11章 図書館戦争
第41話 潜入
保全の馬車が門を抜け、車寄せに滑り込む。迎えの職員が御者台に寄って、書類を交わして二言三言。荷台に向かって声を投げるや、ぞろぞろと人がこぼれ出た。大小まばらな作業衣姿が、通用口へと一列に並ぶ。
施設に見合った大人数だ。見習い、日雇いの若手も多い。中には子供と見紛う小柄な少女――裾がだぼつき有り余る割りに、胸はつんと張っている――や、形こそ派手だが不貞腐れたように口を尖らせた眼鏡の少女も混じっている。
一方、広い敷地の向こう側には、植林を縫って人影が二つ。片や朝食前のそぞろ歩きのように気まぐれで、片や獣のような緩急の動作で影を潜って行く。
不思議と二人は景色に紛れ、注視しようにも焦点が合わない。そうと意識もしないうち、記憶の端から溢れてしまう。まるで掴まえ所がなかった。
そうした二つの景色の中ほどに、聖堂図書館の正門がある。まだ開館よりそう間も置かず、利用者は少なかった。石造りの門を潜る人影も三つばかりだ。
燥ぐエステルに口許を綻ばせ、ザイナスは敷石を踏み越えた。広い前庭の向こうに白亜の棟を見遣るのは、これで二度目になる。
エステルの右手をザイナスが、左をリズベットが引いている。時折、エステルは両足を浮かせ、二人にぶら下がってにっかり笑う。ちゃんと歩きなさい、そう叱りつつリズベットも微笑んだ。数日前の繰り返しだが、二人は変わらずご機嫌だ。
こればかりは演技でもない。
『では諸君、いささかぶっつけではあるが、作戦開始だ』
髪に隠したスクルドの羽根が、オルガの声を伝えて寄越した。
『何でスルーズが仕切るかな』
羽根は聞こえよがしのクリスタの声も拾う。
術で腑抜けた保全の指揮者を前に立て、クリスタは悠然と後ろ頭で手を組んでいた。両手一杯に図面を広げたビルギットは、前も見ずにふらふらと歩く。ともすれば明後日の方向に行くのを、クリスタが襟首を掴んで引き戻していた。
『各自、己の役割を果たせ』
オルガはアベルの別宅に居残り、王立図書館の図面を前に指示を出している。王都の筆頭執政官が炎に巻かれたのはつい先日の事だ。おいそれと出歩く危険は冒せない。何より、この状況を俯瞰する指揮が必要だった。
ミストの構築した聖堂図書館、この建物の造りは異様だ。迷宮のように入り組んでいるうえ、図面にない空間が全体の三割にも及んでいた。
しかも履歴を調べるに、件の
「そういえば作った」
「そういえば売った」
そう呑気に思い出したのが、ビルギットとクリスタだ。後方支援などよりも、工作員に適任なのは仕方がない。むしろ、前線は自業自得といったところだ。
保全作業に紛れて不穏な仕掛けを暴き、逆手に取ってミストを追い詰める。その為に、出入りの作業員を操り、見習いの振りで館内をそぞろ歩いている。
一方で、潜入索敵はアベルとラーズの得意の分野でもあった。アベルは人を惑わせて、ラーズは景色に溶け込んで消える。二人はそれぞれの隠蔽術を使って潜入し、ソフィーア・アシェル副館長ことミストの居場所を探っていた。
ラーズは一点に身を潜め、風を読むように人の流れを追っている。一方のアベルは散策するよに館内を歩き、情報を得るに足る職員を物色していた。閉架書庫や賓客用サロンといった、禁足場所も含めて捜索を拡げている。
ザイナスの御使いには利点があった。資格の神気が淡いため近距離でなければ感知ができない。ミスト本人でもない限り、間接的には発覚し難い。加えて先に訪れた際は忘却術を施していた。対話した職員も初見と見做す筈だ。
「兄さん、周りにおかしなところはない?」
囁くようにリズベットが訊ねる。前回のザイナスの体験を警戒しての事だ。
白い霧に霞んだ視界。此処がミストの支配下である限り、あの現象に油断はできない。例え体調によるものであっても、敵地の不調は致命傷になる。
「今は、平気だ」
あの白い世界は何だったのか。ミストの術であるならば、幻影の類というのが皆の意見だ。異層に引き込む種類のものは、そうそう行使も儘ならないらしい。実際、ザイナスも他所に連れ込まれたという訳ではなかった。
そも、ミストにはそうした権能はない。スヴァールだけが例外だ。彼女は
魂の審判を担う故、スヴァールは争奪戦に加わる事ができない。自ら手に掛けた死者の魂に触れる事ができず、彼女はザイナスの自然死を待つのみだ。それが魂の導き手である
「私たちの力は大きいけれど、そこまで世界に直接的じゃないの。むしろ、兄さんは五感を操られる方が厄介。だから、気をつけてよね?」
口を尖らせ、リズベットは言う。だが、ザイナスも気のつけようがない。
「取り敢えず、この前の続きかな」
ミストの居場所を探るのは、あくまで他の御使いの役目だ。ザイナスは前回と同様に、他愛ない調べ物を続ける。つまり、籠るミストを引き摺り出す囮だ。
