六月十八日 可憐

 妖と人が戦う、第二の戦国の世は、もう二百年も続いている。


 国を形成する三つの大きな島のうちのひとつを平定している武士団の将である寧姫ねいひめと、俺こと白夜びゃくやは市場に出ていた。


「白夜、置いていってしまいますよ」


 あなたは、道のど真ん中で棒立ちになっている俺を呼んだ。慌てて駆け寄る。もう随分暑くなっていて、屋敷からここに出てくるだけで汗が頬を伝った。


 俺たちの周囲に人はいなかった。いや、近づいて来なかったという方が正しい。それは、ひとえに俺が人間ではないから。


 白銀の髪。鮮やかな黄色い瞳。そして、右の額から伸びる一本の角。


 俺は、鬼だった。


「市場は初めてですよね」


 寧姫が言う。俺がああ、と返事をすると、あなたは少し寂しそうな顔をした。


 しまった、と思った。


 多分、初めてなんかじゃない。俺とあなたは……鬼となる前の俺は、何度も一緒に市場を訪れたのだ。


 寧姫の長い髪を束ねる赤と黄緑の髪紐も、俺……否、記憶を失う前の俺、暁孝ときたかが贈ったものだ、というのを聞いたばかりだというのに。


 俺は、何も覚えていない。


 俺は、自分のことも、あなたのことも、すべてを忘れてしまった。


 それでもあなたは、俺のそばにいてくれる。


「突然市場に行きたいなんて、何か買いたいものでもあるのか?」


「特別何か目的があるわけではありませんが……そうですね、どちらかというと、あなたと出かけることが目的でした」


 自分の顔が熱くなるのが分かった。あなたは少し悪戯に微笑む。


 俺とあなたは、かつては姫とそれに仕える従者の関係だったと言う。少しずつ関係が変わっていき、恋仲のような距離に落ち着き始めたころ、戦で暁孝は死んだ。寧姫を守って死んだらしい。


 寧姫と俺は、特に目的もなく市場を歩いた。輪郭さえ溶けてしまいそうな昼下がりだ。


 突然、薬屋の前で寧姫が立ち止まる。


「忘れていました。千代ちゃんに薬を頼まれていて……買ってきますので、少し待っていてください」


 寧姫は薬屋の店先に向かっていく。


 着いて行こうかと思ったが、薬屋の前はかなり混んでいて、俺みたいな鬼が近づいてはちょっとした騒ぎになりそうだったのでやめた。


 手持ち無沙汰だ。寧姫はしばらく帰って来られそうにないし。


 ふと、向かいの見世棚に目を惹かれた。いつだったか、ここで買い物をしたような気がする……。


 ふらりと立ち寄ると、色とりどりの髪紐が並んでいた。店主が少し怯えた目で俺を見ていたが、あっと言ってその口から声が漏れる。


「……暁孝様……?」


 やはり、俺はここに来たことがあるらしい。困惑した様子で店主は言う。


「いやはや……昨年はどうも……今年も、寧姫様に贈り物でしょうか……?」


「あー……」


 どうしよう。あまり考えていなかったが、こう話しかけられてしまっては立ち去るにも申し訳ない。


「……そうだ。何か、彼女に似合うものはないか?」


 尋ねると、店主はいろいろな商品を紹介してくれる。さっきまで俺の姿に怯えていたというのに、商人とは逞しいものだ。


「……それから、こちらは最近入荷したんですが」


 それは、小さなふたつの鈴だった。


 似合うだろうな、と思った。


 優しく、可憐で、愛らしく笑うあの人に。


「その鈴で頼む」


 値は決して安くはなかったが、市に行くならと副団長に握らせてもらった銭でなんとか足りた。


「白夜?」


 いつの間にやら用事を終えていた寧姫と合流し、彼女が両手に抱えている物を預かって空間術で収納した。


「寧姫、ちょっとだけ後ろを向いてくれ」


 たった今買ったばかりの小さな鈴の飾りを髪紐に結びつける。いいよ、と言うと寧姫は振り返り、その拍子にチリン、と鈴の音が鳴った。


「……よく、お似合いです」


 そんな言葉が口をついて出る。


 少しの間を置いて、寧姫の目から雫が一筋伝った。


「な、なんで泣くんだ……」


 その理由を、多分俺は分かっている。

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