世界で一番近い空

(株)剛田のアサイー

第1話

 いつから空を見上げなくなったんだろう。空は人生で心臓の次に近いくせに、余裕がないと見ることができない。冬川は曇り空の下でコンクリートの地面を踏みながらそう考えた。





 今日は朝早くから取引先へ向かって後輩のミスに頭を下げた。おぼつかない足取りで駅のホームを降りて、静かに改札口を通り抜ける。ここからバス一本で自宅の最寄駅に着くが、何しろ片田舎のバス会社なので本数が少ない。一歩遅かったようで次に来るのは一時間後だそうだ。


だめだ。とにかく今日は駄目なのだ。


 脳みそにモザイクがかかったような気がしてたまらない。思考がままならず、青色の自動販売機でコーヒーを買う。手に持って振り向くと大きな公園があった。ここの街には初めて来たので知らなかったが、住宅街の中にこんな大きな公園があるのは珍しい。一時間も何もない駅前で突っ立っているより、緑に少しでも癒されて待ったほうがいいだろう。

 三人ぐらい座れる大きなベンチを見つけたので隅に座る。コーヒーを開けて一口飲んだ。



(そういや俺、コーヒー好きじゃないな)



 ずっと忙しかったので気が付かなかった。みんな飲んでいたし、目を覚ますために毎日飲んでいた。ほとんどカフェイン中毒のようなものだろう。もしかしたら自分の体の八十%はコーヒーになっているのかもしれない。


 ちょうど放課後なのだろうか。数分経ってから小学生がワラワラ集まってきた。笑い声と風の走る音が都会の騒音を忘れさせてくれた。


 大学を出てすぐに上京したはいいものの、仕事して家帰って。また仕事して家帰って。偶の休みはベッドの上で過ごして。この行動に意味はあるのだろうか。

 目が回って自分が疲れているということにも気づかない日も多い。本当に疲れている時に限って他人の仕事を引き受けたりして、時折意識がシャットダウンする。

 その中でも一番辛いのが顔色を窺うことだった。行為自体は得意だったが、社会人になってからは一つの行動に何十個の意味が込められていて正直辛い。上司の機嫌とって、部下の機嫌を直して、同僚の愚痴を聞く。……その繰り返しだ。



「っあ」



 気が緩んでコーヒーを溢した。ズボンに特有の匂いと色が染み込んでしまう。朝の星座占いは確認していないけど絶対最下位だっただろう。家の近くにクリーニングがあったはずなのでそこに寄ろうと決めたのと同時に、今日の予定が増えたことへの絶望感が襲ってくる。折角久々にゆっくり寝れると思っていたんだ。


 大きな絶望と己に対する失望で空を見上げた。呆れるほど真っ白だった。自分、本当何してんだろ。



「すいませーん!」



 突如聞こえた声の主を探すと、広場の方に少年たちの集まりが見えた。その中の一人が大きく手を振りながらこちらに向かって走ってくる。



「ボール、すいません」

「ん?……ああ。いいよ」



 足元に黄色のボールが一つ転がっていた。疲れすぎてこんなことにも気が付かなかったと思うと少しゾッとする。

 持ち上げて渡そうと歩きだすと「投げてくださーい!」と両手を挙げて少年が叫んだ。ボールを投げるなんて部活以来なもので、肩を壊さないように慎重に投げる。


 ワンバウンドもせず少年の元に投げられたボールに、少年たちは感嘆の声を漏らした。その後、次々と「ありがとうございまーす」と優しい言葉が投げられる。




 そこで感じた違和感。小学校低学年と及ぼしき子どもたちの中に、一際背丈の高い少年が見える。…いや、あれは少年ではない。どう考えても成人だ。



「ありがとねーっ!」



 成人も少年たちと同じように体全部を使ってお礼を言う。声変わりこそしてはいるが高い声、やけに馴れ馴れしい言葉遣い、間延びした発音……



「……朝田?」

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