八.先人の知恵
前からの振り返り。俺がダイヤの仕入と、針とかの備品管理もすることになった。そこそこ日数を経て、俺の労働ルーティーンも固まってきた。ちょうど良い、ここで紹介しよう。以下のようになっている。
零、前日のうちにカズに出勤連絡
一、放課後一緒に下校
二、小屋についたら出勤打刻
三、依頼メールチェック
四、仕入と備品管理メールチェック
五、清掃等雑務
六、退勤打刻して帰宅
どうだろうか。平日放課後二時間程度のバイトとしては充実していると思う。
零、前準備として、前日のうちに小屋に行くことをカズに伝える。当日でも良いとは言われたが、早い連絡に越したことはない。それに社会人になってから、当日行けません、とかいう癖がついても困るしな。結局平日週五で行くのが当たり前になってきてはいるが、プライドに懸けて連絡はする。それで翌日、普通に学校に行く。サボりはなくなった。どうせ放課後会えるからな。それに放課後の勉強時間が減ったから、授業は受ける他ない。そのことを教師の方々に褒められた。当たり前のことなんだけどな。サボる方がおかしいよ。まぁカズは依然としてサボってるみたいだが。
一、放課後になると示し合わせてカズと一緒に下校する。周囲の目も気にならない。見たきゃ勝手に見やがれ、という気持ち。それで小屋に着いたら自分の机に向かい、パソコンを起動する。
二、打刻を済ませる。この所作で労働スイッチが入り、さぁやるぞという気持ちになる。
三、依頼メールをチェックする。これが一番重い。新規依頼や追加の連絡があれば都度一覧表に反映させる。慣れてきたものの、やっぱり和訳はまだまだ時間がかかる。依頼には色んな内容があって、見てて飽きない。一番多いのは故人に会いたい系。納得。次が有名人、または意中の人と遊びたい系。遊ぶというのは、勿論夜まで。性癖の多様性を無駄に学んでいった。そうそう、カズが官能小説を読んでるのはこのためらしい。
「いかなる性癖をも文章で表さないといけないのだけれど、そういう経験が皆無な私には語彙力も想像力も無い。だから学習のために読んでいるのさ。それと、古いのは読みものとしても単純に面白いよ。」
だそうだ。単なる変態じゃなかったんだな。だけど学校で読める感性だけは分かってやれないが。それに経験が皆無、ねぇ。何か、安心した。コホンコホン、とまぁ、この二種類がほぼ全てを占める。珍しいものとしては、犯罪系、だ。夢の中なら何しても良いだろう精神で、とにかくショッキングな内容になる。強盗や放火はまだ良い方?で、中には本当に、どう人体を扱うか、までグロテスクに書いてあるものもあった。薄々こういう依頼があるのも分かってはいた。けど、初めて見た時は気分が悪くなったな。その日はすぐ帰って休んだっけ。そして悩んだ。これは良いのか?俺は良くないことに加担しているのではないか?というふうに。んで翌日、何事も無く和訳して一覧表に入れた。結局夢は夢だし、それに現実で実行しないために夢で発散するのは、とても健康なことじゃね?と思ったから。それに、問題があったとしても、アキラさんとカズの責任防波堤があるから、俺まで届かないだろうと踏んだ。もし何かあったら、やっぱり逃げようかな。それくらいの考えに留めている。
四、そうして依頼の更新まで済んだら、一旦パソコンから離れてデカ棚と対面する。右二列の引き出しを片っ端から開け、不足がないか確認する。カズは俺が帰った後も作業することが多いみたいで、昨日の終わり際に見て、
「結構あるな。」
と思ったものが、翌日見ると、
「あれ?こんなに減ってる。」
ということもしばしばだ。特に針先な。消耗がとりわけ早い。カズが一日使い倒したのと新品とを比べてみたことがあるが、マジで細い先っぽだが、目視で確認できるほどに削れて丸っこくなっていた。
「本当はダイヤ一個につき針先一個、くらいの感覚がベストなんだけど、貧乏性なのかな、まだ使える、まだ使えるって思ってなかなか交換する気にならないんだ。」
分かる。俺も歯ブラシが大分ささくれても、もっともっと使える精神に基づいて、全然新品に替えないから。ブラシの毛が抜けてきたらようやく検討する。似た者同士ですな。脱線した。とにかくダイヤと針先はマストで確認、その他クロスとかスコープのレンズとかがあるけど、減りはそんなでもないから、たまに補充する。
あぁそれと、アキラさんとやり取りするようになった。カズに教えてもらいながら初めてアキラさんに連絡したときは、
『初めまして、橘斎聖と申します。最近になって辻村和沙さんの下で、バイトを始めさせていただきました。辻村和沙さんとは高校の同学年という仲です。以後私からご連絡差し上げる機会が増えるかと思います。よろしくお願いいたします。』
こんなふうに、備品補充依頼のメールに社会人顔負けの挨拶を書き足した。親類や教師以外の大人だ。向こうからは何て思われるんだろう。内心ドキドキで返信を待っていた。翌日になって返信が来た。
『以下の補充、分かった。』
以上、それ以外なんにも無し。俺の挨拶は無視。それどころが、いつこっちに届くかすら教えてくれない。お前らがそんなだから、カズもこんなになって、それで皺寄せが俺に来るんだろうが!荒い手つきでキーボードを叩き、返信する。
『ご確認いただきありがとうございます。こちらにはいつ頃届く予定でしょうか。』
敬語なだけ有り難いと思え。翌日、返信。
『一週間くらいはかかるだろう。俺は各所に注文を入れているだけだから、それ以上は分かりかねる。』
