五月四日 豪雨

 激しい雨音が聞こえる。


「兄上、御覚悟ッ!」


 そう叫び、明孝あきたか暁孝ときたかに斬りかかる。暁孝は結界術『椿』を展開してそれを防御した。金属音が鳴り響く。明孝の身につけている、結界の模様と同じ真っ赤な椿の家紋の羽織が揺れた。


 椿の家紋。それは都に巣食う妖の王、天魔てんまが配下、一ノ瀬家の家紋だ。

 ……暁孝の弟、明孝は一ノ瀬家のよこした刺客だった。


 雨粒に濡れた赤椿がじっとりと確かな重みを伴い、明孝の肩にのしかかっていた。


「兄上、祢寧姫ねねひめを引き渡すんだ。君がここで死ぬ理由はないだろう!」


「いいや、死んでも渡さない」


 明孝は舌打ちをした。指を二本立てて結印し、解術を試みている。結界が小さく音を立てた。くっ、と暁孝の口から声が漏れる。


 そこに大太刀を振るう永信えいしんが割って入り、明孝は退いた。彼は改めて刀を構える。


「貴様……ッ」


「トキ! お前は一旦、ねい連れて逃げろ! 例の新術やったらいけるはずや!」


 暁孝は頷き、すまないと一言謝りながら戦う寧姫ねいひめのほうへ走り出した。彼女は薙刀を振るって刺客と戦っている。武術で彼女に敵うものはいなかった。


祢寧姫ねねひめ、お手を!」


 暁孝は彼女の返事も聞かず半ば無理矢理その手を掴んだ。突然のことに寧姫は目を見開いた。呟くように唱術しながら、もう片方の手で彼は印を結ぶ。


 途端、周囲の景色がずれて、砂嵐の中にいるかのような感覚に襲われたあと、一瞬にして風景が変わる。暁孝が寧姫に覆い被さるようにして地面に転げ出た。


「一体何が……」


 身を起こした寧姫は暁孝の姿を見てさらに驚いた。全身から雨粒、そして血を滴らせる暁孝は歯を食いしばりながら立ち上がる。


「暁孝……? 一体なぜこんな……」


「……新術の……転移です。やっぱり、うまくいかなかった」


 咳き込み、口元を押さえた暁孝の手のひらには赤い鮮血が滲んでいる。彼女のことは身を挺して守ったが、転移時の空間の歪みは暁孝の肉体を傷付けていた。


「なぜ……?」


 寧姫はわなわなと唇を震わせた。


「私は……まだ戦えました、なぜ……? なぜ、私を逃すような真似を……!」


「祢寧姫」


「祢寧姫だなんて呼ばないでください! あなたにとって、私は守るべき対象でしかありませんか……? そんなにも、私は弱いですか……?」


 彼女の頬を雫が伝う。


「違う、あなたは強い! でも、分かってください……あなたの身が天魔に渡れば、この土地が……アカツキの国が終わるんです」


「私だけが生き残って何が残ると言うんです!」


 悲痛な叫びだ。涙か、それとも雨粒か。雫が溢れていく。


「永信や志堂しどうや、みんながあなたの弟と戦っています、あなただって! 私のせいでそんな怪我を負って! 私は、あなたに守られるだけのか弱い姫でいればいいんですか……?」


 雨の音がより一層強くなる。それに伴ってふたりのかけあいは激しさを増した。


「祢寧姫!」


「あなたは、一体何なのですか。私のような女に縛り付けられて。一生、従者としての使命を負って、それでいいんですか!」


「俺は!」


「そもそも、私が大人しく天魔のもとにいれば、永信の妹君が死ぬことはなかったし、あなたも自由に生きられたのに! 私のせいで、みんなの……あなたはあなたの大切なものがあるでしょう?!」


「馬鹿なこと言わないでください!」


 キッと強い視線で射抜かれ、寧姫は息を呑んだ。彼女の従者として彼は、今まで寧姫に反論をしたことはなかった。


「俺が、家から与えられた使命のためにあなたを守っているとでも? そんなことならあなたを連れて都から逃げ出したりなどしません! 俺は、あなたに死んでほしくないんだ、あなたが大切だから!」


 今までにないほど、彼は寧姫の肩を強く掴んだ。寧姫が言葉を失う。


「あなたよりも大切な人なんていないんだ……俺の信念を、気持ちを……ッ、家の使命なんて言葉で片付けないでいただきたい!」


 五月雨。

 長い雨は止むことなくふたりに降り注いでいた。

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