『その手で触れて、あの夜を救って。』from「放課後の教室に、恋はつもる。」

 

 先生を好きになるまで、恋愛感情というものがよくわからなかったあたしだけど。


 だからと言って、別に何事に対しても冷めているわけではない。




「赤組優勝するよー! 気合い入れてこー!」


 ホームルームも終わる頃、教壇に立った体育祭実行委員の女子が声高々に宣言した。


「「「おー!」」」


 あたしを含め、クラスの皆が優勝を目指している一体感を覚える。学校行事に対して全力で盛り上がろうとするのは、このクラスの……いや、この彩川南高等学校の好きなところの一つだった。


「メイサ、頑張ろうね!」


 隣席に座る親友の涼香が、明朗な笑顔を向けてくる。


「うん! 絶対勝とう!」


 文化祭でも体育祭でも、順位や勝敗がつくことには負けたくない。意図なんてしていないのに大人っぽいと評価されることが多いけれど、あたしはいわゆる負けず嫌いなのだ。


          ☆


 毎週金曜日の放課後。勉強会が行われる西校舎の第二選択教室には、あたしの好きな人が待っている。


 逸る気持ちで教室に足を踏み入れると、虹彩の薄い瞳があたしに向けられる。あたしはこの瞬間がいつも、たまらなく好きだった。


「会いたかったよ先生♡」


「こんにちは上原さん。早速はじめましょうか」


 毎回こうだ。あたしがいくら愛の言葉を伝えたところで、先生は決して受け入れてはくれない。淡々と受け流すだけだ。


 だけど、いつか絶対に振り向かせてみせる。前向きに前のめりに、あたしは今日も先生にアピールを続けていく。


 勉強会の時間が終わるまでの五十分間は、先生は絶対に雑談に応じない。そのルールに従って、あたしも真面目に勉強をする癖が習慣化されている。


「猫またの正体が飼っている犬ってなんで? 猫の話じゃないの?」


「この随筆では『噂に振り回される人間の滑稽さ』がテーマになっています。法師が怯えているからこそ、いつもは可愛い飼い犬も恐ろしく見えたのでしょう。オチである最後の文章の前に『実は』を入れてみると、理解が進むと思います」


 あたしが先生を好きだという贔屓目を差し引いても、先生の授業はわかりやすいと思っている。一学期の期末テスト後の補習が先生と仲良くなるきっかけだったけれど、そもそも先生の補習を苦痛に感じていたら、惹かれることもなかっただろうし。


