神秘か友か

isadeatu

文学短編 神か友か


神秘か友か



 これを書くのは名乗るほどの者でもない研究家で、学生か院生であるとも思ってもらってもいいし、専門家であるとも思ってもらってもかまわない。

 知人であるイサデという作家に依頼し、この話を伝記してもらった。


 多毛症、というのがある。

 いわゆる毛深い人よりさらに全身の毛深い、まゆげや首の毛までもが太くどこまでも伸びる体質の人のことを言う。

 これは古い人間の形質なのではないかということで『先祖帰り』という現象ともいわれ、病気と呼ぶのはふさわしくないように思う。だが執筆しているこの時点においてはそう呼ばれている。

 この類の人は、人里からきびしい迫害にあうことも多かったのが事実だ。

 わかりやすいのは画家ラヴィニア・フォンターナによる『アントニエッタ・ゴンザレスの肖像』という絵だろう。彼女も多毛症であるが、その父ペドロもまたそうであり、フランスの王族の屋敷に見世物として小人症の人などと一緒に住まわされていた。しかしペドロは多毛症ではない人の妻帯をすることができアントニエッタが産まれた訳であるので、場所や時によってはものすごくひどい扱いを受けていたとはかぎらない。

 ちょっと毛が濃いとかそういう程度ではなく、犬や猫のように全身が毛でおおわれる。たとえるならおとぎ話の狼男のような見た目になる。実際狼男伝説のもとになったのはこれだとも言われる。

 古代中国で言う妖怪やあるいはあるいは野人・カクエン、古代日本でいうは、おそらくこれがモデルなのではないかと筆者は提唱する。

 理由はふたつ。ひとつは、古代において妖怪というのは実際にあったものを説明がつけられないために怪奇現象としたものであること。たとえば日本でいう一つ目小僧は、現に存在する単眼症だったのではないかと今では言われている。ほかにも山姥はサイコパスであったり例はいくらでもあげられる。

 それは東洋のみならず西洋でもそうで、吸血鬼伝説がうまれた時代は狂犬病が大流行した時でもある。狂犬病が進行すると夜に幻覚を見、凶暴になり、光やにおいの強いものを過敏に嫌い、水やとがったもの(十字架など)をこわがる。

 理由のもうひとつは、この多毛症というのは世界各地すべてで見られるものであるが、日本と中国ではその症例が報告されていない代わりに毛におおわれた妖怪の伝説はあるということだ。

 つまり、このふたつの国において、人里から迫害されたか隔離されて逃げ延びた者ではないかということを言っている。

 西洋においては多毛症の人間はその多くがサーカスで働いた。珍妙な見世物とされた。ビッグフットと呼ばれている未確認生命体も発祥はこれではないかと考えられる。

 しかしながら、霊長類であり人間とDNAがあまり変わらないボノボやオランウータンを見ても、この多毛症の姿は本来の人の姿から大きくずれてはいない。


 中国と日本において毛の妖怪とされたものは、よく人や物をさらうとされたが、それらは人里から迫害されたゆえのことであり彼らの名誉のために言うのであれば我々がそうさせてしまったと言える。

 日本ではサトリのことは黒た坊(ダークベイビー)などとも呼ばれ、一部地域ではむしろ親しまれていたようだ

 山童とも同一視でき、木こりの仕事を手伝ったという。あるいは木こりの弁当を奪ったという。

 その多くが山間部に出ることから多毛症の人間が山に隠れ住んでいたと考えることもできる。

 単に黒い袈裟を着た僧侶のことも指した。

 日本では山の主とも怖れられた。


 多毛症の人間がそういったカクエンなどの伝承となっていた場合、どこで人の心を読むという設定が追加されたのかは不明である。

 天狗にも同じような力があったと伝わることから、心を読まれたくないという人間の恐怖を妖怪に押しつけてさらに壮大な脚色をはかったのか。

 あるいは、人里から隠れ住むために注意深くならざるを得ず、人のちょっとしたしぐさから考えを見抜けるようになっていたのかもしれない。

 あるいはすこしでも人里に住む者と心を通わせようと努力した結果読心術に近いほどのコミュニケーション能力を獲得するのかもしれない。

 2024年時点では、多毛症の人は好奇の目を向けられることはあっても、人間として認められており民衆から妖怪のように言われることもない。

 今、多毛症は突然変異であるから病気だとされ、治療法を模索されている。それは悪意からではなく、日常にとけこみやすくするためにそうするのだろう。

 だがダーウィンの進化論によれば人間ももとは毛深いネズミのような形であったはずだからこれを人間でないものや、普通ではないもののようにあつかうのは本来おかしいのだ。本当にすべきは病気扱いして他のほぼすべての人間の形にちかづけることではなくて、ほとんどの人間のほうこそ多毛症もふつうの人であり仲間だとひろく認知するべきであるということなのだ。これはこれを残してくれる作家のイサデも同意してくれている。

