連(むらじ)

 緊張する……。

 約束の時間より十五分くらい早めに着くよう大和に言われ、葵葉はきっちりとそれを守り、向葵あおい出版社へと到着していた。

 日曜なこともあり、ビルの一階にある受付には人がいない。自動扉を通ったものの、エレベーターに乗るのに尻込みしていた。


 大和にいの会社があるのは八階……か。


 壁に設置されている案内板を見上げ、葵葉は生唾を飲み込んでその場に佇んでいた。

 他の階の会社も休日のためか人の出入りはなく、節電のために灯りも疎らにしか灯っていない。

 晴れた日なら全面ガラス張りで囲まれたロビーには、外から日差しが燦々と注ぎ、日中は灯りを点けなくても事足りるのが想像できる。だが、今日は生憎の曇り空で、自然光は乏しく、薄暗い空間が余計に葵葉の不安を増長させていた。


 エレベーターのボタンへ指を伸ばしては躊躇うを繰り返していると、背後に人の気配を感じ、勢いよく振り返ったと同時に鋭い眼光を浴びた。

「何だお前。学生か? こんな所でなにしてる。子どもがうろちょろする場所じゃないぞ」

 不機嫌そうに声を荒げたのは、無精髭を鼻下に残し、Tシャツに半パン姿の男性だった。

 手にしていたコンビニの袋を持つ手を胸の前で組み、少し高い位置から睨みを効かせてくる。


「あ、あの。お、俺──」

「あー、わかった。お前も、編集の仕事に憧れてーとかって口だろ? 見たところ高校生っぽいな。けど、そんな就活紛いのことは大学生になってからにするんだな」

 葵葉を追い払うよう手の甲をひらひら振り、半パンの男性がエレベーターのボタンを押した。

 男性の態度に怯んだけれど、面接時間が押し迫っていることに焦り、男性に返事をすることも忘れて、扉が開くと彼の後に続いて乗り込んだ。


「あ、おいっ! お前何乗ってくるんだ。帰って勉強でもしろよ」

 ギョッとしている男性に向かって、葵葉は深々と頭を下げた。

「す、すいません。つい、一緒に乗ってしまって。でも俺、時間が──」

「お前何がしたいの? こんなとこ、学生は用がないだろ。ったく、こっちは休日返上して記事書かなきゃいけないってのに」

「あ、あの。でも俺、今日ここへ──」

 葵葉の声を無視し、男性が三階ボタンを乱暴に押した。


「ほら、もう三階ここで降りろ。んで、さっさと家に帰れ」

 威圧と睥睨へいげいを向けられた葵葉は強引に背中を押され、有無も言わさず三階へと降ろされてしまった。

「あ、あのちょっと──」

 言葉を遮断するよう扉が閉まり、葵葉は用もない三階のフロアで茫然と立ち竦んでいた。しかしそれは数秒間だけで、スマホで時間を確認すると、もう一度エレベーターのボタンを押そうとしたが、上昇していく階数に諦め、非常階段の扉を見つけると慌てて踵を返した。