だったら最初からそう言っとけや。あとタメ口なのも気に入らん。年下でも初対面やぞ、敬語使うべきだろ。とまぁこのように、普段から何事も無くこんなのとやり取りしていたカズをちょっと尊敬した。人間としての弾力性は俺よりカズの方が上だな。アキラキツいわ。とまあ人間関係の憂いを感じつつ注文を済ませる。
五、仕入と備品管理も終わったら、帰るまでの時間で清掃に従事する。まだまだ気になるところは多い。今は専らデカ棚の引き出しに取り組んでいる。右二列以外も使えるようにしたい。それなのに、引き出しからまぁゴミが出てくること出てくること。依頼書の束が出てくるのは良いけど、ネジとかボルトとかの山が出て来ても困るんだわ。それに怪しい液体が入った瓶も。ほぼ透明だが黄色に薄く濁っていて、匂いを嗅ぐ気にもならない。液体の正体をカズに尋ねたが、
「使う、使うよ、それも。取っておいておくれ。」
用途は何なんだよって。その口に突っ込んでやろうか。こんな感じで処理に困る物達は、逆に左下の引き出しから詰め込んでいっている。全部の引き出しを整頓し終わったら、
『ハケ』
『レンズ』
等ともっと区切りを明確にして管理したいと思う。後二、三日あればできそう。こんな感じで少しずつ進めている。
六、清掃で時間を潰し、良い時間になったらパソコンで退勤時間を打刻して、帰路につく。ここまでの間にカズが何をしているかというと、ずっとツールスコープを弄ってダイヤと向き合っている。
「前も言ったけど、文字を彫るには下書きをしないといけない、割れちゃうからね。だから最初は細い針で薄っすら文字を彫る。薄過ぎるから、効力も薄い。このままでは使い物にならない。下書きを済ませた後、数日間寝かせる。彫った跡がダイヤに定着するのを待つんだ。寝かせた後、一回りは太い針で線をなぞる。これまでで一文字でも失敗したら、パァ。最初からやり直し。」
「結構失敗するものなのか?」
「そりゃもう、ぜーんぜんしちゃうよ。十個あれば二個はやっちゃうね。」
それもそうか。むしろ八割ノーミスでできる方が凄い。
「たから慎重にやらざるを得ないんだよ。一日かけて一個の下書きも終わらないなんてザラだ。それなのに、後一文で彫り終わるという時に、力が入り過ぎてしまって…ということもしばしばだよ。難しいね。」
だから相当キツい。一日何個もできるものじゃないのに、依頼は日に日に溜まっていく。それを学業と両立して、さらに両親もおらず…フルコンボだ。うん、せめて俺の働きでダイヤ彫りに専念させられるのは良かったな。完成したダイヤはきちんと梱包して、アキラさんへ発送するとのこと。雑務だから俺の仕事かと思ったが、完成タイミングがカズ次第過ぎるので、そこはカズにやってもらうままにした。
とまぁ、以上の感じで日々が過ぎていく。給料ももらった。まだ一ヶ月も働いていなかったが、カズいわく、
「月末締めの方が分かりやすいから。」
とのことで、以降月末ごとに支払われるとのこと。異論は無い。時給千円、勤怠と照らし合わせた上で、三万円ほど現ナマで手渡された。テンアゲ。
「約束だから、来週からは時給を百円上げるよ。」
そう言えばそんなこともあったな。今でも十分だから、とささやかな抵抗を試みたが、
「それは話が違う。」
ぴしゃりと断られた。むぅ、そこまで言うなら、とすぐ引き下がった。ともあれ、初任給だ。働いて稼いだという感覚は想像以上に嬉しかった。世界から存在意義を与えられたような気持ちになった。興奮してなかなか寝付けなかったほど。使い道は考えてなかったので貯金するが、いつか有効に使いたいと思う。
また、ある日のこと。いつも通り出勤し、依頼メールの和訳をしていたところ、突然向こう側のカズから、
「ちょっと、ちょっと。」
声を掛けられた。カズはスコープに目を当てたままだ。珍しい。普段は一旦スコープを覗いたら、ずっと無言で集中するのに。席を立って歩み寄る。
「何だ、何かあったのか。」
「それ、それ、口に入れてくれないか。」
ん?何?カズはスコープから目を離さないし、両手も針を握ったままだ。
「入れるって、何を?」
「トマト、トマトだよ。そこにあるだろう。」
言われて机の上を見ると、プラパッケージに入ったものはトマトが置いてあった。プチよりかは一回り大きいくらいの。そして察した。
「手が離せないけど食べたい、のか。」
「そう、今は顔も手も動かせない。だけどトマトも食べたい。だからイッセーに食べさせてもらうしかない。一個で良い。」
「そんなにか。」
「そう大事、この文字のここ大事。」
ラップみたい。だが切羽詰まってるのも分かる。けどなぁ、ちょっとなぁ、
「お願い。」
そう言って、
んぱっ
薄い口が縦に開く。こちらの思考すら遮るような食い気味でお願いされた。はぁ、溜め息も出てしまう。だがしかし、こうなったらやってしまった方が話は早い。それにお金ももらってる。求められることをやるべきだ。
瞬時にズボンで指の腹を拭ってから、さっとトマトを一摘み。案外硬い手触りなんだな。表面がつるつるしてる。おっと、ヘタは取ってやらないと。配慮もこなした上で、そのまま指をカズの顔の直下へ移動させる。その顔はあられもない。捲くられた前髪、剥き出しのおでこ、スコープに包まれて見えない目元、晒された鼻、そして、薄い唇、白く整列した歯、ピンクの舌。
ごくり
唾を飲み込む。誰かの歯をしっかり見ることなんてない。舌も結構ビクビク動くもんなんだな。生き物みたい。刹那、あの夢がフラッシュバックする。濃厚な接吻、その快感が再現されようとする。頭を強く振る。まずい。負けるな俺。今は勤務中だ。決して欲情してはならん。あまつさえ、ボッキーなんてもってのほか。俺は強い、強い、強い…
「ああぅ。」
口から音が漏れる。?カズ、何か言った?
