桃子

合野

桃子

桃子と窓の外を眺めていた。真夏の夕立。激しい風が木々を揺らし、雨粒がびしゃびしゃとガラスを叩き、遠くの空が晴れて鋭い陽が差し込んでいた。ときどき雷鳴がとどろく。そのたび私はすくみあがり、頭から血が引いた。怯える私の手を桃子は強く握り、何も言わずにそばにいてくれた。

 教室には私のように夕立が去るのを待ってから帰宅しようという生徒が三々五々集まっていた。雷が鳴るとひゃあと声が上がった。ちょっとした非日常にみんな少し浮足立ったようなテンションだった。

 そんな中で私はそわそわした気持ちで黒板の上の時計の針をしきりに見た。早く雨が上がってくれなきゃ困る。早く帰らなきゃ。

「ねえ、もう帰った方がいいかな」

「雷怖いんでしょ。もう少しここにいたら?」

 桃子に言われて、私は上げかけた腰を下ろした。もう帰る用意はばっちり整っていて、いつでもすぐに教室を出られるようにしてあった。

「でも早く帰んないとママが買い物行けないし……」

「それでも、無理することないよ」

 空を見てもいつこれが終わるのか見当がつかなかった。数分後には晴れているかもしれないし、下校時刻を過ぎても雨脚が弱まらないかもしれない。不安。桃子がいてくれなければ泣き出していたかもしれない。

 五分待ってみても雨の勢いは変わらず、むしろ空がどんどん暗くなっていった。ママに怒られるのと雷の中帰るのを天秤にかけた結果、私はスクールバッグを掴んで立ち上がった。

「行くの?」

「うん」

「偉いね、桜子は」

 私は桃子と手をつないで教室を出た。廊下の窓が白く光りびりびりと震えた。桃子の手の感触だけが頼りだった。

 昇降口へ降りると風の音が強まった。開け放しにされたガラス戸から雨が吹き込み、たたきのあたりは水浸しだった。下駄箱は無事だけど明日の掃除係は大変だろう。革靴に履き替える私を桃子は待ちながら外をにらみつけていた。生徒の姿は少ない。ビニール傘を持って私は桃子の横に並んだ。

「本当にこの中帰るの?もう少し教室にいればいいのに」

「やっぱりそうした方がいいかな」私はうじうじとスカートのすそをいじった。「……ううん、行くよ」

「ママに怒られるの怖いもんね」

 桃子はうなずいた。

覚悟を決め、二人で一つの傘に入って駆けだした。

 雨が傘にぶつかって撃たれてるみたいだった。私たちは水たまりをものともせず、向かい風を切りつけるように走った。地面に当たった雨が飛沫となってあたりは白く煙っていた。

「靴下すごいぐじょぐじょ!」

 雨に負けじと大きな声で言うと桃子も大声で笑った。

 校門を抜けて少し行くとすぐ赤信号に捕まってしまった。肩で息をしていると、空が一瞬明るくなり、間髪入れず轟音が響いた。私はたまらず悲鳴を上げた。大きな音は苦手だ。桃子も驚いた顔だったけど、「大丈夫だよ」と励ましてくれた。

 信号が変わるとまた走り出して、すれ違う人たちは騒ぐ私たちを振り返った。雨と汗で制服が肌に張り付くし、走ると暑いし、雷は怖いけど、楽しそうな顔をした。そうすれば少し心も楽しくなった。

 団地にたどり着くと雷鳴は遠くなり、時折ゴロゴロと地鳴りのような音がした。さっきよりはましだと思った。アパートの入り口に駆け込み、私たちはタオルで腕や足を拭った。お互いの髪型が崩れているのを見て笑いあった。桃子の前髪は額にぺったりと張り付いていてなんだか海苔みたいだった。指摘すると、

「桜子だってハゲみたいになってるし!」

 とふくれっ面で言い返された。慌てて手鏡を見ると、風で前髪がめくれあがって、ハゲみたいと言われるのもさもありなんだった。

 エレベーターホールで少し待ち、扉が開いて乗り込んだ。

「ママ怒ってるかな……」

 私は小さくつぶやいた。

「桜子は悪くないのにね」

 桃子は吐き捨てるように言った。ママが妥当な理由で私に怒っているときもそうでないときも、桃子は私の味方だ。テストの点が悪いとかスマホの見過ぎとか、そういう私に非があるときでも、横で「あんな言い方しなくてもいいじゃん!」と、落ち込む私を吹っ飛ばすように言ってくれる。

