聖女と魔獣
川田スミ
聖女と魔獣
王都の東、山の麓に広がる森の奥深く。魔物が跋扈する、人間が入り込むことはまずないその場所に一人で住むのが俺だ。
繰り返すが人間が来るようなところじゃない。俺はそう、人間じゃないからここにいる。
曲がった背中、盛り上がった筋肉、鋭い爪と牙、そして全身を覆う硬く黒い毛。人間は魔獣なんて呼びやがる。
まあ確かに見た目は化け物そのものだし中身も品行方正とは言えない。実際、そこらの人間なんぞ相手にならん程度には強い。ひと吠えすれば森に住む魔物だって震え上がって逃げて行く有様だ。
そんなわけで人間も魔物も俺に近付いてくることはない……ほとんどのヤツは。
ここらで俺がちょっと散歩でもしようものなら、魔物たちは逃げ惑い、一部は森から出て人間の街にも流れていってしまうらしい。その結果、どうも俺は手下を人間たちにけしかける魔物どものボスだと思われているようだ。
話を戻すと、俺を訪ねてくる数少ない人間はだいたいふたつに分けられる。
ひとつめは俺を討とうとする者たち。
当たり前だがこいつらは成功した試しがない。こっちだって殺されてやる義理はないから襲われたら反撃する。片っ端から返り討ちにしていたら滅多に来なくなった。
もうひとつは俺を鎮めようとする者たち。
早い話が生贄だ。多くは若い女なんだが、化け物への捧げものはこれだっていう思い込みが透けて見える。人間を食うつもりはないから、いつも森の外まで連れ出してやっている。迷惑な話だ。
さて、今回はどちらが来たか。
木々の合間から見えてきたのは白い布をかけた輿だ。これは後者だろうな。ほら、白い服を着た若い女が降りてこちらに歩いてくる。小さな泉のそばにある俺の寝ぐら―小さな岩山の麓にある洞窟だ―の前まで来ると、穏やかな声で話し始めた。
「黒い魔獣よ。国王の命によりお前を倒しにきた。でも、改心するなら命まで取るつもりはないよ」
おっと、どうやら前者だったらしい。一人で俺を倒すつもりか?後ろに控えた兵たちなんぞものの数には入らんぞ。いやそれより面白いことを言う。改心だと。
「殺されるつもりはない。それに改心とはどういうことだ。俺に何か非があると?」
「魔物に街を襲わせているでしょ」
「俺は魔物どもの長ではない。森から飛び出した魔物がたまたま人の街にたどり着くだけのことだろう」
「……あくまで従う気はないってことね。では」
女の両手が白い光を帯びると同時にこちらに向かって駆け出した。魔法か?あまり見たことがないヤツだ。
走る勢いそのままに振り下ろされた手刀を躱す。じゅわっという音とともに自慢の黒毛が数本消えてなくなった。これ、鋼の剣でもそうそう切れるものじゃないんだが。
一度距離を取ったが、無駄のない身のこなしで間合いを詰めてくる。
なるほどこの女は確かに強い。これまで俺を殺そうとやってきた誰よりも。しかし……
「きゃっ!」
所詮は人の身。人を超えた化け物の速さについて来られるわけがない。瞬きの間に後を取り、背中に軽く体当たりをしてやった。
「なかなか速いね!でもこれならどう?」
そう言って踏み込んできた女が一瞬で加速する。ほう、さっきの魔法もどきを足で発動して、地面にぶつけた反動を使ったか?
