第8話
バスに揺られて三十分が経つと、病院の前に停車した。
個人病院より何倍も大きい病院を前にし、入るのを躊躇うがここまで来て帰ることはできない。入口の前に立つと自動で開き、病室を知っている流星についていく。
八階まである病棟の七階に入院しているようで、エレベーターに乗って上がっていく。エレベーター内は広いとは言えず、小さな箱の中でお互い無言で扉を見つめていた。
七階につくと流星はナースステーションで看護師に声をかけ、見舞いの許可を得た。
聞こえた話し声の中で七〇二号室と聞こえたので、恐らくそこが翔真のいる病室なのだろう。
ナースステーションから離れた流星の後を追い、七〇二号室を探しながら歩く。
七〇五、七〇四、七〇三と続き、七〇二号室の前まで来た。
奥から二番目の部屋で、他の患者と同室かと思いきや個室のようで、七〇二号室と書かれた下には翔真の苗字だけがぽつんと記載されていた。
扉の前に立つと、麗奈と翔真の話し声が聞こえる。
一先ず死んでいないことにほっとする。
流星が扉に手をかけたとき、麗奈の声で「足、治らないって聞いたけど本当なの?」と放たれた。
思わず扉を開けようとする手が止まり、流星はしまったと思い隣にいる一華を見下ろした。
木を基調とした扉の木目を見つめながら、一華は意図せず口が開き、閉じることができないでいた。
今、なんと言ったのか。
少し開いてしまった扉を閉めようとするが、一華の指が流星の制服を掴むことで阻止された。扉は少しの隙間を残した。
制服を掴まれたままの流星は扉から手を離すことができず、両目を強く瞑った。
「翔真くん、元気そうに見えるけど、足は全然そうじゃないってこと?」
「腹あたりに車がぶつかったんだけど、この辺は足程痛くないんだ。足は神経がどうのこうので、動かないみたいでさ。詳しい説明されたけどなんかよく分かんなかったんだよな。俺、馬鹿だし」
「り、リハビリしたら治るってこと?歩けるってことなの?」
「あー、俺、遠まわしに言われても分かんねえから医者に直球で言ってもらったの。そうしたら、めちゃめちゃ頑張れば杖つきながらよたよた歩けるかもしれないって言われた。過去にそういう患者がいたみたいでさ」
「…なんなのその医者。言い方もうちょっとあるよね」
「悪い先生じゃないんだ。分かりやすくて俺は好き」
「…歩けるようにはなるってことだよね」
「まあな。足があるだけラッキーだぜ」
「そ、そう…」
徐々に鼻声になっていく麗奈は、最後にはすすり泣いていた。
翔真は明るい声で「泣くなよー、俺生きてるんだから」と励ますように言っていた。
一華は掴んでいた流星の制服を放し、踵を返した。
扉を最後まで閉めて後を追い、流星は翔真の母親から聞いた話を思い出していた。
一華に言ってもいいのだろうか。勝手に人の病状を話すのは、善い行いではない。それに、一華に追い打ちをかけてしまうことになる。麗奈と話していた内容は、まだ良い方だ。
余計なお節介はすべきでない。
翔真と一華のために、自分は何を言うべきか何を黙っておくべきか。
帰りのバスで一華は、薄っすらと窓に映っている考え込む流星を眺めていた。
バスから降りた後、どちらも話すことなくひたすらに歩いた。
一華は覚悟を決め、近隣の公園に入り、ブランコ横にあるベンチに座った。
考え事をしていた流星は公園に入ったことに気付かず、一華がベンチに座ったところで漸く自分は公園に来たのだと知った。
拳一個分空けて一華の隣に腰を下ろすと、「ねえ」と久しく感じられる声で一華は尋ねる。
「翔真の足が治らないってさっき聞こえたんだけど、どうなの?本当の事を教えてほしい」
予想していた質問に、すべて話そうと腹をくくった。
一華がショックを受けるかもしれないと思うが、いつかは知ることになる。
「そうだよ。さっき話したのは、可能性の話で、もしかしたら杖をつきながらも歩けるようになるかもしれないねって、そういう話。でもそれは奇跡みたいな話で、もう歩けないのが本当のところなんだって」
「あ、歩けないの?」
「車椅子の生活になるって、翔真のお母さんが言ってたよ。だからおばさんたち、車椅子のこととか色々調べてるみたい」
「そ、そうなんだ…歩けないってことは、その、走り回ってサッカーができないってことだよね」
「…そうなるね」
絶望した。
命があって良かった。けれど、もう二度と好きなサッカーができない。校庭を走り回ってボールを追いかける翔真を見ることはできない。
涙が頬を流れ、マフラーに吸い込まれる。
どうしてこんなことになったんだろう。全部自分のせいだ。自分さえいなければ、こんなことにはならなかった。
サッカーよりも自分を選んでほしいと思ったからだろうか。我儘な自分がいけなかった。
何度拭っても出てくる涙。それを拭い、また溢れ、また拭う。
コートの袖とマフラーが濡れていく。
何度も目元を擦る一華の腕を掴んだ。
「目、痛くなるから擦らないで」
流星のその一言でダムが崩壊したかのように、涙を拭うことを止めて大声で泣き叫んだ。
遠くで子どもたちの声がする。高校生にもなってみっともなく泣き喚いている女を見て、笑っているのかもしれない。近隣の迷惑になっているかもしれない。
もう何も考えず、ただただ自分のあふれ出る感情をそのままにした。
それを落ち着かせるかのように、流星の右手が背中を撫でた。
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