雪を抱きしめて

白月綱文

本文

あなたがゆったりと瞼を開けると、見えたのは覚えのない天井でした。

日の光から閉ざされた薄暗い部屋のベットで、あなたは鎖に繋がれていました。

そんな中感じたのは、鎖の鈍い冷たさと埃っぽい空気の味。

そして何よりも、上に跨る彼女の恍惚とした表情と赤赤としたおぞましい瞳。

一呼吸するまでもなく簡潔に、身動ぎすら許さない速度で手を押さえ付けられて、貴方は理解します。

ああ、間違えてしまったのだと。それ程までに気を許すべきでは無かったのだと。

そんな後悔と共に組み伏せられた貴方は振り返るのです。

ここに至るまでの事の顛末、半人の異形である彼女とのこれまでの時間を。

その穏やかだと思っていたはずの日々の意味合いが、全く別の感覚へと切り替わるのを感じながら。




それは今から一年ほど前の話。放課後の図書室で貴方は彼女と出会いました。

貴方はただ借りた本を返しに寄っただけでしたが、カウンターから出口へと向かおうとする際に、ふと目に付いてしまったのです。

そこにはある女子生徒が居ました。顎を最大限に上に向けて、鼻先が天井へと向かって。そうして背よりもやや高い本棚の上段へと手を伸ばしています。

その姿は、貴方にとってはひたむきに映りました。手を貸した方が良いのでしょうと、そういう風に考えて近づいてみます。

隣まで来て彼女が恐らく欲しているであろう本を手に取ると、それを渡そうと試みます。

ただ、貴方は気がついていませんでした。

とても長い彼女の黒髪、それが地面へと流れた夜の帳。その隙間に蠢く、人のものでは無く人の足とも大きさの変わらない昆虫の脚。

呆気に取られたのは貴方だけではありません、共に空いた口のままで視線が重なります。

次の瞬間には彼女の顔は敵意に変わりました。彼女にとっては不意に近づくような相手は嫌がらせ目的に決まっているなんてこと、貴方は知る由もなかったですが。

「邪魔ッ!!!!!」

そう怒鳴られて貴方の体が押し退けられていきます。直ぐ様立ち去っていく脚音も、やはり人とは違っていました。

そういえば、自分の通う学校にも異形の半人は居る、そんな事を貴方はなんとなく思い返して。

手元に残ってしまった、読むべき人を失った文庫本を眺めては。ただ確かに、あの瞳の重なった瞬間、彼女の顔が綺麗だった事が忘れられずに居たのです。

それが、貴方と彼女の出会いでした。




また、次の日。今度の貴方は大した用事もなく放課後の図書室を訪れていました。

ただ、強いて口にするならば、昨日と同じように彼女が手の届かない本に手を伸ばして居るかもしれない。そんなことが気にかかった故の行動でした。

昨日はそのまま戻してしまった本を手に取っては机に向かって、彼女の事をただ待ちます。

昨日借りた本を広げては時折周りの様子を見つつ、貴方はしばらくの時間を過ごしました。

そうして1時間が経ったぐらいに、扉の開く音が聞こえてきました。

もしかして、そう考えて周りを見てみると。その予感の通り、昨日見た彼女がその場に居ました。

図書室に入るなり昨日と同じ本棚へと直ぐ様向かう彼女、ですがその道中で貴方の事を見つけます。

そうして目が合うやいなや、直ぐ様後ろを向かれて逃げ出されました。

貴方は慌てて追いかけます。とりあえず例の本だけは手に取って、自分の荷物は無視して走り出しました。

駆けていく彼女の後ろ髪を見失わないように扉を勢いよく開けて飛び出します。幸い、階段を下るのに手間取っていて辿り着くのに時間はかかりませんでした。

急ぐような必要もなくなり、ゆっくりと階段を降りると彼女は更に慌て速度を出してしまいます。

あるであろう誤解を解こうと触れれる距離まであと一歩という所、そんな瞬間に彼女が階段から脚を踏み外しました。

危ない!そう思う間もなく体が落下していきます。上段の方ですから下手をすれば入院することにはなるでしょうか。

気が付けば、貴方は体が動いていました。考えもなしに彼女の手を引き寄せては抱き締めて転がり落ちます。

硬く角張った段差の痛みに、踊り場の壁に勢いよくぶつかる衝撃。背中から肺を抜けて行って、中の空気が全て吐き出され息の苦しさが堪えます。

体を幾らか打ったようで、詳細が把握出来ない程度には広い範囲を打撲したようでした。

それに対して、腕の中の彼女とその合間の本に関しては無事で、貴方は少し安心します。

彼女は、そんな貴方を不思議なものを見るような目で見つめていました。もしかしたら動揺もあったかもしれません。

特に打った頭がズキズキと痛みを増し、歯を食いしばりつつ立ち上がろうとします。

ただそこで気が付きました。貴方はもう体を動かす余力が無かったのです。間違いなく打撲の影響でしょう。

それに足して、段々と体から力も抜けていきました。これはまずい、そう思ってもどうしようもありません。

抜けていく意識の中、ゆったりと瞼が下がって行って。そうして完全に気を失う前に耳が捉えたのは、彼女の慌て始めた声でした。




貴方が目が覚めると覚えのあるようでない天井でした。真っ白で何処の教室とも同じ点模様。陽の光が差し込んでまだ慣れ切れていない視界を焼きます。

そんな眩しさに目を細めて、嫌がりながら腕で視界を遮りました。

ほんの少し息を漏らして、自分の腕が自由に動くことに気が付きます。

辺りを見回すまでもなく、貴方はここが保健室のベットの上なのだと気が付きました。

「目、覚めたんですね。」

パタン、と本の閉じる音が聞こえてきました。その方を向くと、彼女が貴方の横に立っています。

どうやら、貴方をここまで連れてきたのは彼女のようでした。1人で運べるほど力強いとも思えませんし、誰か人を呼んだのでしょうか。

身を起こして周りを見回して見ますが、先生も誰も見つけられません。貴方と彼女は保健室に2人っきりでした。

「あの…その…。」

彼女は言葉を探しているようで、視線が定まりません。貴方に照準を合わせようとしつつも、あちらこちらをぐるぐるとしていました。

貴方は貴方でどう声をかけたものかと悩みます。そんな中、彼女の腕の中にある本が目に止まりました。

無事と呼ぶかは怪しいところですが、ちゃんと彼女の手に渡ったようでした。

良かった、なんて考えたところで目が合います。普段黒色のはずの瞳が、なぜだか深い赤を示していました。

それは、まるで芸術品のように貴方の目には映ります。不思議と吸い込まれるような、どこまでも思考の余地があるような、そんな色。

「さっきは、ありがとうございます。」

笑い慣れていないのが分かるような、ぎこちない笑顔でそう言われました。でも、それでいても貴方の目にはとても綺麗に映ります。

「それと、貴方の事を勘違いしていました。ごめんなさい。」

言葉に続いて頭を下げられます。貴方は直ぐ様下げなくてもいいと言いますが、それでも彼女はしっかり3秒間下げ続けました。

「保健の先生もあと少しすれば来るでしょうから、私は出ていきますね…。重ねて、今日の事はありがとうございました。」

流れるようにまた頭を下げられて、貴方が何かを告げる隙もなく立ち去って行きます。

引き止めるように伸ばした手にも気付かれないまま、また会える時があるだろうか、なんて事を思っては再びベットに身を預けました。




打撲自体は大したことも無く、頭の方も腫れている程度ということで、次の日も貴方は学校に行きました。

昨日は親に来てもらい車で帰りましたが、多少痛むぐらいで歩きに問題はありません。

一応、体育の授業は様子を見るということで参加は出来ませんでしたが。

放課後を迎えて、貴方はまたしても図書室へと向かいます。彼女が居るかもしれない、というのもそうですが、昨日読んでた本は親が気が付かずリュックだけが回収されてしまったのです。