「上原さん? 集中していますか?」


「うん。大丈夫。先生のこと好きだなーって思ってただけ」


「……あと二十分です。頑張りましょう」


 その後は勉強モードに切り替えて、しっかり最後まで集中した。あたしのために時間を割いてくれる先生の厚意を無駄にするやつには、なりたくないから。




「体育祭の練習で転んじゃってさ。見て、ここ。擦りむいちゃった」


 勉強の時間さえ終われば先生は雑談に付き合ってくれることを知っているあたしは、いつものように教室に残って、できるだけ先生と一緒にいる時間を引き延ばそうとしていた。


 右脚を伸ばしてガーゼで処置済みの膝をアピールすると、先生は教壇から降りてきてあたしの足元で跪いた。


「痛そうですが大丈夫でしょうか? 保健室で処置してもらったのですか?」


「う、うん。大袈裟かなーとは思ったけど、一応、守口先生に手当てしてもらった。今日は居てくれてよかったよ」


「お忙しいので保健室にいらっしゃらないことも多いですしね。体育祭まであと一週間ですが、ケガのないように気をつけてくださいね」


 片膝の先生に上目遣いで心配されて、ドキッとしてしまった。先生の優しさを「なんだか騎士みたい」なんて勝手に妄想してときめいてしまったなんて、罪悪感が湧きそう。


「はーい」と笑顔で答えて平静を装いながら、先生が教壇に戻ったのを見て安堵の息を吐いた。


「あたしのクラスは赤組でね、あたしは徒競走とリレーに出るんだ」


「と、いうことは……上原さんは足が速いのですね。気を抜いたら見逃してしまいそうです」


「じゃあ見逃さないようにずっと見てて。あ、そうだ! 赤組が優勝したらご褒美ちょうだい♡ キスとか♡」


「ご褒美なんてなくても、私の知る上原さんなら全力を出し切ると思いますよ」


 大人の“逃げ”に頬を膨らませていると、先生はクスっと笑った。


「上原さんって、子どもっぽいところありますよね」


「えー? 子ども扱いしないでよ」


「悪く捉えないでください。それに、何事にも全力で取り組もうとする姿勢はとても素敵だと思います」


「……ホント? 好きってこと?」


「はい、好きですよ」


 先生が“そういう意味”で言ったわけじゃないってわかっていても、あたしの顔はニヤけてしまう。先生相手だとあたしは本当に、単純でわかりやすい女になってしまうから。


「うれしい。ね、先生。キスとか言わないからさ、赤組が勝ったら今度の勉強会のあと、一緒にごはん食べに行かない?」


「生徒と食事ですか……確認ですが、私と上原さんのふたりでしょうか?」


「うん。いいじゃん、女同士なんだし」


「同性とはいえ、教師と生徒がふたりきりというのは……」


 少しの押し問答を経て、首を縦に振るまであたしが帰らないと思ったのだろうか。逡巡していた先生はやがて、小さく溜息を吐いた。


「……わかりました。行きたいお店を考えておいてください」


「約束ね? 指切りげんまんしよ!」


「はい。……やっぱり、子どもっぽいですよね」


「これはわざとだよ。先生に触れる口実になるし」


 先生はあからさまに、困惑した表情になった。先生は感情があまり顔に出ないタイプだと思っているみたいだし、他の生徒たちもきっとそう思っている。


 だけど、四六時中先生のことを見て、先生のことを考えているあたしにはわかる。恋心ってすごいんだから。


 先生の細い小指を搦め取って、その瞳をじっと見つめる。


「先生、好きだよ」


 何度好きって伝えても、熱い視線を送っても、こうして指を搦めても。


 あたしが先生の生徒でいる限り、先生はあたしの気持ちに応えてはくれない。


 こんなに好きなのに。性別なんて、歳の差なんて、立場の違いなんて、些細なことだと思っているのに。


 先生にとってそれらはすべて、あたしを拒絶する理由になるのだろう。


「……誰かに見られたら誤解されそうなので、そろそろ……」


 先生は優しいから、自分から無理やり手を離したりはしない。あたしから離すのだって難しい。寂しい。あたしはもっと長い時間、先生に触れていたい。


 ――だけど。先生を困らせることは、したくないから。


 あたしの体温が少しでも長く先生の肌に残ればいいなと念じながら、そっと指を離した。……かなり重い女だなー、あたし。先生を好きになるまではこんなんじゃなかったのに。


 あたしをこんな風にした張本人は安堵した顔で、「遅くなる前に帰りましょうか」なんて後片付けをはじめている。


 先生を振り向かせられる日が、来るまで。


 口実なんてなくとも触れ合える関係に、なるまで。


 小指に残る先生の温もりを、あたしは何度も思い出すのだろう。


          ☆


 体育祭当日がやって来た。開会式のときから……ううん、違う。本当は朝起きた瞬間から、気づいていた。


 最悪だ。今日は全力で頑張りたいのに、目一杯楽しみたいのに、体調は万全とは程遠いコンディションだった。


 昨日、頼まれてバイト入っちゃったからかな。帰宅したら珍しく家にいたママの愚痴に付き合わされて、寝るのが遅くなっちゃったからかな。


 あー、なんでよりによってこんな日に。気を抜くとふらついてしまうから、二本の足に力を入れて立つように意識する。地上を歩いている感覚がなくて、怖い。


 それでも、皆に迷惑をかけたくない。変に心配もされたくない。今日一日だけ、死ぬ気で頑張ろう。演じるのは得意なほうだ。大丈夫。


 出場した徒競走はギリだけど一位を取れた。うん、やればできるじゃん、あたし。


 涼香と話しながら移動しているとき、先生の姿を見かけた。似合わないダサいジャージを着ているというのに、それすら可愛く見えて仕方がなかった。恋愛感情って本当に不思議なフィルターがかかると思う。