「あ、あ、う。」
あ、早くってか。催促されてる。口を開けたままだから母音しか聞こえない。これ以上はカズの口内の潤いが保たない。ええい、ままよ。覚悟を決めて、指を口に近づけていく。プルプル震えて狙いが定まらないので、もう片方の手で押さえる。必死だ。頑張れ、俺。トマトがほとんどカズの口内領域に収まるところまで進んだ。良し。後は、トマトを下ろし、舌と歯の間くらいのところに載せてやる。ちょっとぐにゅっとした感触が、トマト越しに指から伝わる。ドキドキしてしまう。
「離すぞ。」
声を掛ける。指の力を抜く。それと同時に、唇が丸まって口が閉じていく。トマトが吸い込まれていく。合わせて、こっちも指を引き抜く。その一瞬、指が唇に触れた。
「おっ、」
おっと、思わず声が漏れてしまった。トマトはカズの口の中で歯に押しつぶされてペーストになり、やがて舌に運ばれて食道へと消えていった。
「ありがとう、助かった。」
その一言だけで、カズは活動を再開した。いつものように両手が微かに動く。俺はというと、指先を見つめて呆然としていた。さっき微かに触れた、確かに。唇。その指を、そっと、自分の唇に、近づけてみる。唇、指を介した、間接の、キス。
「ねえから!」
ゴシゴシゴシゴシ
必要過十分にズボンで指を拭う。ムカつく。何で俺、こんなキモい?ありえん。近づけてみただけだって、そんだけだから、何もねぇから!カズは黙々とダイヤと向き合っている。お前のせいだよ、全部。次から自分で食えよ。トマトをもう一個摘み、拝借して自分の口に突っ込む。歯で潰すと、皮にピッと亀裂が入り、そこから身が飛び出てくる。そのまま擦り潰してペーストにし、喉に送り込む。うん、トマト。特別甘かったり酸っぱかったりすることもない。あえて食う意味が、分からんね。俺はこの日をトマト事件日、と呼ぶことにした。
またある日のこと。いつも通り出勤し、二人それぞれの作業に勤しむ。すると、
リーリーリー
どこからかアラーム音が。カズがさごそとスマホを取り出す。
「はい。」
電話みたいだ。呼び出し音、古風だな。
「うん、うん、分かった。」
何やら応答している。俺には関係無いことだが。目線を画面に戻す。
「うん…え?橘、イッセー?居るけれど。」
あん?俺?そんなわけ?目線を上げる。
「良いとは思うけれど…本人に確認してみる、待って。」
スマホを離して俺に近付いてくる。
「俺に?誰?」
「アキラさん。」
スマホが差し出される。ゑ。
「マジ?」
「マジもまじも大真面目だよ。話したいんだってさ。」
えー、でもぉ、文面でしか相手してない人だよ?しかも語気強いし。怖いなぁ。もじもじしていると、
「出ないと、待たせてるよ。」
くいくい、とスマホを揺らし、早く出ろと促す。
「わぁったよ。」
スマホを奪い取り、恐る恐る耳に近づける。ど、どうしよう。第一声はこっちから?いやこっちからすべきだろうなぁ。よ、よし、いくぞぅ。
「ひぃあじめまして。」
声が裏返った。最悪。相手のリアクションは、無し。だったら、
「初めまして、橘斎聖です。」
俺の能力、ポーカーフェイスの応用。何事も無かったように仕切り直す。これでいくつもの場面を乗り切ってきた。相手は先の記憶を忘れ、成す術無く次のステップに進むしかない。
「変な奴だな。」
思考がぶった切られた。低い声がスマホから振動で伝わってくる。
「度胸があるのか無いのか分からねぇな。」
ふー
息を吐く音が聞こえる。
口調が荒い。ドスも効いてる。声の感じは、中年男性くらい、なのか?汗が、額、背中、脇、その他から吹き出してくる。こっっっわ。ワンチャンカタギじゃない、とかないよなぁ?だってだって、この仕事安全だって、そうだって、言ったもんなぁ?!ねぇ?!カズに目配せする、が、悲しいかな、彼女は既にスコープの虜だ。
カァァァアアアズゥゥゥウウウアアア!?フォローとか、ねえのか、よおおおぉおお?!
返したい言葉はあるが、とても喉から出てこようとしない。口から胃まで、粘膜という粘膜がカラッカラに渇いている。メールであれこれ指示してたの、あれやっぱやめればよかったなぁ。もう電話、返そうかなぁ。
「おい。」
「はい?!」
とりわけ低いドス声に、勝手に返事が出た。な、なんでしょうかぁ。
「何とか言ったらどうなんだ。」
こえぇよ、もう。高ニのガキに話しかける態度じゃないってぇ。でももう、いいかもう。ここまで来たら、逆にもう、何でも出来る気がしてきた。うん、そうだ!おやおやぁ?なんのこっちゃない、ただ会話を楽しむだけで良い。それだけのことだわさ!
「…おかしな奴では、ないですよ。」
いやごめんやっぱ無理。
ふっ
?笑い声?面白かった?
「まず否定するところが、そこか。」
声がちょっと柔らかくなってる、何で?いやもう、分からん、何も分からん!
「そうです、俺は至って普通の高校二年生、です。」
ベラが回り、口の渇きが少し潤ってきた。
「普通ねぇ、普通の奴が、魔法なんて信じるか?え?」
そんなこともあったな。
「そう言えばそうでした。」
俺の仕事は直接魔法とは関係無いから余計に忘れてた。そうか、普通信じるわけないか。
「朱と交わったものですから、俺も朱に染まったのかもしれません。」
あれ?俺何て言ってる?やばい、頭に浮かんだ言葉が勝手に口から流れてる。自制が効かないテンションに至ってる、これはまずいぞぉ。だが、意識しても、一度上げたテンションはなかなか抑えられない。
「達者な口だな。」
「どうも。」
どうもって何だよぉぉぉ?!ああもうまずいってぇ!
