第3話 ザイナスの災難
ハルムで合祀聖堂の司祭を務めて二〇年、今日ほど頭を抱えた事はない。これが初めて――いや、興味本位で買った賭け札を妻に見られて以来だ。
ザイナスの見立てを胸に抱え、ホーカソンは血相を変えて商工会に駆け込んだ。借り切った伝信所に念入りに封をして、ラングステンの大聖堂に務める馴染みの聖務監督司教を呼ぶ。無論、相手の都合などお構いなしだ。落ち着いて。相手と自身にそう言い聞かせ、ホーカソンは事情を告げた。
結果、混乱が伝染しただけだった。
皆、判断の域を超えていた。幹部を巻き込み悩んだ挙句、十年も前の類例に頼るしかなかった。だが、選りもに選って
神敵、呪われしもの、不死者――その語源は不確かだが、
いっそ、ザイナスを逃がしてしまおうか。迷走する討議の最中、ホーカソンは何度も考えた。だが、もう遅い。明かしてしまったものは収めようがない。
手配に沿った手続きは、聖伐特務に係わるものだ。直ちに従う他はなかった。
納屋に向かうホーカソンの足取りは重い。足首に罪悪感が纏わり付いている。それはザイナスの妹の、リズベットの顔をしてホーカソンを責め立てていた。
「でもなんだって、あたしがザイナスについて行かなきゃならんのです」
後ろを歩くユーホルトがぼやいた。護送に捉まえた守護兵だ。
ハルムに数少ない専任の聖堂守護兵は、ちょうど酒場の扉に手を掛けたところだった。早上がりだった彼を商工会の帰りに捉まえられたのは運が良かった。
「ザイナスも確か、十八、九?」
「十七だ」
「ラングステンなんぞ一人で行けるでしょうに」
彼にしてみれば寝耳に水だろう。だが、大聖堂の厳命にザイナスひとりを送り出すわけにはいかない。酔っ払いであろうとも、一人くらいは警護を充てねば。
ただ、兵務所から出たばかりの筈のユーホルトは何故か既に酒臭い。
「リズちゃんだって一人で通ってる」
ホーカソンは嘆息した。
|埃を被った手配でも、通達先は王都イエルンシェルツの中央大聖堂だ。書類の山に埋もれたとしても、大司教猊下の御許に届くのはもう止められない。
魂なきもの《ノスフェラトゥ》? あのザイナスが、そんな大それたものである筈がない。あれは厄憑きだが悪人ではない。むしろ底抜けのお人好しだ。先の処遇はホーカソンにも読めないが、ザイナスを見ればわかる筈だ。
――わかってくれるとよいのだが。
「万一があっては困るからな」
「万一って司祭殿、一晩汽車に乗るだけでしょうに」
ユーホルトには濁したものの、表情までは誤魔化せなかったようだ。
「あいつ、今度は何に巻き込まれたんです?」
ザイナスの厄憑きはみな知っている。これも恐らくそのひとつ、なのだろう。
信心が足りていないせいだ。いずれきっと、御柱の加護がある。ホーカソンもルーカスも、そう思って諭して来た。よもや、その御柱が不在とは。
「まあ、ザイナスだからなあ」
ユーホルトが呟いている。妙に納得した表情だった。
半端な説明で濁したとはいえ、ホーカソンへの依頼は護送だった筈だ。それが護衛にすり替わっている。わからないではない。ザイナスの善良を疑う者はいない。どれほど災難に好かれても、ザイナスはそれ以上に慕われていた。
「うっかりシムリスまで乗り過ごしたりするかも知れませんしねえ」
シムリスは此処からずっと先、王都も越えた南北線路線の北端だ。大陸の反対側にある。ザイナスといえど、王国を縦断するほどの間違いはしないだろう。
――しないとよいのだが。
ザイナスは悪くはない。上辺だけを見れば愚鈍に思うが、近くで知れば思慮深く、人より気も回る。むしろ、災難への冷静な対処は何者も及ばないだろう。
只々間の悪いザイナスの厄憑きが目を惹くのは、あの妹のせいもあった。
リズベットは聡明で優秀だ。あの歳で誰もが一目置いている。何より兄とは異なって、
ただ、あえて難点を挙げるなら、少々兄に手厳しい。ゆるゆるとした父母の反動か、誰よりも厳しくザイナスを叱る。叱りながら世話を焼く。そして何を置いたとしても、その兄に厳しい者に厳しかった。ホーカソンですら、それが怖い。