置きっぱなしだった物を取ってきてもらう際に確認していなく、いざ読もうと思った時に気が付いたのです。

昼休みは用事があり寄れなかったので、必然的に時間のある放課後に向かうことに。

扉を開けていつものようにカウンターへ。この時間に使う際は基本的にまず本を返すのですが、今日は本のありかを司書の方に聞き出す為です。

そんな道中、昨日居た辺りのテーブルで彼女が本を読んでいるのが目につきました。

よく見てみれば読んでいる本ともう1冊、そこには貴方の読みかけの本があります。

昨日とは、立場が逆になったようです。待たれている立場になった事に気が付いた貴方は、直ぐ様に彼女の元へと向かいました。

集中している様子で貴方の足音程度では気がつかれません。どうしたものかと思って、驚かせない程度に声をかけました。

ゆったりと顔を上げて彼女がこちらを見上げます。

「あ、良かった。学校に来ているらしいって話は聞いていたけれど、帰っている可能性も否めなかったので。」

本をパタンと閉じて、落ち着いた笑顔を浮かべてきます。誤解が解けた以上に、彼女は貴方が気を許せるような人であると気が付いたようです。

「これ、忘れ物です。」

隣にあった本を手渡され、貴方はありがとうと応えます。これで用も済んだので、帰ろうとすると手を引かれました。

「まだ、名乗っていなかったですよね。私は3年の黒結雪くろ ゆゆき、一昨日のはこの本を取ってくれたんですよね。勘違いで昨日あんな事になってしまって、申し訳ないです。」