「なるほど、和沙の言った通りだ。」
「カズ、あ、和沙さんの?」
ちらりとカズの方を見る。黙々とスコープ越しのダイヤ弄りを続けてる。聞こえてないみたい。今はそれがありがたい。
「地頭が良くて働き者、アイデアマンで効率も良い。」
そ、そんなふうに裏でも話してくれてんのか。それはさすがに嬉しい。カズはお世辞じゃなく、やっぱり本心から褒めてくれてたんだな。
「それでいて他人を見下す唯我独尊。他人と違うところにエクスタシーを感じる変態。奇々怪々摩訶不思議狂人変人、だってな。」
結局それかよ。変態は言い過ぎだろ。
「…傷つきますよ。」
「脆いんだな。やっぱ子供か。」
何だこいつ。こいつとか言っちゃった。もうええか。
ふー
今度は俺が息を吐く。落ち着いてきた。アキラさん、声は怖いけれど、敵意は無さそうだ。そこは安心した。
「話がしたいだけなんだよ。」
「はぁ。」
てか、カズの言葉遣いが変なの、この人の影響受けてるだろ多分。なんか雰囲気が似てるわ。
「話は二つ。まずは、仕事の礼。確かにお前は要領が良い。預かったばかりの仕事だというのに、要点をきちんと把握している。」
「あ、ありがとうございます。」
「それだけじゃない、自分から提案もできる。以前よりダイヤの仕入、針とかの注文も増やしただろ?きちんと管理できてる証拠だ。それに、依頼を一覧にまとめてるんだってな。丁寧に日本語に直してまで。」
そうだ、その二つが、主に俺が仕事をするにあたって、改善したところだ。
「その甲斐あってか、和沙の納品も早くなってきている。お前のおかげだ。ありがとうな。」
素直だ。真っ直ぐな感謝が伝わってくる。ちょっと涙ぐんでしまう。大人に仕事が認められ、さらに感謝まで直接言ってくれるなんて、今まで無かった。
「いえ、そんな。」
「ガキが一丁前に遠慮すんじゃあねぇよ。」
だからいちいち怖いって。褒めたの台無しじゃねぇか。
「二つ目は、何でしょうか。」
「ん?ああ、二つ目、二つ目ね。」
…?不自然な間が空く。妙に勿体ぶるんだな、なんだろう。
「避妊。」
「んぇ?」
今、何と?聞き違いでしょうか、ですよね。ひ、に、ん。避妊と聞こえてしまいました。あ、ひょっとして、えたひにんのことでしょうか、日本史の。
「だから、避妊だって。和沙とヤる時、ちゃんとゴムつけてんのかってことだ。」
今日は朝から曇り空だった。日差しは無いけれど、蒸し暑さを肌で感じる。登校するだけで肌着に違和感を覚えてしまう。だが意外にも小屋にはエアコンが完備してあり、数分もすれば涼しい空気で満たされる。快適な環境の下で励む仕事は充実している。はずだ、はずだったのだが。
「おいって。」
ハッとする。現実に戻って来る。過去一で言葉の意味が理解出来なかった。しかし、避妊、ゴム、ヤる…これらの単語を並べるだけで大体意味が、分かる。分かってしまう。にしてもさぁ、もっと婉曲的な伝え方があるでしょうに。火の玉ストレートど真ん中に放られても困るわ。せめて、もっと、躊躇いとか、ほしかったなぁ。
「…少し下品では、ないでしょうか。」
答えを作る前に、ささやかな抵抗を試みる。猶予が欲しい、時間稼ぎだ。
「あぁ?あぁ、まぁ、確かに、そうかもな。」
認めんのかよ。貫き通せよそこは。キャラがブレるだろ。
「でも、大事な話だ。」
スッと声が一段と低くなる。こちらも気が引き締まる。
「エチケット、っていうだけじゃねぇ。実際問題、ここが疎かになると大変なことになる。いくらお前、頭が良いからって高校生だろ?性欲真っ盛りじゃねぇか。猿みたいに腰振ってるだけじゃあ、いつか痛い目見るぞ。」
なんというか、この人は、カズ以上に思ったことをズバズバ言うな。俺が短気だったらとっくに切れてる。スマホを握る手には力が大分こもってはいるが。
「そんなんじゃありませんよ、俺は。第一、そういうことをする関係でもありません。」
落ち着いた、はっきりとした言葉で、否定と訂正を行う。
「あん?本当かよ。」
「本当です。」
「そんならお前、本当にバイトっていうだけなのか?一端もこういは、無いんだな?」
ん?こうい?どんな漢字?
「こうい、とは?」
「好きかどうかってことだろ。」
あ、やっぱそっちか。危ない、行為(=いやらしい行為)かと思った。
好きかどうか、だって?カズを見ながら考える。好き、なんだろうか?嫌いではないから、どちらかと言えばそう、だ。かといって今すぐ突き合いたい、南無三、付き合いたい、という訳でもない。うぅむ。
「どう、なんだ。」
「…まぁ、全く好きではない、ことだけは否定できます。」
多いにぼかした。仕方無い、ここまでしか言えない。
「はあーぁ、何だそら、漢らしくねぇな。」
「すみません。」
何でか謝ってしまう。
「まぁ良い。今後そういう機会があるかもしれん。年上の言う事だ、避妊はちゃんとしろよ。」
何なんだよもう。
「万が一、そういうことが、もしも発生した場合は、そうします。」
「おう。」
どういう会話何だこれ。俺なんでこんなこと約束させられてるの?
「じゃあな。」
え、え?終わり?!
「あ、あの!」
切られそうになり、慌てて引き止めた。冗談じゃない。カズから聞きたいけど聞けないことはたくさんある。避妊の話で終わってたまるか。まだ話がしたい旨を伝えた。しかし、
「話せることなら話してやらんこともないが、あいにく忙しいんだ。今はもう時間が無い。」
「そう、ですか。」
声が沈んでしまった。それが伝わったのか、まだ電話は切られずに、何やらゴソゴソと音がする。
「あー、まぁ、明日の夜十時から十五分くらいなら何とかなるか。」
まじ?時間作ってくれんの?俺のために?
