中古日記
青村司
表
少しばかり、仕事に疲れていた。
別に辛いというほどではない。辞めたいほどじゃない。
だから気分転換になる程度の、そんな切っ掛けを探していた。
自己啓発の動画。
そんな動画を見ていた時、自分の気持ちを紙に書いてアウトプットするとよい、なんて動画の中の自称「成功者製造機」の配信者が語っていた。
別に今、失敗している訳でもない。
結婚してマンションも購入し、子供も生まれた。四歳。可愛い盛りというやつだ。
預金だって余裕がある。株式資産だってある。
だから、成功したい訳じゃない。でも、感情や考えの整理というのは良い。
仕事ではパソコンばかり使っている。読書も最近、電子端末かスマホのみ。なら、紙を触るのも気分転換になるだろう。
日記を買うことにした。だが、わざわざ買いに行くのも億劫なのでECサイトを探してみる。
と、面白いものをみつけた。
中古の日記だ。
日記なのに、中古?
使わずに転売したということだろうか。それとも何か書いてあるのか。
書いてあるとしたら、面白いかもしれない。書いてなければそのまま使うだけだ。
俺は、その中古の日記を購入した。
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数日後、仕事から帰ると日記が届いていた。
書斎にある日記の、最初のページを開く。
何か、書いてあった。
『いつもより早く家を出て会社に向かった。ラッキーだった』
それだけだ。
どういうことだ?
何がラッキーだったんだ?
どうにも気になる。おまけに日付もない。
不審に思いながら、その日は日記を書かずに寝てしまった。
翌日。
不思議と早くに目が覚めた。日記の言葉の影響だろうか。
俺が起きると、横で寝ていた妻も気付いて起きてくれた。
「今日って、何かあった?」
「いや……。そうだな、早く出ようとかと思って」
思わず、そんな言葉が出てしまった。
「そうなんだ。じゃあ用意するね」と妻は疑いもせずベッドから体を起こした。
「いいよ。保育園まで時間もあるだろうし」
「もう目もさえちゃったし」
妻が笑う。
何となく申し訳ない気持ちになりながらも用意してもらった朝食を摂り、会社へ向かった。
オフィスについた。いつもより一時間位早いせいか、誰もいない。
パソコンを起動し、スケジュールを確認する。
「あっ」
朝からミーティングがあった。
慌てて資料を漁る。足りない。探さなければ。
時計を見る。十分に時間があった。
安堵の息を吐いた。
「早く出たおかげかな」
そんな独り言を吐きながら、俺は気持を落ち着かせる。
社内のサーバーにアクセスして資料を検索、プレゼン資料への転載を始めた。
帰宅後。食事をした後、日記を開く。
『いつもより早く家を出て会社に向かった。ラッキーだった』
その後に、今日の出来事を書いた。
『早くに着いたおかげでミーティングの準備に十分な時間が取れた。いつも通りだったら危なかった』
ページをめくる。
『小銭をもっていったら、ラッキーだった』
またも良く分からない、短い文章。
だけど、次も従ってみようかと思った。
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休憩ルームの前で、メンバーが数人、たむろしていた。
「どうしたんだ?」
「あ、武村さん」
武村は俺の名前だ。
「いや、オフィスお菓子の新商品が出たんですけどね。小銭がなくって」
メンバーの肩越しに、お菓子の並ぶ棚を見る。棚の隅には、カバの形をしたコイン入れがある。
オフィス向けのお菓子販売コーナーなのだが、電子マネーには対応してないのだ。
「ならおごるよ」
「え、でも」
「丁度小銭あるし。財布嵩張るから、使っちゃいたいんだよ」
「ええと、それじゃあ遠慮なく」
「ありがとうございます」
口々に礼を言われる。
その後も休憩コーナーで話をした。業務以外で話す機会もあまりなかったので、いい機会になった。
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その後も、ページをめくるたびに書いてある短い言葉に従ってみた。
『傘をもっていったら助かった』
『バスで席を譲ったら気分が良かった』
『帰りにオフィスに近いワインショップに寄ったらお得なボトルが購入出来た』
どれも他愛ない言葉だったが、実行してみるとちょっとした幸運に出会うことが出来た。