「先生」


 先生の前を通るときに声をかけて、ひらひらと手を振った。真面目でお堅い先生が手を振り返してくれることはないけれど、目と目が合っただけで十分だ。


 通り過ぎてから小さく息を吐くと、涼香が「あのさ」と切り出した。


「ねーメイサ。保健室行こ?」


 ――完璧に隠しているつもりだったのに。体調の悪さを見抜かれて動揺してしまった。


「え、なんで?」


「だって顔色悪いもん。わたし、一緒について行くからさ」


 あたしが意固地にならないように軽い感じで声をかけてくれる涼香だけど、その表情は紛れもなくあたしを心配してくれているものだった。


「でも……あたしが抜けたら、最後のリレー出られないじゃん」


「わたしが出るからだいじょうぶ! メイサは責任感強いから抵抗あると思うけどさ、ここは任せてほしいな! 体調第一だよ?」


 涼香は運動があまり得意ではない。走るのだって好きではないくせに、あたしのためにここまで言ってくれるのか。


 ……お言葉に甘えよう。涼香の優しさを無下にして体調を悪化させることがあれば、この子も責任を感じてしまうだろうし。


「……じゃあ、お任せしようかな。今のあたしが走ってもヘロヘロかもしれないしね」


「そうそう! 筧先生の前でカッコ悪いところ見せたくないでしょ?」


 ニヤリと笑う涼香の言葉に、確かに、と頷いた。


          ☆


「失礼しまーす……あれ?」


 保健室に足を運んだものの、養護教諭の守口先生も、他の生徒も誰もいなかった。


「貸し切り? 守口先生、今日も忙しいのかもね。ほらメイサ、ベッド使わせてもらおうよ」


「うん。……お借りしまーす」


 二つあるベッドのうち、窓側のベッドに腰掛けた。靴を脱いで横になると、目眩でふっと飛びそうになる。……予想以上に無理をしていたみたいだ。


「ありがとね。涼香はそろそろ戻ったほうがいいんじゃない?」


「……メイサ、ひとりで大丈夫? 筧先生呼んでこようか?」


「ちっちゃい子じゃないんだから、平気だって」


 涼香が保健室を出て行ったあと、ベッドに寝転んだまま天井を見上げた。窓は閉まっているけれど、グラウンドから皆の声が部屋の中に入り込んでくる。


 ……たぶん、寝不足と疲れだろうな。休めば良くなるはずと信じて、目を瞑る。だけど、体は疲れているのになかなか寝付けなかった。


 ――体調が悪いって、本当によくない。気持ちが滅入るっていうか、メンタルまでやられるっていうか。いろんなことが脳裏を過って、余計なことを考えてしまう。


 小学校六年生の冬、風邪を引いたあの夜。ママに仕事を休んで側にいてって言えなかった。寒気が止まらなくて、息が苦しくて、とにかく怖くて寂しかったあの夜を思い出していた。


 嫌だ。思い出したくない。眠ることに集中しようと、布団を被る。陽光を物理的に遮断して、怖さも寂しさも忘れて、あたしは……


「上原さん、大丈夫ですか?」


 その抑揚のない、だけどいつだって求めてやまない声を耳にしたあたしは、反射的に布団から顔を出していた。


「……先生? え? どうしてここに……?」


 そしてしっかり、あたしの好きな人の姿をこの目で捉えた。


「佐々木さんから、上原さんが保健室にいると聞きました。眠っているようなら声をかけずに出ていくつもりだったのですが、眠れないみたいでしたので」


 すっと伸びてきた白い手が、あたしの額に触れた。


「熱はないようですが、顔色が良くないですね。そのまま安静にしていたほうがいいでしょう。守口先生はまだお見えにならないですか?」


「……たぶん。戻ってきたら声かけてくれるだろうし……」


 事務的な会話をしながらも、あたしは熱くなる顔と激しくなる鼓動を感じながら「どうしよう」と半ば混乱していた。


 こんなの、ダメだよ。心も体も弱っているときに優しくされたら、もっと好きになっちゃうじゃん。


「グラウンドで手を振ってくれたとき、いつもと少し様子が違うとは思っていたのですが……上原さんは頑張り屋さんなので、辛くても我慢してしまう気はしていました。佐々木さんが教えてくれてよかったです」


 教師として、あたしやその他の生徒にも太い一線を引いている先生は、普段は絶対に自分からあたしに触れてくることはない。


 だけど、看病の一環だから? 額に触れる先生の手が、気持ちいい。


「心細かったでしょう。今は誰も見ていませんし、甘えてもいいですよ」


 以前――先生に本心を伝えて、甘えてしまったことがあるからだろうか。眼鏡の奥の瞳に、見透かされていた。普段は心の奥底に閉じ込めている幼い頃のあたしが、先生の前で顔を出したがっていることを。