司祭としてもコレット家に近しいホーカソンは、そんな様もよく知っていた。リズベットにラングステンの神学校を進めたもホーカソンだ。これほど優秀な信徒を勿体ないと思ったのが半分、このまま兄離れしない不安も半分あった。
「そういえば」
今日はリズベットの帰省日だ。ザイナスは妹の送り迎えにハルムを訪れる。適神の見立てにホーカソンを訪ねたのは、恐らくそのついでだったのだろう。
目線を上げれば教会の屋根越しに空が朱かった。汽車が着くのはもうじきだ。
ホーカソンはこの日何度目かの溜息を吐いた。
「ユーホルト、駅に着いたら絶対リズベットに見つから――」
突然、大きな音がした。製材所の積み木がひっくり返ったような地響きだった。思わず竦んだホーカソンとユーホルトの間を、白い突風が吹き抜けた。
黴臭い埃を孕んだ風に咳き込み、ようやく辺りを見渡すと、教会の奥に入道雲のような塊が吹き上がっている。ザイナスを匿った納屋のある辺りだった。
◇
倒れた扉を押し開けて、ザイナスは外に這い出した。咽ながら後ろを振り返る。燻したように漂う白い埃の渦の中に、柱や横木がささくれ立っていた。
なるほど、閂は外れたようだ。ザイナスは、ぼんやり考えた。
まるで木組みの玩具を崩したように、納屋は半分ほどの高さの瓦礫に成り果てている。何か仕出かした実感はない。合理的に考えるなら、納屋の建付けの問題だ。そも、こうした災難に巻き込まれるのは、一度や二度のことでもない。
真っ白になった服を無意識に払うと、舞い上がる埃で余計に咽せた。呼ぶ声に気づいて涙目で振り返ると、ホーカソン司祭が駆けて来る。隣にいるのは聖堂守護兵のユーホルトだ。またか、といった顔をしている。
「無事かザイナス、いったい何が起きた」
何がも、なにも。
「うっかり死んでしまうところでした」
つい先ほどまで納屋だった瓦礫を背に、ザイナスは困ったように微笑んだ。
「うっかりか」
地面に突っ伏しそうなほど疲れた顔で、ホーカソン司祭は呟いた。何かを諦めたように首を振り、ザイナスの服を払ってやりながら、身体の具合を確かめる。納屋より自分を心配してくれるほどには善人だ。などと、ザイナスは明後日の方向に感心している。そして、ユーホルトはいつも通り酒臭かった。
「筋交いが弱っていたのかもな。棚に変な荷の積み方をしたのじゃないか?」
瓦礫に寄って足で木屑をひっくり返しながらユーホルトが言った。
「何も触ってないです。ああ、ランタンは使いました」
「おまえさんのいつものだな、ザイナス」
振り返ったユーホルトの顔は、呆れているとも笑いを堪えているともつかない。
「何だか、すみません」
災難を自分の責任と謝るつもり毛頭ない。ただ、こうして心配を掛ける分には心苦しい。そうしたザイナスの態度を誤解する向きもあるが、ある程度に見知った相手なら、それを理解してくれてもいる。それなりの経験があるからだ。
謝るザイナスに疲れた鼻息で答えると、司祭はザイナスの沙汰が大聖堂預りになった旨を告げた。今夜の便でラングステンに発たねばならない、と。
急な話だ。
「今日は妹を迎えに行かないといけないのですが」
「そういやそうだ、寄宿舎から帰って来るんだったな」
慌てたザイナスを見て、ユーホルトがああ、と手を打った。ザイナスの厄憑きと同様に、何かにつけ甲斐甲斐しい妹に叱られている様は有名だ。
「それは心配するな。モルンの家まで私が送る、ルーカスに話もあるしな」
「ああ、御柱の――」
すぱん、と司教がザイナスの頭を払った。納屋の埃が白く舞う。
「滅多なことを口にするな。よいか、ユーホルトにも言ってはいかんぞ」
ザイナスの首を抱え、司祭は小声でそう叱った。
「あたしもリズちゃんの護衛がよかったな」
その様を横目にユーホルトは納屋の瓦礫を眺めて呟く。
「ザイナスと一晩汽車の中なんて、脱線でもしなきゃ良いんだが」
そう言ってから、まんざら冗談にもならないと首を竦めた。
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