武蔵の里

 平福から大原だけど、今なら佐用川に沿って北上する国道三七三号がポピュラーというか、誰でも思いつくルートだと思う。というか因幡街道は基本的に国道三七三号に沿ってるのもある。


 ボクも美玖もそのつもりだったのだけど、江戸期の因幡街道は佐用川沿いを北上じゃなく、もっと西寄りのルートだったようだ。ままある事なんだけど、そういう時って道が悪い時が多いんだよな。


「県道になっていて走れます」


 美玖の希望で走ることにした。平福の街を出たぐらいのところで県道一六一号に入ったのだけど、


「これこそ昔の街道と思いませんか?」


 良く言えばだ。江戸期の街道の幅は小街道で三間となってるけど、これなら二間ぐらいじゃないか。もっとも東海道だって原則の六間があるところは一部で、二間から三間ぐらいだったそうだから、昔の街道の道幅の雰囲気はあると言えばあるかな。


「見えてる景色もそうじゃないでしょうか」


 物は言い様だな。なんにもないところって事だろ。道が舗装されている以外は江戸時代の因幡街道の雰囲気と言えなくもない。この道なんだけど、平福宿と大原宿の間の難所だったみたいだ。


 実はこの県道ですら最後の部分は因幡街道でなく、本来の釜坂峠は今ではハイキングコースでクルマどころかバイクでも通れない道で良さそうだ。そんな事を話しているうちに人里に出てきた。


「武蔵の里です」


 大原宿の南隣ぐらいになるけど、智頭急行の駅名がなんと宮本武蔵。人名を駅名にしているのは全国で二っか所しかないとか。ここは宮本武蔵の生まれ故郷とされてるところで、


「あんな立派な武道館があります」


 宮本武蔵顕彰武蔵武道場てなネーミングらしいけど、こんなところに、こんなモダンな建物があるかと驚くほど立派だ。せっかくだからと武蔵資料館、宮本武蔵生家跡も寄ったのだけど、


「五輪書には武蔵の出身地は播磨となっています」


 武蔵の生地も播磨説と美作説があり、この武蔵の里は美作説に則ったもので良いと思う。


「平福には武蔵の初決闘の地もあります」


 武蔵は江戸初期に活躍した剣豪なのだけど、まず強かったには間違いない。それだけじゃなくその強さは伝説となり現在にも脈々と語り継がれている。だからボクや美玖のような歴史好きだけじゃなく、日本人なら誰でも知っているぐらいの歴史上の人物になっている。


 ただ武蔵の前半生は謎に包まれている部分が多く、そこに新たな伝説が次々と加えられていて、生地一つととっても美作説と播磨説があるぐらいなんだ。どの説を採るかは議論の尽きないところなのだけど、武蔵を一番知っている人物の記録を重視するのはありだと思う。


「それって宮本伊織」


 武蔵には実子がいないのだけど何人かの養子を取っている。その中で一番有名なのが伊織だ。武蔵に比べるとどうしてもマイナーだけど、伊織は伊織で凄い人物で、養父武蔵の名を辱めないどころか、武蔵の夢を叶えた人物ともいえる。


 そんな伊織が武蔵の死後九年の時に、生まれ故郷の播磨の泊神社を再建している。その棟札に一族の来歴を書き残している。


「それは一級資料になります」


 それによると伊織は田原氏の生まれで、田原久光の次男として生まれたとなっている。養父武蔵についても書き残してあり、


『作州の顕氏神免なる者有り。天正の間嗣無くして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承るを武蔵掾玄信と曰う。後に氏を宮本と改む。亦子無くして余を以て義子と為す。故に余、今其の氏を称す』


 武蔵は美作の神免氏の家名を継いだとしている。ここからなんだけど、五輪書を基づけば武蔵は天正十二年生まれになる。さらに泊神社棟札に、


『貞光以来、相継いで、小寺それがしの麾下(家来)に属してきた』


 田原氏が属していたのは小寺政職になるけど、三木合戦の時に毛利方に付き天正八年に御着城は秀吉軍に落とされ政職は福山の鞆にいた将軍義昭のところに落ち延びている。


「伊織が生まれたのは?」


 慶長十七年だからその三十二年後で、武蔵は三十八歳になる。伊織がいつ武蔵の養子になったのかもはっきりしないところはあるけど、寛永三年に明石藩主であった小笠原忠真に仕えたのは確認できる。