今日になっても頭を下げる彼女に、もうそんなことはしなくていいという旨を伝えると、それでもまだ少し引け目があるような表情を見せます。

そんな流れを断つように貴方からも名乗って、その言葉を彼女は小さく繰り返しました。

「───、はい、覚えました。あの、もし良ければ勉学等に困った際は尋ねてくださいね。私、これでも頭の回る方なので!」

強く腕を握って大きく振られて、少し驚きつつも貴方はならいつか頼らせて貰いますと答えます。

そして手を離して互いに手を振って、それから貴方と彼女の放課後での関わりが始まるのでした。




貴方は2年生の間は図書委員であり、週に一回水曜日の日に放課後の図書室でカウンターを任されます。

だいたい1時間程度立って待つだけの作業ですが、彼女と出会ってからは少し変わった時間になりました。

あれから彼女は図書室に顔を見せる機会も増えて、カウンターの役割がある日に来てくれるようになり、次第に仲も良くなります。

互いに好きな本を見繕っては読みあって、週に一度の感想回。より時が経てば勉強を見てもらうようになり、自然と連絡先を知り合う仲になりました。

異形である彼女の身、ただそれだけの事で、時折見せる笑顔とその端麗さをよく知っている貴方からすれば何も変ではありません。

むしろ、彼女の事を知ってからは彼女が周りから遠ざけられて扱われている事に憤りを覚える程でした。

ただ、放課後の図書室とはいえ彼女と毎週のように会っているのが噂となってしまいます。

そうなってからは、わざわざ口に出したり行動に出る人はいませんが明らかに教室内の空気も悪くなったように貴方は感じました。

それと同時に異形が疎まれる理由、そんな状況を作ってしまったある噂も貴方は耳にします。

異形の人間は、人よりも理性が薄い。それ故に堪え性がなく他人との軋轢を生みやすい。

手足が動物や昆虫のものだったりする異形は、人よりも肉体面で強いことが多く、人に危害を加えることもしばしばある。

それだけならまだしも、彼ら彼女らには発情期というものがあり。

その期間内は気性も荒くなりやすく、人を自主的に襲ったりする者もいるらしく。自制心という歯止めが無くなる。

そんな時期が来る度に事件が多発する、そうあっては距離を取るというのも当然なのかもしれません。

貴方にとって、彼女はそんな噂は有り得ないと思うほどの人物だったのですが。

そんな事を聞いてしばらく経った日の事でした。

「そろそろ、さ…。会うのを辞めにしません?」

貴方にとってそれは青天の霹靂以外の何物でもありませんでした。空いた口が塞がらないまま、思考停止してしまいます。

視線の先の彼女は気まずそうにしていましたが、それでも言葉を続けました。

「私と貴方が放課後の図書室で会っているという事が噂になっているのは、知っていますよね…。今ならまだ、私が無理に付き合わせた事に出来ると思うんです。」

合っていた瞳をそらされて、彼女は窓の外へと視線を投げました。ここでは無い空の雲の流れを見るように、なんでもない事のように言葉を続けます。

「私のせいにすれば、まだ貴方の人間関係は元に戻ります。ですので、貴方と会うのはこれっきりです。」

貴方にとって告げられる事の一つすら意味が分かりませんでした。理解し難く、そんな事をする必要があるはずがないと思うばかりです。

でも、同時に。彼女のその表情を見ていると、貴方の事を真に気遣っている事がどうしても分かってしまいます。

貴方は何も言えませんでした。どんな言葉を言えば良いのかを探してみても、その場限りのものしか見当たりません。

彼女はそのまま席を立ちます。貴方の隣から遠ざかっていきました。

その瞬間、止めるべきかどうかすら迷う貴方ですが、見てしまったのです。うっすらと、彼女に溜まった痛み、その涙を。

体は自然と動きました。いつか、その背を追ったあの日のようにもう一度彼女の元へと走り出します。

今度はもう、図書室から出る事さえ間に合わせない程に距離を詰めて、その手を取りました。

話さないようにと手に力を込めて、振り向いた彼女と視線が混ざります。