 うちのドアの前に立つと、いやだなあと思ったけど、大丈夫みたいな顔をして鍵を開けて平静に「ただいまー」と言った。おかえりはなく、代わりにきらり子の泣き声が聞こえてきた。起こしてしまったかもしれない。

 濡れた靴下を玄関で脱いで洗面所で洗濯カゴに放り込み手洗いうがいを済ませリビングへ行くとママが座って腕を組んで、きらり子をじっと見ていた。

きらり子は喚くように泣いていた。ママが動かないのを見て私はきらり子を抱き上げて上下に揺すった。しばらくそうしていると徐々にぐずりになり、眠り込んだ。再び起こしてしまわぬよう慎重にカーペットの上に置いた。

「遅い。もうすぐ四時半なんだけど」

 ママは疲れた声で言った。

「ごめんなさい」

「この時間になるとスーパーのレジ混むんだよね。人も多いし」

 この話は何度も聞かされていた。

「雨がすごかったから……」

「言い訳?」

「……」

 こういう時のママには何を言っても無駄だ。わかっている。だけど桃子は、

「桜子が雷苦手なのは小さい頃からずっとじゃん。母親のくせにわかんないの?」

 と反論しようとしていた。

 私が何も言えないのを見てママはだるそうに立ち上がり、テーブルの上の財布と車のキーを持って出て行った。

 きらり子はすやすや眠っている。「もぐハロやってるよ」テレビをつけたけど、起きそうな気配がないので消した。大丈夫そうだなと思って自分の部屋に行った。

 すぐにベッドに倒れこみたい欲を押さえて濡れた制服を脱ぎ部屋着に着替えた。スマホを取り出してメッセージを確認してソシャゲのログインボーナスをもらってSNSを見ようかなというところでリビングからまた喚き声がした。

 目を閉じてめんどくさいな無視しようかなと思っているうちにどんどん声が大きくなる。めんどくささを耐えられなさが上回ってきた。反動をつけて起き上がってきらり子のもとへ行き、さっきと同じ要領で泣き止ませようとした。でも、声の大きさは一定のままで少しも静まりそうにない。おむつを確認する。おやつをあげれば泣き止むかもと思ったけど、晩ごはんの前に食べさせるのはママが嫌がる。キンキンする声がドア越しに聞くよりダイレクトに響いて頭がくらくらする。

 子守歌を知らないので何でもいいのかなと思って、クラスでにわかに盛り上がっている、流行曲の替え歌を聞かせてみた。「バーカーのなぞるー線ーガタガータのーマントヒヒ座ー」全然効果がない。

 止め方の分からない目覚まし時計みたいだ。目覚まし時計と違うのは、電池を抜いて止めることができないところだった。

「止める方法ならあるけどね」

 知らぬ間に桃子がいて、クッションを指さしていた。

「何?」

「あれ使ってさ、寝てる間に息が止まってましたって言うんだよ」

「……冗談よしてよ」

 私はぎこちなく言った。桃子は制服を着たままで、髪の毛先から水が滴っている。彼女はいつもと変わらない顔で笑っていた。

「その子のこと、別に好きじゃないんでしょ。そもそも子供を育てるのって母親の役割だし」

 きらり子は私が中学に入学してから生まれた妹だった。小さなころきょうだいが欲しいと言って親に泣きついたことはあったけど、十歳以上離れた妹ができるとは思わず、ずっと一人っ子だった私にとってはなんだか親戚の子どもを一時的に預かっているみたいな気分だった。初めて抱っこしてこの子が私と血がつながっているのかと遠い気持ちになって以来、なんだか少し気まずいような感覚はなくならず、自分はこんなに薄情な人間なのかと自問そして桃子が仕方ないよと言ってくれてそんなものかと思って来た。

 なんで今になって二人目をと両親に尋ねたくなることもあったが、生命の仕組みを知ってしまったせいでなんだか聞くのが恥ずかしくなってその機会を逃してしまった。ママは「桜子もお姉ちゃんなんだから」と言って何かと世話を任せてきた。赤ちゃんの扱い方なんて学校で習ったこともないのでいろいろ検索したりして、とりあえず寝かしつけとおむつとミルクの作り方は覚えた。部活がある日以外は、帰るとママが買い物に行っているあいだきらり子の面倒を見ることになっていた。遅くなるとレジが混むのでママは機嫌が悪くなった。