「本当ですか。」
「構わん。ただ十五分だ。それ以上は取れん。」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
良かった。色々と聞けるチャンスがある。明日までに質問内容を整理しておこう。
「電話番号。」
「は、はい?」
「お前の電話番号、教えろって。まさか和沙の携帯を借りるわけにもいかんだろうが。」
「あ、はいはい。」
そりゃそうだ。失念してた。手短に自分のスマホの番号を教える。
「明日、十時頃にここにかけるからな。」
「はい、お願いします。」
「じゃあな。」
ツーツーツー
切れた。耳からスマホを話す。
はあああぁぁぁ
ちょっと話しただけで、どっと疲れた。忙しなく、威圧感があり、押付けがましい人だった。何だ避妊って。いや大事なのは分かるよ?けど、今じゃねぇだろうよ。そう思いつつ、カズにスマホを返しに行く。
「カズ。」
びくっ、と背中が跳ねた後、ごしごし目を擦りながら身体がこちらに向ける。やっぱ罪悪感あるな。
「ありがとう。」
スマホを机の上に置く。
「思ったより話し込んでみたいだけど、何かあったのかい。」
「仕事の話だ、褒めてくれたよ。」
避妊の話はしない。できるか。それに明日電話する話もしなかった。別に言う必要も無いし、それに、何だかカズを仲介せずにアキラさんと話すのが悪い気もするからだ。ちょっとプライベートに踏み込んだこと聞きたいしな。
「そう、それは良かった。アキラさんから認められるなんて、大したものだよ。」
カズの目尻が下がり口角が上がる。お前も喜んでくれるのか、ありがと。照れ臭い。
「まだ認められたって感じではないがな。」
ふるふる
首を横に振りながらカズが言う。
「何を言う。私なんて褒められるどころか、最初は怒られてばっかりだったんだから。」
「お、怒られる?」
あの声で、あの口調で?考えただけでゾッとする。泣きそう。
「そうだよ。彫りが甘かったり、内容が間違っていたり、納期を守れなかったり。『怒られるのは俺なんだぞ。』ってよく言われちゃったねぇ。」
何か懐かしい雰囲気で話してるが、世が世ならパワハラだろ、仕事できるとはいえ。何か、実際の企業でもありそうだな。仕事はできるけど周りに厳しくて、それでコンプライアンス的に出世できない人。だからこんな仕事してんのかな、アキラさん。おっと、いくら心の声でも限度があるか。今の無しで。
「そうなのか。」
「そう。だから、自信持って良いよ、イッセー。」
「そう、だな。」
自信ねぇ、持っていいのかね、俺。
その後、翌日まで何となく仕事を済ませ、帰宅した。デカ棚は結構整頓できたぞ。また片付け場所を見つけなきゃだ。晩飯と風呂を済ませ、残り短い時間で復習だけしてしまう。その最中にも、スマホが気になる。ひょっとして早くかかってこないかと、不安になる。九時半を回った辺りで、復習が手につかなくなってきたので、やめてしまう。九時五十分。椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばす。たびたび咳き込み、喉の潤いを保っておく。予め考えた質問も諳んじる。
『橘です。今晩は。』
あの低音ボイスを思い出しながら、こんな短い挨拶を何度も口パクで練習する。とりあえずこんなもんだろう。後はアドリブで。大丈夫、俺ならできる。九時五十五分。ちょっと油断してネットサーフィンする。九時五十七分。さすがにか。ネットサーフィンをやめる。九時五十八分。吸う、吐く、吸う、吐く、を繰り返し、頭をほぼ空っぽにしてリラックスする。九時五十九分。唾を飲み込み、じっとスマホを見る。人差し指をスマホの上に乗せ、電話に出る準備も万端。十時。さぁ、来い!
体感よりも長い、長い時が流れる。エアコンの稼働音がやけに耳に残る。
十時一分。いつでも良い、こっちの準備はできてる、できてるんだ!
十時二分。いつ来る、いつ来る?心臓は未だ激しく血液を循環させる。
十時三分。スマホから指を離して、腕組みする。どうだ、こんなことができるくらい余裕があるぞ?来てみろ!
