『ナジャ』 アンドレ・ブルトン

 アンドレ・ブルトン、シュルレアリスム運動の提唱者であり絶対的指導者だ。そのカリスマ性から追随者は多く、ときに衝突も起こしては大勢を追放してきた。シュルレアリスムを創始して以来、彼は常にこの運動の中核を担い、自身の最期まで生粋なシュルレアリストであった。「無意識」という新たな心理学的概念を逸早く芸術と結び付けた彼の業績は、今なお強い影響力を持っている。

 では、そんなシュルレアリスムの大家は如何にしてシュルレアリスムに至ったのだろうか。彼が医学生であったことは、最先端の心理学に触れる機会を与えた。ランボーやアポリネール、そしてヴァシェら象徴主義に多大な感銘を受けた彼は、トリスタン・ツァラが指導するダダイズム運動に加わる。後にダダイズムから離反し、独自の芸術運動を展開することになった。運動は全体として左傾化するのだが、ブルトン自身はフランス共産党の教条とは相容れず、独自路線を貫いた。

 さて、シュルレアリスムは無意識を重点に置いたわけだが、ブルトンは「自動記述」という独自の方法を編み出した。意識や技術に支配を受けず、思ったがまま矢継ぎ早に書いていく手法は、抑圧された内面の思考や無意識を表出することを目的とした。この手法はまず詩で試され、後に絵画や小説でもそれが実践された。

 これまで多くのシュルレアリスム小説を読んできたが、ここでようやく究極的な問いに挑もうと思う。果たして、シュルレアリスム小説は実現し得るものなのか。単刀直入に結論を述べると、私は不可能だと思っている、少なくとも自動記述という手法を試みるという観点からでは。詩という文学的媒体では、それが自由に発揮できるにせよ、小説という体裁を採ろうとするものならば、小説の特性で要請される理路整然とした脈絡と衝突してしまう。否、小説には起承転結のような決まった体裁はない、と思われるだろうが、それでも、どんな些細な矛盾でも、小説では排除しようとする性格がある。思ったがまま矢継ぎ早に書こうとするものならば、重大な矛盾を起こし、最終的に小説として失敗してしまう。結局のところ、小説を書くに当たって、作家というのは辻褄が合うようにするため、緻密に計算しているのだ。

 小説家としてのブルトンの代表作『ナジャ』もやはり、計算なしでは完成に至らなかったであろう代物である。文体そのものが、如何にも自由に書かれているにせよ、大雑把な展開は考えていないはずがない。本作のおおよそのあらすじは以下の通り。昨年の10月4日、「私」はパリの街を歩いていると、若い女に話し掛けられる。宛もなくパリを訪れていた彼女は自らナジャと名乗る。それから、「私」は自分で書いた詩を彼女に読ませ、交流を深めていく。やがて「私」は彼女に魅了されていくが、次第に彼女の独り言が鼻につき、次第に互いに相容れない仲だと「私」は悟る。ナジャはまるで運命の女フェム・ファタルの如く象徴的に現れ、主人公を誑かす。

 本筋は以上の通りだが、はて、本作は脇筋がかなり充実している。本作はヴィクトル・ユゴーの評論から始まり、次いでシュルレアリスム運動の同胞、関わった女、更にはピカソなどといった豪華な知人らの実名が書かれる。ナジャももしかすると実在する女なのかもしれない。しかし、彼女の正体を暴くものならば、やはりその冗長な序文とも捉えられる評伝から、蜘蛛の巣を垂れている糸で丹念に辿るように、紐解く必要があるだろう。この、一見あちこちに話が持っていかれるような小説は、かなり計算尽くされた小説であったことは、読んでみてお分かりだろう。

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