「……手、握ってくれる?」


「もちろん」


 そう言って握ってもらった手は華奢で、あたたかくて、あたしを安心させると同時に興奮させる。オキシトシンとアドレナリンが両方分泌されるっていうか、心地よさに依存を覚えてしまいそうだ。


 あたしをこんな気持ちにさせるのはこの世界で先生ひとりしかいないっていうのに、当の本人はあたしの気持ちを受け取ってくれないなんて、こんな残酷なことってない。


 だけど、本能は有無を言わさず喜んでいるのだから、救いようがないのかも。


「……元気になれそう。幸せ」


「私にできるのはこれくらいですから」


 普段は真面目で可愛い先生なのに。こういうときの先生はどこまでも大人で、どこまでも優しくて、格好良くて、本当にズルい。


 そう思ったのも一瞬で、先生の体温があたしの不満をぜんぶ飲み込んでいく。あたしは先生にのめり込んでいく。


「手を繋いでいるところを誰かに見られたら、なんか言われるかな?」


「保健室に誰かが入ってきた時点ですぐに手を離せば、わからないと思います。ベッドはカーテンで囲まれていますし、問題ないかと」


「離しちゃうの? じゃあ、簡単には離せないように繋ぎ方変えちゃお……えい」


 指と指をがっちりと搦めて、いわゆる恋人繋ぎと呼ばれる繋ぎ方をする。先生は「思っていたより元気そうですね」と言ったものの、無理に引きはがそうとはしなかった。


 許されたことへの喜びで、あたしの口元は自然と緩む。うるさかったグラウンドの声が耳まで届かなくなって、すごくリラックスできている。


「先生が高校生のときの体育祭って、どんな感じだったの?」


「全くと言っていいほど覚えていないんですよね。友人もいなかったですし、クラスで一致団結して盛り上がるような学校でもなかったですし」


「そうなんだ。じゃあ、この学校でいい思い出を作ればいいよ。先生の思い出をアップデートしていこ」


 なんの気なしに口にした言葉だったけれど、先生はあたしの顔を見つめたまま何も言わなかった。


「え? あたし変なこと言った?」


「いえ……上原さんはいつも私にはない視点と発想で話をしてくれるので、大変刺激的だなと思っただけです」


 先生の柔らかい表情や声色から、あたしは察した。


「回りくどいしわかりにくいよ。もっとストレートに言って?」


 本当は先生の言いたいことがわかったけれど、ちゃんと言葉にしてほしかったあたしは少しだけ意地悪をしていた。


「……上原さんのそういうところ、好きですよ」


「あたしも先生のこと、好きだよ」


 声に乗せられた言葉が耳に届いて、あたしの全身を駆け巡って細胞を活性化させる。好きな人の声帯から発せられる「好き」って言葉が、一番効く気がする。


「先生の声で好きって単語を聞くと、めっちゃ元気になれる。ねえ、もっと言って。何回でも聞きたい」


「……やめておきます。上原さんが生徒である以上、教師と生徒以外の関係になるつもりはありませんから」


 何度も何度も、嫌になるくらいに聞かされ続けてきた常套句。あたしは先生に何回振られてきただろう。


 じっと見つめて抗議するあたしを見て、先生はふっと微笑んだ。


「ただ……今日は上原さんが眠るまで、側にいますから。安心して眠ってください」


「……髪の毛、ぐちゃぐちゃになってない? 汗でメイク取れてない?」


「大丈夫ですよ。いつも通り、可愛らしいです」


 さらりとこういうことを言ってくるのが、先生の怖いところだ。膨れていた頬は緩んでしまうし、不意打ちで心臓破裂しそうになるし、もし他の生徒にも天然で言っているのだとしたら、ライバルが増える恐怖と嫉妬でおかしくなりそう。


「ありがと。おやすみなさい、先生」


「おやすみなさい」


 握った手も、あたしを見つめる瞳も、あたたかい。一見、クールな印象を与える先生の温もりを知っているのは、この学校の生徒だったらどれくらいなのだろう。先生の魅力を皆にも知ってほしいような、あたしだけが知っていたいような、我儘な矛盾に揺れる。