十時四分。一旦椅子から立ち上がって背伸びをする。最近デスクワークが多いせいか、首周りがこる。姿勢に気を付けないといけない。
十時五分。ちょっと、早くしてほしい、かもなぁ。気を張り続けるのも簡単じゃないんだから。ピークって保つのしんどいから。
…十時二十分。俺はベッドの上で寝転んでいた。
「何なの?ねぇ、何なの?!いや確かに、『十時頃』とは言ってたよ!でもさぁ、十五分はアウトじゃないかなぁ?!それともあれか?三十分以内なら『頃』の範囲に含めるタイプか?!相容れない、相容れないなぁ!いや、良いよ?十時きっかりが厳しいのは良いよ?でもそんならさぁ、予め、そこんとこ言っておいてくれないかなぁ?!『十時半くらいになるかもしれない』ってさぁ!じゃないとさぁ、無駄に待つことになるんだわ、この俺が!俺という人間のきちょ〜な、きちょ〜〜〜な時間を割いて、あげてるんだわ!なぁ、どうすんだよ、どうすんだよこの時間!返してよ、返してよぉ!もっと復習できた、なんなら予習までできたかも、しれない!あぁこれは俺の成績に影響し、ひいては進学先、人生まで揺るがすかもしれない!んなぁ、責任、とれんのかよ、とれんのかよぉ!」
悲痛な心の叫びにのたうち回りながら、枕やマットレスをボンボン叩き荒れる。
十時二十二分。なんでこんなことで荒れんてんだろう、俺。来年十八になるというのに、はぁ。自己嫌悪タイムに入っていた。スマホはもう気にしてない。最悪、このままかかってこない可能性さえある。向こうの電話番号は知らないから、こちらからかけることも、でき、ない…あ、いや、できるか。カズに、聞けば。ガバっと起き上がってスマホを鷲掴みにする。いや待てよ、急に連絡先を教えてくれというのは不自然だ。理由を話さなくてはいけない、そんな大したことでもないのに。それに夜も遅い。もう寝てるかな?メッセージを送るのも躊躇ってしまう。
やめた。スマホを机の上に戻す。何で俺が苦心せにゃならんのだ。かかってこないなら別に良い。後日、メールという手もある。その時はせめて、謝罪の意を冒頭で
ヴーーーヴーーー
「うぉっ?!」
びっくりしたぁ。鳴ってる、スマホが。俺はいつもマナーモード。バイブレーションが起動している。時間は、十時二十四分。画面を見ると、非通知。当然か。
ヴーーーヴーーー
鳴っているのは分かるが、一息ついてから出よう。
ふー
これくらい、許されるだろう、はずだ。
ふっ
息を切って、指を素早くスライドさせて電話に出る。
「はい、橘です。」
ちょっと声を低くしてやった。
「あぁ、アキラだ。」
もっと低い声が返ってくる。重役出勤ですねぇ。こっちはずっと、あなたのために、待ってたん、です、よぉ〜?ちょっと黙っていると、
「すまん、遅れたな。申し訳無い。」
およよ?あっさり謝られた。てっきり、
「それで、聞きたいことって何だ、さっさと言え。」
くらいのスタンスかと思ってたから、肩透かし拍子抜けも良いところ。舐め過ぎてたか。さすがに遅刻したら罪悪感を抱くくらいの常識はあるらしい。
「日本時間の確認を怠った。」
「あぁ、なるほど。」
海外に居るんだっけ。時差もあるか、仕方無いですね。ってなるか。待たせたことに変わりは無いんだ。
「どこにいらっしゃるんです?」
ちょっと気になるから。
「トルコ。」
とるこ?あのトルコ?!遠っ。マジでビジネスマンなんじゃん。
「とにかく、待たせたな。」
「いえ、大丈夫です。」
思わずフォローしてしまった。もっと高圧的かと思ってたから、なんだか調子狂うな。さっきの怒りも薄れていくようだ。
「今から…そうだな、十五分くらいは時間がある。できれば手短に頼む。」
そう言って黙る。こちらの質問待ちみたいだ。脳内リストを引っ張り出す。時間が無いからピンポイントで行こう。じゃあ、まずは、素性が知りたい。
「はい、あの、アキラさんって、和沙さん、」
いや、というよりも、
「辻村の家と、どんな関係何でしょうか。」
「あん?関係?」
「単なる仕事仲間なのか、それとも血縁にあるのか、ということです。」
「まぁ、仕事関係でしか無いな。親戚でも何でもない。」
血縁ではないのか。だったら、魔法の仕事の仲介人という立場なんて、どうやって築いたんだろうか。
「なら、どうして仕事仲間になったんですか。おばあさんの頃から、なんですよね。」
「どうして、ねぇ。あー…」
悩んでるみたい。でも、そこが知りたいのよ。
「ちょっとややこしいな。まともに話そうとすると、色々長くなるぞ?」
「それでも、お願いします。」
ふー
息を吐く音が聞こえる。溜め息じゃねぇだろうな?
「俺の仕事のことから話すか。俺は若い頃から、主にアジアで貿易商…の真似事をして遊び歩いてた。異文化を冷やかすのが好きだった。」
冷やかす、って、言い方ぁ。性格の悪さ滲んでるよ。
「それで四十年程前、インドのグジャラート州に行った。」
「ぐ、ぐじゃらあーと?」
どこそれ?慌てて検索する。
「インドの西の方だ。まぁ、それは別に良い。」
あ、はい。検索をやめて話を聞く。
「そこはダイヤの採掘が盛んでな、一昔前は世界有数の産地だった。今じゃ大分落ち目だけどな。」
はぇー、ためになるぅ。あ、ダイヤ、そこで?
「質の悪いダイヤをなるべく高く売ろうとする売人だらけで、面白かったぞ。あるマーケットでな、あること無いこと噂吹き込んで、競争心を無駄に煽って、それで色んな売人に値下げさせ続けたんだ。結局そいつら全員、大損させたのを覚えてるぜ。」
いたずらっぽく、声に笑みを含ませてそう語る。いや、やってることえげつねぇって。ほぼ詐欺だろ。やっぱこいつ、怖いわぁ。今更冷や汗をかいてくる。
「とにかくそんな感じでマーケットを渡り歩いてたら、日本人の女を見かけた。珍しかったから声を掛けた。」
「日本人の女、ですか。」
「そう、それが和子さんだった。」
ゑ、何?かずこ?新キャラ?…いや、この話の流れ的に、
「和沙さんのおばあさん、です?」
「何だ、知らんかったのか。」
知らねぇよ。孫からは聞きづらかったんだよ。辻村、和子。カズじゃん。カズの名付け親がおばあさんだったり、するのかも。まぁ良いや良いや、とりあえずそこで巡り合ったと、それにしても、
「よく現地で日本人って、分かりましたね。」
「そりゃ、日本語話してたからな。」
「は?」
「それがなぁ、和子さん、日本語と、あと拙い英語でコミュニケーション取ろうとしてたんだわ。」
んん?一体、どゆこと?
