小説家
ロッドユール
小説家
「じゃあ、行ってきます」
看護師の妻が、家を出て行き、一人残された私はとりあえずダイニングの丸テーブルの椅子に座りながら、窓から外を眺める。
「・・・」
いつもの景色。何の変哲もない空。何もないことにこそ、穏やかな平和を感じるようになったのはいつの頃からだったろうか。
平日の団地の朝。学校や会社へと、朝の慌ただしい喧噪を各部屋が繰り広げ、そして、それが一段落すると、落ち着いた静寂が突然やって来る。
私は朝食の片付けをすると、ノートパソコンをそのダイニングのテーブルに持ってきて開いた。そして、その電源を入れる、古いパソコンのその遅い立ち上がりの時間を利用して、コーヒーメーカーのところへと行きコーヒーをカップに注ぐ。
「ふぅ~」
再び椅子に座ると、しばらくボーっとしてから、コーヒーに口をつける。パソコンはすでに立ち上がっていた。しかし、急ぐ理由など何もない。
「・・・」
静かで穏やかな時間。私には通勤も通学もなかった。時間は無限にある。
チチチッ、チュチュチュッ
すぐ横の小さなベランダの手すりにスズメがやって来た。たまに妻が餌をやるので、時々覗きに来るのだ。この団地の周囲にはまだ自然がけっこう残っていて、たまに何を間違えたのか、ヤマガラやシジュウカラ、オオルリ、ヒヨドリ、メジロなどもやって来ることがある。
心地よい風が、開け放たれた窓からレースのカーテンを揺らし、私の体を吹き抜けていく。暑さも和らぎ過ごしやすい陽気になって来た。
「さて」
私はゆっくりと小説を書き始めた。あまり頭は回っていないが、いつもだいたい書いているうちにエンジンがかかって来るから気にせず書き始める。
売れない小説家。男としては、というか社会人として失格な私。
「私が稼ぐからあなたは好きなことをして」
焦る私に、ある日、妻が笑顔でそう言った。
「私は仕事が好きだから」
私には過ぎる妻だった。学生の時に知り合い、卒業後しばらくしてそのまま結婚。それから、二十三年。私たちの関係は今もとてもいい。
妻は、看護師として仕事に誇りと喜びを感じていた。市民病院、勤続二十年以上。そのことで、この間表彰されたばかりだった。今では責任ある立場にもつき、仕事も増えていた。だからといって、給料がそれほどいいわけでもない。大変な仕事のはずだった。しかし、彼女は、病気の人のために何かできることに喜びを感じているという。そういう人だった。私の身近にいる人間の中で一番尊敬できる人だった。
気づけば、そんな妻と結婚してから早二十年以上が経つ。振り返ればあっという間だった。結局、私たちに子どもはできなかった。作ろうとも作らないでおこうともお互い話し合ったわけでもなく、なんとなくの結果として、そうなっただけだったが、今ではそれもまたよかったのかと思う。
私たちは夫婦であり、親友であり、重要なパートナーであり、かけがえのない存在だった。
にゃ~
うちの飼い猫が、ダイニングの隅をもそもそと通り過ぎていく。何とものんびりとした時間だった。
私はだんだんと小説の世界に没入していった。何気ない日常の何気ない一コマ。そんなものに、最近魅力を感じ始めていた。私は思いつくままにそんな小説を書いた。誰に頼まれた訳でも、需要が見込めると計算したわけでもなかった。ただ書きたいから書く。それだけだった。プロとしては失格なのかもしれない。でも、私はそれでいいと思っていた。計算し、考え抜かれた小説。そんなものもいいのかもしれない。売れる小説。そういった書き方もあった。そういった書き方を研究したこともあった。何がおもしろいのか、どんなキャラクターが流行っているのか、どんな展開が人をワクワクさせるのか、伏線を貼って、最後にどんでん返し、ハリウッド的脚本術、村上春樹風メタファー、エンターテイメントとしての物語。しかし、私は、そんな書き方に、いつしか嫌気がさしていた。それは、みんながやっている、ある程度もうパターンの決まった世界だった。そこに囚われ、その中でしか踊らない自分に、堪らない悲しみを覚えた。私はその中で疲弊していった。
ある時、私はすべてを捨てた。もう、売れるからといってジャンクフードを売るのは嫌だった。安く劣悪な素材に添加物を混ぜて誤魔化す作り方はもうどうしても嫌だった。