「まあ……好きではないのかな。お姉ちゃんだから面倒見なきゃって思ってるけど」

「おかしくない?周りに子供の面倒見てる中学生なんていないし」

 泣き声はとどまらないし小さくもならない。小さく熱い体を機械的に揺すり続けた。

「うーん、でも私がやらなきゃだめだし、ママ大変そうだし」

「それ産んだのが悪いんじゃん。大人二人でまともに子供育てられないのおかしいよ」

 パパに関しては週末にきらり子をあやしているところを時折見るくらいで、普段は全然子育てに協力しない。ママははじめ手伝ってよとパパに言っていたけど、忙しいと言ってなにも覚えようとしない姿にあきれてしまったらしい。そのしわ寄せか、私がいろいろやらされる。そういえばママはきらり子の出産前に産休に入って、しばらくしたら復職するようなことを言っていたけど、パパの態度のせいか他の理由からか、最近はそういうことを口にしなくなった。

「それはそうかもだけど、ほら、きらが笑ったときかわいいなーって思うしさ」

 穏やかなことを言ってはいたけど、正直、この距離で子供の大声を聞き続けて気が立っていた。頭痛がする。大きな音は苦手だから。

「そうやって自分に言い聞かせてるだけでしょ。ほんとはもっと放課後とか休みの日とか遊びたいのに我慢してるんじゃん」

「……言い聞かせててもそう思えるときがあるならいいんだよ」

 我慢しているというのも、きらり子が私に笑いかけたり「ねえね」と言ったりしたときに可愛いと思うのも本当だ。自分の中にはいずれ姉妹としての自覚や愛情が芽生えるのかもしれないと思う部分や、感情に任せて邪険に扱ってしまってはのちに後悔するかもしれないと危惧する部分があった。今はそのバランスを保てているのだから、桃子がそれを崩そうとしているのはなんだか嫌だった。

「なんかお姉ちゃんになったね」

 お姉ちゃん、と強調して言ってきた。厭味ったらしく。

「そうだよ。お姉ちゃんだよ」

 私の機械的寝かしつけでもだんだんきらり子の呼吸は落ち着き、小康状態になってきた。背中を叩いてみたりして、どうにか安らかな顔になった。もう一度その場に寝かす。腕が疲れていた。

 また泣き出すかもしれないから部屋に戻ってスマホをとってきてきらり子の横で見ていることにした。桃子の姿はなくなっていた。

 いつまでも桃子に頼っているべきではない。私は考えた。

桃子はずっと頭の中で作り上げて一緒に成長してきた友達で、つらいときに励ましてくれたり嫌なことがあったときに私より怒ってくれたり忘れていたことを思い出させてくれたりしていた。でも、この年齢になってもそういう存在に自分の心を一部を担わせたままでいいのか。

 これまでも幾度と考えたことだった。でも桃子がいれば楽しいし心強い。私は桃子が好きだ。それでも、これからずっと桃子と一緒に生きていくのかそうするべきなのか自信は持てず、彼女なしではうまくやっていけないことを自分の欠けるところと思ってきた。だって、頭の中の友達とずっと話しているような子が私の周りにいるだろうか?自分はおかしいのではないか。

きらり子について桃子があんなひどいことを言うというのはつまり、私も心のどこかでそう思っているということだ。彼女は私の心の一部であって、まったく別の人間ではない。目をそらすべきではない。私は桃子も、きらり子も好きだから。

 そんなことを頭の半分で考えもう半分でスマホを見ているとママが帰ってきた。レジ袋を両腕に掛けている。外の雨はもう止んでいた。ママは何も言わずに台所へ行った。きらり子は起きない。しばらくすると炊事の音が聞こえてきた。

 そのあと、食事の時も風呂の時も部屋に戻ってからも桃子の姿は家になかった。蓋し彼女の出現は私の心の持ちように依るので、さっきのことを引きずっているからではないか。きらり子は夕食の時も眠そうで、ママがいらいらしながら食べさせているのが分かった。