「え、でも、無理じゃないですか。」
「俺もそう思った。声掛けた時も、売人に言葉が通じてなかったよ。ほぼほぼ勢いで誤魔化そうとしてたな。」
「…確かにそれは、声掛けたくなりますね。」
「だろぉ?しかも、女一人だぞ。」
呆れる通り越して、感心するわ。何十年も前に、言葉が通じないところに一人で行って、それでダイヤの買い付け?しようとしてたなんて。世界皆友達のパッションタイプ?マジで気が知れん。
「それで、和子さんの話を聞いてみた。なんでも中国の…チベット?広州だったか?とにかくその辺の呪術を受け継いだから、それを日本に持ち帰って実践したい、そのために必要なダイヤを揃えたいってことだった。」
呪術、中国由来だったか。まぁ出所としては納得できるか。
「信じたんですか?」
「あ?何をだ?」
いや、
「魔法、呪術ですよ。その話を聞いた時。」
「信じたわけねぇだろ。ボケてるんかと思ったわ。」
そりゃあ、そうだな。やっぱその反応が普通だったんだ、良かった。
「だが、なぁ、結局は信じる、信じざるを得ない、ことになったんだが。」
「え、そうなんですか。なぜ、急に?」
うーん、と言いづらそうにした後、
「見せられたんだよ、直接。」
「直接?ダイヤを?」
「ちっげーよ。あれだよ、夢だよ。」
「あ、」
アキラさんも、なのね。確かに、俺も試してみるまで聞き流してたところあったしな。あの夢はまだ夢に見る。そのせいで目覚めが悪いときもしばしば。下腹部も暴発しかけそうになるし。
「お前も見たんだろ?」
「え?あ、は、はい。」
「だろうな、和沙が言ってた。エロい夢を盛大に語ってきたってな。」
言うなよ。あ、だから性欲猿みたいって言ったのか?ふざけんなって。
「俺も、まぁ、そんな夢を何回か見させられた。現実と間違うほどリアルで、自分の望み通りだったよ。今でも夢に見る。最悪な気分だ。」
「今でも、ですか。」
どんな夢だったかは歯切れが悪いが、恐らくアキラさんもエッティ夢の餌食になったのだろう。数十年経っても忘れられないとは、なんとも恐ろしい。それでリピーターになったりしたら、いくらかかるんだろう。俺も、あの人のことは忘れられないのだろうか。黒下着一丁で、カズの顔をした、あの女性。回想しているうちに、下腹部へ血液が集まりそうになる。
パンパン
いかんいかん、下腹部を殴って抑える。今じゃない、少なくとも今じゃない。
「それで呪術?魔法?の力をちょ〜っと信じざるを得なくなった俺は、どうも悔しくなってな。しばらく和子さんについていくことにしたんだ。その力が一体何なのか知りたくて、な。」
好きになったんじゃねぇの。夢にでてきたのも和子さんだったりしてな。という言葉は絶対に口に出さない。確実に地雷だと思う。
「それからは色々あった。ダイヤの選定を手伝ったり、ダイヤに文字を彫るための機械を特注したり、とかな。和子さん、細けぇんだ、これがまた。『ダイヤは品質が良くてもいけない。彫りやすいギリギリの柔らかさじゃないと。』とか何とか言って。妙に安っぽいダイヤを探して、いくつものマーケットに行ったんだ。直接鉱山にも行ったかな。とにかく行動力のバケモンだった。魔法のことなんてさっぱり分からんまま、通訳として振り回されたよ。」
そう語る声は心底呆れてる、というよりも愉快さを滲ませている。楽しかったんだろうな。てかアキラさん、何か俺と境遇、似たところがあるな。不思議な出会いをして、夢見せられて、結局手伝いをするという。お互い大変でしたなぁ。
「んで、納得のいくダイヤの仕入先を確保して、機械も現地で特注できたところで、矢のように日本に帰っちまったんだ。許嫁が我慢の限界だった、とかだっけか。」
ゑ、いや、そりゃそうか。和子さんと男女の仲ではいられなかったから、カズとは血縁じゃないんだもんな。そっかぁ、寂しいね。
「残念でしたね。」
「あぁ?何言ってやがる。」
やばっ、口が滑った。失言かも、怒られる?
「俺が旦那だったらとっくにぶち切れてるわ。許嫁がいるのに単身中国やインドに行くなんてありえねぇから。期限付きとはいえ、よく許したもんだ。」
それは、そうかも。いや、ヤバいな。自分勝手の極みじゃん。俺も切れるわ、てか婚約解消だわそんなん。
「俺はアジアにずっといたから、仕入のダイヤを日本に発送したり、機械とか備品を発送したりなんかの手続きを流れでやってやることになった。日本にいる和子さんと電話や手紙でやり取りしながらな。それがずっと続いてて、和沙に交代した今も続いてる、つまりそういうことだ。大体分かったか?」
「なる、ほど。はい、分かりました。」
なるほどねぇ。和子さんとアキラさんのインドでの出会いから始まって、それがカズに受け継がれたと。大まか〜な関係性が分かってきた。ただ、本当に時間がかかった。十二、三分経っちゃってるって。
「おう、結構喋ったな。もうあんまり時間ねえや。」
「すみません、そしたら最後に良いですか?」
「ああ。」
その流れを聞いた上で、今一番知りたいこと。
「和子さんって、今どこにいらっしゃるんです?それと、和沙さんのご両親は、どちらに?」
カズには聞けなかったこと。和子さんは?その許嫁のおじいさんは?その二人から生まれた、カズの親は、今どこにいる?なんでカズは、一人じゃなきゃいけないんだ?
