葵葉の後悔

「うん、いいんじゃないか。字も丁寧に書けてるし」

 書き上げた履歴書を仕事から帰宅した大和にチェックしてもらい、不備のなかったことに葵葉はよかったぁと、胸を撫で下ろした。

 拝田と言う高校の先輩と木船、そして冬亜……。この三人に共通するものや、休日に会う程の関係だったことが気になり、集中を欠いた結果、履歴書は二度書き損じた。

 ようやく大和にお墨付きをもらうと、書類を大切に封筒へと入れた。


「あ、そうだ、面接って何着てけばいい? やっぱ制服が無難なのかな」

 リビングを落ち着きのない様子で彷徨う葵葉を見て、口に入れたカレーを吹き出しそうになる大和がいた。

「ちょ……ゴホッ、ちょっと落ち着けって。ホントお前って可愛いやつだなぁ」

 気管に入ったのか、苦しそうに水を流し込む大和をジロリと一瞥し、自分にとって明日は勝負の日なんだと目で訴えて見せる。


「まあまあ、そんな気負うなって。編集長はいい人だからさ。お前のことをとって食おうなんて思ってないし。ま、ちょっと変な人だけど」

 大和がカレーを頬張りながら、葵葉に片目を瞬かせて見せる。

「変な人かどうかは置いといて、大和にいの上司だろ? 俺、面接で変なこと口走らないようにしないと。あ、だから服装だよ。何着てけばいい?」

「服か……。何でもいいんじゃね? 清潔で高校生らしかったらさ。それより俺のこと聞かれても、何でもかんでも教えるなよ。編集長にもだけど、他の社員にもな」

「何、大和にい。もしかして会社では猫かぶってるの? それだったら俺言っちゃおうかなぁ。朝は起こしても起きない、だらしない従兄弟なんですって」

 すっかりカレーを平らげた大和が不敵な笑みを浮かべ、「葵葉ちょっと」と、笑顔で手招きしてくる。


「何? おかわり?」

 呼ばれれば素直に従う性格の持ち主は、ソファでくつろぐ大和の側に行くと、勢いよく体を抱き抱えられ、脇腹をこれでもかと言うほどくすぐられた。

「あーおーばー。お前はいつからそんな生意気な口を聞くようになったんだ。俺に逆らったらこうなるって学習しろよ」

「ぎゃっ! うっ! く、くすぐった……。や、やめて。こ、こそばいって。ひっ、もぅ、もうやめ──」

「ほらほら、俺に逆らうなよ。わかったかー」

「わ、わかっ──わかったってばー。もう、腹いたいって」


「こーら、いい大人が何してんの。大和、食べ終わったならお皿下げちゃって。もう、葵ちゃんが苦しがってるじゃない」

 タッパのある社会人の男と、成長盛りの男子高校生が所狭しと、リビングで暴れてるのに、大和の母親が呆れ顔で叱責してきた。

「はいはい、わかりましたよ。ほんと、母さんは葵葉に甘いんだから。俺なんか今日休日出勤して、身も心もヘトヘトなのに」

「それでも好きな仕事なんでしょ? 文句言わずに働け。お給料貰ってるんだからね」

 正論を言いながら、テーブルの上を布巾で拭くと、待ちきれないと言わんばかりに彼女がテレビのリモコンを手にした。


「おい葵葉、二階に行くぞ。母さんの好きなドラマが始まるから。うるさくしてたら、またドヤされっから」

「うるさくしてるのは、大和にいだけなんだけどねー」

 涼しい顔で言うと、すぐさま葵葉はしまったと言う表情を見せた。

「あーおーば、お前まだわかっちゃいないのか」

 地雷を踏んだ葵葉の首に逞しい腕が巻き付き、ヘッドロックをかけられそうになると、テレビの前で待機してる後ろ姿が大きな咳払いをした。

「あ、ほら。おばさん怒ってる」

「ああ、カミナリ落ちる前に退散だ」

 ドタドタと階段を駆け上がり、葵葉は改めて大和に礼を言うと、自室へと戻った。


 封筒に入れた履歴書をトートバックの中に入れ、クローゼットを開けた。

 ハンガーを左右にスライドさせながら、大和からのアドバイスに合う服を物色する。


 高校生らしい服……、高校生らしい服……。


 口腔内で呪文のように呟くと、葵葉の手が白い半袖のシャツに触れた。それをハンガーごと出してみると、去年の夏に大和から貰った自分では買えないブランドのシャツだった。

 ボタンダウンカラーに、胸ポケットの小さなワンポイントが、シンプルで大人っぽく見え、葵葉のお気に入りトップスリーに入る夏服となった。

「うん、これにするか。あと下はデニムでいっかな」

 姿見の前でシャツを胸の前にあてがい、満足そうに眺めた。


 まだ面接に受かった訳でもないのに心は浮かれている。なんて言ったって、自立する目標に少しでも近付いたからだ。

