第3話 葵ちゃん
絵李の美術部では、夏休みは基本的に自由参加だ。
美術室自体は週5日で空いているが、大抵皆2~3日しか来ない。
勿論絵李は毎日朝から夕方までずっと行っていたが、今日は別。
部活は午前中で切り上げ、昼食をとってから駅へ向かった。
「日高先輩、もう帰っちゃうんですかー!?」
なんて日鞠が寂しそうに言うから、少し申し訳ないと思ってしまったが。
あまり使わない最寄り駅から4駅分電車に揺られ、降りた駅から15分ほど歩く。
スマホのマップを頼れば、迷うことなく響久の高校に到着できた。
もう3度目の訪問。慣れてきてもおかしくない頃だが――。
(……入っていいのかしら、これ?)
絵李は校門の前で立ち止まり、校舎を見上げて首を傾げた。
かなり新しく見える校舎は、数年前に改修されたばかりらしい。
当然だが、絵李には殆ど馴染みのない場所。
普通なら、1度も混ざることのなかった場所。
前回までは部活の一環だったためなんとも思わなかったが……今回は完全に個人のため、微妙に緊張してしまう。
まあ、響久もいけると言っていたから大丈夫だろう。
自らを軽するようにそう考えることにして、絵李は敷地に足を踏み入れた。
中庭を通り抜け、昇降口から校舎に入る。
部活仲間と移動した道をなぞるように、まっすぐに特別棟4階に向かった。
4階に着くと、前回の軌道を逸れて第2美術室へ向かう。
控えめにドアをノックしても、やっぱり響久からの返事はなかった。
どうせいるのに返事をしないのだろう、と決めつけ、遠慮なくドアを開ける。
「――来たわよ」
「お、絵李ちゃんじゃーん。ようこそー」
案の定響久はキャンバスの前に座っていて、絵李の声を聞いて初めて振り返った。
相変わらずカーテンの閉め切られた薄暗い部屋だが、案外暑い。
陽光が入らない分涼しいかと思いきや、閉め切られているせいか熱を持った空気が籠っているようだ。
「今日も何か描くのー?」
「ええ。あなたでも描こうかしら」
何か描く、と言われても、この狭い空間では画題は限られる。
その中で絵李が何を選ぶかと言われれば、響久になるのは目に見えている。
「ええー、恥ずかしいなあ」
少しだけ目を見開いてから、響久はふっと笑った。
少し眉が下がっているが、嫌そうには見えない。
「この間はいいって言ったじゃない。本当に嫌なら描かないけど」
「嫌じゃないよ。どうぞお好きにー」
やはりそこまで嫌ではなかったようで、あっさり承諾された。
置きっぱなしの丸椅子に腰かけ、その場に荷物を降ろす。
画材を用意する前に、室内をぐるりと見回してみた。
響久と話すことや描くことに夢中になっていて、あまり周りを見れていなかった気がする。
そんな絵李でも、少し気になっていたことがあるのだ。
「この絵は……あなたのじゃないわね」
室内に雑に置かれた、沢山の絵。
イーゼルや机に立てかけられたキャンバスや、机の上に適当に置かれている画用紙。
油彩画、水彩画、鉛筆デッサンやカラーペンを使用したコミックイラストまで、その種類すら多岐にわたる。
「うん、そうだよー」
保管、にしては少々雑ではないだろうか。中にはうっすらと埃を被っているものもある。
まるでもういらないものかのような、とりあえずここに置いてそのまま放置されているような。
見ているとなんとなく哀しさを覚えてしまう。
「ちょっと保管の仕方が悪いんじゃない? 顧問が管理してるなら言った方がいいわよ」
絵李はその中から、一番近くに置かれたキャンバスに目を向けた。
肖像画だろうか。アクリル絵の具で少女の姿が描かれている。
塗り込みが浅く立体感に欠けるのは、未完成だからだろうか。
確か、この絵は、昨日なかったはずだ。
絵李のすぐ隣に置いてあれば流石に気づく。
「ううん。部活の絵は他のとこで綺麗に置いてある。それは全部同じ子の絵だよお」
「お、同じ人!? 何枚描いてるのよ……というか教室の私物化が」
すぐ描けそうな物からかなり手のかかりそうなものまで。
かなりの量があるが、まさか一人が描いていたとは。
使用する画材も描くものも様々で、中々同じ人の作品には見えない。
「オレ、その子好きなんだよねー。頑張ってる子の絵って感じでしょ」