「あっ!」
さっきと同じように回り込んで体当たり。人間にしてはなかなかのものだと思うが、俺を狩るにはちょっと力不足みたいだな。
その後も仕掛けてくる女を何度も転がす。いい加減諦めた方がいいんじゃないか?白い服が土塗れだぞ。
「そろそろ終わりにしたらどうだ。力の差はわかっただろう」
「そうですね、と言うとでも思った?お前を倒さないと街の人々が安心して眠れないんだよ」
「そうか。だが俺はもう飽きた」
構えを解かない女を無視し、寝ぐらに入って横になった。
それを見ていた女は、青みかがった銀髪を弄びながらしばらく考え事をしているようだった。それから共に来た兵士たちに何事かを話すと、彼らは去っていった。何を思ったか女はここに居座ることにしたらしい。
「お前が魔物に街を襲わせないよう、ここで見張ることにする」
人間がこの森でどう暮らすというのだ。木の実でも食べて腹を満たすか?雨露を凌げるのは俺の寝ぐらぐらいしかないというのに。
「好きにしろ」
それから女と俺の奇妙な生活が始まった。
●●●●●
私が聖女として見出されたのは16歳の時だった。
聖女とは神の祝福を受けたと言われる、聖なる力を宿す女性のこと。ナカサ王国で一年に一人か二人の少女―ほとんどが10歳ぐらいまで―が力に目覚める。聖女として見出されれば神殿に集められ、厳しい修行と禁欲的な生活を送る。
聖女が尊ばれるのは神に選ばれたからというだけではない。その身に宿す神聖なる力を奇跡として顕現させる―聖魔術と呼ばれる―ことが尊敬の源となっている。
多くは傷や病から人々を救う治癒の魔法としてであり、神殿の権威を高めるとともに、実質的に王国の軍事と生活を支える存在となっている。
私は聖女の中でも数少ない攻撃の聖魔術に目覚めた。聖なる魔力を破壊の力に変換し、あらゆるものを粉砕する。
戒律に縛られた生活は退屈だったし、戦闘の訓練も好きにはなれなかった。実際に魔物の討伐に参加するようになっても大して興味を持てず、命じられるままに魔物を屠る日々を送った。
友人と呼べる者は少なかった。神殿の教えの影響か、他の人にはない力を持つ者の驕りか、聖女の多くは自らを選ばれた者と考えている節がある。自分たちが上に立つのが当たり前なのだと、王族ですらも取るに足らないものであると。もちろん決して公言することはないけれど。
神殿に連れてこられたのが遅く、すでに普通の大人としての価値観が定まっていた私はそんな選民意識にとらわれることはなかった。なんていうか、バカバカしいのよね。あと本気で自分を特別な人間だと思っている人って客観的に見るとすごく痛い人だと思う。
まあそんな日々を送る私にとっては今回も国王と神殿の名において命じられたいつもの討伐だった。メーサの森に住む魔物のボスの駆除。普通と違うのは、その魔物が知性を持ち人の言葉を話すということ。それから黒光りする長い毛、緑に光る双眸。遠目には大きな犬か狼のようにも見えるが、私がこれまで見たどの生き物とも違う、この世のものとは思えぬ造形だ。
見た目相応の化け物っぷりも見せつけられた。私の戦闘技術が全く通じない。あれは人間が追える速さじゃない。攻撃が当たる可能性の芽すら容赦なく摘み取られた。
手も足も出なかった私を、しかし殺すつもりはないらしい。その必要すらないということかしら。
自らの正義を疑わない他の聖女なら認め難いだろうけど、私は現実的なのだ。同じやり方で挑んだところでどう足掻いても勝てない。ならば他の方法を探せば良いのだ。何にしても時間はある!遠征の装備の中にテントはあった。あとは食料と水がなくなるまでにケリをつければ良い。
……と思っていたのだけど、それが甘すぎる考えだと思い知らされたのは数日後だった。
この魔獣には弱点も隙もない。たぶん。
こいつは一日中洞窟で寝っ転がってるか散歩しているかのどちらかだ。寝込みを襲おうにも近づいただけで気づかれる(というか寝てなくない?)し、何かを食べたり排泄する様子もない。
どうやって生きているのよ?という疑問はあれど、私の目論見が楽観的すぎたことは分かった。
というわけで方針変更。長期戦だ。
まずは食料。獣でも、なんなら魔物でもいい。魔力を使えば仕留めるのは簡単だ。それから水。目の前の泉は飲めるのかしら?
……いや待って。獣どころか魔物すら一匹も見当たらない。あの魔獣がいるから?流石に木の実だけじゃ生きていけないわよ?
そんなことを考えていたら、
「グギャオオオ!」
森にこの世のものとは思えない叫び声が響き渡った。
なにごと!?と声のした方に走って行くと、あの魔獣が自分より大きい牛の魔物を引きずってくるところに出くわした。
「こいつはいつも俺にちょっかいを出してくるんでな。身の程知らずにも程がある。今日も絡んできやがったから殺しておいた」
え、これってもしかして!?
「それ、食えるぞ」
ですよねー!絶対そうだと思った!
