登場人物紹介と注釈(巻三)

●登場人物紹介

 巻三終了時点で死亡している者は、原則として省く。


しん

子嬰しえい:三世皇帝。謀殺された太子扶蘇ふその息子。


項羽:武将。この物語の主人公の一人。

項伯:項羽の叔父、項梁こうりょうの弟。張良の親友。

范増はんぞう:軍師。

季布:武将。

鍾離眜しょうりまい:武将。懐王かいおうを発見した。

桓楚かんそ:武将。元盗賊。

于英うえい:武将。元盗賊。

英布:武将。元罪人。別名「黥布げいふ」。

虞姫ぐき:項羽の妻。

烏騅うすい:項羽の愛馬。

虞子期ぐしき虞姫ぐきの弟。

懐王かいおう王家の末裔。鍾離眜しょうりまいに見出され、王の位についた。

韓信:執戟郎しつげきろう。「股くぐり」を揶揄やゆされながらに仕えているが……

章邯しょうかんしん軍の総大将であったが、に寝返った。

司馬しばきん章邯しょうかんの部下。に寝返った。

董翳とうえい章邯しょうかんの部下。に寝返った。

陳豨ちんき章邯しょうかん配下の謀士ぼうし。後年、大事件を引き起こす。

張耳ちょうじ:武将。陳余ちんよとは親友同士。だが……

陳余ちんよ:武将。張耳ちょうじとは親友同士。だが……

雍歯ようし:武将。

陳平ちんぺい:項羽に使える文官。しかし、劉邦に心を寄せている。


■劉邦軍

劉邦:はいの県令。この物語の主人公の一人。

張良:かんの重臣だが、「借りられ」て劉邦軍へ。

樊噲はんかい:武将。劉邦の親友にして義弟。

蕭何しょうか:文官。

曹参そうさん:武将。

夏侯嬰かこうえい:武将。

呂顔りょがん:劉邦の妻。

周勃しゅうぼつ:武将。

王陵おうりょう:武将。

酈食其れきいき:通称酈生れきせい。能弁の士。

灌嬰かんえい:武将。

紀信きしん:武将。







●注釈

 巻三は、作中に引用されている故事が非常に多く、その説明を書いていたら、注釈が思いのほか長くなってしまった。(なんと、7000字もある!)

 以下の注釈は、読まなくてもストーリーの把握に支障はない。わずらわしければ、飛ばして次の回に進んでいただいてもかまわない。

 もし興味がおありなら、ちょっとした箸休めのコラム感覚で楽しんでくだされば幸いである。



(第十二回)

 酈食其れきいきが『周の武王がいん紂王ちゅうおうを討ったとき、大陸中の人々は喜んで武王に服従した』と言っているが、実際には武王を簒奪者さんだつしゃとして非難した者もいた。伯夷はくい叔斉しゅくせいという兄弟がそれである。

 彼らは武王の主殺しを批判し、いんの滅亡後は「周のぞくまず」と言って、新国家での生活そのものを拒否。山籠もりして山菜だけを食う暮らしを続け、とうとう餓死してしまった。

 主君への忠義を文字通り命がけで貫き通した彼らのことは、武王の軍師であった太公望さえ「これ義の人なり」と高く評価している。儒教においても聖人とされる。

 以上のような逸話を酈食其れきいきほどの知識人が知らなかったとは考えにくい。とすると、この時の酈食其れきいきは、陳同ちんどうを説得するために、史実をやや歪めて語っていたのかもしれない。



(第十三回)

 「通俗漢楚軍談」において、子嬰しえい扶蘇ふその息子、すなわち始皇帝の孫とされている。

 始皇帝の生年が紀元前259年。そして作中現在が紀元前207年。始皇帝が生きていたとしても52歳であることから計算すれば、子嬰しえいの年齢は、どう高く見積もっても20歳過ぎ程度のはずである。にもかかわらず、この回には子嬰しえいの2人の息子が伏兵を任される場面が描かれている。普通に考えればこの子らの年齢はせいぜい5歳。いくらなんでも無理がある。

 実は、子嬰しえいが何者であるのかについては複数の矛盾した記録が残っており、はっきりしない。「史記」ひとつの中においても、「しん始皇本紀」では『胡亥の兄の子』、「六国年表」では『胡亥の兄』、「李斯りし列伝」では『始皇帝の弟』と見事にバラバラ。ここでは「しん始皇本紀」を採用した形だが、その場合でも『胡亥の兄』というのが扶蘇ふそであるとは限らない。子嬰しえい扶蘇ふその息子というのは、「西漢通俗演義」にも無い、「通俗漢楚軍談」でのオリジナル設定なのである。

