には秘密があるし」
「秘密? そんなもの──」
そんなものない、と言いかけたけれど、渋谷の繁華街で見たと言う葵葉の言葉がよぎった。
こいつは俺がバーに出入りしてるのを知っている。でもそれを見てる葵葉本人も同じ場所にいた。こいつが言いたい秘密ってこのことか。
二人の秘密とやらを聞かされてからは一緒に帰ろうだの、名前で呼び合おうだのと、葵葉から色々要求された。もしかしたら、この先はもっと厄介なことを脅迫されるのか。ちっぽけでくだらない関係を望まれるくらいなら、チクってくれた方が対応しやすい。
校則を破り、素行が悪いと判断されれば、今の家を無一文で追い出されるかもしれない。冬亜の心配はそこだけで、葵葉が同じ場所で何をしていたかなんてどうでもいい。
「思い出した?」
屈託のない笑顔で冬亜の顔を覗き込んでくる、女子顔負けのあどけない表情。そんな人間が、なぜ誰とも馴染まない人間にかまってくるのか。その真意がわからない。
「……ああ」
「じゃあ帰ろっか。あ、腹減ってない? 何か食って帰ろうか。えっと、ハンバーガーとか牛丼とか。それとも甘いもん? 冬亜は何が好きなんだ?」
楽しげに寄り道を提案してくる横顔を注視し、意にそぐわない誘いでも、葵葉の本性がわかるまで冬亜は彼のペースに乗ることにした。
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