第25話 陛下の逆鱗➁

 私はなでなでしながら殿下に言い聞かせます。


「殿下、私を守ってくれてありがとうございました。殿下のおかげで私は今もこうしているんです。だからもう泣かないでください」


 私は長い袖で殿下の涙を拭いてあげました。

 よかった。もう泣いてはいませんね。


「……うん。マリス、ぼくのおかげだぞ」

「はい、殿下のおかげですね」

「うん」


 殿下は頷くとおずおずと顔を上げてくれます。

 近い距離で目があって、二人して小さく笑いあいました。


「エヴァン、そろそろ部屋に戻れ。マリスはもう少し休ませる」


 陛下が殿下に声をかけました。

 殿下は名残り惜しそうでしたが、「わかりました……」と素直に返事をします。さすがに陛下の言葉には逆らいません。

 殿下は私から渋々離れてベッドから降ります。

 寝所の扉に向かって歩いているあいだも何度も振り返ってくれました。

 寝所を出る間際、最後にまた振り返ります。


「マリス」

「なんでしょうか」

「…………ぼくはエヴァンだ。エヴァンと呼べ」

「……エヴァン様?」

「そうじゃないっ。エヴァンだ! わかったな!?」

「ええっ、エヴァン様!?」

「エ・ヴァ・ン!!」


 これって『様』をつけるなということですよね?

 困惑するけれど、殿下は今にも地団駄を踏みそうな様子で待っています。

 仕方ありません。本人がそう呼べというなら……。


「…………エヴァン」


 瞬間、エヴァンの顔がパァッと輝きます。

 エヴァンは「ん」と照れくさそうな顔で頷くと寝所から出て行きました。

 扉がパタンと閉じて、寝所にはまた陛下と二人きりになりました。


「あいつはお前のことがそうとう気に入ったようだな」

「恐れ入ります……」


 私は困惑しつつも返事をしました。

 驚きましたがエヴァンの素直な好意は嬉しいものです。

 エヴァンがいたことで私と陛下のあいだにあった張り詰めた空気も軟化していました。


「俺も政務に戻る。お前は今日は休んでいろ」


 陛下はそれだけを言うと寝所を出て行きました。

 私は一人になって、ほっと息をつきました。

 いろいろありましたが一人になってようやく緊張が解けます。

 でも今、陛下は『政務に戻る』と言いました。

 しかも私が目覚める前からここにいたようなのです。

 もしかして、ずっと待っていたのでしょうか。私が目覚めるのを、ずっと……。

 そこまで考えて頭を振って否定します。

 そんなはずありません。陛下は多忙なのです。そんなことするはずがありません。

 でも、でももしそうなら……。


「っ……」


 私はベッドに潜って頭から布団をかぶります。

 胸の奥に封じた恋心が甦ってしまいそうで、無理やり抑え込みました。




 その日、私は夕食を自分の部屋でいただきました。

 休養中ということになっているので、そのまま部屋で休んでいるように命じられたのです。

 エヴァンが一緒に夕食を食べられないことを寂しがっていたと侍女から聞きました。不謹慎ですが嬉しいと思ってしまって少し申し訳ないです。


「マリス様、就寝の準備が終わりました。おやすみなさいませ」

「ありがとうございました。おやすみなさい」


 私は世話をしてくれた侍女たちを見送ると、窓辺のチェアに座って就寝前の紅茶を楽しみます。

 昼間は意識を失っていたからか、まだ眠くないのです。

 今日はいろんなことがありました。殴られたことも驚いたけど、エヴァンには特に驚かされました。

 思い出すと自然と頬がゆるみます。明日からのお世話役が楽しみになりました。

 紅茶をひと口飲んで、口内にチリッと痛みを感じてしまう。

 思わず手で頬を押さえてため息をつく。殴られて口の中を切っていたのです。医師に治療はしてもらいましたがすぐに治るわけではありません。

 口内以外にも殴られた頬には少し青痣ができていました。テープを貼って隠していますが全治二週間との診立てです。

 でも体の怪我はいいのです。この痣だって二週間で治るのなら構いません。

 でもエヴァンやコリンの心には傷を残してしまいました。それを思うとやるせない気持ちになります。

 こうしてぼんやり就寝前の時間をすごしていると、ふと部屋の扉がノックされました。


「どなたでしょうか……」


 夜も遅い時間です。こんな時間になにかあったんでしょうか。

 不思議に思っていると、扉の向こうから声がかけられます。


「俺だ。入るぞ」

「陛下!?」


 思わず立ち上がりました。

 部屋の扉を開けたのは陛下でした。

 私は急いで駆け寄って出迎えます。


「陛下、お出迎えできず申し訳ありません!」

「構わん。俺が勝手に来ただけだ。入ってもいいか?」

「もちろんです!」


 私は慌てて陛下を迎え入れました。

 夜着のままは失礼なので上に薄手のガウンを羽織ります。


「こんな格好で申し訳ありません……」

「こんな時間だ。気にするな」

「ありがとうございます」


 私は礼を言いつつも困惑してしまう。

 どうして陛下がここに来たのか分からないのです。

 しかも陛下は部屋に入ったものの沈黙してしまって、ますます分かりません。


「あの、陛下、どのようなご用件で」

「見舞いに来ただけだ」

「えっ、見舞い……」


 目を丸めました。

 見舞い……。陛下が私の……お見舞い?

 困惑してしまいましたが陛下が私の顔を見ていることに気づきます。私の頬のテープを。


「あ……」


 思わず頬のテープを手で押さえました。

 なんだか見られていることが恥ずかしくなったのです。


「……ご、ご心配おかけしました。その、大丈夫ですので。医師にも診てもらいました」

「聞いている。全治二週間だそうだな」

「はい。ここ以外はとくに問題はなく、ほんとうに……」


 また沈黙が落ちて、私は視線を落としてしまう。

 あまりに突然の来訪に困惑が隠し切れません。緊張で体が強張ってしまう。

 でも黙ったままでいるわけにはいかなくて今日のことを改めて謝ります。

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