 以上のようなややこしい状況をふまえたうえで、この作品では、可能な限り「通俗漢楚軍談」の記述を尊重する方針をとった。子嬰しえい扶蘇ふその子とする。その5才の息子たちは、実戦の経験を積ませるためか何かの理由で、名目上の大将として参戦させたのであろう……などと、広い心で解釈していただけるとありがたい。



(第十四回)

 五星が一ヶ所に集合する天文現象について、唐代の天文学者瞿曇悉達くどんしったの著書「唐開元占経」巻十九に、以下のような記述がある。

『易坤霊図曰、王者有至徳之萌、則五星若連珠』

(「易坤霊図」という書物によれば、王者に至上の徳が萌え出づる時、五星が連珠のごとく連なるという)

 また、同じ書の注釈に、こうある。

『周将代殷五星聚于房、斉桓将霸五星聚于箕、漢高祖入秦五星聚東井』

(周がいんに取って代わったとき、五星が房宿に集まった。斉の桓公かんこうが覇者となったとき、五星が箕宿きしゅくに集まった。漢の高祖(劉邦)がしんに入ったとき、五星が井宿せいしゅくの東に集まった)



(第十四回)

『色事をやりすぎる。野獣のように欲望のまま暴れる。酒に飲まれる。音楽に没頭しすぎる。高く大きく色鮮やかで豪華な屋敷に住む。これらのうち一つでも当てはまる者は必ず滅びる』

 張良が引用したこの言葉は、「尚書しょうしょ(書経)・夏書かしょ・五子之歌」に収録されている。王朝の三代国王太康たいこうは、遊楽にばかりふけっていたため、人民に恨まれて国を失った。このとき、太康たいこうの5人の弟が、の始祖である聖王の教えを思い起こして、それぞれ一つずつの歌を歌った。それが五子之歌である。

 その中の第二の歌で、以下のように歌われている。

『訓有之。内作色荒、外作禽荒、甘酒嗜音、峻宇彫牆。有一于此、未或不亡』

 大意は、おおむね本文に記したとおりである。

 ただし、ここに大きな問題が存在する。

 この「尚書しょうしょ」、おおもとのテキストは、始皇帝による焚書坑儒で喪失の危機にさらされてしまった。このとき、伏勝という学者が壁土の中に書を埋め込むという荒業で「尚書しょうしょ」を守ろうとしたのだが、しん滅亡後に掘り返してみると、劣化が進んでいて一部しか読むことができなくなっていた。このとき辛うじて回収されたテキストを「今文尚書しょうしょ」という。当時最新の文字で書かれていたから「今文」である。

 一方、それ以外にも別系統の「尚書しょうしょ」が後の時代に発見されることがあった。こちらは古代の文字で記されていたことから「古文尚書しょうしょ」と呼ばれていたのだが、この系統のテキストは西しん時代の戦乱で、またしても散逸さんいつしてしまった。

 それから10年ほど経ったある日、梅賾ばいさくなる人物が、失われた「古文尚書しょうしょ」を発見した、と言って書を献上した。以来、このテキストが「古文尚書しょうしょ」として受け継がれてきた、のだが……

 この梅賾ばいさくによるテキスト、内容に怪しい点が多く、「ひょっとして偽物ではないのか」と疑う学者も少なくなかった。そこで歴代の学者たちによって数々の検証が行われ、1400年後、清代の学者閻若璩えんじゃくきょが20年以上もの歳月を費やして書き上げた執念の検証書「尚書古文疏証」によって、その内容の半分以上が完全な偽作(捏造ねつぞう)であることがついに証明されたのである。

 それ以来、梅賾ばいさくによるテキストは「偽古文尚書しょうしょ」と呼ばれ、本来の尚書しょうしょとは区別されるようになった。

 説明が長くなってしまったが、ここで本題に戻る。もうお察しかとは思うが、つまり、本文で引用されていた「五子之歌」は、この「偽古文尚書しょうしょ」に記されたものなのである。

 しん末期~漢初期の人物である張良が、500年以上も未来に捏造ねつぞうされたこの文章を引用できるはずがない。時代考証的には明らかにおかしいのだが、みんの時代に書かれた「西漢通俗演義」および江戸時代日本における翻訳「通俗漢楚軍談」は、この歌を(おそらく「偽古文尚書しょうしょ」が偽書であるとは思いもよらずに)引用してしまっている。

