第47話 魔女・御柱・名無きもの(前)
御使いの集う大卓は、今夜も長々と荒れていた。
みな人の身には地位があり、陽のある内は各々が人界を遊弋している。三々五々と集うのは夕餉の頃だ。日中、アベルの隠れ家に籠っているのは、ザイナスと彼の警護を自認するラーズ、革命で焼けた筈のオルガの三人だけだ。リズベットさえエステルと連れ立ち、
アベルの館の使用人たちは、皆を暇な客人と認識していた。追手がないのは此処だけだ。今度こそ、ザイナスも迂闊に外には出して貰えなかった。
執政庁の焼失以来、王都の日常は徐々傾いている。
それは、自走と惰性と盲目の真綿で首を絞めるような延命だ。オルガと王女の匿った都政機能は、今はまだ水面下での再構築を進めていた。
ただ、革命の残滓はザイナスにも飛び火した。執政庁の跡地に利権を漁る王党派が、オルガの留めた教会権域の通達を再開させてしまったのだ。
結果、遅れて届いた
ただ、魔物の脅威もさることながら、多くは政治的な理由からだ。即ち、教会派閥の問題だ。傾いだ王都は教会の有望市場、聖王家との天秤を覆す千載一遇の好機でもある。大司教の擁する強硬派が、その波に乗るべく台頭していた。
人界の権勢を操る魔女の画策は、全てにおいて的を射ていたと言えるだろう。
ザイナスは、昼夜を問わずアベルの隠れ家に幽閉されている。
とはいえ、ザイナスも慣れたものだ。オルガに為政の話を聴いたり、使用人に混じって屋敷の家事食事を手伝ったりと、不自由を気にする風もない。ラングステンの
皆に呆れられつつも、そうしたザイナスを見に戻る為か、御使いは早々に夕餉に集った。流れで今後を話し合うのが、ここ数日の日課になっている。
相変わらずの喧騒を眺めながら、ザイナスは頭の片隅で面倒事を並べて紐解いている。当事者ながら、役に立たないのも自覚はしていた。彼としては災難のない平穏な人生を、願わくば人として寿命を全うしたいだけだ。
「君は知ってた? 魔女のこと」
ザイナスが頬を傾いで振り返る。相変わらず肩先に陣取るアベルは、ザイナスの椅子の背に寄り掛かっている。いつの間にやら皆の定位置は決まっていた。エステルも変わらずザイナスの膝の上だ。
「あいにく、ボクにも予想外。けれど、さ。キミを狙っているのは同じじゃないか。多少、面倒な相手になった、それだけのことさ」
まるで他人事だ。
「だって、キミの厄憑きのなせる業だもの」
と、アベルはにべもない。
「魔女の力は御使いにも関わることだろう。もう少し真面目に考えたらどうだ」
「確かに、天上に及ぶ厄介事だね」
含み笑いに応えるアベルを、ザイナスは詰めた。
「これって、僕の問題じゃない気がするんだが」
つまり御使いの問題は、
「ボクが
アベルは悪戯な目をして微笑んで見せた。
「それに、キミは変わらず中心にいる。逃げられやしないよ」
うんざりだ、とばかりにザイナスは唸り返した。ただ、自覚はしている。自分に選ぶ権利はない。御柱が無信心者に配慮する道理などなかった。そっと息を吐くザイナスを見遣り、アベルは擽られた猫のように喉の奥を鳴らしている。
「魔女の力は脅威だが、いったいそれは何なのだ」
オルガが問う。相手は大卓の向かいのソフィーアだ。ところが彼女は上の空だ。何故か口許を緩めてザイナスとアベルを陶然と眺めている。
「ミスト」
オルガの頸筋がびきり、と引き攣った。
「魔女は魔女。此処にいない、誰かです」
詰められ、おざなりに答えつつ、ソフィーアはこっそり口許を拭った。オルガを見返し、収まり切らない表情を見て、やれやれと溜息を吐いた。
「容疑者はスヴァール、エイラ、レイヴ。ですが、魔女そのものは別では、と」
ソフィーアは大卓の皆を見渡し、よい機会だとばかりに言葉を続けた。
「僕が話したのは、誰でもない?」
ソフィーアはザイナスに目を遣り、理解が早い、と微笑んだ。
「別とは何、私たちの他に降りた者がいると?」
リズベットが問う。
「
ラーズも頷いた。
ザイナスの左右はリズベットとラーズだ。ともすれば大卓に脚を投げ出すラーズに、リズベットはザイナス越しに無作法なそれを払い落としている。
「だいたい、そんなの相手になんないでしょう」
クリスタが鼻を鳴らした。
「制御印で停められるし」
ビルギットが言い添える。
クリスタはザイナスの向かいでビルギットと並んで座っている。工房以外では溶けた氷のようなビルギットを、クリスタはまるで抱き心地のよい縫いぐるみのように扱っていた。当人は相当に迷惑そうだが、いまさら怒る気力もないらしい。
「天から降ったか地から湧いたかは兎も角も、あれは私たちの知らない何か」
「馬鹿げた事を」
「そう、馬鹿げた事。でも、その可能性があるのです」
ソフィーアはオルガとの応酬に、目線でザイナスを巻き込んだ。
「ザイナスさまには違うのでしょう? 何故、馬鹿げた事だと思うのか」
驚き訝しむ皆の目に、ザイナスはそっと肩を竦めた。
「天から降ったか地から湧いたか、皆それを知らないか」
応えるザイナスにソフィーアが目を細くした。
「そう。あれは使いの埒の外、私たち与えられなかった知識。ザイナスさまにはご想像の通り、
その言葉が得体の知れない疑念に変わる頃合いを見て、ソフィーアは言った。
「使いの受肉に付け入るのは天の類です」
ザイナスに目を遣り、リズベットが呟いた。
「そんなものが、本当に地上にあると?」
