十八の下 竪子、ともに謀るに足らず!



 翌日。

 張良は、玉璽ぎょくじと珍宝をたずさえて、また鴻門こうもんの陣におもむいた。


 張良は、項羽に対面し、丁重に礼をした。

沛公はいこうは、昨日いささか飲みすぎてしまい、今日は二日酔いで立つこともできぬありさま。

 そこで、代理として私が、大王様につつしんで礼を為すよううけたまわって参りました」


 そして張良は、貴重な宝の数々と伝国の玉璽ぎょくじを、項羽にささげた。


 それらの宝を、項羽は机に並べて、じっくりと鑑賞した。

 どれもこれも、すばらしい品ばかり。ただ一点のきずすらもなく、温かくうるむような輝きを内側から走らせている。これこそまことの天下の重宝である。


 項羽は限りなく喜び、数ある宝の内から、一つを選んで持ち上げた。

 それは、ぎょくで作られた酒斗さかます、すなわち玉斗ぎょくとであった。


 古代より、中国では翡翠ひすい瑪瑙めのうなどの貴石を『ぎょく』と呼んでとうとんできた。

 項羽が手に取った玉斗ぎょくとは、その中でも特に良質のもの。吸い込まれるような深いみどりの内から、星空まで照らしだすかのような輝きをほとばしらせている。

 名付けるならば、照星の玉斗。

 この世に二つと無いかもしれぬ、まさに、至上の逸品であった。


 その玉斗を、項羽は、范増はんぞうへと差し出した。

「これは本当にすばらしい。まことの珍宝だ。

 ここまで力を尽くして働いてくれたお礼に、この玉斗ぎょくとを先生に差し上げよう」


 その……瞬間、であった。

 范増はんぞうは目をひん剥き、歯を噛み締め、顔面に赤々と血をみなぎらせ、項羽の手から玉斗ぎょくとを引ったくり、床に投げ捨て、剣を抜き、力任せに刃を振り下ろし、玉斗ぎょくとを真っ二つに叩き割った。


「クソガキめッ! ともにはかる価値もないわ!!」


 ついに爆発したのだ。ここまでずっと胸の内に溜め込み続けた苛立いらだち、いきどおり、ふがいなさが。

 一度口に出してしまえば、もう止まらない。范増はんぞうは荒れ狂う洪水の如く早口に、まくしたてた。


「項羽! そなたの天下を奪う者は、間違いなく沛公はいこうだ。いずれ我が方の仲間たちは、みんな沛公はいこうの捕虜となる。こんな宝が何の役に立つ!?」


「なんだと!」

 項羽は怒った。

 いや、悲しかったのだ。

 深く深く信頼し、尊敬し、今や本当の父のように、祖父のようにしたっていた老軍師范増はんぞう。その范増はんぞうが初めて見せた激烈な怒りに、まるでしかられた幼子おさなごのように衝撃を受け、動揺したのだ。


 それなのに項羽という男は、心中しんちゅうの動揺を、つい、怒りという形で発露はつろしてしまう。他の表し方を知らないのである。


「いくら先生でも、やっていいことと悪いことがあるぞ!

 俺は主君で、先生は臣下。『臣たる者は、主君の馬車に並んではいけない』……いくら親しくたって、君臣の上下関係は守るべきなんじゃないのか!?


 昔の言葉にもあるだろう。『主君が食べ物をたまわったなら、必ずそれをめる。主君が生き物をたまわったなら、必ずそれを飼う』と。

 まして、こんな貴重な宝玉を! 俺が、先生に、あげたのに! いきなり砕いてしまうなんて、どういうことだよ!」


 范増はんぞうは言う。

「よいか。昔、恵王けいおうは、周囲の車を照らし出すほど明るく輝く『照車のたま』なる宝玉を持っていた。

 恵王けいおうは、せいの威王と対談したとき、宝玉を自慢して言ったのだ。『貴国にこういう宝はないのか?』と。


 これに対して、威王がどう答えたと思う?

