九龍ノワール ~有栖梦游幽幻迷宮~

名無し

肉屋のように/食品リサイクルの時代

 ま……なんだ。ヒトってのは物を食べなければ生きて行かれない。腔腸動物がそうであるように、動物の脳は腸から分化した。南北に走る東頭村道トンタウツェンローに歯医者が多いのもそのためで、歯が悪くては物を食べられないということをネズミやリスのような動物だって知っている。自らの刃は常に研いでおくものだ。

 肉体は有機的機能構造物なのだ。古代エジプトじゃ役に立たないと思われていた脳味噌だってその範疇だ。同様に生ゴミを齧り生き残ろうとサヴァイヴしている蟲どもやドブネズミ、使用済みコンドームを除けてホコリを払いパグパグ洗浄し衣を付けて揚げ直す。75℃で一分間加熱すれば、ほとんどの食中毒菌は死滅する。という信仰によって僕らは自身を形作るエサを食らう。

 五大栄養素たるタンパク質、脂質、ビタミン、ミネラル、炭水化物。何だったらそこら中に蠢いているゴキブリや蛆虫だって栄養の塊だ。僕の生まれたベトナムじゃ、「波を起こして遭難者を陸へ連れ戻してくれる」という信仰のあるクジラ以外は何でも食べた……僕はそんな【魚の王】だって自らの生きる糧にしたが。

 僕たちが暮らすのは、そんなクジラの案内も必要な棲家だ。光明街はその名前に反して一年中光が差さず、違法建築構造物は肥大化の一途で、いつも暗く湿っており、人口は過密を超えている。英国・中国・香港どこの管轄にも属さない権力の空白地帯であることから、ここ九龍城砦は【三不管サンブーグヮン】の愛称で呼ばれている。

 その更に地下奥深くで……太陽の恩恵を受けない深海魚のように、熱水噴出孔ブラックスモーカーに群がって生きる人間どもの集団がある。彼らは黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングルから産出される麻薬を仕入れ、精製し、上界に売り捌くことで生計を立てている。

 九龍城砦の地下世界には、ベトナム戦争の陰で発生していた1967年アヘン戦争の残党……密輸キャラバンをしていた国民党軍崩れのヤクザもの、僕らのように戦禍のベトナムから脱出したボート・ピープルの難民たち、表に出られない犯罪者……脛に傷を持った者たちなどがひしめき合い、蠢いている。

 闇は秩序と倫理の輪郭を曖昧にする。ここは文字通りの無法地帯だ。

 だがどんな生物だろうが腹は減るのだ。

あばらが浮いて、痩せてきたでしょ? 薬のおかげだわ」

そう言ってポーズを取って見せる若い娼婦デイジーの肢体は、痩せているというより病気の類だ。過食嘔吐による胃酸の逆流は歯のエナメル質を溶かしてしまう……。メタンフェタミン、口腔乾燥、歯ぎしり、メス・マウス。歯を欠いているほうがディープ・スロートのようなオーラル・セックスは気持ちいいかもしれない(しかし道化のアリスは母親に去勢され性器を欠いていた)。

 デイジー。ひなぎく。ワーカホリックであり、カフェインをはじめアデロールやコカインなど、広義の覚醒剤の中毒者。暗闇に目立つ漂白剤でブリーチした真っ白な髪をしている……いつも口うるさく蟻走感があると言って聞かない。いつまでも幼気いたいけな処女のフリをしてるが、この狭い人間関係ではそれも限界が来るだろう。

 オニユリ。中国系。長身の体躯の割に肝っ玉は小さい。黒人のCIA工作員と共にベトナムからオサラバしたと思っていたが、どういうわけだかここに居る。口唇欲求は強めらしくマリファナのジョイントが欠かせない。麻でないときは男根を咥えることで対価を得ているとも言える。顔から胸元にかけて雀斑そばかすが散っている。マンダリンのように橙色の髪をしてるから、すぐに分かる。

