19 現状


 今日の当直は、逢坂と久我だった。時刻は午後9時過ぎ。仕事を終えた研究員たちを見送った後のラボは、実に静かだ。ミッシュの仲間が地球を侵略しに来ることも、地球外生命体が夜6時以降に出現することも、ましてやミッシュが地下室を抜け出して局を破壊するなんてことも起こらない。


 ラボの前方に取り付けられた大型モニターは画面が12分割され、局内の監視カメラ映像が数秒ごとに切り替わりながら映っている。何の異変も捕らえないモニターを、久我は回転椅子に腰かけたまま、じっと見つめていた。監視カメラを通じて何かを見張っているようにも、考えを巡らせているようにも見える。


 あの手この手で話を引き出そうとしても、ミッシュからこちらが望むような答えは返ってこなかった。久我が地下室に穂浪を呼び出したのは、懐いている穂浪になら本音を打ち明けると踏んだからだろう。しかし、穂浪に優しく語りかけられても、ミッシュは「地球に観光しに来た」という主張を変えなかった。ここまで主張を曲げないと、ミッシュを疑うのは取り越し苦労ではないかと逢坂は思ってしまうが、久我はそう楽観的ではなさそうだ。


「人を疑うのって疲れない?」


 言いながら、コーヒーの入ったマグカップを差し出すと、久我は少し間を置いてから振り返った。ぼんやりと逢坂の顔を見上げた後、ゆっくりとマグカップに視線を落とす。


「アイツは人じゃない」


 低い声でボソリと呟き、久我はマグカップを受け取った。


「そうだけどさ、本当に観光しに来ただけってことは考えられない?」


「もしそうだとしても根拠がない。結論付けるには性急過ぎるし、安易で愚鈍だ」


「つまり私が愚鈍だと?」


「今の俺の言葉を聞いて、それしか感想がもてないならな」


 この男は人を苛立たせることしか言えないのだろうか。何と言い返してやろうかと逢坂が考えていると、久我は湯気の立つコーヒーを一口飲み、「はぁ……」と息を吐いた。疲れ切ったようなため息を聞いて、逢坂は、あと少しで思い付きそうだった久我を言い負かす台詞を、無意識に呑み込んだ。


「毎日CILの取り調べを受けても、アイツの主張は変わらなかった。それを鵜吞みにしていい根拠も、疑う根拠も見つからない。そうするとどうなる?」


「どうなるって……どうなるの?」


「何をしても現状が進展しないと、人は諦めることを選択肢に入れるようになる。ミッシュが現れても何ら異常の起こっていない事実を理由に、CILは『本当に地球観光に来ただけ』という結論に着地しようとしている。まだ・・異常が起こっていないだけかもしれないのに」


 安易で愚鈍。それは逢坂に向けた言葉ではなかった。


「決定的な根拠が見つかるまでは、アイツに気を許すべきではない」


「根拠って、何を根拠にするの? 地球外生命体が地球を侵略しないって断言できるかどうか?」


「違う」


「じゃぁ、何よ?」


「『誰も・・傷付かないと断言できるかどうか』だ」


 日付が変わる時刻になっても、現状が変わることはなかった。逢坂が仮眠室で休憩を終えてラボに戻っても、現状が変わることはなかった。逢坂が仮眠を取るように言っても、久我は言うことを聞かなかった。


「睡眠不足でぶっ倒れても知らないわよ?」


「どの口が言ってんだか」


 心配してやってるというのに、この男、口を開けばこれだ。確かに逢坂には睡眠不足でぶっ倒れた前科があるが、それとこれとは関係ない。


 久我の顔を横から覗き込むと、長時間モニターを見続けているせいで目が充血している。


「目薬、貸してあげようか?」


「いらない」


「目、すっごい充血してるよ?」


「『すごい』は形容詞だ」


「は?」


「『充血している』は動詞だから形容詞で修飾するのは間違いだ。正しくは『すごく充血している』」


「久我、人と会話しながらそんなこと考えてんの?」


すごい・・・暇なときはな」


すごく・・・暇、でしょ?」


 わざと間違えた久我を訂正すると、久我はふっと頬を緩めた。つられて、逢坂も吹き出した。


「残念だったな、意見交換会が中止になって」


 久我はモニターを見つめたまま雑談を始めた。先程より肩から力が抜けている。逢坂は久我の隣に回転椅子を寄せて座った。


「そんな悠長なことしていられるほど平和だったのね、私たちの日常って」


「俺たちがその平和を作ってたんだよ」


 本人は何気なく言った言葉が、逢坂にはすごく偉大に聞こえることがある。


「……そっか」


 なんだかんだ言って、久我はすごい奴だ。見えているものが違う。


「騒ぎが納まったら、また意見交換会を企画しようと思ってる」


「また私を担当にするつもり?」


「そうした方が都合がいいだろ?」


「なんで?」


「イケメンパイロットとお近づきになれるチャンスだ」


「興味ない」


「穂浪さん、たぶんお前に気があるぞ?」


「違うわよ。穂浪さんの『好き』は恋愛的な意味をもたない」


「好きって言われたのか?」


「何度か」


「ハハッ、さすがの行動力だな」


「でも、穂浪さんの『好き』は、尊敬とか憧れとかそういう意味なの。人懐っこいのよ、あの人。だから誰彼構わず『好き』って言えるの」


「誰彼構わずって……さすがに語弊があるだろ」


「とにかく、穂浪さんは私を恋愛対象として見ていない。私もそうよ。私たちがどうこうなる予定はない。一切ない」


「言い切るなぁ。ま、俺には関係ないことだけどさ」


「だったら口出ししないで」


「ハイハイハイ」


「ハイは一回」


「ハーイ」


 日が昇る時刻になっても、現状が変わることはなかった。しかし、逢坂は思い知ることになる。現状は変わっていないように見えて、知らないところで刻々と変わっていたということに。



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