「えーっと、こちら、あなたは食べないわよね?」
「ああ、好きにしろ」
やったー!1日ぶりの食事ゲットー!しかも焼き肉食べ放題!
「それと泉の水は飲めるぞ。というか、お前らの言葉で言えば聖水ってやつだ」
「えっ!なにここ天国!?」
その後も何かと理由をつけては魔物やら大きな鹿やらを狩ってきてくれた。
えっと、もしかして私、餌付けされてない?
●●●●●
妙な女が居着いて一週間。
帰れと言っても聞かないし、その辺で野垂れ死んでも寝覚めが悪いから食い物をやることにした。
そうしたらなんだか懐かれた。犬かお前は。化け物に飼われるなぞ人としての矜持はないのか。
狩ってきた獣や魔物を食い尽くすと薄茶色の目でチラチラこっちを見てくる。俺を殺そうと乗り込んできたくせに飯の催促か。いい身分だな。
一応、食事と睡眠以外の時間はこちらを観察していることが多い。俺を討伐するという建前はまだ捨てていないらしい。やられる気がしないけどな。
寝ぐらを出て背伸びをしていると遠くに動く影が見えた。お、また人間どもが来たぞ。しかもこの間より人数がだいぶ多い。輿もある。白い服の女が降りてきたぞ。あの女の仲間か?
「メーサの森の魔獣!リンの仇だ!細切れにして魔物のエサにしてやるから覚悟しろ!」
その声に応えるように木陰からそそくさと現れる女。リンというのがこいつの名前か。
「どうも、まだ生きてます……」
「生きてたの!?というかなにしてたの?魔獣と戦ったんじゃないの?」
「その、戦ったんですが全く歯が立ちませんで」
「あんたでも勝てない魔物が本当にいるのね……え、負けたのになんで生きてるの?」
渋々、といった表情でこの一週間の出来事を説明するリンの背中が羞恥心に震えているように見えたのは気のせいではあるまい。聞いていた女も口を半開きにして固まってるぞ。
「と、とにかく!私が討伐してやるわ!聖女の力を身をもって味わいなさい!」
そう言った女の全身から発せられた光が、徐々に眉間に集まる。温かみを感じる茜色の輝きだ。その光が今度は体を離れ四方に飛ぶ。光が周囲の一人一人に吸い込まれるように消えると、兵士たちは雄叫びを上げ始めた。そのまま槍や剣を手に取りこちらに走ってくる。
しかし人数は多くても所詮はただの人間だ。俺からすれば動きは遅いし、そもそも俺の黒い毛はこの程度の攻撃を通さない。適当にいなしながらリンの方を見やると、数人の兵士の攻撃をなんとかやり過ごしていた。
あいつ、魔法で兵士どもを攻撃する気がないな。普通の人間がアレを受けたら一発で死んじまうからだろうが、この人数に囲まれていつまで持つんだ?しかも武装した兵士を相手に素手で。
兵士どもを操っているらしい女を見れば、自分の仲間の危機に全く気がついていない。全身から微かに赤みを帯びた光を放ちながら、胸の前で手を組んで眼を瞑っている。そもそも意識がないのかもしれん。
さてどうするか。
●●●●●
えーと状況を整理するね。
聖女仲間のイルサラがやってきて魔獣に戦いを挑んだと思ったら武装した兵士たちにタコ殴りにされそうになった。
いやどうしてこうなった。
イルサラの聖魔術は自分に心を許した人間を意のままに操るというもの。かなりの人数を同時に操れる強力な術だ。
ただし力を行使している間、本人の知覚は大幅に制限される。多数の人間と部分的にでも感覚を共有することは相応の集中を要するからね。
「兵士の、目を通して、私が見えている、でしょうがっ!」
攻撃を捌きながら大声でアピールしても攻撃の手は止まない。これ、私を襲っているって気付いてないよね。いやー、実は嫌な予感はしてた。ちょっと前に見た時せいぜい10人ぐらいがいいところだったけど、今は50人近くを操ってるもんね。そりゃ相手の顔まで認識する余裕はないわ。
私の聖魔術を当てたら100%殺してしまう。罪もない兵士を虐殺する趣味はないのよ。かと言って徒手でいなし続けるのもだいぶ辛い。リーチが!違い!過ぎる!その剣一本寄越せっ!