 『貴公のたまは確かに明るいが、それでも車100台程度の範囲を照らすに過ぎない。私には賢臣が4人いる。彼らの光は千里先まで照らしてくれる。彼らこそ我が国の宝だ』


 このように、古代の人間は、宝ではなく賢者をこそ重んじた。

 いま私が重んじているのは、沛公はいこうの首ただ一つ。これこそ天下で最も貴重な宝だ。

 それなのに! 君は、この老人の言うことを聞かず、とうとう機会をのがして、どうでもいい物を受けとって喜んでいる! だから私は心中しんちゅうに激情を抱いて玉斗ぎょくとを打ち砕いたのだ! 君からのたまわり物を軽んじたわけではない! なぜこれを分かってくれぬ!?」


 項羽は、たじろいだ。怒りから一転、今度は懸命に范増はんぞうなだめようとしはじめた。

「いや、先生、それは……考えすぎだよ。沛公はいこうは臆病で、弱くて、だいそれたことができる男じゃない。あんなやつに、この俺がわずらわされるわけないよ」


 だが范増はんぞうは止まらない。項羽がうっかり言った一言ひとことを、十倍にもして返してくる。

「昔、鄧侯とうこうは、の文王を殺さなかったばかりに、逆にに滅ぼされてしまった。

 また、楚子そししんの文公を殺さなかったから、しんの方が楚子そしを滅ぼすことになった。


 いま沛公はいこうを殺しておかなければ、沛公はいこうは必ず君と天下を争うことになる。奴を解き放つのは、龍を大海に返し、虎を山へ入らせるようなものだ。大変な事態になった後で再び捕らえようとしても、もう二度とつかまえることはできないぞ!」


 張良が口を挟んだ。

「老将軍、なんてことをおっしゃるんです。

 魯公ろこうの武威は、もはや天下に敵無しです。力はかなえを持ち上げるほど。勢いは山を抜くほど。9回も章邯しょうかんと戦い、しんの子弟を降伏させ、国々の諸侯は地に膝をついて恐れ服従しました。

 鄧侯とうこう楚子そしとは状況が天と地ほども違います。


 まして、沛公はいこうは関中に入ってから、なにも物事を自分勝手にせず、ひたすら魯公ろこうのお越しを待っていたのです。これを見ても、彼にこころざしが無いことは明白でしょう。

 文王や晋候しんこうと比べなさるのは、ちと、過大評価というものですよ」


 項羽が言う。

「そうそう。沛公はいこう惰弱だじゃくで、物の役には立たないよ。天下取りなんて大事業ができるもんか。

 ぜんぜん心配はない。張良が言うことは、みんなもっともだ。

 なあ張良、お前は、なかなかいいことを言うなあ。沛公はいこうなんか捨てて、俺のところで働かないか?」


 范増はんぞう唖然あぜんとしていさめた。

「項羽将軍! つい昨日、張良を殺そうとしたばかりでしょう! それがたくみな言葉にだまされて、今度はこやつを用いて左右に置こうなどとおっしゃるのか!? そんなことは害あるのみだ!」


 項羽は、カラカラと笑った。

「先生の考えが深いのは分かるけど、ちょっと考えすぎだよ。張良は一人の儒者じゅしゃ。俺のそばにいたからって、どうして俺をだませようか」


 范増はんぞうは重ねて言う。

「あからさまに害を為す者は防ぎやすいのだ。知らないうちにジワジワと損害を与えてくる者こそ予測がつかなくて怖い。頼む、分かってくれ、項羽将軍!」


 しかし項羽は、まったく言うことを聞かない。

 項羽は、腰にいた剣を叩いた。

「このさやに宝剣がある。これさえあれば、俺に勝てる者など、この世にいない!」


 項羽は、なぜこれほどかたくなになってしまったのか。おそらく項羽自身さえ分かっていまい。

 彼の意識の奥底で、さきほど范増はんぞうに叱られた衝撃が、今なお尾を引いているのである。


 結局……

 范増はんぞうの意見は却下きゃっかされ、張良は、項羽の陣に留まることになった。


 なにもかも、張良の手のひらの上……

 項羽の前から退出しながら、張良は一人、暗い微笑を浮かべていたのだった。



(巻四へ、つづく)





■次回予告■


 圧倒的な武力をもって関中の実権を握った項羽は、かつての約束を反故ほごにして、みずから王位につかんと動き始める。

 怒る懐王かいおうなつかぬしん人。何一つとして思い通りに事が運ばぬ苛立いらだちの中、項羽はついに高貴の位に昇り詰める。しかし彼は王ではない。皇帝でもない。後にも先にも例のない唯一無二の新たな尊号。その名は――


 次回「龍虎戦記」第十九回

 『覇王、項羽』


 う、ご期待!

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