そんなある日。
『宝くじを買ってみた』
ページを開いた先に、そんな言葉をみつけた。結果は書いてないが、試しに買ってみることにした。
通勤途中。地下鉄構内にある、小さな宝くじショップだ。
そこで十枚ほど、バラで購入した。
当たった。
百万円。
一等ではないが、十分に高額だ。
自宅のパソコンの当選サイトで見たので、妻も呼んで一緒に番号を確認してもらった。
「すごいじゃない。旅行にでも行く?」
「そうだな。今のプロジェクトが来月、一旦落ち着くからそしたら行こうか」
「それにしても、あなた。宝くじ買うなんて珍しいわね。どういう風の吹き回し?」
「それは……」
日記のことを言いかけたが、止めた。日記の通りに行動したら、なんて言ったら何か怪しい宗教にでもかぶれたかとでも思われかねない。
急に黙った俺に、妻の視線が冷たくなった気がしたが、おかしくなったと思われるよりはマシだろう。
就寝前。
自室で日記を開く。宝くじの結果を書いた。
ふと、思いつく。
そういえば今まで、前日のうちに次のページをめくったりしなかった。
次のページをめくってみた。
白紙だった。
幸運も、これでおしまいだったか。
しかし最後に、大きな幸運をもたらしてくれた。この日記には感謝しなければ。
苦笑し、日記を閉じた。
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翌朝。
出社前、私室で準備をしていると視界に日記が目に入った。
昨日、閉じたはずなのに開いている。
日記を覗き込む。
『妻と息子が、交通事故に遭った。トラックに突っ込まれた』
背筋が凍り付いた。何度も見直し、確認する。文字は消えることも、内容が変わることもない。
昨日は何も書いていなかったのに。
震える手で、さらに次のページをめくった。
白紙だった。
次もめくる。白紙。その次をめくる。白紙。めくる。白紙。めくる。白紙。
何もなかった。
そして今迄のことを思い出す。
すっかり、最初から色々と自己啓発のように書いてあるだけ、前の持ち主の悪戯みたいなものだと思ったが。
本当に、そうなのか。
翌日分が勝手に、自動的に。文字が浮かび上がって来たとしたら。
そんな非現実的な考えが頭をよぎる。
駄目だ、混乱している。
よろめきながら、リビングに出る。
妻と、息子がいた。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
「あ、いや。その」
日記の内容を思い出す。
『妻と息子が、交通事故に遭った。トラックに突っ込まれた』
「なあ。今日保育園は」
「そりゃ、あるわよ」
「休むことは出来ないか」
「何で急に? 仕事だってあるし、預けないと」
「それは……」
日記に書いてあったなんて、言えない。頭がおかしいと思われてしまう。
それに今迄だって、そんな珍しい偶然ではない。たまたま積み重なっただけということも十分考えられる。
だけど、それでも万が一。妻と息子が事故に遭うなら。
俺が一緒に行って二人を守れば。
「いや、そんな馬鹿なことが起きるはずがない」
つぶやいた。口に出して、自分に言い聞かせるように。
「何?」
「なんでもない。ごめん、少し疲れていたみたいだ。今日は早く帰るよ」
「そう」
妻がそっけなく返事をした。
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家を出た。
大丈夫、あんな言葉は嘘だ。起こるはずがない。
頭の中で、何度も反芻した。
今迄もただの偶然。
早出?小銭をもっていた?傘を持っていた?
どれも取るに足らない、日常のちょっとした注意喚起で──。
「え」
衝撃が奔った。
宙に浮く感覚。次いで、右半身全体に痛み。
刹那。
左半身も叩きつけられるような衝撃。
否。ような、じゃない。
叩きつけられたのだ、地面に。アスファルトに。
視界が、赤く染まる。
これは、血か。俺の血か。
崩れた塀にぶつかっている大型車が見えた。
クラクションか。騒音がひどい。
泣き叫ぶ声。足音。人の息遣い。「意識はあるか」などと声が聞こえたが、段々遠くなる。
痛みも、遠くなる。
ふと思った。
あの日記の文字。どこかで見覚えが──。
そこで、意識が途切れた。
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