第39話 戦火の花嫁

 ザイナスを乗せた早馬は、宵の街路を駆け抜けた。遠くに喧騒、風には焼け焦げた匂いが混じる。群衆に埋まる庁舎は裏手だ。そう遠くも離れていない。

 とはいえ、封鎖の要路に行き来はない。何より辺りは古参の商家だ。革命騒ぎに狂騒する貴族も民衆も、踏んではならない蛇の尾は心得ていた。

 辺りの建屋は燈を落とし、門戸を固く閉ざしている。勿論、浮かれた輩は何処にでもいて、ザイナスの馬車も幾度かは、武装した群衆を躱す羽目になった。

 一行は近くで徒歩に変え、辺りを伺いながら目的地を目指した。

 王都の状況は終盤だ。騒乱は変わらず執政庁舎に集約されている。

 市街の中心にも関わらず、庁舎は攻城戦の様相を呈していた。予想外の堅牢は、御使いの術によるものだ。むしろ彼女にしてみれば、一掃さえも容易の筈だ。つまり庁舎の陥落は、王党派の戦力に非ず、オルガの意思の問題だった。

 アベルの集めた情報によれば、庁舎職員の退去が秘密裏に進行している。それも完了の間際だそうだ。市政は既に敗北した。しかし、騒乱の決着は違う。ザイナスですら、この先は容易に察する事ができた。

「スルーズも往生際が悪いよね」

 施術もなく、身を隠すでもないアベルが悠々と路地を行く。庁舎職員の脱出は、地下道を使っているらしい。古商家の裏に、その出口があるとの事だ。

 アベルに付いて歩くのは、ザイナスとエステル、リズベットだ。先まで馬車を駆っていたラーズは、いつの間にやら影に身を潜めている。

秩序神オーダーの御使いが市民を見捨てるかな?」

 正直、ザイナスにもよくわからない。確かに、秩序神オーダーは|民の護り手だが、神格が性格に転化されたとして、オルガにどれほどの強制力があるのか。ザイナスの周りの御使いは、いずれも見本にならなかった。

「市民に見捨てられてるけどね」

 ザイナスの問いに、アベルは辛辣に応えた。

「勝手に還る気でいるなら止めないでね。せっかく兄さんを諦めるんだから」

 ぶすりとした顔でリズベットが告げる。オルガを気遣う態度が気に入らない。

「僕じゃなくて賞牌マユスだ」

「同じよ」

 と、妹はにべもない。

 ふと、アベルが壁に身を寄せた。腕を引かれてザイナスも伏せる。アベルの指先が沈黙を示し、壁の向こうを目で促した。先は開けた荷上場だ。

 なるほど荷馬車の路地の奥、大勢の人の気配が吹き溜まっている。覗き込んだ二人の後ろで、駆けて行きそうなエステルをリズベットが抱え込んだ。

 皆は建屋の影に隠れ、商家の奥に近づいた。

 古い石造りの広場だ。息を殺した馬と人、大きな荷車が犇めいている。書類を抱えた人の列が厚い幌の中に詰め込まれて行く。

 アベルが調べて言うところ、逃亡に協力しているのは王家に近しい貴族の一部だ。当然、荷車は紋旗を外し、何処の所属かは曖昧だった。市政を打倒した王党派は、じき運営に破綻する。協力者はそれを見越し、あるいは狙って優位に立つ算段だ。脱出というより、引っ越しだ。実務の移譲に他ならない。

「スルーズは?」

 リズベットがむっつりと囁く。アベルはふん、と鼻で笑った。そのままザイナスを振り返り、両手を拡げてどうする、と問う。ここまで来たなら、言わずもがなだ。

「迎えに行こう」

 いずれ、時間はもう少ない。明けには庁舎も墜ちるだろう。投獄ならば、まだやり用もあったのだが。ザイナスは小さく息を吐く。オルガを待っているのは真鍮の雄牛だ。あの代物の馬鹿さ加減は、ザイナスも良く知っている。

 勿論、リズベットの言う通り、彼女が賞牌マユスを諦めるなら、それに越したことはない。絶望であれ矜持であれ、執政官の結末に口を挟むつもりはない。

 ザイナスの懸念、オルガを擁したいその思惑は、まだ見ぬ敵より身内が原因だ。御使いが多すぎる。人の身でその関係を調整するには限度がある。彼女らの内の誰しもが、ザイナスを虫より容易く潰すことができる。統率が必要だ。