 というわけで、例によって、「通俗漢楚軍談」の記述を尊重してそのまま採用した。なにとぞご理解、ご容赦をいただきたい。



(第十四回)

忠言ちゅうげんは耳にさからえども行いにあり、良薬りょうやくは口に苦しと言えどもやまいあり』

 この文章は、現代日本においても特に後半部分が極めて有名だから、耳にしたことがある方も多かろうと思う。出典は「孔子家語こうしけご・六本」。

『孔子曰、「良薬苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行」』

 良薬と忠言が前後逆になってはいるが、意味はおおむね上記の通りである。



(第十六回)

 曹無傷そうむしょうの密告文の中にある『人様から指示をあおがねば仕事ができない、掃除係のような男』という部分は、現代の(そして筆者の)価値観においては、許しがたい直球の職業差別である。

 しかし、「通俗漢楚軍談」「西漢通俗演義」ともにこのような表現になっており、その記述を尊重して記した。飽くまで当時の社会における価値観を反映した台詞であるとして、どうかご理解いただきたい。



(第十六回)

『機は密ならざるときは、すなわち害なる』……「易経・繋辞伝・上」に、以下のように記されている。

『不出戸庭、无咎。

 子曰「乱之所生也、則言語以為階。君不密、則失臣。臣不密、則失身。幾事不密、則害成。是以君子慎密而不出也」』

 戸庭を出でずんば咎なし。

 子曰く、乱の生ずる所は、すなわち言語をもって階をなす。君密ならざれば、すなわち臣を失う。臣密ならざれば、すなわち身を失う。幾事密ならざれば、すなわち害なる。これをもって君子は慎密にして出さざるなり」

(中庭から外に出なければ罪を問われることもない。

 孔子は言った。「乱が生じるとき、必ず言葉がきっかけになっている。主君が余計なことを言えば、家臣を失う。家臣が余計なことを言えば、命を失う。機密事項を外に漏らしたら、害が生まれる。だから君子はよく慎み、秘密を守るのである」)



(第十七回)

 呉国の伍子胥ごししょは、本編より300年ほど昔、春秋しゅんじゅう時代の政治家、武人。

 元々はの重臣の家柄だったが、の平王によって父と兄を誅殺され、自身は逃亡して呉に仕えた。そこで卓越した手腕を発揮し、呉王闔閭こうりょを補佐して呉を強国にのし上がらせた。「孫子兵法」の著者として有名な孫武は、この頃の同僚にあたる。

 後年、孫武とともに呉の軍勢を率いて祖国を滅亡させたが、憎き平王はすでに死没していた。そこで伍子胥ごししょは平王の墓を掘り返し、埋葬されていた死体に対して鞭打ち刑を行い、復讐を果たしたという。

 これが「死者に鞭打つ」の由来である。

 また、この行いを批判されたときに反論として述べた「日暮れて道遠し(私の人生は残り少ないから、手段を選んでいられないのだ)」の言葉も、故事成語となっている。

 ところが、後に闔閭こうりょが死亡すると、その息子の夫差ふさと折り合いが悪くなり、伍子胥ごししょは政治的に追い詰められた末に自害を命じられてしまった。

 国の柱であった伍子胥ごししょの死後、呉は度重なる外征の負担によって衰退していき、やがて宿敵のえつ国によって夫差ふさは殺された。



(第十七回)

 藺相如りんそうじょは、本編より70年ほど昔、戦国時代のちょうの家臣。

 当時、ちょうは有名な宝玉「和氏かしへき」を所有していた。しん昭襄王しょうじょうおう(始皇帝の曽祖父)はこれを欲しがり、「15の城と交換でへきを差し出せ」とちょうに要求してきた。

 おそらくしんに約束を守る気はない。へきを送ればタダで奪われ、要求を断ればしんが攻めてくるだろう。この難しい局面で、藺相如りんそうじょへきを持ってしんに行き、命がけの交渉で「へきも渡さず、城も渡さない」と言質げんちを取り、無事にへきを持ち帰った。

 これが「完璧(へきまっとうす)」の由来である。

 その翌年、しん昭襄王しょうじょうおうは、ちょう王と会談を行った。昭襄王しょうじょうおうちょうを格下扱いして辱めようと、いくつもの嫌がらせをしかけた。しかし、このときも藺相如りんそうじょが命がけでちょう王を守り、最後まで両国対等の体裁を崩させなかったという。



