第17話 帝国の衣装と金欠と


 翌日。

 私はエヴァン殿下を講義に送り出してからまた市場いちばに来ました。

 市場でたくさんのパンや穀物を買い込みました。

 もちろん購入代金は私のお金です。人質として帝国に来るときに私財を持ってきていたのです。

 食料を買い込むと、荷台に乗せて貧民区へ向かいます。

 ガラガラと荷台車を押して歩きます。

 最初は荷台車の車輪もガラガラとよく回っていましたが、しだいにガタガタと荷台が揺れ出しました。

 石畳の整備された道から、小石が転がっている凸凹道に移り変わっていたのです。建ち並んでいる家屋も今にも朽ち落ちてしまいそうな粗末なものになっていきました。貧民区に入ったのです。

 貧民区の道端にはボロを着た大人や子どもがぼんやりと立ち尽くしていました。どの人も痩せていて、瞳には生気がなく、疲れきった顔をしていました。

 貧民区には食べ物を探して歩き回ったり、なにをするでもなく一日中座り込んでいる人もいます。

 それは怠惰たいだに見えるのかもしれません。仕事がないからいつまでも貧しいのだと貧民区以外の人間は思うでしょう。

 でもね、そうではないのです。

 動き回れば体力を消耗してしまう。回復するには食事が必要です。でも満足に食べられないのなら、いったいどうやって動き回って仕事を探せというのか。

 ならば外に向かって助けを求めればいいと言う者もいるでしょう。しかし、助けを求めてもいいのだということすら知らない人だっているのです。

 私はそれを身をもって知っていました。

 私は知っています。飢えの苦しさも、悲しさも、情けなさも、泣きたくなるほどのみじめさも。


「この辺りでいいでしょうか」


 私は貧民区にある広場らしき場所で荷台車を止めました。

 あちらこちらから視線を感じます。貧民区に入ってからずっと感じている警戒の視線です。

 視線を感じるほうを振り向くと、そこには幼い男の子と女の子がいました。兄妹でしょうか、手をつないでじっとこちらを見ていました。

 私はできるだけ優しく笑いかけます。


「こんにちは。お腹は空いていませんか? よかったら、これをどうぞ」


 パンを差しだしました。

 兄妹はパンを見るとパッと顔を輝かせました。でも警戒して近づいてきてくれません。それだけ過酷な環境で生きてきたということ。

 だから優しい笑顔で話しかけ続けます。


「じつは私、パンだけじゃなくてリンゴも持ってきたんです。リンゴはお好きですか?」


 そう言ってリンゴを取り出しました。

 すると妹のほうが先に我慢できなくなって、嬉しそうに駆け寄ってきてくれました。

 パンとリンゴを渡すと女の子は満面の笑顔を浮かべます。


「あ、ありがとう!」

「どういたしまして。お兄さんのぶんもどうぞ、持っていってあげてください」

「いいの?」

「もちろんです。仲良く食べてください」

「うん!」


 女の子は二人分のパンとリンゴを受け取るとお兄さんのところに戻っていきました。

 お兄さんは相変わらず警戒していたけれど、受け取ってくれたなら構いません。

 兄妹が立ち去ると、遠巻きに見ていた他の人も少しずつ近づいてきてくれます。ぽつぽつと受け取ってくれる人も出てきて、気がつけば行列ができていました。


「どうぞ、召し上がってください。まだありますから、どうぞ受け取ってください」


 私はひとりひとりに食料を渡していきました。

 警戒されたままなのでほとんどの人は無言で受け取っていましたが、なかには小さな声でお礼を言ってくれる人もいました。でもお礼などいらないのです。無言のままで構いません。受け取ってくれるだけで私は……。


「あ、あの時の人だ!」


 ふと大きな声で指差されました。

 振り向くとそこには市場で芋を売っていた少年がいました。


「あなたは昨日の。昨日はおいしい芋をありがとうございました」

「そんな……。小さな芋ばっかりだったのに」


 私が礼を言うと少年は照れくさそうにはにかみました。

 私は目を細めると少年にも食料を手渡します。


「これをどうぞ。あの芋はここで作っているんですよね。お礼ということで」

「ありがとう」

「どういたしまして。よかったら配り終わるまで待っていてください」

「え、どうして?」

「案内してほしい場所があるんですよ」


 私はそうお願いすると、荷台車の食料を配り終わるまで待っていてもらいました。 




 芋を売っていた少年はコリンという名前でした。

 食料を配り終わった私がコリンに案内してもらったのは貧民区にある芋畑でした。


「やはり土地が瘦せていますね。栄養が足りていないようです」


 コリンの芋が小さい理由はやはり土にありました。

 貧民区の畑の土はひどく痩せているのです。


「明日は食事の他に畑用の肥料ももってきます。肥料を撒けばきっと立派な芋が育ちますよ」

「肥料!? そんな高価なものをっ……」


 コリンが驚いた顔になりました。

 そうですね、肥料はとても高価なものですから。


「構いません。肥料を撒いて芋を育ててください。立派な芋に育てばたくさん売れるようになります。できれば他の人にも手伝ってもらいなさい。たくさんの人で畑を耕せば、たくさんの芋が育ちますから」


