二十七、告解

 左慈が潮見に帰り着く頃には、冴えていたはずの半月には夜雲が寄り集まって輪郭を暈し、燻んだ闇の帳が家々をひっそり囲っていた。風も強く、索漠たる天気は秋の夜の侘しさや寒さを引き立てる。月の翳ってはきとしない暗澹とした浜辺に駆け下り、左慈は彼女を探した。

 時化の続く海、田畑にまで及ぶ塩害、暮れ前の惨事、先刻の巫女婆の言葉。全て答えは出ているようなものである。しかし、左慈はまだ信じ難かった。信じたくないと思っていた。ウシオの口から確かめるまで信じられなかった。

 いつもであれば、どんな暗闇でも月影の如く浮き上がり佇んでいるはずの彼女の姿が見当たらなかった。左慈は少しの間浜辺を行ったり来たりして、それから岩場の方まで足を伸ばした。


 岩々が影を作り立ち並ぶそこは、一段と暗く判然としない。力強い波の音が無闇矢鱈に轟いて、どうかすればまた左慈に襲いかかってきそうである。本能がこれ以上近づいてはいけないと警鐘を鳴らし、左慈は夜闇よりも一層濃い岩陰たちを前にただ茫然とした。どうすれば、彼女が現れてくれるのかと焦りを覚えたところで、左慈は昨晩のまどろみの中で耳に届いた、彼女の幽かな言葉を思い出す。

「ウシオ」

 俄かに、背後から白い腕が伸びて、左慈の腹のあたりにするりと巻きついた。驚きのあまり、左慈は声も出せずに呼吸が止まった。

「ごめんなさい」

 彼女はそう呟いて、左慈の背中に額を押し付けた。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「一体、何が」

「ごめんなさい」

 細い指先が、左慈の服を強く握りしめて震えていた。ただ事ではないと悟り、左慈は無理やりウシオの手を引き剥がして身を捩る。向き合っても、彼女は左慈の胸に額を押し当ててしがみつくばかりで、こちらを見上げてはくれない。


「昼に……見たんだ。あの子らは影海様が、いや……あんたが呼んだのか————」

「ちがう!……ちがうっ……!」

 弾かれたように顔を上げ、ウシオは叫んだ。揺れる瞳が焦点を結んだかと思えば、またがくりと項垂れ、ちがう、と呟いた。

「……わけを教えてくれ」

 髪をかき分け頬に触れると、ウシオは力なく左慈を見上げた。泣いているのかと思ったが、その瞳に涙はない。だが、雫ひとつ溢さずに大きく見開かれた目は、泣き顔よりも痛ましかった。

「近海の異変も清らなる供物も、すべて海からの報い。……私の過ちへの報い」

 遠く影海岩の方から荒波のぶつかり合う音が聞こえ、ウシオは肩を揺らした。

「私が私の理から外れたから……だから海が荒れている」

「ことわり……」

 ウシオは左慈から一歩身を引く。狂風が、ぶおおんと獣の鼻息のように鳴ってウシオの髪を乱した。それが鬱陶しそうに目を閉じて、彼女は吐露した。

「私は……あなたたちの希い。あなたたちが豊かさを求め、私が祈りもたらす——そのために私がいる」

 ——影海様は、おめだけのもんじゃねえ。

 掴み所のない語りは、巫女婆の言葉と重なって輪郭が浮き上がってゆく。左慈はどうすることもできず、竦然と立ち尽くして聴き入った。

「けれど、私はあなたを求めてしまった。皆の繁栄ではなく、あなただけを、あなた唯一人のことだけを…………」

 ——おめのモンには成んねえ。


「————それが理から外れたことだって、あんたはそう言うのか」

 重く息を吐くようにそう尋ねると、ウシオはうなだれ頷いた。左慈は奥歯を噛み締めて拳を握った。

 理から外れた過ち。ただ安らかに、眠りにつきたいだけのことがか。己以外は簡単に手に入れることができる温もりを、真夜中の間だけでも手にすることがか。

 冗談じゃない!

「あんたと俺は、何もかも間違ってたって言うのか」

「あなたが……あなたがそう言うのなら、」

「俺のことはいい!」

 動揺を抑える余裕はなく、左慈は声を荒げた。

「私は、分からな」

「はぐらかすなよ。……頼むから」

 これまでを否定してくれるな。


 祈る思いで、左慈は一歩詰め寄った。ウシオは何か言おうと口を開いたが、彼女の歯の隙間からは声すら出てこず、ひゅうっと呼吸が通り抜けるだけであった。身体から力が抜け落ちて、彼女はその場に膝をついた。左慈は慌ててそれを支えてやったが、彼女は自分で立つことができず、左慈の胸にしなだれて目を閉じた。