あー、もうしょうがない。気が進まないけど力を使わせてもらうよ。両手に魔力を込め、光る手刀で兵士たちの剣を折る。折る。折りまくる。すぐに周りにいた10人ぐらいは丸腰になった。よし、これで楽になったよ!
と思ったら全然状況は変わってなかった。聖魔術で攻撃できないのは変わらないのに、あっちの攻撃は手数が多くなったし武器がない分距離が近い!金属製の籠手で殴りかかってくるんだよ?剣で斬られるのとそう変わらない程度には大怪我するわ!
だからといって籠手だけ破壊するなんて器用なことはできない。腕ごともげちゃうって。これは本格的にピンチなのでは?そう思った瞬間、これまでとは違う方向からの敵意を感じた。これは……上!?
視線だけを上方に向ければ、長剣を振り下ろしながら急降下してくる兵士の姿。
まずいマズい不味い!
この崩れた体勢じゃ躱わせない!聖魔術を使う?罪のない兵士を意識がないままバラバラにするしかないの!?
ギィン!
響いたのは鋼が弾ける音。振り下ろされた剣は鉄線の如き黒い毛に阻まれ、真っ二つに折れた切先が宙を舞う。
見れば勢いよく飛び込んできた魔獣がその鬣で剣を防いでいる。いや剣を折る毛ってどんな強度だよ。
「乗れ」
取り囲む兵士に一瞥をくれて威嚇したあと魔獣は確かにそう言った。ここはお言葉に甘えておきましょう。
私が背に跨ると間を置かず宙へ跳ね、着地したのはイルサラの前。
「さっさと目を覚ましてやれ」
無言で頷いた私は、思いっきり振りかぶった右手を頬に叩きつけてやった。
●●●●●
居心地の悪そうな女―—リンというんだった―—を無視して寝っ転がっている。あの平手打ちの後、張られた女―—こっちはイルサラというらしい―—は正気に戻り、しばらくリンと話してから兵士たちを連れて帰って行った。
自分が襲われたとはいえ、仲間を引っ叩いて追い返したのだ。そりゃ自分の職務の意義に疑問を持ちたくもなるだろうよ。
まあコイツのことは放っておくとして、追い返されたやつらはどうするだろうな。まあ十中八九また来るだろう。しかも戦力を増強して。
平穏に過ぎたのは3日だけだった。再び現れたイルサラは、また別の、同じように白い服を着、輿に乗った女の後ろをとぼとぼと歩いている。連れている兵士の数はこの間よりさらに多い。
一団が寝ぐらの前まで来ると、イルサラがこちらへ進み出た。
「リン!出てきなさい!一緒に魔獣を倒すよ!」
呼ばれた当人が木陰からおずおずと出てきた。ついこの間も見た光景だが、あの時よりさらに決まりが悪そうだ。
「いや、それがですね……」
「何やってんの!ほら、早くこっちにきなさいよ!」
尚も逡巡するリンに対してそれまで輿の上から様子を見ていたもう一人の女が声を発した。
「リン、あなたは聖女の使命を忘れたの?」
その言葉にリンの肩がビクッと動く。一旦地面に向けた視線をゆっくりと上げ、女の顔を見上げる。
「カテル様……申し訳ありません」
それだけ言うと俺の後ろに隠れてしまった。おい、お前本当に何をしにきたんだ。というか俺に守ってもらえるとでも思っているのか?