 寝る前にはいつも、桃子と次の日の準備をして、嫌なことや楽しみなことを話していた。のに、今日はいない。明日は英語の授業で当てられそうということ、好きな週刊漫画誌の発売日であること、話す相手がいないと本当にそれが嫌でそれが楽しみなのかわからなくなった。数か月後のカレンダーを見ているようにどこか遠い出来事に感じられてしまう。そんなところまで彼女に頼っているとは知らなかった。

 仕方がない。きっと明日になったら桃子とまた学校に行けるだろうと思ってベッドの上で目をつむった。

 そうすると当たり前のように桃子の出てくる夢を見た。

 山道の中を歩いていた。リアルな登山道や獣道ではなく、童話の挿絵のように森の中に一本まっすぐ道が通っていた。舗装されてはいないがきれいに踏み固められていて、軽装でも歩くことができる。木が生い茂っているにもかかわらず日が差し込んでいて明るく、遠足のような気分だった。横には桃子が歩いていて、二人で歌を歌っていた。私はリュックを背負っていたけど桃子は手ぶらで、きれいな花を見つけるたびに丹念に踏みつぶしていった。

 まだ昼なのに桃子は、

「ねえ疲れたんだけどさ、一休みできない?テント持ってきてたよね」

 と言い出した。テントなんて持ってきているわけないと答えたら、桃子は私のリュックサックを奪い取り、その中から布の塊を取り出したかと思うと、あっという間にそれをテントの形に組み上げた。

「骨組みもないのにすごいね」

「空気で膨らませれば骨組みなんていらないよ」

 こともなげに言うので、そういうものかと思った。

 桃子はオートロックの暗証番号を入力してテントの中へ入っていった。私は暗証番号を知らないので慌ててそのあとに続いてガラスの自動ドアをくぐった。

 中は蒸し暑く、紫の布が太陽を透かしていた。桃子はすでに横になって寝息を立てていた。二人がようやく寝転がれるくらいのサイズなのに桃子が大の字になっているので私は立っているしかなかった。こんなことになるなら娯楽の一つでも持ってくればよかったと思いながらテントの布を触ったりした。

暇を持て余していると、テントの外から低い音が聞こえてきた。桃子は目を覚ました。

「あれ、桜子いたの。先に行ってくれててもよかったのに」

「はぐれちゃうかもしれないじゃん」

 私は少し泣きそうになった。涙の代わりに全身からじわじわと汗をかいた。

「うん。私もうちょっと寝るね」

 桃子はまた目を閉じた。私の言葉が相手にされなかったのは悲しいけれど、勝手についてきたのは自分だしと彼女が起きるまで暑いテントの中で待つことにして、テントの隅で邪魔にならないように体育座りした。リュックを下ろして体のそばに置いた。

 そうしているとさっき聞こえた低い音がどんどん大きくなっていることに気づいた。法螺貝のような音だと思っていたけれど、近づくとそれは明らかにくぐもった獣の声だった。ここは山の中だ。何がいてもおかしくはない。

 文字で表すならウオーとかババババとかそういう感じ、なにかその生き物の中で有意の意思伝達をしているような声だった。

「ねえ、外になんかいるよ」

 私は桃子を揺すって起こそうとしたけど、まったく反応がない。

 次第にドシンドシンと重い何かの足音もしてきたので、はやくテントから出るべきだと思った。桃子が起きないので抱えようと前かがみになったが、汗で滑って手すらもうまくつかめない。もどかしい。

 こうなったら自分だけでもと思ってリュックを持って立ち上がると、ガラスの向こうに大きな熊がいた。音の正体だ。

 熊は二メートルを超える巨体で、白黒のボーダーのTシャツを着て水色のキャップをかぶっていた。目が合った。私は固まる。

熊は困ったような顔でドアを叩いた。するとテント全体がゆりかごのように大きく揺れた。しかしガラスのドアは頑丈で、ヒビの一つも入らない。このまま諦めてどこかへ行ってくれと強く願った。