「私はただ……あなたの温かさをうつくしいと……その温もりに永く触れていたいと」

 言葉が聞き取りづらくなるほど声を震わせるウシオ。それでも、彼女のつるりとした頬を涙が伝うことはなかった。同じ形をしていても、二人の存在そのものに大きな隔たりがあった。左慈は今更、それをまざまざと突きつけられる。肌に触れているのに彼女を遠く感じた。その距離をどうすれば埋められるのかわからず、左慈は膝を折って、女の身体を覆うように力任せに抱きすくめた。


 ウシオは左慈の胸に頬を寄せ、声にならないほど小さく続ける。

「海は、私が人に近づくことを——何かを希うことなど赦さない。私が何かに乞い焦がれるなど赦されない。だから理に従わなければ……私はいずれ海に隠される」

「隠すって」

 問い返す左慈を、ウシオの腕がそっと押し返し、その場にぺたりと座り込んだ。彼女の明るい瞳が、左慈の背後、真っ黒な夜の海へと走る。

「海が荒れると村が廃れる。村が廃れると祈りは途絶える。私はあなたたちの祈り。祈りがなければ、私はここには居られない。私は泡沫に、潮風に還る……海に回帰する」

 吹き荒ぶ夜風が、ウシオの髪を海の向こうへ誘うように弄ぶ。細い両手首を掴む左慈の手の甲に、骨と青筋がぐっと浮き立った。

「待っ……てくれ。だめだ、それだけは」

 ウシオがうっと呻き身を引こうとしたが、左慈は構わず力任せに引き戻した。膝立ちのまま、背を丸めて女と視線を合わせる。この女の心すら潮騒の泡となり消えった浮世で、平然と生きていけるはずがない。潮風は湿って酷くべたつくのに、左慈の喉は渇ききって声が掠れた。

「そんな、俺は……俺は無理だ。あんたがいなくなるなら、いっそ……」

 いっそ自分も、海の底で藻屑となる方がどれだけ。


「だめ!」

 ウシオの拒絶が、左慈の思考を裂くように響いた。鼻先が触れんばかりに、浅瀬色の双眸が間近に迫る。このまなざしのためにも死ぬことは許されないのだと、強迫的な覚悟が思考を侵蝕していく。

「だめ、させない。……お願い」

「だけど、なら、どうしたいい……」

 途方に暮れて尋ねた。ウシオは目を伏せて、彼女自身の身体に爪を立てて抱きしめた。

「私が……あなたに触るるこの器を手放して、理の中に戻れば。あなたのウシオではなく、あなたたちの、影海様になれば」

 それは、このひと時を失うということだ。自分たちの間に感じる温もりを失うということだ。いつかまた会えるかもしれないと、そんな幻に近い期待と闇い孤独とを抱き続けながら、眠れない夜を耐え忍ぶ毎日に戻るということだ。

 それでも彼女の全てを失うよりはと、左慈はそう思った。


「————しばらく、俺はここへは来ないよ」

 それでも、もう会うことはないとは、口が裂けても言えなかった。

「あんたは俺だけを想わなくていい。俺に構わなくていい、手放していい。それでも俺はあんたを」

「言わないで」

 最後の言葉は、ウシオに遮られて口にすることが叶わなかった。いつの間にか風は止み、潮騒は穏やかさを取り戻している。

「あなたはあなたの理の中で生きて。……左慈が良いと思うことが、私の良いこと」

 彼女はぎこちなく笑みを作ろうとしたが、すぐに唇をぎゅっと噛み締めた。あまりにも強く歯を立てているようで、左慈はそっと彼女の口に触れてそれを止めた。

 これ以上共にいては、名残惜しさに狂ってしまう気がした。左慈は、もうその場を離れようとウシオを促す。

「私も、あなたたちと同じになれたら————」

 誰にともなく呟かれた問いが、左慈の心の奥底に燻っていた負い目と重なった。ひとり浜辺に残るウシオの姿を何度も振り返りながら家に戻る間も、彼女の最後の言葉を頭の中で反芻した。


 本当に、どうして自分は人並みの安寧すら手に入れることができないのだろうか。ようやく見つけた、心安らかに瞼を閉じることのできる居場所すら、手に入らないのだろうか。

 松の木立に波の音は阻まれて、潮見の集落は一転して静寂が支配している。潮の香は薄くなり、代わりに乾いた枝葉と土の煙たい匂いが吹き抜けた。ここが本来、左慈が生きていかなければいけない場所だ。左慈も、彼女も、与えられた理という檻の中で生きていくしかない。だからこそ、ウシオが海の理から外れてしまっていると言うのなら、それは左慈にも言えることだ。

 ウシオに罰があるならきっと自分にもと、鬱々とした思いが左慈の体を重くした。

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