 でも、あたしが一番、先生のことが好きだっていう自信ならある。


 ドキドキして眠れるかな……なんて思っていたら、先生は握っている手とは反対の手で、あたしのお腹のあたりを定期的なリズムでぽんぽんと叩きはじめた。これって……。


「……これさ、子ども扱いっていうより……赤ちゃん扱いしてない?」


「そんなことないですよ。嫌だったらやめます」


「……ううん、嫌じゃないよ」


 むしろ、ずっとこの時間が続けばいい。続いてほしいと思っているのに、先生の手が気持ち良くて、どんどん瞼が重くなってきてしまう。


 不安なときや苦しいときに、誰かが側にいてくれる安心感。明るくて柔らかな光が、触れた箇所からあたしを解放していく感覚を覚えた。


 もう、泣かない。だって、ひとりじゃないから。


 先生の手は、今のあたしと、そして――六年生のあの夜に泣いたあたしを救ったみたいだ。


 微睡みのなかでそんなことを思いながらあたしは、いつの間にか眠りに落ちていた。


          ☆


 目を覚ましたとき、先生の姿はなかった。


 靴を履いてベッドを囲うカーテンを開くと、守口先生が机に向かって事務作業をしていた。


「あ、上原さんおはよう。気分はどう?」


「おはようございます。すみません、勝手にベッド使わせてもらいました」


「いいのよ、ごめんねえ不在にしちゃってて。棒倒しで一年男子が何人もケガしちゃったもんだからバタついてて。筧先生が付き添ってくれて助かっちゃった」


 その名前を聞いて、心臓が跳ねた。


「か……筧先生は?」


「私が戻ってきたら上原さんの症状を軽く伝えて、グラウンドに戻ったよ。んー、顔色は悪くないけど、一応熱だけ測らせてね」


 体温計を脇に挟みながら、思う。もし先生が男だったら、あたしとふたりきりで保健室にいたことを守口先生は訝しんだだろうし、糾弾されたり注意されたりしただろう。


 だけど、先生もあたしも女だから。同性だから許容される目には見えないルールが世の中にはたくさんある。あたしはそのルールに甘えて、先生の温情を、厚意を、思いっきり享受させてもらっている。


 あたし自身は先生に対して、愛に性別は関係ないと伝えているというのに。……あたしにはいつか、大きな罰が下るのかもしれない。


 ピピピと電子音が鳴る。体温は平熱だった。


「うん、大丈夫そうだね。これから閉会式だけどどうする? 参加する?」


「参加します。クラスの皆と一緒に勝利の感動を分かち合いたいので」


「勝利を疑っていないんだ?」と笑う守口先生にお礼を告げて、保健室を出た。


 もうふらついていない。気分も悪くない。あたしは地に足をつけて、クラスの皆と、そして……先生のいるグラウンドに向かった。


          ☆


『先生。今日はありがとう。体調も良くなったし、赤組勝てたし、よかった』


 体育祭もホームルームも終わった放課後。あたしは我慢できずに先生にメッセージを送っていた。


『会いたいな』


 勝利の興奮のせいか、先生を困らせかねないメッセージを送ってしまった。


 いけない。これでは返信がこない確率が高いことを、あたしは過去の経験から知っていた。


『体育祭で遅れた分、勉強したいなと思って』


 だから、さらに追撃してメッセージを送る。先生はあたしの恋心は受け取ってくれないけれど、“教師として”はいつでも熱心で誠実だから。


『わかりました。第二選択教室で待っています』


 返ってきたメッセージを見た瞬間に、あたしは立ち上がっていつもの場所へ向かう。


 廊下を歩くと自然と早足になり、口元が緩みそうになるのを堪えるのに必死だった。数時間前は体調が悪いって騒いでいたのが嘘みたいで、自分でも呆れてしまう。


 あたしは先生への「好き」が日増しに強くなっていくのに、好きになればなるほど先生を困らせてしまうなんて、おかしな話だ。


 だけど、自分ではどうしようもならないことが恋愛だっていうのなら。


 あたしは今、間違いなく恋をしている。――誰かを「好き」になる感情を知らなかったあたしに、この気持ちを教えてくれた、先生に。




 教室に入った瞬間に、愛しい人に想いの丈をぶつけていた。


「先生、大好き!」


「もう体調は良さそうですね。よかったです」


 今はまだ瞳が向けられるだけで、先生の気持ちはあたしに向けられていないけれど。


「うん、大丈夫。ね、先生、赤組優勝したよ。だからごはん行こうね♡」


 いつか必ず、あたしを「好き」って言わせてみせる。


 放課後、西校舎の第二選択教室で。あたしは今日も、先生に気持ちを伝えている。

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