「帰ったらお仕置きですよ」
カテルと呼ばれた女は輿を地面に降ろさせると、ゆっくりとこちらを向いて言い放った。
「穢れた肉体に宿る哀れな魂よ。今、救い出してあげます。そして幸多き来世を祈りましょう」
「穢れた、ときたか。余計なお世話だ。それに来世に期待するほど俺は気が長くないんだよ」
女が胸の前で印を結び目を閉じる。組まれた指の間から緑色の光が漏れ、全身に広がっていく。光はさらに広がり、傍に侍るイルサラまでをも包んだ。
今度はイルサラの全身が薄赤色に輝く。色は一昨日見たのと同じだが勢いが段違いだ。そして弾け飛んだ光は周囲の兵士たちの体に飛び込む。
その後は予想通りだ。操られた兵士は100人か150人か。そしてスピードもパワーも人間の限界を超えている。戦いが終わった後、こいつらはまともに動けるのか?無理やり絞り出した力の代償は小さくないはず。
戦い方も変えてきたようだ。目、口、鼻だけを狙ってくる。毛が生えていないところなら剣が通るという読みだろう。甘いと言いたいところだが、お見事、正解だ。毛の下の体はそこらの魔物とそう変わらない。人間に比べれば頑丈だが、鉄の剣で斬られては無事では済まない。
それでもまあ、命の危険を切実に感じるほどではなかった。俺自身だけならな。
●●●●●
カテル様に叱られた時は条件反射のように体が跳ねた。神殿の教えの体現者のような彼女と相対すると苦手意識が先行する。生理的に合わないのよね。それは向こうも同じことだと思うけど。
そんなことよりイルサラの聖魔術がとんでもないことになってる!操っている人数は一昨日の2倍以上だし、兵士たちの力も人間のものとは思えない。カテル様の聖魔術は初めて見たけど、他の聖女の聖魔術を強化するみたい。それでイルサラの聖魔術が強化され、操られた人も強化されたということかしら?そして例によって私にも無差別に襲いかかってくる。流石にこれは捌ききれないよ!?
というわけでここは逃げの一手。囲まれる前に距離を取り、隙を窺う。この前と同じようにイルサラの目を覚ましてやればこっちの勝ちよ!
……そう考えていた時期が私にもありました。いやイルサラの周りにいる兵士が多すぎて隙なんてないし。あー困ったなー。この人数を掻い潜って一発食らわせてくれる人がいたりしないかなー。
チラチラ魔獣の方を見ていたらあちらも気づいたらしい。ため息を吐いてイルサラの方に顔を向けてた。以心伝心だね!よろしくー!
と、戦闘中によそ見をしていたのが悪かった。兵士たちの常軌を逸した身体能力により蹴られた地面はあちこちが抉れている。その一つに足を取られ、鋭く突き出される剣からの回避がほんの少し遅れた。あ、これダメだ。お腹に穴が空くやつ。
と、思ったら、それから数秒経っても一向に剣が突き刺さる感触がない。瞑った目を開ければ目の前には黒い毛の塊。はー!こりゃまた助けられちゃったな。すいませんね、今回もイルサラの前まで乗せてってもらえます?
と思ったら、それからさらに数秒経っても一向に黒い毛の持ち主が動く気配がない。顔を覗こうと回り込んでみると、
魔獣の左目に突き刺さった剣が見えた。
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焼きが回った、という言葉がぴったりだ。何をやっているんだ俺は。リンが襲われたら死なない程度には助けてやるつもりでいたが、自分の命を捨ててまで守るつもりはなかった。なかったのだが……刺されそうになるリンを見て体が動いてしまった。それでもいつもの俺なら難なく攻撃を受け止め、そのままリンをイルサラの前まで送り届けることもできただろう。それがこのザマだ。
左目を貫いた剣は頭蓋に突き刺さった。いくら化け物といってもさすがに致命傷だ。その証拠にもう体はほとんど動かなくなっている。意識を保っていられる時間も長くはないだろう。
状況に気づいたリンに蹴り飛ばされる兵士が見えた。おーおー聖女様よ、やりすぎじゃないか?下手したら死ぬぞその勢いは。どこまで転がっていったんだ。
リンの力で剣は先端を残して折られ、身を横たえられた。心配そうに覗き込む顔も霞んでいる。いよいよダメか。長い長い人生は目的を達することもできずここで終わる。まあ元々うまくいく可能性は低かったわけだし、今の俺としては諦めもつくんだが。