私は若い頃、書きたいと思っていたものを書いた。小さい頃純粋に夢想していた世界を書いた。自分自身がワクワクするものを書いた。
「おっ、もうこんな時間か」
気づけばもうお昼になっていた。お昼はかんたんに焼きそばを作る。小さなウィンナーを入れたいつもの、私特製の焼きそばだった。隠し味に少し醤油をたらすのが肝だった。
「よしっ」
今日も焦がさず出来た。私は焼きそばを作ることだけはうまかった。妻もよく私の焼きそばだけは褒めていた。
にゃ~
「おお、そうだ、忘れていた」
たまにもごはんをやらなければならない。
私は昨日近所の榊原さんにもらったアジを冷蔵庫から取り出した。それを、網に乗せ焼き始める。するとたまがその堪らない匂いを嗅ぎつけ私の足元にやって来た。その焼きあがったアジをほぐして昨日の残りのご飯を温め混ぜてやる。それをたまの前に置いやった。たまはその小さな丸い薄茶と白の頭を下げて、それをうまそうに食べ始める。
たまという安直な名前は、妻がつけた。反対はしなかったが、正直安直過ぎないかとは思った。だが、月日が流れ、その名前になじんでくると、たまというその名前が、その名前以外ありえないほどにしっくりとくるようになってくる。不思議なものだ。
たまの食べる姿を見つめながら、私も焼きそばに取り掛かった。
「うまい」
少し冷めてしまったが、今日もやはり私の作った焼きそばはうまかった。ちょっと、麺とソースを焦がしたところもちょうどいい。我ながら天才だと思った。
「ふぅ~」
食後のコーヒーを飲み一息入れると、私は再び小説を書き始めた。
今日は、なんだか怖いくらいに筆が進む。
多分、また売れもしない、大して評価もされない小説になるだろう。でも、私は楽しかった。そういった自分の書きたい小説を書いているこの時間が楽しかった。小説を書く。そのこと自体が堪らなく幸せで楽しかった。
「あ~あ、お前だってちゃんと就職していればもっと稼げたのに。ちゃんと大学出てんだろ?」
「老後不安じゃないの?」
「ボーナスとかないんだろ」
「団地に住んでんの?古風だねぇ」
同級生たちに会うとよく言われる言葉だった。
しかし、年も取り、私の同級生で鬱病になる者も多かった。自殺した者も一人や二人ではない。
「あいつ自殺したって、ほら、○○学部の」
「高校のほら、理系クラスの背の高い子いたじゃない、あの子自殺ですって」
「ほら、あの大手の広告代理店に就職した、山里君。彼、鬱で自殺したんだって。大学の同期の中じゃ、ずば抜けて優秀でみんな羨ましがってたのにな。人生分らんもんだな」
最近は特に、誰からともなく、仲間内から、そんな噂話をよく聞くようになった。
飲み会に行っても、飲み始めこそ、自分が就職した大企業の業績や、この間出たボーナスの額、自分が乗っているグレードの高い車だとか、買った家、昇進した話など、自慢話を繰り広げる同級生たちだったが、酒も進んでくると、その口から出てくるのは、会社や上司、仕事や妻に対する愚痴や不平ばかりだった。そして、そう語るその年以上に老けた同級生たちのその横顔と白髪の多さに、私は彼らの安定や豊かさと引き換えに背負わされた苦悩と苦労を知るのだった。
「おやつにするか」
午後三時を指し示すアナログ時計を見つめながら、体のコリをほぐすように私は大きく伸びをした。私はお茶を入れ、昨日買った大福もちをパクつく。小説は順調だった。自分で書いていて堪らなくワクワクする。しかし、これを読んで、他人が面白いかは分からなかった。
そして、私は、再び小説を書き進める。疲れていたが、書きたくて書きたくてしょうがなかった。
「おっ、もうこんな時間か」
小説に夢中になっていると、すでに夕方の五時過ぎになっていた。
帰りが遅い妻のために夕食を作らなければならない。そのための買い物に行くため、私は外に出た。油断するとつい家に引きこもってしまう仕事だった。こうして歩いて買い物に出かけるのもいい散歩になっていい。
丁度いい感じに夕焼けが始まろうとしていた。夏の暑さは少し和らいだがまだまだ気温も高く、日も長い。私にとっては何とも心地のよい季節になっていた。