 御使い同士の地位はともあれ、オルガの指揮は実績がある。故に、ザイナスは彼女に会わねばならない。皆にも明確な理由は明したくなかった

「隠し通路はこの先だけど、あの人混みだ。通り抜けるのは大変そうだね」

 アベルの声を聞きながら、ザイナスは馬車の隙間に目を凝らした。案の定、見覚えのある職員がいる。ラルセンという名のオルガの副官だ。

「話を通す」

 ザイナスはそう言って身を晒した。

「アベルは隠れて先に行って、オルガが面倒を起こさないように引き留めて」

 背中に向けて言う内に、ザイナスに気づいた者が声を上げた。いずれ、逃亡者と王党派の裏切り者だ。みな後ろめたさに殺気立っている。

「兄さん」

「ラーズ、殺すな」

 身を潜めた番犬に釘を刺し、ザイナスはリズベットとエステルを振り返った。

「二人とも大人しくして」

 ザイナスは両手を上げて歩いて行く。

 連れは傍目に少女と幼女だ。警戒はじき戸惑いに変わるだろう。警備で視界が埋まる前に、ザイナスはラルセンに視線を合わせ、驚く顔に頷き掛けた。

「兄さんがどんどん暴君になって行くわ」

 エステルを抱えてリズベットがこぼした。アベルに目を遣り、微かに細める。

「そうかい? ザイナスは最初から暴君だよ」

 アベルは笑ってそう応え、人混みを抜けるために姿を影に溶け込ませた。


 ◇


 鎧戸を重ねた露台の窓は雨垂れの音を立てていた。前庭を超えて投げ入れられる石や木屑の打つ音だ。ときおり響く雷鳴は、破城槌の鳴る音だろう。柵がぐるりと波状に震え、そのたび野卑な歓声が上がった。

 まるで祭りの様相だ。庁舎を囲む狂騒は、もはや目的を見失っている。

 本来、庁舎に堅牢な柵はない。一時凌ぎの堅牢の施術だ。ほどなく中庭は踏み越えられるだろう。だが、もはや庁舎はもぬけの殻だ。燈が灯るのは一室だけ。狂騒する市民の誘蛾灯、それはオルガの執務室だ。

 つと、鎧戸の隙間から目を逸らし、オルガは薄明かりの部屋を振り返った。気配を感じたのは気のせいか。居座るラルセンを追い出して以降、人の姿は失せている。机の上のランタンは、放り出した書類だけを照らしていた。

 オルガはそっと息を吐き、いまさら想いを巡らせた。

 誰が生贄になったところで、民主の責を個人が負えば、それはもはや政治ではない。それを誰も考えない。腐った身体から目を逸らし、首を挿げ替えようと足掻いているだけだ。もはや、滅びは止めようがない。それは国家も同じ事だ。

 何より、自身が諦めた。使いが民の導きに挫折してしまった。

 オルガは机上に手を伸ばた。ランタンを床に払い落し――指先が空を切った。浮いている。ランタンが逃げて行く。からかうように宙を滑り、壁際にまで部屋を横切った。オルガは燈火を目で追って、歯抜けの書架に射す人影を睨んだ。

「ゲイラか」

 暗がりに黒衣の少年が滲み出し、会釈するように肩を竦めて見せた。

「やれやれ、だ」

 片手でランタンを玩びながら、アベルは悪戯な目でオルガを眺めた。

「ねえキミ、人が神為に背いたからって、無理やり盤を引っ繰り返す気かい?」

 見透かされている。いっそ世界を大水で洗い、種子から人を再耕すべきだ――そう考えたのも確かだった。勿論、故あって諦めはしたが。

「手ぶらで還るのを止めやしないが、御注進は止めるがいいよ」

 努めて表情を堪えながら、オルガはアベルを目で探る。案外、彼は人心に聡い。今のオルガは、彼に読み易いのかも知れない。

「何をしに来た」

 アベルの暗躍はオルガも知っている。責めても詮無い天災のようなものだ。資格の外れた男の身では、元より賞牌マユスの争奪には加われない。だが、以前の彼はこんなだったか。気配もあたりも、まるで違って見えた。