「聞いてねぇのか。」
さっきまで柔らかだったトーンが元に戻った。
「家族のことは何か聞きづらくて、和沙さんからは聞いていません。アキラさんから教えていただければ、と。」
「そうか、俺も、知りてぇよ。」
「…?」
「だから、俺も知りてぇって。知らねえんだよ、和子さんと、その娘の琴音、が今どこに居るかなんてよ。」
予想外の返事に戸惑いつつも、反応する。
「…行方不明、ですか?二人とも。」
「正確には三人、だな。琴音の旦那も行方知れずだ。」
まじか。亡くなった、というわけでもなく、行方不明、か。ことね、カズのお母さんか。
「いつ、いつ頃いなくなったんでしょうか。」
「俺も曖昧なところあんだがな、まず和子さんがいなくなった。今から五年ぐらい前か。和子さんが遊びで和沙に魔法やら何やらを教えてた頃、俺にも何も言わずにふと消えちまった。琴音にも聞いたが、行先は知らないと言う。警察に捜索願を出したが、未だ見つかってない。和子さんの旦那さんは、和沙が生まれた頃に逝っちまった。」
興味本位でヘビーな家庭事情に片足を突っ込んだことを激しく後悔した。だが、もう退けない。目眩がしそうな脳を叩き起こす。
「…それで、ご両親は?」
「和子さんがいなくなった翌年くらいに、二人合わせて消えちまった。書き置きも何も残さず、な。だから消えた理由はさっぱり分からん。和沙はその時…十二歳?か。結構大きいな。それで一人っ子で、近くに頼れる親戚もいなかったから、これで天涯孤独になっちまったわけだ。もちろん、捜索願は出してはいる。いるけれど、ってところだ。」
言葉が、出ん。天井を仰ぐ。白い。どうしたもんか、えぇ〜?大変やん、すっごい大変やん、なぁ、カズ。小六で天涯孤独?人生これから、親を頼る時も増える、そんな時に、一人?まじ、まじでかぁ?まじだなぁ。そんで今は、一人で家業回して、学校もきちんと行って(サボりは度外視)、してるんかぁ。偉過ぎて何も言えん。そりゃ、先生方も何も言えんくなるわな。フォロー仕切れん、色々。俺って、恵まれてるなぁ、かなぁ?
「和子さんと琴音の仲がよろしくないのは知ってたが、まさかこうなるとはなぁ。」
返事はできない。
「それで、ちょくちょく和沙の様子を、俺も気にしてるってことだ。それこそ琴音たちがいなくなったときは、日本に帰って和沙の代わりに家のことを手伝ったりした。今は週に二、三回電話するくらいだが。」
アキラさんが人情に厚い人で良かった。アキラさんがいなかったら、今のカズを見る感じ、色々無理だったろう。それに、心細かったはずだ。
「強いやつだよ、和沙は。遊びでやってた魔法を引き継いだんだから。それに学校も行けてる。本当に、良くやってる。」
声が優しくなってる。親代わりなところ、あるのかもな。
「それは分かります。和沙さんは、凄い。」
「でも、変な虫がつかんかは心配になる。」
すぐに声が尖り、矛先が俺?に向いた。え、そ、そんな、変だなんて、いや俺は変ですけども、あのですね、えと、
「その、和沙さんのことは大事にします。」
言葉選びミスったちくしょう。訂正したい。けど、取り繕う言葉が出てこないぃ!額に汗が滲む。
ふっ
んえ?吐息?いや、失笑?が電話越しに聞こえた気がした。
「そうだな、和沙を、頼むぞ。」
視界がパッと明るくなる感じがした。張り詰めていた緊張感、強張っていた身体、その両方から解放されたような感覚。
「はぃ。」
返事も気が抜けちゃった。
「おっと、時間がまずいな。じゃあ、一旦はこれで。他に何かあったらメールしてくれ。」
ドタバタと動く音が聴こえる。タイムリミットか。大丈夫だな、とりあえず聞きたいことは聞けた。
「はい、ありがとうございました。」
電話を切ろうとした。
「おぅ、あ、待て。」
「はい?」
まだ何かあんの?時間無いんでしょ?
「くれぐれも避妊はしろ。性欲に負けんなよ。それじゃ。」
ツーツーツー
スマホを机の上に放り投げる。言い逃げずるいわ。避妊なんて、するに決まってんだろ、馬鹿にすんのも大概にしやがれ。
スマホを充電器に挿してから、ベッドに寝転がる。濃密な十五分だった。謎だったことが色々明らかになった。一つ、アキラさんとおばあさん、和子さんとカズの関係、一つ、魔法のルーツ。インドとは恐れ入った。あ、魔法自体は中国だったか、それでダイヤとか機械はインドで、ってことだったな。そして、一つ、カズの家族。もう、誰もいない。カズの顔が思い出される。艶のある黒髪で、整った前髪、くりくりとした丸い目に、青みがかった瞳。スラッとした鼻、口、丸い輪郭。全体的な印象は、猫みたい。身体は…これ以上は不要だからやめよう。あの顔の裏には、波乱万丈な人生があった。あの言葉の裏には、一人で生き抜いてきた重みがあったのだ。俺がカズの立場だったら、どうなってた?一人で、生きていけたのか?顔を手で覆う。考えたくもない。今着ているもの、寝転がっているもの、今居る空間全てが、親に用意されたもの。一人で生きていけるなんて自信が、湧くはずもない。俺が、普通だよな?カズが、異常なだけだよな?寝返りをうち、枕に顔を埋める。
俺は、俺でしかないよ。俺は、俺にできることしかできないよ。なぁ、カズ。俺は、俺にできることで、お前に関わっていくよ。それで良いだろう?
うだうだ考えながら眠りにつこうとしたが、寝付けない。目が冴え冴えする。
うーん
一度諦めて、充電器を外してスマホを手に取る。SNSを開く。
『辻村』
この文字が、ちょっと遠く感じる。メッセージ欄を開く。
『明日も行く。』
『分かったよ。』
という簡素な連絡ばかりだ。メッセージ欄を閉じる。ネットサーフィンをする。
ちょっと、思い立って、ある消耗品を調べてみる。買いはしないが、一応、念の為だ。通販サイトに色々種類がある。薄さ、内容量、ローション入り、サイズの違いなんてのもある。俺のサイズどんくらいだっけか。値段もピンキリだ。高い方が安全なのかな、破れなくて。使い手次第か?相手方にも相談して、互いに納得のいくものを検討しないといけないのか?それにしても、最近のはパッケージがスタイリッシュだなぁ。でも、中身の見た目は昔から変わらんくね?
外は蒸し暑さも残る中、虫の音とともに内省に耽る夜更けであった。
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