贅沢はできないが、特に貧しくもない生活。若い時はこのまま無名のまま死んで行くことに堪らない不安と恐怖を感じていた。不安神経症のように私は焦り、何かに追われるようにして小説を書いていた。寝ている時でさえ、そんな悪夢を見て心の休まることはなかった。今は嘘みたいにそんなことは滅茶苦茶どうでもよかった。
「今夜は何にしようか」
いつもの駅前の商店街。大体いつもここで大概のものは揃ってしまう。スーパーに行けばもっと安く、いろんなものがかんたんに買えるのだろうが、私はなぜかいつもこの商店街に来てしまう。物がいいし、店主たちとも顔なじみになっているから、おまけもしてもらえるし、色々と頼み事や無理も聞いてもらえる。ここにはお金とはまた別の魅力があった。
「はい、いらっしゃい」
威勢のいい店主のいつもの掛け声。
「ネギと白菜ください」
「はいよ」
今日は、別に特別な日ではなかったが、なんだかすき焼きがいいような気がした。
「たまにはいいだろ」
私は一人呟く。
「すき焼き用の肉を二人前」
「はい」
肉屋にも寄る。
「今日はすき焼き?」
「ええ」
「いいわね」
いつもの肉屋のおばちゃんがにこにこと肉を包んでくれる。
「後は豆腐とシラタキか」
私は通いなれた商店街の店々を回っていく。夕方の買い物客が溢れ、活気がある商店街のアーケードの下のざわめき。私はこの雰囲気が妙に好きだった。
「ただいまぁ」
予告した通り、いつもよりちょっと遅く、妻が帰って来た。
「今日はすき焼きね」
「うん」
「いい匂い」
「なんだか、今日はすき焼きがいいような気がしたんだ」
「ワインを開けましょう。こないだいただいたのがあるじゃない」
なんだかうれしそうに妻が急に言った。
「いいの?あれは確かけっこう値のはるやつじゃないのかい」
「うん、今日はなんだか飲みたい気分だわ」
「うん、分かった。持ってくるよ」
私は納戸へと向かった。
「冷えていないけどいいかい」
私は持って来たワインを妻に向かって掲げる。
「うん、全然」
妻はそう言って、着替えをするために寝室に行った。
グツグツ
いい音をたてて鍋が煮えている。
「じゃあ乾杯」
「うん」
僕たちは赤く揺れるワイングラスを合わせる。
「明日休みになったわ」
早速お肉をとり、それを卵に絡めながら、妻が言った。
「えっ、そうなの」
「うん」
「そうか、よかったね」
「うん、明日は思いっきり寝るわ」
妻は両腕を思いっきり上に伸ばして宣言するように言う。その表情は幸福と解放感に満ちていた。
「うん、それがいいよ。朝食は適当にやるから」
最近は、人手が足りなくて、妻は休みがほとんどなかった。それに夜勤もあり、あまり眠れていなかった。
「あっ、こっちのお肉も煮えているよ」
「うん」
「おいしい」
妻がお肉を頬張りながら幸せそうに言う。本当に今日すき焼きにしてよかったと思った。
「たまにはいいわね」
「うん」
私も肉を口の中に頬張る。何とも言えない歯ごたえと、うま味が口の中に広がる。
「豆腐おいしい」
妻は豆腐が好きだった。
「いつものとこで買ったの?」
「そう、いつもの藤原豆腐店」
「あそこのが一番ね」
「うん」
商店街にある年老いた老夫婦が営む昔ながらの豆腐店だった。
カーテンを揺らし、そこにひんやりとした気持ちのいい風が入って来る。
「なんかいい風ね」
「うん」
僕たちはふと、風の吹きこむ揺れるカーテンの隙間を見つめる。すき焼きの熱に火照った頬を撫でるように過ぎて行く風が心地よかった。
「涼しくなってきたわ」
「うん、もうすぐ冬だね」
「ええ、でも、冬は嫌だわ」
「冬は嫌だね」
こういったちょっとした感性が僕たちはなんだかいつもよく合う。この辺が僕たちなんだろうと思う。多分。
「ふふふっ」
「どうしたの」
妻が、突然笑い出す私を不思議そうに見つめる。
「いや、なにね」
「何?」
「なんか幸せだなって」
「何それ、ふふふっ」
「いや、なんかね」
「何よ」
ふと、なぜか私は何とも言えない温かい幸せを感じた。この何気ないひと時。この時間がかけがえのない貴重なもののように感じた。この感じをもし、小説に塗り込められたら――。私は思った。
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