『族長の秋』 ガブリエル・ガルシア・マルケス

 言わずとも知れているが、ガブリエル・ガルシア・マルケスはコロンビア、ひいてはラテンアメリカ文学全体が生んだ最大の小説家だ。近年は彼の代表作『百年の孤独』が待望の文庫化され、本の虫たちは挙って手にしたのではないだろうか。一方で、その余波に乗じて、新潮社はさらに、もう一つの傑作『族長の秋』も刊行し、私がこの文章を書いた2025年に発売がなされたことはあまり話題になっていないのかもしれない。いやはや、本作はそれ以前から集英社による文庫版が既にあるではないか。しかし、読者数も前者と比べ、さほど多くないことも想像がつく。(勿論、逆張りをするつもりは毛頭ないが)ここでは『族長の秋』を中心に見ていこうと考える。

 とはいえ、ガルシア・マルケスを語るに際して、マジック・リアリズムを小説の一ジャンルとしての人気を作り上げた『百年の孤独』を無視することはできない。畸形児が生まれることを恐れて、近縁での婚姻が嫌煙されていたコロンビアのとあるコミュニティで、いとこ同士でありながら恋に落ちたホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランは家庭を築くことを阻まれた。それを愚弄した男が現れたために、ホセは彼を殺害してしまうのだが、それから彼の亡霊がまるで日中の影のようにふたりの傍に寄り付くようになった。それに嫌気を差した夫婦は遂にコミュニティを抜け出し、「マコンド」と呼ばれる村を築き上げた。『百年の孤独』はそんな孤立した小さな村で起きる、様々な非現実的で幻想的な百年間を描いた物語である。その奇想天外な想像力が詰め込まれた小説世界は、アカデミーから大衆に至るまで、幅広い人気を博し、空前のベストセラーとなった。そして、やや控えめで停滞気味だった70年代のノーベル文学賞を刷新するかのように、ガルシア・マルケスは1982年に「現実的なものと幻想的なものとを融合させて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する豊かな想像力の世界を構築した」として同賞を受賞した。

 さて、『百年の孤独』が幅広い読者層を獲得できたのは、想像力豊かな世界観も勿論だが、文章における平易さと、時間の流れに沿った展開の仕方があってのことであろう。一方で、読み難い点でいえば、ガルシア・マルケス独特の、句読点、記号や段落を極力排除し、一気に読ませようとする文体にあるだろう。実際、2段構成のものでおよそ40ページを捲ってから漸く改行がみられることが多く、切り良く一旦読み止めることが難しい。ガルシア・マルケスはまた、どれほど長大な作品であっても、章立てすることがなく、これもまた合間を縫って読もうとする読者の頭を抱える要素である。なんならひとつの段落をひとつの章として見做すことができる。

 『族長の秋』ではこうした独特な読書リズムに加えて、『百年の孤独』とは異なり、時系列に整理されていない点や、語り手の人称が一貫しない点で、読者に更なる困惑を与える。なるほど、これがなかなか読者を獲得できない所以なのか。そんな混沌とした構成の下、描かれるのは、想像力の賜物とでも言うべき一方で、あまりにも卑劣で残虐非道極まりない凄絶な独裁者の人間像である。

 物語は大統領府に押しかけた市民が、そこで大統領閣下の惨たらしい死体を目の当たりにするところから始まる。死体は部屋中に飛び回る鷲に食い荒らされ、牛たちが徘徊していた。百年以上も国権を牛耳っていた大統領だが、年齢は107歳とも232歳とも言われ、自身も覚えておらず、また彼の名前を誰も知らない。そんな素性の知れない独裁者であるが、人々の口からは彼に関するあまりにも悍ましい悪事の数々が次々と暴露されていく。

 それはカリブ海のとある国の独裁者の生涯である。大統領は元々、娼婦のベンディシオン・アルバラードから生まれ、父親を知らずに育った。まともな教育を受けたこともない彼だったが、軍に入隊し、着実に昇進を重ねていき、クーデターを起こして遂に大統領の座を奪取する。国土のありとあらゆるものを好き勝手にする大統領であったが、彼がただひとつ手に入れられなかったのは、理想の女であった。多くの腹心を持った彼だが、紆余曲折あって次々と消されていく。そして、彼の悪事の極め付きは……

 『族長の秋』はラテンアメリカ文学によく見られる「独裁者小説」の系譜の作品のひとつだ。同様の系譜で、特に有名なのが、ここでも紹介しているアストゥリアスの『大統領閣下』があるが、『大統領閣下』はアストゥリアスの出身グアテマラの独裁体制を参考にした作品と言えよう。一方で、『族長の秋』は明確な参考国家がわからない。ガルシア・マルケスはおそらく、特定の国の独裁体制を風刺しているのではなく、中南米に根を下ろす独裁者たちの典型を抽出し、ひとりの独裁者を作り上げている。

 ラテンアメリカに蔓延する恐るべき社会体制や歴史がガルシア・マルケスの想像力のなかに吸収され、それが悪夢のような残酷描写を作り出し、それを見事に作品化したのが「独裁者小説」の頂点に立つであろう『族長の秋』なのだ。

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