「成り行きを観にさ。見送りのひとりもいた方が、甲斐もあるというものだろう?」

「余計なお世話だ」

 オルガの無愛想を悪戯な目で見返し、アベルは少し間を置いた。

「キミ、魂刈りはもう良いの?」

 嫌味に訊ねる。

「それこそ、おまえには関係ない」

 オルガは呻いた。よもや争奪の枠外に問われようとは。だが、アベルの問いも尤もだ。御柱に忠実な御使いが、選りにも選ってスルーズが、至上の使命を折るなどと本来ならば考え難い。自分でさえも、そう思うだろう。

 だが、オルガも一言では表せない。あえて要因を括るなら、これは受肉の弊害であり、情動による機能不全だ。民への失望、我が身の不甲斐なさ。そんな怒りと屈辱に、地上の在り様をいま一度。――否、そんなものは言い訳だ。

 オルガは微かに頬を逸らし、見透かすようなアベルの目を逃れた。

 ザイナスだ。あれのせいだ。不具合の原因は明白だ。賞牌マユスを追うべき至上の使命が、情動との境を見失った。このままあれを手に入れたとして、自分は賞牌マユスを抉り出せるか。あれを天に導いたとして、全人観測儀エリュシオンの一片と消えるのを、黙って見送ることができるのか。

 オルガに御使いが降りたのは十七の歳だ。人の多感な情動は、スルーズという絶対不可侵の檻の中でむしろ先鋭化した。それが受肉の弊害だ。人の血肉を器にすれば、かくも降臨は歪んでしまう。スルーズは堕落した。余計なものを知り過ぎた。それがザイナスを追わなかった、追えなかったオルガの理由だ。

 ふむ、とアベルは頷いた。

 オルガは実直の神格を拗れに拗らせ、挙句に御使いである事にまで絶望している。そんな想いを悟ってか、アベルは呆れを隠そうともしなかった。

「まあ良いさ。もともと、止める理由もないし。ザイナスの事は任せるが良い」

 びくり、とオルガが振り返るのを、アベルは目の隅で小さく笑った。

 アベルは何の予告もなく、手にしたランタンを無造作に放り投げた。燈火の軌跡は窓際に尾を引き、砕けてカーテンに油を撒き散らした。

「斯くして庁舎は炎に呑まれ、オルガ・リンデロート執政官は自ら死を選ぶ」

 アベルの勝手な言葉の向こうで、炎が這い拡がった。

 舌打ちこそはしたものの、オルガもその火を消そうとはしなかった。自死の意識は、確かにあった。絶対不可侵の肉体も、吸気が途絶え、焼失が再生を上回れば朽ちる他ない。いっそ力を解き放ち、王都共々に息絶えることも考えた。

 唐突なアベルの来訪は、そうしたオルガの自暴自棄を懸念しての事だろう。

 炎と煙が勢いを増す。柵の向こうに犇めく民も、じきに異常に気づくだろう。

 オルガは自身の終焉を間近に、ふとザイナスの呼び名に違和感を覚えた。

 炎に赤々と照らされるオルガを眺め、アベルは小さく鼻を鳴らした。戸口に向かい踏み出して、不意にしまったと顔を顰める。廊下を足音が駆けて来る。

 アベルが扉から飛び退った。

 何事かとオルガが戸口を振り返るなり、扉が枠ごと砕け飛んだ。勢い、室内に倒れ込む。扉板の圧が嵐の如く執務室を扇いだ。窓際の煙を吹き散らし、炎を叩いて部屋中を大きく舐め回す。一気に炎が燃え拡がった。