(第十七回)

 項荘が歌っていた漢詩は、「西漢通俗演義」から引用した。(書き下し文は外清内ダクによる)

 「通俗漢楚軍談」にも同じ詩の書き下し文が収録されているが、以下のように、細かいところが微妙に「西漢通俗演義」から改変されている。

『我に百宝ひゃくほうの剣あり

 崑崙こんろんいただきより

 人を照らすことおもてを照らすが如く

 鉄を切ること泥を切るが如し

 両辺にしも凛々りんりん

 匣上こうじょうに風凄々せいせい

 諸公子に寄与きよして

 いつの日かあいまみえることを得ん』

 『崑崙』は、中国西部にあるとされる伝説上の聖山、崑崙山こんろんさんのこと。神仙たちの本拠地として古くから信仰されてきた。実在の崑崙こんろん山脈とは、また別物である。

 『両辺』は剣の両刃。『霜』は切れ味が鋭いことの比喩としてよく用いられる。

 『匣』は剣のさやのこと。

 以上を踏まえて日本語訳すると、おおむね以下のようになる。

『私は一振りの宝剣を持っている。崑崙こんろんの西から来た剣だ。反射光で人を照らせば顔を明るく浮かび上がらせ、鉄をも泥のように切り裂く。両の刃は霜のように冷たく鋭く、鞘の上には風がビュウビュウと吹き抜ける。この剣で公子たちのお役に立って、いつかお目にかかる栄誉を得ようじゃないか』

 漢詩の形式面を解説すると、韻は西せいでいせいけいで八斉。五言八句で律詩のように見えるが、平仄ひょうそくは二四不動や反法など近体詩の作法を守っていない。古詩である……というのはつまり、唐代に完成された漢詩の厳格なルールを守っていない、古いスタイルの漢詩ということである。時代背景を考えると妥当だとうな詩と言えるのではないだろうか。



(第十七回)

 申蒯しんかいが荘公を救ったエピソードについては、「春秋左氏伝」に記述がある。

 本編の約340年前の春秋時代、せいには霊公という君主がいたが、その跡継ぎ争いで二人の太子が対立していた。政治家の崔杼さいちょはその一方を支援し、王位につけることに成功した。これが荘公である。

 しかし、荘公が崔杼さいちょの後妻と密通したため、崔杼さいちょは荘公を恨んで殺害しようとした。崔杼さいちょ勢の襲撃によって荘公の家臣は次々に殺されていき、絶体絶命の危機に追い詰められた。このとき荘公を守るために戦ったのが申蒯しんかいだった。

 「春秋左氏伝・襄公二十五年」に曰く、

『申蒯侍漁者。退謂其宰曰「爾以帑免。我將死」

 其宰曰「免。是反子之義也」與之皆死。』

(現代語訳)

 申蒯しんかいは、荘公に仕える漁師だった。一時撤退して家宰かさいに言った。「あなたは家族を連れて逃げてください。私は荘公を守るために死にます」

 しかし、家宰かさいは言った。「逃げる? それは義に反することだよ」

 そして申蒯しんかいとともに全員死んでしまった。



(第十八回)

 韓信の歌は、「通俗漢楚軍談」では、次のようになっている。

『飢熊山を下る

 石を揭げて蟻を見る

 之を呑んで喉に入り

 咳嗽して出るを妨げず

 危ふいかな 危ふいかな

 范老空しく心を費し

 張良よく主を識る

 今日鴻門を脱して

 他年寰宇を鎮せん』

 本文では「西漢通俗演義」の原文を引用し、外清内ダクによる書き下し文を添えた。両者に意味上の差異はほとんど無いと思うが、書き下し文のみを読んでも現代日本の読者に意味が取りやすいよう心がけたつもりである。

 なお、現代語訳は以下のようになる。

えた熊が山を下り

 石を持ち上げて蟻を見る

 それを飲んでのどにいれたが

 せきした拍子に逃げられることは防げなかった

 危ないなあ 危ないなあ

 范増はんぞう老人は無駄に心を浪費して

 張良は自分のあるじをよく知っている

 今日、鴻門こうもんから脱出し

 いつか天下を治めるだろう』



(第十八回)

『主君が食べ物をたまわったなら、必ずそれをめる。主君が生き物をたまわったなら、必ずそれを飼う』……「論語・郷党」に、次のように記されている。

『君賜食、必正席先舐之。君賜腥、必熟而薦之。君賜生、必畜之』

(現代語訳)