 ふと、机の上に目を向けると、両親と弟と四人で写っている写真が目に入る。そして、その横にはもう一つ別の写真たて。


 母親を二人も失うことになるなんてな……。


 二つの写真を手にすると、心の中で呵責が渦巻くのを実感していた。

 後悔を煩わせたままこれまで生きてきた。

 自分だけ温もりを与えて貰い、何も返せてないまま大切な人達を失った。そんな度し難い過去を今だにずっと引きずっている。


 四人の写真に目を向けた後、もう片方の手の中にある写真に目をやる。幼い葵葉を抱き抱える笑顔を指で辿り、ギュッと唇を噛み締めた。

 葵葉が小学四年生の時、病気でこの世を去った母。彼女が病魔に蝕まれているのを知る少し前、葵葉は虐めに遭っていた。

 虐めの発端は些細なことだった。クラスの女子の好意を無下にしたと言う、葵葉には身に覚えのないことが原因だった。


 小三の子どもだった葵葉には、相手の女の子が自分に構ってくることに煩わしさを感じ、素直にそれを態度に出してしまった。すると彼女からの好意が徐々に敵意へと変わり、男子にまで屈折して伝わる結果を生んだ。

 女の子に真実を話せば悪化すると幼いながらに思い、家では学校は楽しいと振る舞い、担任の前では何でもないとひたすら隠し通した。

 けれど頻繁に汚れる服、短い期間で買い足していった文房具など、その異変に気付いた母が学校に乗り込み、担任や校長を前にいじめの立証をするように訴えた。

 それが加害者側の耳に入り、葵葉への攻撃は途絶えるどころか増していくばかりだった。


 それを俺はお母さんのせいにしてしまった……。


 虐められていることを母に八つ当たりした。

 だがこの時、葵葉は知らなかった、母の体が悪性腫瘍に蝕まれていることを。

 葵葉を心配した母は治療を後回しにし、我が子のことだけを心配していた。そして、病は容赦なく母を死の淵へと連れて行こうとした。


 子どもだった葵葉は自分が辛い思いをしてるのを母のせいにし、ろくすっぽ見舞いにも行かず、とうとう母はこの世を去ってしまった。

 慈しまれている実感はあった、大切に思われているのもわかっていた。でも、それに答える言葉を意地を張って口にしなかった。

 後悔してももう母は帰らない。謝りたくてもこの世にもういない。

 葵葉は殻に閉じこもり、無口になったまま日々を過ごした。


 数年後、追い討ちをかけるように、父は新しい母を自宅へと招いた。

 妻を亡くした父が弱っていたことも知っていた、義母も優しくていい人なのも分かっていた。食事も葵葉の好物をいつも沢山作ってくれた。久しぶりの手作りのお弁当は本当に美味しかった。けれど、素直に感謝を伝えようと試みても、閉じ込めていた過去が邪魔をした。


 そんな時、義母が妊娠した。生まれた弟は小さくてとても可愛かった。

 同時に葵葉の中で、拭いきれない疎外感が生まれてしまった。自分だけが家族と繋がりのない、一人ぼっちの人間だと思い込んだ。

 その気持ちを義母へ向け、彼女を悲しませた。


 本当は言いたかった……。ありがとうや、ごめんなさいを。


 素直になる気持ちを思い出し、少しずつ義母と向き合うことを決心した。その気持ちは彼女にも伝わり、嬉しそうに泣き笑いしていた顔は今でも忘れない。

 細い指で鼻頭を突かれ、夕食は何がいい? と言ってくれた。

 嬉しかった、自分も家族の一員だったと実感できた。でもそんな矢先、あの事件は起こった。


 俺は一生、二人の母さんにごめんと言えなくなった……。


 何度も同じ言葉を頭の中で呟き、悔やむ度に瞼の裏が熱くなる。

 キッチンやリビングに家族の気配を感じると、双眸はすぐ荒れ模様になってしまう。

 葵葉は写真を机に戻すと、手の甲で目尻を擦った。

 大切な人達を一瞬で奪われ、後悔も懺悔もできなかった。

 自分の人生はまだ続く。だから決心した。生きていく中で出会う人達へ後悔しないよう、たくさんの言葉をかけよう。

 相手が大人であろうが、子どもであろうが、言葉が通じなくても、笑顔でいればなんとかなる。


 相手の感情が後向きでも、奥にある事実を見逃さないように声をかけよう。


 ──人は諦めないようできている、だから優しくなれる。


 大和の手掛けた雑誌に載っていたこの言葉が、葵葉の心強い指針になっていた。

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