絵李には全くわからなかったが、響久にはわかるのだろう。
絵に向いた赤い目が優しく細められた。
「……どんな子なの?」
軽やかな声に、絵李はなぜか落ち着いてしまった声で聞く。
響久の言葉がどこかに引っかかり、ゆっくりと濁りを加えていく気がした。
「いい子だよ? すごーく努力家で、可愛い子。ちょっと口悪いけどねえ」
「そう」
短い返事に、温度はあっただろうか。
よくわかりもしない複雑な感情も、『アイ』という言葉で片付けてしまえれば、なんて。
動揺からか、雑な願いが浮かび上がってきた。
「その絵、すごくその子っぽいんだ。他もだけどね」
立ち上がった響久が、絵李の隣に並ぶ。
塗られた絵具に触れるすれすれまで手を伸ばし、うっとりと更に目を細めた。
「……そうなの。会ってみたくなったわ」
絵李の口から、酸化したように乾いた声が出た。
心を湿らせる水分がなく、内心までは届かない。
「たまにここ来てくれるんでしょ? なら、そのうち会うんじゃないかなあ」
小さなキャンバスに向けられていた視線が、絵李の方へ移動する。
綺麗な赤色の中に茶髪の少女が見えた途端、絵李は顔を逸らしてしまった。
そのうち会う、とは、どのタイミングになるのだろうか。
“その子”が作品を置きに来たタイミングなのか――はたまた、響久に会いに来た時か。
(……嫌ね、なんとなく)
声に出さずに飲み込んだ感情が、ゆっくりと喉の奥から下っていった。
「――絵李ちゃんってさ、」
響久が切り出した話に、絵李はすぐに耳を傾ける。
――が、ガラガラッと勢いよくドアが開く音に遮られ、続きは告げられなかった。
「つーきーみーやーひーびーくーっ!!」
2人がほぼ同時に振り向くと、丁度声の主が室内に入ってきたところだった。
明るい赤茶色の髪を持った、少し背の低い男子生徒だ。
キッときつく顔を顰めて響久を睨んでいると思えば、早足でこちらへやって来る。
「お前なぁ、俺の絵勝手に移動させるなって何回言えばわかるんだよ! それ第1の後ろに置いてただろうが!」
「そうだよー。見つけたから持ってきた」
「それをやめろって言ってるんだっ!」
響久の襟辺りを掴んでぐいぐい振っている彼は、相当ご立腹のようだ。
絵李には話が全く見えないが、ひとまず響久が何かしたことはわかった。
「後輩に絵見られるの嫌だって言ってたから、見られないとこに持ってきてあげたんだよー?」
大きい声から怒りの色がよく見えるが、響久は楽しそうにからからと笑っている。
反省しているようには見えなければ、怒られているようにすら見えないくらいだ。
「余計なお世話だよ! いっつも俺の絵勝手に持ってくだろ、マジでやめてくれ」
「えー
「それをやめてほしいんだよ! ここはお前の巣じゃないからな、動物か何かか?」
怒っているのかと思ったが、よく見ればそうでもないのかもしれない。
怒っているというよりかは、呆れているようにも見える。
(……葵、ちゃん?)
それよりも、絵李にはその名前が気になった。
明るい茶色の髪は短く、身に纏う制服は男子生徒のもの。
男なのだろうが、その呼称は可愛らしさがある。
「まあまあ。オレはいくら怒っても反省しないし、絵李ちゃんもいるからこのくらいで」
「反省しろよ! って……あ……」
へらりと言った響久の言葉で、葵はようやく絵李に顔を向けた。
キツく作られていた表情が緩み、同時に手の力も抜ける。
赤茶色の目はくりっとしていて可愛らしい印象を受けた。
「えーと……だ、あー……」
行事でもないのになぜかいる他校生に驚きが隠せないのだろう。
大きい方であろう目を更に大きく見開き、困ったように視線を彷徨わせている。
絵李の名前を思い出そうとしたのだがわからず、葵は観念したようにぽつりと声を漏らした。
「……通い妻?」
「はぁ……?」
絵李も葵も、お互いに意味がわからず固まっている。
ここは双方と知り合いである響久に何か言ってほしいところだが……全く取り持つつもりはないらしく、くすくすと笑っていた。
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