ぴちゃっ
徐ろに鼻先に当たった雫が遠のきかけた意識を引き戻す。残る力を振り絞り瞼を上げれば、ぽろぽろと涙を流すリンの顔があった。
そこで俺の意識は深く沈んだ。
●●●●●
明らかに致命傷を負った魔獣の体が黒に染まっていく。元の毛が本当の漆黒ではなかったことを知らしめるように、色が消えていく。もはや魔獣の姿形は目では捉えられず、その場の人々にわかるのは、光を発さぬ何かがそこにあることだけだった。
普通の魔物が死ぬ時にこんなことは起こらない。ただ動きが止まり、魔力が抜けて大気に拡散していくだけだ。魔物ではない動物と同じように亡骸は残る。
眺めるリンの前で黒い塊はしばらくの間蠢き続けた。頬を伝い落ちた涙はすでに渇き、眼前で起こる現象をただ見守った。そして次の変化が起こる。
穴が、開いた。光を発しも反射もしない黒い何かに穿たれたその存在を、漏れ出る白い光だけが主張していた。光は徐々に広がり、人間の胴ほどの太さになったところで
現れたのは輝く球体。ゆっくりと人の目の高さに浮かび上がると、俄かに垂直に引き延ばされた。地面から突き出た柱の如く立つそれが、少しずつ人の形を成す。
それから一瞬の閃光。瞼を閉じても網膜に刺さる光が消えるとそこには一人の男の姿があった。
やや癖のある薄い金色の髪と新雪を思わせる白い肌。切れ長の双眸は
「平伏せよ。王の帰還ぞ」
紡がれた言葉の意味を理解するより前に体が感じ取る。ここにいるのは自分たちとは次元の違う生き物だ。これに比べたら先ほどまで戦っていた魔獣など野良猫と変わらない。イルサラに操られていた兵士たちすらも動きを止めていた。
男はゆっくりと見回してから一つ息を吐くと、面倒臭そうに水平に腕を振った。一拍遅れて叩きつけるような風が吹きつける。爆風と言ってよいそれに周囲の人間は文字通り吹き飛ばされてしまった。ただ一人を除いては。
「あなた誰?」
顔を覆っていた両腕を下ろして問うた。極めて端的に。髪は乱れ、飛んできた小石であちこちに傷はできているものの、踏ん張った足に纏わせた聖魔力がリンの体を地面に留めていた。
応答は更なる暴力で為された。かざした手のひらから放たれた火球が地面を焼きながらリンに迫る。その数10発以上。
今度は光を帯びた両腕で一歩も引かずに全て弾き飛ばす。一度ごとに閃光が上がり、着弾した火の玉があちこちで森の木々を焼いた。
「やはりなかなかのものだ。ここに来た頃より魔力の扱いが格段に上手くなっているじゃないか。魔力だけではなく反応速度も」
「だからあなた誰なのよ?あの子はどこへ行ったの!?」
食い気味に怒鳴られ、男は一瞬目を見開いた。それから優雅に笑みを浮かべて口を開く。
「……黒毛の魔獣をあの子呼ばわりか。お前、面白いな」
フンと軽く鼻を鳴らした男は気品のある所作で髪をかき上げると、リンの目を見据えて先ほどの問いに答えた。
「魔獣はここにいる。いや、もういないと言った方が正しいか」
「……変身の魔法を使ったの?」
「魔法とは違う。言うならば呪いだ。100年以上も縛られた呪いがたった今、解けた。お前のおかげだ。褒めてやろう」
顔だけをやや横に向け遠くに見える王城を見やりながら続ける。
「まずは玉座の座り心地を思い出さねばな。お前、俺について来い。新たな治世の最初の臣下にしてやろう」
構えていたリンの腕が下がる。一息の間瞼を下ろし、再び開いた目からは感情の起伏が消えていた。
「よくわからないけどわかった。クロちゃんはもう戻ってこないし、あんたはこの国を奪おうとする悪いやつってことね」
クロちゃん=魔獣だと理解するのに一呼吸要した男だが、表情を崩すことなく返答する余裕はある。
「この国を奪う?そんなつもりはないし必要もない。この国は―—」
差し出した右手が中空で何かを掴む。そのまま引き抜けば、握られていたのは黒光りする刀身の長剣だった。
「もともと俺のものだからな」
振り下ろされた手刀を黒剣で受け止めた。男が喋り終わる前に駆け出していたリンの手刀を受けても折れぬ剣には、切先から柄まで赤い光がゆらめいていた。
「好戦的だな。そういうのも嫌いじゃないが、戦う理由があるか?俺の下にいればそれだけで憂うことなど何もなくなるぞ。お前のその力も最大限有効に使ってやれる」