今の揺れで桃子が目を覚ました。

「何今の」言いながら体を起こした。「えっ熊いる」

「どうしよう」

 私は桃子を置いて逃げようとしていたのも忘れてすがりついた。

「うーん」桃子は目を擦った。「警察呼ぶ?」

「そんなの間に合わないよ」

「じゃあまずいね」

 彼女にもようやく事態の深刻さが理解できたようだった。熊は冷静な面持ちで私たちをじっと見ていた。

「も、もしかして読唇術じゃない?暗証番号わからないから入れないんだよ」

「暗証番号言わなきゃ安全かもね。オートロックにしてよかった」 

 実際、熊はいろんな番号の組み合わせを試し始めたようだった。

 大きな手で小さなボタンを一つずつ押す姿は間抜けで面白い。諦めてくれ、と祈る。桃子は私のリュックをあさってなにか使い出のあるものを探していた。しかし大した荷物は持ってきてない。桃子はペットボトルと編み物用の棒針を両手に携えた。

 熊はカチャカチャとボタンを押し続けるのに飽きたらしく、テントの周りをぐるぐる歩き始めた。このままどこか行ってくれ、私は祈ることしかできない。

しかし非情にも、熊は大きく咆哮し布に鋭い爪を突き立てた。

「や、やばい」

「下がってて」

 桃子は頼りない武器を構え、熊の影と対峙した。

 爪が布を引き裂き、巨大な体躯が躍り出た。私は叫ぶこともできない。

 熊は太陽の光を浴び、こちらを見降ろした。

 狭いテントの中で、桃子が力強く大きな影を見上げ、私はその後ろでぶるぶる震えた。

 熊が動き出した拍子に、頭にのせていたキャップがはらりと落ちて私の顔にかぶさった。

「うわっ」払いのけるとすでに決定的な瞬間だった。

 熊が桃子の胴を鷲掴みにし頭にかぶりついている。その牙は桃子の首から肩にかけて食い込んでいる。噛みちぎりはしないが肉の断面が少しうかがえた。

桃子は右手に持った棒針を熊の左目に深々と突き刺している。熊の口から腕がはみ出て、顔へまっすぐ伸びていた。熊の目は黒々としていて、それ自体一つの生き物のようにぴかぴかと光をまとっていたが、その中央から棒針の頭が飛び出している。桃子の弛緩した左腕からはペットボトルが落ち、ぽしゃんと音がした。

「……」

 しばらく静止画のように何も動かなかった。私も硬直して息を止めた。ワンテンポ遅れて、桃子の肩と熊の目から血が噴き出した。その勢いは水道修理業者のCMを思いこさせた。

 血が天井の布に染み込んで湿り、それでも耐えられなかった分はぼたぼたとこぼれてテントの下部に溜まり、私の足元にも届いた。温かい。

 一番初めに動いたのは熊だった。桃子の頭をもぐもぐし始めた。骨の砕ける音がする。声を出せないでいる私に気づき、軽く会釈をしてきた。Tシャツが真っ赤だ。

 私は熊の目に棒針が刺さったままなのに気づいて悲鳴を上げた。いち早くテントから出なければと身一つでガラス扉に飛びついた。血で足が滑った。狭い空間のはずなのに走ってもなかなか辿り着かない。それでも手を伸ばした先にドアが現れ、倒れこむように外へ出た。

 外には私と同じくらいの大きさの熊が数匹いた。さっきの熊の子どもかもしれない。お揃いのリボンを首に巻き、困ったような顔で私を見てからそっぽを向いた。桃子はあの熊たちのお腹に収まるのかもしれない。

 桃子は私をかばって死んだ。私のせいで。

 そう思うと涙が出てきた。うつむくと足元に水滴が落ちた。私は歩き始めた。森はさっきより暗くなっていた。

 足を前へ前へ動かすと桃子のことを考えずに済み、少し体が浮き始めたような気がした。足はどんどん速くなった。地面を踏んでいる感覚がなくなり、走っているのか飛んでいるのかわからなくなってきた。がむしゃらに山の中を進んだ。

 私は叫び始めた。桃子と大声で言った。そうすれば現れて「どうしたの、そんな私の名前呼んで」と笑いかけてくれるような予感があった。地上や木の上を往復し、桃子桃子と言った。体の中で煮立つように不安が循環した。