 明石に武蔵が滞在していたのは間違いなさそうだから、この滞在中に武蔵が推挙したか、忠真に見出されたかぐらいだろう。ボクが気になるのはいつ伊織が武蔵の出自関連の話を聞いたかだ。


 そりゃ、養父だから家系については聞かされる機会は多いだろうけど、確実にあったのは養子になる時だろう。養子縁組に際して、先祖や出自の事を話すのは当時的には当たり前のはず。犬コロをもらうのとは違うのだから、


「なるほど、伊織が武蔵の出自を聞いたのは、家名を受け継いだ神免氏の人が死んでから四十年以上は後になります」


 ボクの知ってる限りだけど、武蔵は新免氏を名乗ってはいるけど神免氏は名乗った事がないはずなんだ。でもって、新免氏は実在する。武蔵の里の近くの竹山城の城主だし、大原宿本陣も出来た頃の当主も新免氏だ。


「新免氏ってこの辺の一族になります」


 それぐらいで良いと思う。竹山城の新免氏は宇喜田秀家に従って関ヶ原を西軍で戦い、一族は福岡の黒田氏のところに落ち延びたとはなっている。話としては武蔵がこの辺りに生まれ、新免氏の誰かの家名を受け継いだは成立するし、それに基づいて武蔵の里も出来ているで良いと思う。


「なら五輪書は?」


 いくらでも想像を広げられるところだけど、五輪書を書いた時の武蔵が生地を詐称する必要性が薄いんだよな。ましてや武蔵は新免氏を何度も名乗ってるし、武蔵を宮本氏じゃなく新免氏として記録している資料もかなりある。だから生地が本当に美作であればそう書くと思うんだ。


 さらに伊織が新免氏でなく神免氏と書いてるところも気になる。伊織は相当なクラスのの教養があり、自分の名前さえ書けるかどうかも怪しい戦国の荒武者とは違う。そこまでの教養があったからこそ、十五歳で小笠原忠真に仕え二十歳で家老になり、後にダントツの筆頭家老にまでなっている。


「それって・・・」


 これもボクの知る限り武蔵を神免氏とした記録は伊織のこの記録しかないはずなんだ。そうなんだよ、伊織が養父武蔵の姓を間違うかって話だ、氏素性は当時の人間にとって履歴書みたいなものだからね。


 あくまでもボクの推測だけど伊織は武蔵が新免氏ではなく、本当は神免氏だった事を知っていたのじゃないかと考えてる。武蔵は美作の実在した新免氏と混同させるようにしたのじゃないかと。伊織が養子になる頃には竹山城の新免氏は滅んでいるじゃないか。


 この辺は当時の事情はよくわからないけど、美作の新免氏は播磨でもそれなりに知られた家名だった可能性はある。そこで音が同じ神免氏を武蔵は名乗っていたのじゃないかとも考えてる。その辺の事情を伊織は養父の武蔵から聞いていた可能性は残るじゃないかな。


 泊神社の棟札の記載だから公開されるものでないし、神に捧げる願文みたいなものだから、伊織は武蔵の本当の姓をあえて書き残した可能性だ。


「なら武蔵は播磨出身」


 わかるものか。とにかく武蔵の伝説は尾鰭が付きすぎてしまっている。武蔵の父を新免無二とするのも多いけど、父が新免なら武蔵も新免だ。なのにどうしてわざわざ神免の家名を譲り受ける話が出てくるんだって話になってしまう。


「伊織の記録も信憑性では・・・」


 小倉碑文だろ。あれもわからないところが多すぎるのだけど、ボクは伊織の処世術の必要性からのものと考えてる。伊織が小笠原家に仕え異例の出世をしたのは史実だ。だが伊織は小笠原家では新入りだ。新入りが異例の出世をすれば起こることは決まってる。


「妬み恨みによる新入りイジメが起こるはずです」


 そんなもの必発だ。そんな時に伊織が頼るのは出自になるけど、出自と言っても田原氏では無名すぎる。そうなれば養父武蔵を誇るしかないだろうが。小倉碑文は公開だから、それまでに伊織が養父武蔵を誇るために作った話の集大成みたいなものじゃないかと考えてる。


 歴史研究家は事実を追求するけど、歴史好きはロマンを楽しむ。だから武蔵が美作の武蔵の里の出身者である可能性だって余裕である。一方で播磨の可能性も余裕である。それだけの話だよ。


「武蔵の存在自体が歴史ロマンです」


 そろそろ行こうか。

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