「有効に使うって、あんたと一緒にたくさん人を殺せってことでしょ。私は誰も殺さないし殺させない。この国に住む人たちの暮らしを乱すつもりなら止めさせてもらうよ」
言い終わる前に強引に剣を振り抜いた。跳ね飛ばされたリンが着地すると、狙い澄まされたように火球が迫る。しかし今度は弾くでも受け止めるでもなく、両の掌を突き出した。
一瞬の後に迸る光の奔流。背丈ほどもある炎の塊を掻き消し、さらに男までもその流れに呑み込んだ。
はずだったのだが。
「いや驚いた。受けたら少々まずいことになるところだった。恐れ入ったよ。いつの間にこんなことができるようになったんだ?」
男は瞬きの間に数歩離れた場所に現れた。当たり前のように無傷。リンの全力の一撃はメーサの森の木々を薙ぎ倒し、道を一本作っただけに終わった。男の表情からは言葉ほど驚いている様子は見受けられない。
「最初にクロちゃんに身体能力の差でいいようにやられたからね。近接では勝てそうもないから遠距離で戦える術を編み出したってだけ」
「……やはり面白いな。もう一度だけ言うぞ。俺の下で働け。勝ち目などないのは分かるだろう」
「クソ喰らえ」
拒絶の言葉と共に放たれる聖魔力。しかし瞬間移動で全て避けられ、無防備になった側面を火球が襲う。それをなんとか防いで再度攻撃、また躱される。
防ぎきれなかった炎で服のあちこちが焦げ、肩で息をしている。状況を変える一手がなければこのまま徐々に消耗して力尽きるだけだろう。この男がそのような緩慢な勝利を望むならば、だが。
「そういえば、なぜ呪いが解けたか教えてなかったな。最後に教えてやろうか?」
これまでの慌ただしい攻防をいったん小休止し、思い出したように語り始めた男。剣は切先を地面に向けて逆手に持っている。リンは構えを解くことなく、鋭い目で男の動きを睨んだ。
「呪いをかけたのは当時の国一番の魔法使いだ。ただ姿を魔物に変えるだけではなく、性格まで別物にしてしまった。本来の俺とは別人のようだっただろう?だが人格がふたつになったわけではないし、記憶も共有している。お前がこの森に来てからのこともよく覚えているぞ」
傲岸不遜を体現する男は自ら尋ねておきながらリンの回答を待つ事なく言葉を続ける。一方のリンは小首を傾げ、少しだけ考え込むそぶりを見せた。
「ちょっと調子に乗った態度なだけで、今のお前もクロちゃんってこと?」
「調子に……まあ、そういうことだ。話が逸れたな。そいつが言っていた解除の条件というのは、『真の愛を感じること』だ。お前はあの魔獣に愛情があったらしいな」
男の言葉に反応したリンの顔が一瞬で喜色に染まる。中空を彷徨う視線、下がった目尻にだらしなく開いた口。頬にはうっすら朱すら差している。
「当たり前じゃない!あの黒光りする毛並みにしなやかな動き!初めて見た時から可愛すぎてこの世のものとは思えなかったよ!」
王は王としての威厳を崩さず、リンの言葉にも眉すら動かさなかった。人間、慣れるものである。もはやリンの言葉にいちいち驚きも動揺もしない。
「……それから呪いを解くにはもうひとつ条件があってな。『人を殺してはならない』だ。当然魔獣もその制約を守っていた。おかげでお前も殺されなくて済んだというわけだ。さて」
黒い剣を持ち直し、先ほどまでよりやや力を込めて握った。
「そろそろ終演としよう。思ったよりは楽しめたが、お前と遊ぶのも少し飽きてきた」
「それはこっちの台詞だよ。次で終わらせてやる!」
再度迸る聖魔力。これまでで最も強いその光も、空間を跳躍する男を捉えることはできない。またしても男が繰り出したのは炎、ではなく―—
くふっ、と息が漏れた。
体を貫く冷たい金属の感覚。突き出された剣はリンの体を穿ち、腹と背中から血が流れ始めていた。
「呪いは解けた。制約は無効だ」
そこまで話してから男は気づいた。リンの目の光が消えていないことに、そして口には笑みを浮かべていることに。
「つかまえた」
致命傷を受け動けるはずのない女に腕を掴まれた時、すでに手遅れだった。
リンの全身から立ち昇る光。対して男の体は徐々に黒く染まっていく。
「これは……動けぬ!まさかお前もあの呪いを!?」
「まさか。そんなことできるわけないじゃん」
そう言って握った両手に力を込めると男の肘から先がどさりと落ちた。小さな呻きが聞こえた。