 どこにも桃子が見当たらず、くたびれて目が覚めた。

まだ部屋は暗かった。寝ていたのに全身がぐったりと疲れていた。パジャマも汗で重くなっていた。いましがたの夢を思い出して鼓動が早まった。

「桃子?」

 寝転がったまま問いかけた。いつもならそれで彼女は「なに」と言ってくれた。

 静寂。

「桃子?」

 さっきより少し大きな声で言った。ママとパパに聞こえたらとかは考えられなかった。

 体を起こして部屋の中を見た。

誰もいない。私のほかには。

 桃子がいなくなった。

 冷静になろうと努めた。彼女は昨日からいなかった。余計なことを考えてしまったから。桃子の存否は私の心に左右される。私が必要としていれば現れるはずじゃないのか。

 なのに、呼んでも出てきてくれない。いま、私は桃子に会いたい。夢の中で熊に食べられちゃったんだよと言ってなにそれと笑ってほしい。

 部屋はエアコンが効ききらなくて暑いのに、私はひどく寒いような気持ちになって震えた。テントの中で熊と向き合う桃子の陰に隠れていたときのように。これじゃ、本当に私のせいで桃子が死んだみたいだ。

 私は部屋の真ん中で桃子を待った。暗闇の中で、幽霊のように、棒立ちで。死んだはずない、夢の中のことなんだからと自分に言い聞かせ続けた。

 目が覚めてしまったのが何時だったか確認していなかったけど、待っているうちにカーテンの外が明るくなりはじめ、空気も徐々に湿った熱いものへ変わっていった。私は必死だったけど、その気持ちの量を行動に流し込むあてがなくただ祈った。

 しかしそのまま完全に朝となり目覚まし時計も鳴った。それを消し、一人で着替えてリビングへ行った。特に意味はないけど、眠そうな顔をして見せて今起きましたという風を装った。

 昨日たくさん寝たからか、きらり子はすでに起きていておもちゃの木琴を叩いて遊んでいた。

「……」

 きらり子を見ていると急に、今朝私が桃子を待っていたのが情けないような気がしてきた。きらり子の木琴の叩き方はめちゃくちゃで、違う板を叩いたら違う音が出ることを理解しているかも怪しい。しかし叩いて音を出すことのどこかに楽しみを見出して、飽きもせず遊び続けているのだから不思議だ。

「ほら、朝ご飯。早く食べなさい」

「うん」

 緩慢な動きで食卓に着いた。焼いただけの食パン。少し甘い。きらり子は一人で遊んでいるのに、私は一人でご飯を食べるのも久しぶりだ。

 それとも、きらり子にも周りから見えない友達がいて、木琴の音もその子に聞かせているつもりなのかもしれない。私がいつからかそうだったように。

桃子に会いたい。私の話を聞いて、相槌を打って、励ましてほしい。しかしそれでは不甲斐ない。お姉ちゃんなのに。寂しい。むなしい。

「桜、そんなちんたら食べてたら遅刻するよ」

「……走れば間に合うよ」

 食欲はあまりなかった。それでもパンや梨を頬張ればおいしかった。飲み込むには少し労力が要った。泣くのをこらえているときの喉元と似ていた。

 いつもより時間をかけて食事を終えるといつもなら歯を磨いて髪にアイロンをかけているころだった。歯磨き洗顔はいつも通り、髪のセットは濡らした櫛でとかすだけにした。鏡の中にはぼんやりした表情の自分がいた。

 もしかして私は桃子ときらり子を天秤にかけた?一度でも、桃子と一緒に生きないことを考えたせいでいなくなった?誰がそのルールを決めている?私が?

 ……目の前の間抜け顔にはわかっていなさそうだった。制服も髪型もいつもと変わりなく何遍も見た自分だ。

 リビングに顔を出し、

「いってきます。今日部活ある日だから帰るの遅いと思う」

 と言った。ママは新聞に挟まった広告をあらためながらいってらっしゃいと言った。きらり子が言葉になっていない声を発しながらこちらへ手をひらひらさせた。バイバイと私を見送っているように見えたが、偶然そう見えただけという気もした。小さく手を振り返した。

 お姉ちゃんになったねという桃子の言葉を思い出した。私は姉になって、中学生になるんだと思った。つまり、立場相応、年相応に。

これから高校生や大人や社会人にもなるだろうし、妻や母にもなるかもしれないし、部下や上司にもなるかもしれない。それがいいことなのかどうかわからない。弟子や隣人や取引先や先生にもなるかもしれない。でもそのとき、桃子の友達ではない。彼女は私の横にいない。私のせいで死んだから。靴を履いてひんやりとしたドアノブを押す。

私の後ろで、重い扉が音を立てて閉まった。

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桃子 合野 @gou_no

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