「もう約束の時間だ、急がないと」

 トートバッグを肩にかけ直すと扉を開け、一段飛ばしで八階を目指した。

 息を切らし、ようやく目的の階に辿り着いたのは面接時間の三分前だった。

「せ、せっかく早く着いて、たのに……」

 ただでさえ汗ばむ季節。大切な面接の前に汗臭くなるのは絶対避けたかったのに。

 頬を伝う汗を手の甲で拭い、眉根を寄せた。それでも遅刻するよりはマシだと思い直すと、向葵出版社と書かれたガラスドアの前で大きく深呼吸して息を整えた。

 ドアの向こう側に見える社内の様子を伺うと、電気は点いておらず、人の気配も感じられない。


「今日で合ってるよ……な」

 初めてのことを前に不安に駆られながらも、ドアの横にあるインターホンを見つけると震える指で覚悟決める。

 ボタンに触れようとした瞬間、ガラスの向こう側に立つ半パンの男性と目が合った。

「あ、あの──」

 問いかけようとした言葉は、ドアが勢いよく開かれた音で掻き消されてしまった。おまけに半パンの男性が飛び出してきたものだから、思わずドアから身を離した。


「お前まだいたのかっ! 何の用だっ」

「いえ、あの俺は──」

「おー、むらじ。何騒いでんだ」

 廊下の端から野太い声が聞こえ、振り返るとそこには四十歳くらいの、坊主頭にスーツ姿の男性が珈琲を片手にこちらへと近付いて来た。

「編集長ー、こいつ不法侵入ですよ。警備の人呼んでください」

「ふ、不法って。ち、違います。俺は──」

「不法? ああ、違う違う。この子はきっと、大和の紹介で来た高校生だろ」

「大和さん? 何っすか、大和さんの紹介って」

 連とよばれた男に冷ややかな一瞥を喰らうと、葵葉は慌てて深く頭を下げた。


「は、初めまして。ほ、本日アルバイトの面接で参りました、水久里葵葉と申します。大和にぃ、いえ、うちの大和がいつもお世話になってます」

 床に激突するくらいの勢いで二回目のお辞儀をした。

 自分では完璧な挨拶をしたと思ったが、それがどうやら違ったのか、野太い声で爆笑されてしまった。


「いやいや、大和にはこっちが世話になってるよ。君が従兄弟君か、やつの紹介でバイトしたいって言ってる」

「は、はい。よろしくお願いしますっ」

 これで三回目のお辞儀だ。笑われたことで焦った葵葉は、勢い余ってトートバックの中身を溢してしまった。

「大和さんの従兄弟? 編集長、俺聞いてないっすよ」

 口を尖らせる連がしゃがみ込んで、バックの中から飛び出した財布やスマホを拾ってくれた。ありがとうございますと言ったけれど、連は編集長と呼ばれた男性にぶつぶつと文句を言って葵葉の声は聞こえてない。


「何でお前にいちいち話す必要があるんだ? 大和の従兄弟がバイトしたいってだけだ、お前も仕事が楽になるし文句ないだろ」

「そうっスけど……」

 どこか不服ありげな顔の連が、拾い上げた持ち物を手渡してくれる。親切でも無言は怖いからやめて欲しい。それでなくともこちらは緊張してるって言うのに。

 受け取りながら礼を言おうとして、連の目と交差した。

 彼が葵葉を見る眸には何となく敵意が込められてるように思え、咄嗟に視線を逸らしてしまった。


「えっと、葵葉君……だったね。俺はここの編集長で隠岐おきってんだ」

「み、水久里です。高校二年生です。よろしくお願い致しますっ」

「うんうん、元気いいね。でも緊張してるのかな? そんなに汗だくになって」

 額や首元を伝う葵葉の汗を、なぜか隠岐が嬉しそうに見ながらドアを開けてくれると、応接室らしき部屋へと案内してくれた。中はひんやりとエアコンが効いており、汗の纏った肌と舞い上がる気持ちを少しずつ冷やしてくれる。


「あ、あの、エレベーターが最上階にいて待てなくて階段を使いました。すいません、俺、汗臭いですよね……」

 自身の腋窩へと鼻を寄せ、体臭を確認する仕草の葵葉に、隠岐が徐に腕を伸ばしてくると、華奢な肩はワイシャツの胸へと引き寄せられてしまった。

「うーん、現役の男子高校生の汗の香り。それもこんな可愛い顔した子のはたまらないなぁ」

 陶酔したような顔で隠岐が、鼻頭を葵葉の胸元へと近付けてくる。予想もしない彼の行動に一驚し、葵葉は陸に上がった魚のように口をぱくぱくとさせていた。


「ちょっと編集長。初対面の若者にご自身の癖をアピールしないで下さいよ。彼が怖がってるでしょう」

 連に叱責され、はたと我に返った隠岐が、ひと言咳払いで切り替えると、椅子に座るよう指し示してきた。

「失礼……します」

 おずおずと腰掛けると、履歴書を差し出し喉を鳴らした。

「連、お前も暇なら面接付き合うか? 大好きな大和先輩の従兄弟君だし」

 茶化すよう隠岐が自席へ戻ろうとする連の背中に声をかけている。

 

 へえ、この人、大和にいのことが好きなのか。じゃあ悪い人じゃないな。


 二人のやり取りを見ていると、連と目が合った。やっぱり自分に向けてくる眼差しは厳しいように見える。


「……結構です。それにさっきは俺に話す必要ないって言ってたでしょ。早く記事仕上げて俺はとっとと帰りますよ、休日なんでね」

 ぶっきらぼうに吐き捨てると、連が部屋のドアを閉めて去って行った。

 去り際に見せた彼の視線は何か言いたげに見えたけど、目の前にいる面接官──もとい、隠岐が、あいつ拗ねやがってとニヤニヤしてるのも気になった。

 自分の存在が彼の何かを刺激してしまったのだろうか。大人の働く世界に飛び込むことを安易に考えてしまっていたと、葵葉は心の中でしゅんと萎れた。


「じゃ、愛想なしはほっといて。えーっと、今高二だから受験は来年か。大学には進学するんだろ?」

 会議室なのか、大きな机と数席の椅子が占める部屋で面接が始まると、隠岐が履歴書を広げながら上目遣いで訪ねてくる。その姿は、ついさっき葵葉の肩を組んでふざけていた人間とは一変し、坊主頭が際立つ鋭い眼光に変わっていた。

「はい、大学には行きたいです。それで入学金を貯めたくて……」

「ご両親が他界されたから自分で稼ぐ──ってとこか。でも費用くらいは、大和の親御さんが蓄えてんだろ?」

 大和から前もって聞いているのか、隠岐の口調は答え合わせをするような問いかけだった。胸ポケットに手を掛け、煙草を取り出そうとし、はたと気付いて一瞬顔を覗かせた小さな箱を押し戻している。