それから自身の腹に根元まで突き刺さった剣を引き抜き、無造作に投げ捨てた。溢れ出る聖魔力の輝きが俄かに強まると、流れ出る血は止まり傷が塞がる。受けた攻撃の痕跡は白い服に残された穴だけだ。
「お前………」
「回復魔法が使えないなんて言ってないよ?」
苦痛に耐える男の顔を見てリンは涼しげに微笑む。
「最初からこうすれば早かったんだけど、痛いからあんまりやりたくないんだよね」
服をつまんで穴を見てから、軽くため息をついて男に向き直った。そしてゆっくりとその手を男の左肘に添えると、またしても腕が落ちた。男は大きく息を吐く。
「痛みは感じてるみたいだね。そのままにしておくのも痛々しいから」
その顔は先ほどとは違う嗜虐的な笑み。男に向けた掌から広がった光が傷口を包むと、何事もなかったかのように二本の腕があった。
「ほら大丈夫。腕も脚も、何本だって生やしてあげるから死なないよ。悪いことをしようとする気がなくなるまで
男はこれから自らに降りかかる苦痛を認識し、生まれて初めての感情に顔を歪ませた。
●●●●●
「お前、本当は呪いを制御できるんだろう?」
「だからできないって。元のあるべき状態に戻しただけ。ちょっと強めの回復魔法」
「回復魔法をどれだけ極めても、呪いを解く前の状態に戻すなんて芸当ができるとは思えないんだがな」
滑らかな毛並みとオリーブグリーンの瞳の黒猫がリンの横について歩いている。向かうのはメーサの森に一番近い街だ。
「だいたい、あそこまでやられなくてもお前に反抗しようという気はとうに失せていたんだ。この姿でも記憶は残っているんだぞ。これからお前の顔を見るたびにトラウマが蘇りそうだ」
男が黒い魔獣に戻った時、周囲には腕と脚が散乱していた。その数合わせて30本以上。男の心を折り、砕き、粉々にすり潰すには十分だった。
「いやー、やるなら徹底的にやろうと思ってさ。ちょっとやそっとじゃ言うこと聞かなそうだったもん」
手を頭の後で組んで歩くリンは当たり前のように言うが、腕を再生するのは超高等技術で一回でも魔力の消費が激しい。そこらの魔法使いは勿論、聖女でも誰しもができることではない。
「それよりなんで魔獣の姿にならないの?あっちの方が可愛いのに」
「あれで街に行ったら大騒ぎになるだろうが。自分の立場も考えろ」
人間から黒い魔獣に戻された後、魔獣自身の意思で猫に姿を変えた。これぐらいの変身ならちょっと魔力を抑え込むだけ。自力で可能だ。
「それで?これからどうするんだ?」
「うーん、そうねえ。幸いクロちゃんは私が討伐したと思われてるみたいだし、このまま神殿に戻ってもいいんだけど……」
カテルとイルサラたちが戻ってきた時にはすでに決着が付き、黒猫へと姿を変えた魔獣が身を隠した後だった。壮絶な戦いの跡とリンの説明で彼女らは魔獣が討伐されたと判断した。そして魔獣に祈りを捧げたいと言ったリンを残して帰って行った。
「この国はあの男、というかクロちゃんのものだって言ってたじゃない?一緒に取り戻してみるのもいいかなあって。今のこの国、あんまり好きじゃないんだよね」
「お前がしたいなら付き合うが、国をひっくり返すんだぞ。お前が嫌がってた人殺しをすることになるかもしれん。いいのか?」
「いやー、誰も殺しはしないよ」
遠く道の先には白亜の城。それを見つめる琥珀色の瞳が怪しく煌めいた。
「
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
あとがき
リンは最初から魔獣の見た目に夢中なのですが、一片の使命感で討伐(の姿勢)を継続しています。魔獣はそういう気持ちを感じ取って気にかけている感じです。そのせいでリンが襲われた時に焦りが出て攻撃を受けてしまいました。
リンを剣で貫いた時に人の姿の魔獣が動けなくなったのは、呪いが解ける途中まで戻したからです。
なお、この世界には魔法使いもいて、魔力を戦いに使うのはほぼ魔法使いだけです。基本的に聖女は治癒が専門です。
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聖女と魔獣 川田スミ @kawakawasumi
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