「いた」

 両手を突き出し、扉を押した格好のままで、幼い少女が立っていた。炎を背中に呆然と佇むオルガを見つけるや、んーと目を眇めて彼女を見つめる。

「スルーズ」

 小鼻に可愛い皺を寄せ、少女はオルガをそう呼んだ。

「シンモラか」

 確かに神気は使いのそれだ。魂刈りの匂いが余りに淡く、気づくのが遅れた。

「その扉は引いて開けるものだ」

 予想の外の混乱に、どうでもよさげな言葉が出た。そんな視界の片隅で、アベルはこっそり壁に寄り、立ち込める煙に紛れ込もうとしている。

「火が出ているもの、手遅れよ」

 廊下の向こうで声がした。

 不意にエステルが踵を返し、執務室から飛び出した。廊下で声を張り上げる。

「ザイナス、ゲイラを見つけた。スルーズもいた」

「ザイナス?」

 思わず息を吸い込んでしまい、オルガの胸を白煙が焼く。数瞬前なら死んでいた。御使いも、地上のその身は人の血肉だ。自死を望めば加護はない。だが、現金なことこの上ない。その名を聞いた瞬間に、捻れた意識は飛んでいた。

「待って、兄さん」

 声を擦り抜け、ザイナスが執務室を覗き込んだ。エステルの手を引き、床に倒れた扉板を踏む。煙と熱に顰めるも、咳き込む前に突風が熱気を吹き払った。

 スクルドの加護だ。オルガは目を剥き身動いだ。

「執政官」

 ザイナスが呼び掛ける。戸惑い困惑するような、それでいて、見透かし達観したような。記憶のままの姿の後ろに、拗ねた面持ちの少女が寄り添っている。

「ザイナス」

 オルガに目を遣り舌打ちをして、リズベットは壁際に張り付いたアベルを思い切り睨んだ。ザイナスの背中に身を隠したまま、どうしてオルガがまだ生きているのか、と声に出さずにアベルを責め立てる。アベルはうへえ、と首を竦めた。

「これは何の冗談だ。どうして使いと一緒にいる」

 しかも、そんなに護られて。オルガがザイナスに詰め寄った。

「いまさら引き止めるなんて無粋よ。焼け出される前に戻りましょう」

 ぶすっとした声がザイナスの背中を突いた。

 熱気は肌を焼いている。ザイナスにしても、この状況は落ち着かない。とはいえ説得のひとつもしなければ、危険を犯した甲斐がない。

 オルガは混乱していた。どうして、賞牌マユスがまだそこにある。何故、魂刈りの神気が淡い。何よりザイナスとの距離が近い。近すぎる。オルガは眉間に皺を寄せ、エステルを、リズベットを、アベルを見渡した。

「おまえたち、魂刈りの権能をどうした」

 アベルが悪戯な目で笑い、リズベットがつんと目を逸らし、エステルはきょとんとザイナスを振り仰いだ。はた、とオルガがザイナスを睨む。

「オルセンさんに話を通しました」

 ザイナスは慌てて口を挟んだ。状況は繊細だ。誤解と警戒を生み易い。何よりこのまま話が及べば、本題の前に焼け死んでしまう。強引に話を持ち掛けた。

「執政官の身分さえ死ぬのであれば、他は好きにして構わないと――」

 執政官の自死はこの騒動での既定の決着だ。しかし、それさえ事実として残れば、オルガ個人に追うものはない。御使いならば、尚更だ。

「肩書きのない貴女を貰いに来ました」

 ザイナスは人の身だ。炎に巻かれて息さえ熱い。言葉を選ぶ暇はなかった。

 だが、リズベットは射殺すような目で兄を見上げ、アベルは身体が折れるくらい吹き出すのを堪えている。失言に気づいていないのはザイナスだけだった。

 ザイナスまでの僅か数歩にオルガの脚が縺れた。縋るように肩を捉まえ、オルガはザイナスを間近に見つめた。戒めの鎖が砕け落ち、扉の開く音がする。御柱さえも置き去りに、オルガはザイナスの瞳に自身の行く末を見た。

「私の夢を知っての言葉だな」

 何だっけ。ザイナスは慌てて脳裏を探る。無意識が逸早く記憶に辿り着き、変な汗を噴き出した。否、意識が気づくのを拒んでいる。どうやら今更――厄憑きの名に恥じないほどに――言葉選びを誤った気がして来た。

「使いの肩書きなぞ捨てよう。二言は無い。ザイナス、私はおまえのものだ」

 ザイナスは不意に口を塞がれた。きつく掴まれた肩はびくりとも動かない。抗いようもなく呼吸が途絶え意識が遠退く中、遠くに悲鳴のような声を聞いた。

「だから、言ったじゃない」

 それはリズベットの声だった。

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