「大和に──大和さんや水畑の叔父さん達にはそう言ってもらってます。けどそこまで甘えられないです。ただでさえ高校に行かせて貰って、生活の面倒を見て貰ってるんです。だから大学でもっと勉強して、水畑の家族に恩返しがしたいので」

 膝の上で作った握りこぶしに爪を食い込ませ、真剣な目で隠岐の顔を見つめて言った。

「随分と優等生な理由だな」

「すいません。でも俺、いえ僕の正直な気持ちです」

 心臓に穴が空いたみたいに呼吸がしづらい。

 生まれて初めての社会を感じ、これまでいた自分の環境が真綿に包まれていたのだと改めて自覚した。


「なるほどな。で、いつから来られる? もうすぐ夏休みだろ、学校なけりゃ朝から平気だよなっと、あ、部活とかあんのか」

「いえ。部活は入ってません。なので、夏休みは夏期講習と登校日以外は来ることができま──って、あのそれって……」

「ん? ああ、採用な。大和の従兄弟君なら問題ない。それに無事大学入学したら俺のお陰ってことにもなるだろ? そうなれば定年まで大和をこき使ってやれるし」

 坊主頭を撫でながら隠岐が口にすると、葵葉は真っ青になった。

 採用……になったのは嬉しい。けど、そのせいで大和が社畜のようにこき使われる? そんな事あってはならない、絶対に! 大和の未来がよぎった瞬間、葵葉はその場に立ち上がり、机に額を擦り付けるよう頭を下げていた。


「へ、編集長さん! お、お願いですから、大和にいに酷くしないで下さいっ」

 両目を固く閉じ、四度目のお辞儀で嘆願していると、下げた頭の上からガハハと降り注いでくる。さっき聞いた野太い笑い声だ。

 葵葉がそっと顔を上げると、

「あー、こんなに笑ったの久しぶりだわ。葵葉君、君は最高だな。いやー、腹痛い。大和にも明日言ってやろーっと。お前の従兄弟君はマジで可愛いってな」

 隠岐が何を言っているのか分からない。ただ自分のせいで大和が不当な扱いをされるのは耐えられない、その一心からの嘆願だったのに、どうも様子が違う……。


「あの、俺やっぱりバイトは──」

「いやー、笑った笑った。じゃ葵葉君、そう言うことで。詳細はメールしとくよ」

 そう言うこと……? どう言うこと? 意味が分からない……。

 不安げな顔を悟ったのか、隠岐が腕を差し伸ばし、満面の笑顔で葵葉の頭を撫でてきた。大和のことが気がかりで問いかけてみようとしても、面接はいつの間にか終わった雰囲気で、声をかけられないまま隠岐に退室を促され、葵葉は一礼してドアを閉めた。


 事務所を出ようとドアを開けた葵葉の背中に、「よお、終わったのか」と連の声が刺さり、慌てて振り返った。

「あ、はい。あの、お邪魔しました」

 また怒られるのではと身構えていると、「採用なんだろう」と、ぶっきらぼうに言われた。

「はい……すいません」

「何でお前が謝る。謝るのは俺のほうだろ。ほらっ」

 声と共に連の手から放たれたペットボトルを、咄嗟に胸元で受け止めた。

「えっ? あのっ」

「お前さっき編集長に言わなかっただろ、俺がエレベーターから閉め出したって」

 手近にあった机に腰を下ろしながら、連が腕組みして射竦めてくる。

「あ、それは……」

「それは?」

「だって当たり前かなと思いましたから」

「当たり前?」

「はい。こんな休日に、見たこのない学生が社内をウロウロしてたら、誰だって警戒します。だから、む──」

「連だ。連記紘むらじふみひろ

「む、連さんが俺を追い払うのは当然のことです」

 自分のことを気にかかてくれた連に嬉しくなり、葵葉は柔らかく微笑んだ。


「当然のこと、か。ふーん、やっぱお前って大和さんと血が繋がってんだな。そんなとこよく似てるわ」

「そうですか? でも似てるって言われて嬉しいです。俺は大和にいを尊敬してますから。あの、今日はありがとうございました、これからよろしくお願いします」

 再び頭を深く下げ、バネのように軽快に上半身を起こした。その反動で癖癖っ毛がふわりと揺れ、前髪の隙間から少し戸惑っているような連の視線と絡まる。

「あ、それとコレありがとうございました。緊張してて喉乾いてたから嬉しいです」

 スポーツドリンクを顔の横で掲げ、葵葉は満点の笑顔で礼を言った。

「あ、ああ。それくらい──」

「じゃ俺はこれで。失礼します」

 最後に軽く頭を下げると、踵を返しエレベーターの方へと向かった。

 背中に連の気配を感じ、振り返ると葵葉を見送ってくれている。何だか嬉しくなって、ペットボトルを持った手を上に上げると、もう片方の手と一緒に大きく左右に振って見せた。

 お愛想程度にでも連も手を振ってくれたことも嬉しく、葵葉はスキップするようにエレベーターへと乗り込んだ。

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