第35話
結局、一華は泣き疲れてそのまま寝てしまい、朝起きると壁に寄り添っていた。
体はばきばきと鳴り、痛みが走る。
鏡で顔を確認すると、思ったとおり目が腫れている。
一層不細工になった自分の顔を誤魔化そうと、冷たい水で顔を洗うが変化はなかった。
朝食を食べる際に祖母に顔を見られたが、指摘されることなく普段とおりだった。気を遣わせているようだ。
流星が来るので部屋を片付けるが、自分に好意を抱いている男を、果たして部屋に招き入れても良いのか。その疑問が頭から離れず、まあいいかと流せない。
客間にしよう。
流星は優しいから、流星に限ってそんなことはないと思うが、流星は違うと思うが、と誰に向かって言うでもなく、擁護する。
十三時を過ぎるとインターホンが鳴り、約束通り流星が来た。
一華の顔を見た瞬間、泣いたのだと察した。
まだまだ浅い関係性に悔しく思う。泣くのなら、自分の前で泣いてほしい。その関係になるまで、まだ時間がかかりそうだ。
「来るの早かったかな?」
流星を客間に通すと、一華はスマートフォンを取り出してそんなことないと伝える。
コートをハンガーにかけて壁に吊るし、用意された座布団に座ったタイミングで祖母が紅茶を二人の前に置いた。
砂糖が入った瓶を真ん中に置くと、祖母は客間を出て行った。
一華は砂糖を二つとり、紅茶に沈めた。
「一華ちゃんの家は本当に大きいよね。俺の家の何倍だろ」
いかにも古くからあるお屋敷。あまり軽々しく他人に家を教えない方がいい。教えた途端目の色を変えて飛びついてきそうだ。
そんな忠告をしそうになるが、余計なお世話だ。
一華は早速、翔真への言い訳について流星に画面を見せながら身振り手振りで伝えた。
風邪が悪化し、声が掠れて出なくなったことにしよう。そして永遠に出なくなった。翔真なら信じるに違いない。
「俺は、精神的ショックで声が出なくなったっていう話を思いついたけど、精神的なショックの理由で詰まって都合の良い話が作れなかった。一華ちゃんの案にしようか。おばあちゃんにも伝えて、話を合わせてもらわないとね」
今夜にでも伝える。そう意味を込めて頷いた。
流星と翔真への言い訳について案を出し合うだけで、想像以上の労力を使う。
昨日、祖母に事の経緯を伝えた時もそうだったが、喋ることができていたときの倍以上の時間をかけて相手に伝える。それが苦であった。
声さえ出ていれば、こんなに時間はかからないのに。そんな不満も口にできない。もどかしい。
流星は嫌な顔せず、普段と変わらずに接してくれている。しかし、これが一か月、二か月と続くと、面倒になって離れるのではないか。コミュニケーションがとりにくい相手と一緒にいることが苦痛になり、見放されてしまうのでは。そうなったら、自分から声をかけることはできないし、迷惑だと分かっているから近づくこともできない。
嫌な未来を描いてしまい、頭を振ってかき消す。
流星は優しいから、そんなことしない。
大丈夫。翔真も麗奈も、今まで通り接してくれる。
言い聞かせるが、不安は拭えない。
「あ、そうだ。一華ちゃんに渡したいものがあるんだ」
顔色が悪い一華に、沈黙はよくないと思い鞄に入れていたものを取り出す。
四人で遊ぶ時ですら鞄を持たない流星が、重そうな荷物を持っていたので気になっていた。
昨日帰り際に購入した本をすべて取り出し、テーブルの上に並べる。
「これは一華ちゃん用で、これは俺の。同じ本を二冊ずつ買ったんだ」
一華の前に二冊の本が並べられ、一冊は薄くもう一冊は倍の厚さがある。
薄い本には「初めての手話」、もう一冊には「もっと手話を知ろう」とある。
「入力とか筆談よりこっちの方がいいんじゃないかと思ってさ。俺、全然分からないから一緒に勉強しよう」
中学生の頃、同じクラスだった女子を思い出してから、ずっと考えていたことだった。
手話を学んでコミュニケーションをとろう、と。
一華さえやる気があれば、毎日でも一緒に勉強したい。
麗奈と翔真にも勉強させたいが、まずは二人でやりたかった。
「えっ」
自分の前に二冊の本、流星の前にも同じ二冊の本。それを交互に見比べると、泣き出してしまった。
狼狽えながらもティッシュの箱を一華の方に寄せる。
昨日流した涙は自分でも分からなかったが、今流している涙はうれし涙であることが分かる。悲しくて泣いているのではない。
自分のことを考えてくれて、声を失くしたその日に買ってくれた。一緒に勉強しようと言ってくれたということは、今後も一華とコミュニケーションをとりたいと言っているようなもの。
不安が半分拭えた。
「大丈夫?勉強は他の日にしようか?」
片付けようとする流星を止めて、首を左右に振る。
勉強しよう。その一言を画面越しに伝え、日が沈むまで二人は手を動かして話すための努力をした。
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