兄の趣味は知っている。教会の跡継ぎが卜占など褒められた趣味ではないが、のめり込まねば毒にも薬にもならない児戯だ。その程度の認識だった。
「魔女がおまえに、そう植え付けたのではないのか」
オルガが問うと、ソフィーアは笑った。
「可能性はあります。むしろ、そうでしょう。魔女は私がその考えが至るよう、情報を残して行ったに違いありません」
「ならば」
「私なら、魔女が何かはわかります。きっと、考えればわかるでしょう。だからこそ、今は問わないで戴きたいの」
「まどろっこしいわねえ」
クリスタが苛々と野次を飛ばした。
「それが、私に残した魔女の罠だからです」
皆を制してソフィーアは言った。
「言ってたね、そういうの」
ザイナスが頷く。魔女はソフィーアの記憶に何らかの仕掛けを残していると。
「ええ、魔女は私に名を呼ばせるつもりでした」
ただ、その意味がザイナスにはよくわからない。
「皆お判りでしょう? 魔女の狙いは名を得て形を成すことです」
息を呑む気配にザイナスが見渡せば、大卓の御使いは皆一様に顔を顰めている。怪訝そうなザイナスに目を遣り、口許を結んだリズベットが囁いた。
「認識は実存と同義なの。天に於いては御柱の在り方そのものよ」
ザイナスは困惑した。御柱は実存する。なのに、そんな在り方は存外に頼りがない。信心に欠けるだけあって、ザイナスも想像に臆することがなかった。
「私が魔女の名に辿り着けば、その存在は強固になります。御柱ほどとは言わないまでも、ひと柱にはなるでしょう。ですから、これ以上は正体を問えません」
「そんな簡単に?」
ザイナスが驚いて呟くと、ソフィーアは頷いた。
「天上の認識は地上の在り様を変えます。それは逆も然りです。実際、人の内に育った認識だけで御柱の神格は変遷しているでしょう?」
旧聖座と新聖座のことだろうか。とはいえ、あれは聖典の解釈だ。実際、教会も御柱の不変を謳っている。少なくともザイナスはそう教わった。
変遷するのは神格ではなく人の方だ。
もしも彼女らの言う通りなら、人が御柱に影響を及ぼす。それは教会神理の崩壊だ。御柱が人を創るのではなく、人が御柱を形造ることになってしまう。
「厄介だな」
ラーズの呟きにザイナスも同意した。できれば聞かなかった事にしたかった。魔女がソフィーアを支配した理由は、最初の思案の反対だ。地上の知識を辿ることで忘れられた名に至る。その可能性で
御使いは、あくまで御柱の導管だ。先鋭化した機能に過ぎない。魔女が名を得て柱になれば、その神格は御使いよりも高くなる。
これは人が巻き込まれて良い問題ではない。
「どうして魔女は、こんな面倒を?」
ソフィーアを支配していた当時なら、幾らでも機会があったのではないか。
「それは自身の認識ですから。他者となるには支配を解かねばなりません。その矛盾があるのです。その点、受肉した私の方が有利でした」
血肉が意識の緩衝材になった。
「ねるほど」
その感覚はザイナスも理解ができた。自身も似た事が得意だからだ。多重の人格とはまた異なって、思索や感覚を並列に分けて眺める事ができる。
「知の蒐集の権能を欲して私を選んだのでしょうが、失敗だったようですね」
ソフィーアがつんと顎を逸らした。
あいにく皆は事態の深刻さに、その高笑いを聞き流していた。
「でもさあ、あたしらにその手の知識が全くないって、どういう事」
卓に肘を突き、クリスタがこぼした。
「ミストを見てわかるだろう。知らない事が最大の防衛だ」
相手を濁したその愚痴は、すぐさまオルガに釘を刺された。主上に対するクリスタの態度は、ザイナスから見ても少々雑だ。御使いあるいは人格で、敬虔さにも差があるらしい。中でもアベルは極端だ。皮肉は日常、敵意さえ感じる。
「ヘルフは煩い。魔女の思う壺だ」
ビルギットがふん、と鼻で笑う。
「聞こえてるぞ、この駄肉」
クリスタが飛び掛かり、一方的にビルギットの胸を揉みしだいた。じたばたと暴れる二人を横目に、いつもの事と端から無視したソフィーアが話を続ける。
「もとより天界の記録は洗浄された後でしょう。むしろ、地上にこそ何らかの痕跡があった。我らの降臨を知って、魔女はこの身に付け込んだのでしょう」
「今生の以前か」
オルガが呟く。あるいは、降神歴の以前だ、とザイナスは思う。
人は御使いに熾されて芽吹く。不浄に満ちた世界は幾度か焼かれ、洗われている。そうした澱が、異なる語感の混在や
少なくとも教会ではそう教えられる。
「古い言葉は響きが素敵だ。
気を紛らわす揶揄いに、アベルが茶々を入れる。
呼び名としては残っているが、魔女の選んだその古い魔物は、やはり御使いの知識にない。何故かザイナスの身近にあった
「どうせキミを呼ぶのなら、
「それでは教会の意図に沿わないでしょう。ザイナスさまには、そうですね」
アベルの戯言を受けて、ソフィーアは言葉を濁した。満更でもない顔をして、リズベットに意味ありげな一瞥を投げる。気づいて、不肖の妹は一頻り唸った。
「
ラーズが笑う。御使いが知識を欠いているのを、ラーズは一種の忘却と捉えているようだ。皆もソフィーアの意見に沿って、概ねそれを認め始めている。
「
ソフィーアは微かに目を眇めた。嫣然と微笑み、ザイナスに目を遣る。
「貴方に相応しいのでは?」
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