13章 聖堂崩落

第49話 王女の苦悩

 王都が怪異に揺れている。その動揺と混乱は、宮廷の周辺にも伝わっていた。

 不正、不浄の執政庁が――それが真実かは兎も角も――市民と王党派の狂騒に焼かれて以来、幾何かの日も経った。興奮も不安に変わる頃合いだ。例え馬鹿げた流言であっても、市井の騒ぎは大火になりかねない。

 それにつけても。

 蒸気を吹いて闊歩する鉄の巨人。晩鐘塔を見下ろすほどの大きな人影。貴族や豪商を襲っては、高笑いと共に消える謎の怪人。流言だけかと思いきや、石畳を抉り、屋根が飛び、丸裸の貴族が日々吊るされている。奇怪な物証は枚挙に暇がなく、もはや悪戯で済む規模ではないという。

 馬鹿々々しい。ペトロネラは報告書を放り投げた。

 とうとう、世迷言まで手元に上るようになった。本来なら執政庁が楯になり、屑籠に投げる案件だ。スルーズが退場して以来、執務に混迷が増している。

 王党派など何の役にも立たない。無能貴族の議会など、王都にとってはお荷物に過ぎない。商会、教会の肩入れのせいで無駄に生き恥を晒しているだけだ。

 とはいえ、もはや宮廷は言い成りにならざるを得ない。その責任の一端は、血統の散逸を阻止しようと足掻く自身にもある。自業自得だ。

 ペトロネラは嘆息とも呻きともつかない息を吐いた。

 いや、商会はまだ理解が易い。生かさず殺さずは確かだが、利を増す肥やしも撒いて行く。厄介なのは教会だ。今の大司教は強欲が過ぎる。

 独立審問会の設立、新たな聖騎士の叙任、聖堂騎士団の強化再編などと。教会が独自の権限を以て無信心者を炙り出し、御柱に信心を抱かぬものを摘発、処罰する。その為の絶対的な権限に他ならない。

 人は御柱に傅く。十二の柱は異にするが、宗派の在り方はほぼ同じだ。これでは信徒が信徒を喰らう。教会は何と戦うつもりなのか。大地を均したスクルドでさえ、少しは異端に手心もあった。なのに、人がこの有様だ。

 文字の羅列が識別を拒む。ペトロネラは書類と思索を机の隅に押し遣った。

 自分はスルーズと護るものが違う。社会の安寧に興味はない。本質的には、王家の繁栄にさえも興味がなかった。それらは手段だ。御柱に預かる聖王家を、その血統だけを物理的に維持できれば、それで良かった。

 天界にあって御使いは機能だが、人の血肉を得た地上では本能に近しい。ペトロネラ・グランフェルトは古き王の血を護らねばならない。それを将来に渡って地上に存続させねばならない。血族神ブラッドのレイヴは血統の護り手だ。

 子を成せない皮肉な我が身を除き、ペトロネラは放蕩な二人の姉の、その血脈を維持しなければならない。重要なのは王位ではない。血統だ。そも、王家国家はその為にある。社会的な頂点は、それが最も存続しやすいからだ。

 とはいえ。

 会議、会談、積まれた書類。王女とは、もう少し優雅なものではなかったか。少なくとも姉の二人はそうだ。今この瞬間も豚のように飽食に耽っている。あれが庇護の対象でなければ、とうに捨てていただろう。

 最も血の濃い女王も今は亡く、腑抜けた父王は肩書さえ勿体ない俗な血筋だ。もう一人、捨てられた男児も父王の庶子。しかも、子を成せない役立たずとなれば、姉二人の血を繋ぐ以外にペトロネラの選択肢はない。

 盛大に溜息を吐きながら、ペトロネラは机の上に突っ伏した。

 未だあの日を夢に見る。王女としての責任も、主上の命さえ払い捨て、書類に溺れた自分を抱いて青空の下に攫う強い腕。あの、黒い瞳。

 机上に頬を押しつけたまま、ペトロネラはじたばたと藻掻いて椅子を蹴った。

 この想いは受肉の弊害だ。人の身の情動に過ぎない。遠征と徹夜で事故に遭い、おかしな具合に高揚した幻を見た。理解はしている。御使いの恥だ。

 それでも。レイヴとペトロネラの境なく、使いと王女の区別なく、どうしようもなく焦がれてしまう。己の趣味に呻くだけ呻いて、ペトロネラは暫し動かなかった。

 ふと身を起こし、背中に向かって声を掛ける。

「相変わらず不敬ですわね」

 平静だ。耳の端まで朱に染まっていようと、口調はすっかり落ち着いている。

「キミは相変わらず忙しそうだ」

 相手は猫のように気まぐれで、猫のように物音を立てない。淡い御使いの気配に振り返れば、いつもの悪戯な目がペトロネラの背中を眺めていた。

「貴方、スルーズを還さなかったのね。今度は何を企んでいるのかしら?」

 人聞きの悪い、とアベルはこぼした。

「彼女は自分の使命に目覚めただけさ。きっと市民なんかより大事なものができたんじゃないかな」

「あのスルーズが? 馬鹿々々しい。貴方の他はみな主上の命に忠実です」

 それはない、とは言葉にせずに、アベルはペトロネラに皮肉を返した。

「キミは政治ごっこに夢中なのに?」

 好きでやっている、などとはアベルも思っていない。神格に拘りながらも人の枠組みから逃れられない、そんなペトロネラを嗤っているだけだ。

「それで、いったい何の用?」

 ペトロネラは一方的に話を切った。自由神ケイオスもその使徒も、まったくもって忌々しい。嫌味にかけては十二柱の筆頭だ。

「今度の一般祭礼に席を二つ三つ融通して貰えないかな」

 ペトロネラは振り返って口許を顰めた。

「貴方、自分の役者を外しなさいな。わざわざ、私に頼むこと?」

 アベルが肩を竦める。

「だって、祭壇奥が欲しいんだ。大司教に近いほど有難い」

「エイラね? あれが誰だか判ったの?」

 アベルは悪戯な笑みを浮かべた。現状、教会は最大の障害だ。大司教の強引な行動は、エイラという絶対的な信仰の後ろ盾に起因している。

「何をするつもり?」

 正直、あの堅物はスルーズより扱い辛い。こちらから手を出すのは願い下げだが、ゲイラが勝手に揶揄うというなら、ペトロネラには願ってもない事だ。

「さあ、それはお楽しみ」

 ゲイラはどんな火種を持ち込もうとしているのか。いずれ、一般礼祭で騒動が起きても面子を失くすのは大司教の側だ。いっそ世界がひっくり返ってしまえ、と思うほどにはペトロネラも煮詰まっていた。

「――わかりました。用意しましょう」

「ありがとう、姉さん」

 アベルは大仰に頭を下げ――上目遣いにペトロネラの目を覗き込んだ。

「やっぱり、王になる気はない?」

 ペトロネラは手を振って、アベルを部屋から追い出した。

 それは幾度も考えた。野心家の求婚者にも事欠かない。だが、必要なのは物理的な聖王家の血統だ。なのに、放蕩な姉二人も子づくりだけは儘ならない。

 遂にとなれば、噂に聞く王墓の地下空洞にでも放り込み、豚のように飼うのも良いだろう。餌と男を山ほど与えて、増えてくれるのを待つより他ない。

 いっそ、最初からそうすれば良かった。それが御使いの本分だ。人などその程度のものでしかない。ただひとり、夢で出逢ったあの人を除いて。

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