ザイナスは二人を連れて前と同じ書架に向かった。期待半ばで辺りを見渡し、運よく見覚えのある司書官を見つけた。彼女の反応は覚えている。案内の段取りは早いだろう。そう思いつつ目が合った。彼女がこちらに微笑み掛ける。
「知っている人?」
リズベットがザイナスを突つく。
「前に閲覧資格を調べて貰った人だ」
「女の人と知り合いになるのは早いのよね、兄さん」
微笑みつつもリズベットの声は硬い。
「親切にしてくれたんだよ」
こちらに向かって歩いて来る司書官に会釈し、ザイナスはああ、と息を吐いた。
リズベットにかまけて失念していた。
「伝達、職員に僕の記憶がある」
ザイナスはスクルドの羽根に囁いた。
『全員、識別の施術を警戒。職員との直接的な接触は避けろ』
即座にオルガが呼応した。
職員がザイナスを認識している。アベルの忘却術が失効した証左だ。恐らく何らかの聖霊術が施されていた事を、ミストは既に知っている。
既の所、アベルは伸ばした手を止めた。廊下の角に身を寄せて、声を掛けようとした職員をやり過ごす。クリスタはビルギットを引き摺って、仮の上司の背中に隠れた。御使いの神気を嗅ぐ術はないが、聖霊術の有無は知る術がある。
「ミストは信徒の知識を吸うの。遠隔でそれが叶うなら、見つけられたかも」
素早くザイナスに囁いて、リズベットも愛想よく司書官に微笑んだ。
「またお越しいただけて良かった」
ザイナスに声を掛ける司書官との間に、ぐいぐいと割り込む。
「前に閲覧権限を調べて戴いた方? 田舎の父が
この人ってなんだ、とザイナスが目線でリズベットに問う。リズベットはこれ見よがしにエステルの手を引いてザイナスに寄り添い、秘書官ににっこりと笑った。
「それは、それは」
司書官も愛想よく、しかしリズベットと同様に笑わない目で彼女を見遣る。
「実はそちらの案件について、当館にも研究者がおりまして。ぜひ一度、意見を交換させていただきたいと申しているのですが、いかがでしょうか?」
ザイナスとリズベットは顔を見合わせた。
「僕は素人なんですが」
怪訝な表情がそう取られるよう、ザイナスが敢えて司書官に訊ねる。
「そもそも携わる学徒の少ない分野ですし、資格も経歴も不要とのことです」
「それは、何方です?」
問うと司書官は微笑んだ。
「当館の副館長でございます」
『逃げろ』
耳許に皆の声が重なった。
「――僕でよければ」
頸筋の羽根のむず痒さを誤魔化しながら、ザイナスは応えた。
「私も、一緒に」
リズベットが腕を絡めて口を挟む。エステルもわっしとしがみ付いた。
「妹たちも連れて行ってかまいませんか?」
妹さんたち、と司書官の女性は繰り返して微笑んで見せる。
「同席はご遠慮戴きたいのですが、隣に控えの部屋をご用意いたします」
「えー」
と、リズベットとエステルが声を揃えた。
「すみません、生意気な盛りで」
リズベットが、ぎりぎりとザイナスの腕を抓り上げる。
『ゲイラとヒルドはスクルドに合流を。ザイナスの位置を伝える』
耳許にオルガの声が飛んでいる。
「それでは、こちらへ」
司書官が前に立って背を向けた。
『フリストとヘルフは引き続き施設の制御管を捜索、館の掌握を急げ』
ザイナスの行動に引き摺られ、耳許で慌しく指揮が飛ぶ。
行動は不用意だが、引けば引くほどミストには備えられる。慎重さと時期の塩梅が重要だ。先行の工作を抑え、一気に潜入を決行したのも同じ理由だった。
司書官に導かれて書架の森を通り越し、利用者の疎な研究棟を過ぎる。
『うわ、こら馬鹿』
不意にクリスタが声を上げた。
「どうかされましたか?」
つられて飛び上がったザイナスを司書官が怪訝に振り返る。
『フリストの奴、壁に穴を掘り出しやがった』
『だって、ここが近いし』
「いえ、何も」
『オルガ、誰もこっちに近づけさせないで』
司書官はザイナスに他愛ない話を投げながら図書館の中を先導して行く。
『ラーズ、止まれ。後方通路に立ち入らせるな。アベルは手前の階段を封鎖』
広く、高く、奥まで抜けた廊下の見通しはよい。だが、中階を幾度も登り降り、廻廊を幾度も横に逸れ、じき方向は分からなくなった。司書官と言葉を交わすザイナスの後ろで、リズベットは落ち着かなげなエステルに何事か囁いている。
やがて、大きな扉の前で立ち止まった。
「では、ザイナスさまはこちらへ」
司書官が扉を開ける。部屋の奥に人影らしきものが窺えた。
「お二人は隣の――」
不意にリズベットの手を振り切って、エステルが部屋に飛び込んだ。ザイナスを追い越し、真っ直ぐ人影に飛び込んで行く。気づいたザイナスが慌てて手を伸ばした。エステルの身体を抱えて掬い上げ、危うく手元に引き留める。
「こら、悪戯しちゃだめだ」
きょとんとするエステルに向かって、ザイナスは聞こえよがしにそう言った。
案内された部屋は無人だ。ザイナスを出迎えたのは、鉄の聖像だけだった。
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