そのまま溜まった涙を貴方はその手で拭いました。そして、会うのは辞めないと、きっぱり告げます。

そんな貴方に、彼女の涙は更に溢れてしまいました。貴方は慌てて、自身が何かしてしまったのではないかと考えますが泣きながらも彼女は笑います。

「ほんと、馬鹿な人…。」

そう言って手を離さないままに笑う彼女を見て、貴方も少し馬鹿らしくなって笑ってみて。

その日はまた明日会うことを約束してから帰りました。




あれから、もう引け目を見せるような態度も取らなくなった彼女との関係は、人の目のあまりない図書室以外でも行われるようになりました。

例えば、食堂で一緒にご飯を食べるようになったり、途中までの帰り道を共にするようになったり。

何度も何か変わった扱われ方をされたりしていないかなど聞かれましたが、彼女が怖がっていたような事もなく過ごせています。

時折、赤い瞳を見せる彼女にドキドキしつつも、より深い関係になった彼女と貴方。学校の中で最も親しい相手になった彼女との交流は、しだいに校内だけではなくなっていきます。

外に出かけに行くようになったり、互いの家を行き来するようになりました。

そんなある日の事です。試験前ということもあり、彼女に一緒に勉強をしないかと誘われます。

土曜日の朝目覚めてすぐに来たメールでそんなことを言われた貴方は驚きますが、快く出向きます。

勉強道具一式を持って玄関のインターホンを鳴らし、そうして出てきた彼女に出迎えられます。

「来てくれてよかったです、貴方様・・・。」

彼女はなんだか恍惚とした表情で、その上、静かな夜の中に漂うような赤い瞳をしています。

どこか蠱惑的な彼女の様子に胸をつかまれるような気持ちで、階段を上った家の二階そのまた奥の彼女の部屋へと誘われます。

先に部屋に通されて、今までとは打って変わったその様子に気が付く前に、その暗い部屋と同じように貴方の意識は暗い底へと沈んでいきました。




貴方がゆったりと瞼を開けると、見えたのは覚えのない天井でした。

日の光から閉ざされた薄暗い部屋のベットで、貴方は鎖に繋がれていました。

そんな中感じたのは、体温とその吐息。

そして何よりも、上に跨る彼女の見惚れるような表情と赤赤とした愛おしい瞳。

一呼吸するまでもなく簡潔に、身動ぎすら要らないほどに互いを感じあって貴方は理解します。

彼女こそ、貴方に必要な世界そのものなのだと。

呼吸で互いを温めあって、繋がった感覚が溶け合って、淫らな表情も甘い声もその全てを暴きあえる。

そんな出会いの始まりを、失ったものと吐き出したすべてで祝いました。

きっと貴方はここで一生を過ごすでしょう。


───何よりも大切な、彼女わたしと一緒に。


最悪な状況下で、あなたはその日記帳の存在を目にしてしまいます。そこに書かれていたのは、あなたとその女が出会ってからの日々の事でした。

ただ、怖く感じたのが、そこに書いてあった事のほとんどがあなたにとって身に覚えのない記録だったからです。

知らない話がまるであの女との事実のように語られている、吐き気を覚えるほどに君の悪さを感じます。

早く逃げなければならない、一刻も早くここから逃げ出さなければこの先正気でなどやってはいけない。

でもあなたには硬い鎖を何とかする手段はなく、監視から逃れる作戦もなく、ましてや純粋な力でさえあの女には敵わない。

そんな焦りを抱く最中に、あの女の近づく脚音が聞こえてきます。それは扉を開け、近寄って、そうしてあなたを抱きしめる。

いつものように生暖かい吐息と、赤々としたぎらつく瞳に曝されて、抵抗する気力すらも削がれてしまう。

今日も諦めて受け入れる、激しく抱かれるその瞬間を。その女の愛は変わらない、冷めていくのはあなただけ。

思いっ切りベットに押し付けられてそうして日々を終えるのです。

「愛していますよ、貴方様。」

気を許すべきではなかったのだと、そんな後悔ゆきを抱きしめて。

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