 もしダーウィンの進化論がただしく、この姿がむかしの原始的な人類そのものであったならば、人の姿は環境や時代によりそれだけ変化するということである。

 もしかすると数千年後の人にとっては、今の我々の姿は珍獣のように思われるかもしれない。

 すくなくとも後年の人が我々を見るに文化についてはずいぶん未発達だと笑うか気持ち悪がるか、見下すかするのであろう。文明が失われていなければだが。

 滑稽なのは、今の時代の多くの人は今の文明レベルが人類の完成品だと考えていて、それを正義として、これ以上はないと思っている。

 はるか未来からみれば我々は原始人とそう変わらないかもしれないというのに。


 これらのことをふまえてある伝承を言い伝える。

 とても古い時代、まだほとんどの人は文字の読み書きも知らず、たいていのわからないことは精霊か神秘のなせるわざだと考えられていたときのこと。

 木こりの家に産まれたはとある山に神秘的な獣オオヤマヌシが出るとの噂を他の村から来た人にきいた。

 この少年の名をという。その神秘的ななにかは、人の心を読んだり未来を言い当てたり不思議な妖術を使うという。

 与作はそれを神だと信じ会うために旅へ出た。

 そうする理由があった。与作の村では体が青くなって手足から腐り果てる奇妙な疫病が流行っていた。その多くは与作の親戚や友人であり、ついに兄弟にも感染者が出た。

 これをどうにか食い止めてもらおうと考えたわけである。そして与作は何度もあちこちの野山をかけまわり、とうとう銀と紫でいろどられた秘境の山でこのオオヤマヌシを見つけた。その姿は毛糸を体中にまきつけたようなまさに神秘的なものだった。与作を見るなりオオヤマヌシは草の茂みに飛び込んで逃げようとしたが、

「オオヤマヌシ様、どうか助けてください」

 与作はひれ伏して頼んだ。

 オオヤマヌシは与作を見て一言「お前の村も病がはやっておるな」と言い当てた。

 与作はこの方ならば村を助けられると確信し、「大山様」と呼んでその住み家のほら穴へ朝夕魚をとってささげた。

 この神はときどきしかしゃべらない。村や与作、世の中の話をききたがる。

 与作の知る限りそのほかは食べ物を集めたり道具を作るだけで、神らしいことはしない。

 当然、与作が期待したような神通力は起きない。

 それでも与作はこの方こそ神秘そのものと信じ続け、村の人に希望をもってもらおうとこのオオヤマヌシの話をした。

 すると村の人もやがてこの存在を救いの神だとおがみだしあらんかぎりのをささげたが、オオヤマヌシがわざわざ村に来て祈ってくれても、村人はみな病で死んでいく。

 幼い子どもすらも。しかし病は止まらずとも、村人らはみなオオヤマヌシが来たことで、「大山様がお救いくださる」とどこか幸せそうな最期をむかえていた。その眼は極楽浄土が見えるかのようにおだやかなものだった。

 与作以外の村人たちは、生きのこることはできなかった。

 ある夜、オオヤマヌシは与作をほら穴へ呼んだ。

 そしてこう告げた。


 私は人から生まれた

 人から追い出されてここへ来た

 祖父だけが時々ここへきて食べ物をくれた

 それから慈悲深い人もあわれんで世話をしてくれた

 自分はなぜ人とちがうのかずっとなやんでいた

 あなたが私を神だというから私も信じていのった


「いやいや、あなたは神だ 神でなくともなにかそういったもののたぐいだ

 なぜ神通力を起こせなかったのか不思議だ」


 もしそうなら

 救えなかったことをつらく思う

 自分ができなかったせいだと

 私はやはり自分が神だとは思えない。

 私は神ではなくただ私を見ても恐れない、あなたの友人になりたかった。

 

 それから、私はここを去る

 私のうわさをききつけたたちが、あつまってきている

 ひとつの村をほろぼした化け物退治だと。


「そんな……私が言って止めさせます」


 私はずっと人から恐れられ逃げられてきた

 もういいんだ


 もしそれでもってくれるのなら、ここにほこらを建てて、私の事、私の悲しいこの心持ちを、思いやっていつか救われるようにといのってほしい


 ――頭巾をかぶりその山を下りていく様子のなんと美しくはかないことか。月の光に照らされた葉のなかへその者は溶けるように消える。

 そこにあったはずの時も、空虚な海へとかえる。

 その後の大山様の行方はだれにもわからない。

 与作は言われたとおりにした。

 毎日いのった。息子の世之介とともに。

 子孫にも話を伝えた。

 しかし晩年になって悔やんだ。

 あのときどうしてあの人を神ではなく人だと認めて友人になると言えなかったのだろう。

 それだけで彼を救えたはずなのに

 あのほら穴に近づく気になれなかった。もう会えることはなかった。

 一説には、江戸にある大森貝塚と日吉神社は、この伝説をってできたものであり、この二人の人間の願いのあらわれであるという。



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