 そうすれば安定した収入を得ることができるでしょう。それは生活の支えになるはずです。

 でもコリンは不思議そうに私を見上げていました。


「……どうしました?」

「分からないんです。どうして助けてくれるんですか?」


 コリンが私を見つめて聞いてきました。

 私はコリンをじっと見つめます。

 亡霊のような子ども。ここにたしかにいるのに、誰の目にも映らない。

 私はコリンを見つめて目を細めました。


「なぜでしょうね。ふふふ、それは秘密です」


 答えなど知らなくていいのです。






 貧民区に通いだして一週間が経過しました。

 朝、私は起床すると自分の私財管理帳簿を見てため息をついてしまう。


「朝から刺激の強いものを見てしまいました……。完全に金欠です……」


 帳簿を睨むも貯金額はいっこうに増えません……。

 ため息をついてぱたんっと帳簿を閉じます。いつまでも眺めていたい数字ではありませんから。

 貧民区に通いだしてからの一週間、私は市場で大量の食糧を買っていました。他にも衛生を保つために大量の石鹸や、畑の作物を実らせるために大量の肥料や苗も買っています。もちろんすべて私の私財から購入しています。私は田舎の小国とはいえヘデルマリア王国第一王子の身分なので、それなりに自分の財産を持っていました。

 でもさすがに……、さすがに厳しくなってきましたよ……。

 しかも今は自由が制限された人質の身なので貯金を増やす方法がありません。だからといってヘデルマリアからの援助は一切望めません。


「マリス様、おはようございます。失礼します」


 ふと扉がノックされました。

 侍女たちが朝の身支度の手伝いに来てくれたのです。

 入室を許すと手慣れた動きで朝の支度をしてくれます。

 侍女が衣裳部屋から今日の衣装を持ってきてくれました。五つの衣装が並びます。ここから今日の衣装を選ぶのです。

 でもプレッシャーを……、プレッシャーを感じます……。

 五着のうち四着が帝国で用意された衣装。残りの一着が祖国ヘデルマリア王国から持参していた衣装です。

 ……帝国の衣装を着ろというプレッシャーが強い。

 でも今まで私が帝国に用意された衣装を着たことはありませんでした。

 今日もいつものようにヘデルマリアから持参した衣装を選ぼうとしましたが、その前に侍女がおずおずともう一着持ってきます。


「マリス様、今日はこちらもご検討ください。クチュリエに仕立てさせていた衣装が完成しました。きっとお似合いです」

「これは見事な衣装ですっ」


 それは思わずため息が出るほどの衣装でした。

 差し出されたのは上等なシルク生地で織られた翡翠色のローブ。長い裾や袖には銀糸で繊細な模様の刺繍が施されていました。

 それにしても本当に作っていたんですね……。ちょっと驚いてます。

 こんな高価な衣装を人質の私にわざわざ仕立てるなんて……。

 でも私はいつものように断ろうとしましたが、ハッとしました。

 そうです。王族が身に着ける衣装は高価なものなのです。


「……今日の衣装ですが、せっかく仕立てていただいたのでそれを着ようと思います。これからも用意していただいた衣装を着ていこうと思います。よろしくお願いします」

「マリス様がとうとう!」


 侍女が嬉しそうな声をあげました。

 今まで頑なに断り続けていたので、私の心境の変化に喜んでくれたのです。


「せっかくですから、お気持ちを受け取っていこうかと。せっかくですから」

「クチュリエや針子たちも喜びます! ぜひこれからも着てください!」

「はい、ありがとうございます」


 私は誤魔化すようににこりと笑いました。

 もちろんこれからは帝国で用意された衣装を着ます。ヘデルマリアから持参した衣装のことは忘れましょう。

 そう、私は持参した衣装や装飾品を売ってしまうことにしたのです。

 ヘデルマリアから持参した衣装や装飾品は私の私財です。自分の私財なら売って金銭に換えても誰にも文句は言われないはず。

 幸いにも衣装は帝国が用意してくれているので、自分が持参した衣装が全部なくなっても困ることはありません。

 純粋に喜んでくれる侍女に少しだけ罪悪感を覚えたけれど、私はたとえ自分の持ち物がすべてなくなったとしても支援をやめることはしません。

 それは前世の記憶を取り戻した時から決めていました。






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