ガールズバンドクラッシュ

みらいつりびと

第1話 時計坂と海野

「伝説の」というほどではないが、10年代に鮮烈な印象を残したガールズバンド『ブラック・マジック・オーシャン』は2011年に活動を開始し、2016年に内紛を起こして解散した。被災地出身の時計坂カナエとその恋人海野シズクが創始したBMOは当初から鎮魂をテーマを孕んでいたが、抽象的な歌詞をメロディアスなロックにくるんでその全貌は容易にはわからなかった。この記事は代表曲『走れ!』が2023年に映画の主題歌になり再評価されているBMOの軌跡を追い、彼女たちが何者だったかを明らかにしようとする試みである。


 時計坂は宮城県石巻市の出身。父は漁師でホタテ貝の養殖を営み、母は海辺の自宅でピアノ教室を開いていた。兄弟姉妹はおらず、ひとりっ子であった。富裕というほどではないが、お金に不自由はしない家庭だった。母からピアノを習い、周囲から音大進学を勧められるほど上達したが、本人は「音楽はただの趣味だと思っていた」と語っている。


 中学1年生までクラシックを聴いていたが、中2の頃から日本のポップスやロックを聴くようになり、特に『プリプリ』や『くらげ帝国』に傾倒する。高1から初音ミクを使ったオリジナルソングをつくり始め、動画共有サイトへの投稿を行う。高3のときには再生数100万超えの『ルナティック・タイフーン』を制作した。2010年、立教大学文学部史学科に合格。時計坂は上京し、同大学の軽音楽部に所属する。


 海野は宮城県仙台市出身。両親は共同でパン屋を経営している。海野が生まれた頃、父は単なるパン屋の主人にすぎなかったが、高級な食パンを売る経営戦略が成功し、2009年には県内に8店舗を構えるチェーンベーカリーの代表取締役になっていた。母は専務取締役で、ここのつ年上の兄は仙台市荒浜店の店長を務めた。


 海野は高校時代、同級生とバンドを結成し、「誰もやりたがらなかったから」という理由でベースを担当している。「目立つのは好きではなく、ベースは性に合っていました」と本人は言うが、ずば抜けて整った容姿を持ち、「学園のアイドル的存在だった」というクラスメイトの証言もあるとおり、当時から人目を惹く存在だった。2010年、立教大学観光学部観光学科に進学し、軽音楽部に入り、時計坂と知り合う。


 最初は別々のバンドに属していた。時計坂はギターボーカルの坂井金太郎が率いる『パンプキンズ』でキーボードを演奏し、海野はスリーピースのガールズバンド『メカニカルブルー』でベースを弾いた。ふたりの接点は軽音楽部の飲み会などで、時計坂は「カラオケでシズクのキュートな歌声を知った。歌わないのはもったいないと思った」と語っている。


 前述のとおり、時計坂は高校時代からオリジナルの楽曲を制作していた。軽快で口ずさみやすいメロディと中二病的な歌詞が特徴のボカロ曲を公開し、ウミネコPと名乗っていた。大学1年の夏、時計坂はボーカロイドにかわって海野の歌を採用しようと思い立つ。「坂井さんの下で抑圧された気分だった」という時計坂は、海野を自分の音楽制作に引きずり込み、創作意欲を爆発させることになる。


「ランチを奢ってもらった後で、カナエのマンションに半ば強引に連れていかれて、変な歌を歌わされました。メロディはセンスあるなと思ったけど、歌詞は意味不明だった」と海野は語っている。その曲が後に歌詞を変えてヒットする『ブラック・マジック・オーシャン』だった。「1曲だけだよと言ったんですが、その後もなし崩し的にカナエの曲を歌わされた」と海野は言う。「あたしは強引に誘ったつもりはなかった。シズクも楽しんでくれていると思っていた」(時計坂談)。


 2011年の春先まで、時計坂と海野はそれぞれパンプキンズとメカニカルブルーに属しながら、ふたりでオリジナル楽曲を制作する活動をつづけていた。時計坂はウミネコPという名を『鉄砲百合ーず』に変えた。歌を録音するとき、海野は時計坂の部屋に泊まることがあったが、関係は清く、まだつきあっていなかったようである。時計坂は「あたしは女の子しか好きになれないタイプで、シズクいいなって見てたんだけど、あいつには彼氏がいて、なかなか告白できなかった」と長時間インタビューの際に吐露している。