 主君が食べ物をたまわったら、(孔子は)必ず正座してこれをめた。主君がなまぐさもの(生肉)をたまわったら、必ず成熟させて祭祀の供物とした。主君が生き物をたまわったら、必ずこれを飼った。



(第十八回)

 威王は、本編より200年以上昔、戦国時代のせいの王。兵法家として名高い孫武の子孫、孫臏そんぴんの主君として知られている。

 「史記・滑稽列伝」によると、王位を継いだ直後の威王は、毎日遊び暮らしてばかりで全く政治をかえりみなかった。見かねた学者が、こんな謎かけを用いていさめた。

「国の中に大きな鳥がいます。王の庭に留まり、3年間も鳴かず飛ばず。この鳥は一体なんでしょう?」

 もちろんこれは、威王のことを鳥にたとえているのだ。

 しかし威王は、すぐさまこう答えた。

「この鳥、飛ばなければそれまでだが、ひとたび飛べば天まで昇る。鳴かなければそれまでだが、ひと鳴きすれば人を驚かす」

 その後、威王は突如としてテキパキと政務に取り組みはじめ、口先だけで能力のない者、賄賂わいろを使って不正を働く者などを根こそぎ処罰し、逆に、堅実に働く能臣を取り立てて大いに国を発展させた。実は、即位直後は暗愚のフリをして、じっと家臣たちの働きぶりを観察していたのであった。

 このエピソードが、『鳴かず飛ばず』という慣用句の由来であるという。

 本編で引用されていた『照車の珠』にまつわる逸話は、「史記・田敬仲完世家」に、威王二十四年の出来事として記されている。この珠によって照らされる範囲は、「通俗漢楚軍談」では車100乗分とされているが、「史記」での記述は12乗である。



(第十八回)

 『鄧侯とうこうの文王を殺さなかった』このエピソードは、「史記・楚世家」や「春秋左氏伝・荘公六年」に記述されている。

 本編の約480年前、文王2年(紀元前688年)のこと。文王は小国のしんを討伐するため軍を動かし、その途中で、叔父が治めるとう国を通過した。

 とうの君主(鄧候とうこう)は、「文王は私のおいだ」と言って、文王をもてなした。しかし、鄧候とうこうの他のおい3人は、この機会に文王をち取るように進言した。

 3人のおいは言った。「文王は、いつか必ずとう国を滅ぼします。早く手を打たねば、後でほぞを噛む(後悔する)ことになるでしょう。その時になってから動いても間に合いません」

 しかし鄧候とうこうは、この進言を受け入れなかった。

 その結果、翌年になってとうに攻め込まれ、さらにその9年後、ついに滅ぼされてしまった。

 この故事が『ほぞを噛む』という言葉の由来である。



(第十八回)

 『楚子そししんの文公を殺さなかったから、しん楚子そしを滅ぼした』と書かれているが、史書に書かれているエピソードは、これとは少し異なっている。

 しんの文王は名を重耳ちょうじと言い、しんの王子であったが、43歳のとき跡継ぎ争いによって国を追われ、長きに渡って各国への亡命と放浪を繰り返した。

 その旅の途中、重耳ちょうじを訪れた。の成王は重耳ちょうじの才覚を見抜き、歓迎して丁重に扱った。このとき臣の子玉は、重耳ちょうじが無礼を働いたとして殺すよう進言した。しかし成王はこの意見を受け入れなかった。

 その後、重耳ちょうじは帰国し、実に62歳でしんの王位についた。その5年後の紀元前632年、しんの間でいくさが起きた。分が悪いとみた成王は撤退し、ひとり徹底抗戦を主張した子玉は大敗、成王の怒りを受けて自殺を強いられた。

 このいくさ城濮じょうぼくの戦いという。

 この戦いを契機にしてしんは勢力を拡大し、文王(重耳ちょうじ)は覇者として中国を牛耳ぎゅうじるまでになった。せいの桓公と並んで「春秋五覇」の代表とされるのが、この文王である。

 見ての通り、楚子そしの君主)は痛手を受けたものの、滅ぼされるには至っていない。ひょっとしたら、楚子そしというのは「の子玉」なのだろうか? だがその場合も、子玉は文王を殺すよう進言した側なので、つじつまが合わない。

 ともあれ、本文における引用は「文王を殺すべき時に殺さなかったせいで後悔することになった」程度の意味にとらえていただきたい。

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