 関係が激変するのは、2011年3月11日。地震発生時、海野は時計坂の江古田のマンションにいて、ふたりで紅茶を飲み、チーズケーキを食べていた。4階の部屋は大きく揺れ、ふたりはうずくまり、抱き合ったという。東京都中野区の震度は5弱で、彼女らがそれまでに経験した最大の揺れだったが、故郷の地震はそれどころではなかった。時計坂の両親が住んでいた石巻市、海野家の店舗兼住居があった仙台市若林区はともに震度6弱。そして時計坂の父が拠点とする石巻港、海野の兄が働く荒浜を大津波が襲おうとしていた。


 時計坂と海野は家族に連絡を取ろうとしたが、電話は通じなかった。ふたりはテレビとネットで情報を収集した。何度となく流れる破滅的な津波の映像が時計坂と海野に焦燥と絶望をもたらした。海野は「ひとりの部屋に戻る気にはなれませんでした。被災地に家族がいるという点で同じ境遇のカナエと一緒にいたかった」と言い、時計坂は「家が流される映像がこの世のものとは思えなかった。人を飲み込みそうになっている津波を見て『速く走って!』と祈った」と回想している。


 このとき時計坂は異常な創作活動をした。テレビを見て泣きながら詞を書き、キーボードを弾き、作詞作曲をつづけて眠らなかった。音楽制作が彼女の心の平穏のためにどうしても必要だったようだ。一日で十数曲が生まれた。「初めてカナエの歌詞に共感しました。わたしも泣きながら歌った」と海野は言うが、残されたノートを見ると歌詞は支離滅裂で、ほとんどまともに意味を成していない。しかし数曲の素晴らしいメロディが生まれ、後に『アングリー』『フィッシャーマンクライ』『走れ!』として結実している。3.11は悲劇でしかないが、楽曲制作者としての時計坂の転機であり、後々まで創作の源泉となった。


 震災で時計坂の父は行方不明となり、自宅は津波で流された。海野の兄も行方がわからなくなっていた。4月13日にふたりは新幹線リレー号に乗って、仙台へ行くことができた。仙石線はまだ部分的にしか再開しておらず、電車で石巻へ行くことはできなかった。海野の父が運転する自動車に乗せてもらい、時計坂は故郷へ帰り、避難所の公民館で憔悴した母と再会する。


 時計坂は夜には避難所で母に寄り添い、昼間は石巻市内を歩き回って父を探して過ごした。生存している姿も遺体も見つけることはできなかった。今日に至るまで行方不明のままである。一方、海野の兄の遺体は仙台市のがれきの中で発見された。


 兄の葬儀後、海野は避難所にパンを配るボランティア活動にのめり込んだ。海野ベーカリー荒浜店は消失したが、他の7店舗は無事だった。5月9日、ベーカリーの従業員とともに石巻訪問。その日、時計坂と海野は再会して夜通し語り合い、「東京に戻ったら一緒にバンド活動をしよう」と約束したという。


 半年ほどの間、彼女らは東京と宮城を行き来する生活をした。「シズクが心の拠りどころだった」と時計坂は語っており、この頃ふたりはつきあい始めたらしい。「女の子を(恋愛的な意味で)好きになったことはないんだけど、いつの間にかカナエは特別になってました。彼氏とは自然消滅」(海野談)。


 10月になって母が仮設住宅に入居し、時計坂はようやく落ち着くことができた。同じ月、時計坂と海野は北池袋に共同でマンションを借り、同居生活を始める。そこで時計坂は「パンプキンズはやめる。自分の音楽に集中したい」と言った。震災と音楽活動が時計坂の心の中でどのように結びついていたかは推測するしかないが、「喪失感を埋め合わせるためにカナエにはどうしても音楽が必要だった」と海野は語っている。彼女もメカニカルブルーを脱退したが、「鉄砲百合ーずはやめて」というのが、一緒にバンドをやる条件だった。楽曲名から流用して『(仮)ブラック・マジック・オーシャン』というバンド名を採用した。その名は一時的なもののはずだったが、いつの間にか(仮)はなくなった。「『BMO』がファンの間で通称になっちゃったから」(海野談)という理由らしい。


 時計坂は自分のバンドを持ってライブをし、海野に歌わせたいと熱望するようになっていた。海野は大学生になっても人前で歌うことに抵抗があったようだが、「絶対成功するから! やろうよ! あたしの曲とシズクの歌で宮城を東北を日本を熱くしよう! どかんと!」と時計坂は熱弁した。ふたりはバンドメンバーを探し始めた。

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