 同じように肝の小さい竜胆リンドウと毒舌の八方美人である紫陽花アジサイは、姉妹のように一緒に居る。仲が良いのか悪いのやら。ウマだけは合うのだろう。ベトナムにいた頃は僕の姉である日向彩芽アヤメをいたく慕っていたようだった……それはレズビアン的感情ではないらしい。ノフジとアザミはベトナムの娼館【朝日楼ライジング・サン】でレズ・プレイをすることで客を喜ばせていたが、竜胆と紫陽花は姉のアヤメと共に軽蔑の眼差しで見ているフシもあった……。

 お姉ちゃんは、ベトナムで戦闘中行方不明ミッシング・イン・アクションになってしまったけど。

「全くまるで同窓会かなにかだな」

年を経るごとに人間関係がどんどん収斂していくのを実感する。ましてこのようなクローズド・サークルでは。揚げ物に古い油の匂いが染み付いている。近所のどこかでペットの犬や赤ん坊がき喚いている。

「これは何の肉?」ラーメンのチャーシューを箸でつまんでデイジーが問う。

「たぶん知らないほうがいいぜ」全くの善意から僕が返答する。

「タンパク質はいくらあってもいいわ」ちゃんと鶏の出汁が出てるわねと言った。

「今日は過食嘔吐の日か? 覚醒剤が切れたのか」

「生きるためには食べるのよ」

食べるために(食べるゆえに)生きているとも言う。「誰か麻雀やらない? 面子メンツが足らないのよ。花札でもいいわ」賭け事も横行している。「雀荘にでも行ったらどうだ?」「あそこの借金を踏み倒してるのよ。身体で払うって言って誤魔化してるわ」まだ処女性を売り物にすることで男をコケットリーし誘惑してるのか?

「ねえ、あんた銃持ってない?」

デイジーが尋ねた。僕はしかめっ面で答えた。

「銃だって? そんなもん何に使うってんだ?」

「あんた、たしか魯格帕拉貝倫手槍ルガー・パラベラム・ピストルを持ってたじゃない」

「あんなもの、飯の種に困って当の昔に売り払ったよ」

「じゃあ銃オタクのとこに行きましょう。きっと貸し出しもあるでしょう」

銃オタクというのは、この界隈で何でも屋をしている帽子屋のことだ。【歓迎光臨ようこそ】【上门开锁かぎあけ】【杂务工べんりや】【维修修复任何东西なんでもなおします】などの看板を掲げている。鍵開けからトイレの詰まり、電気工事にベビーシッターまで何でもこなす。勘定の計算に算盤そろばん電卓カシオミニを欠かさない。僕とデイジーは食事もそこそこに配管の通る薄暗い回廊を通り抜けていった。

「今更なんだが。お前、ベトナムで死んだんじゃなかったか?」

「あんたの妄想の中ではそうなんじゃない? あたしはこうして生きてるでしょう」

有栖は現実と妄想の区別に自信がなかったというか、通常、昼と夜を同じものだと考えていた。男と女だとか善と悪、大人と子供、有色人種と無色人種、北と南や東と西などの二項対立は便宜のために作られたものであり、それらはもともと同一のものであるという認識すらあった。それは姉の腰に刺青されていたフランス語の警句【夜には全ての猫が灰色である】の精神だった。闇は秩序と倫理の輪郭を曖昧にする。

 ――結局、銃は何に使うんだ?

 ――護身用よ。職業柄、男の怨みを買うこともあるの。

 ――借金のカタに売られるでもあるまい。

 ――それはあたしの飲んだくれの父親の話ね。あたしを娼館に売った金で、その日の酒を買ったそうよ。

 ――ま、その日はいい酒が買えたに違いない。

「おい帽子屋、居ないのか?」

社会通念上、プライバシーを尊重してどんどんどんとドアを叩く。扉を開けたらオナニーしてたなんてのはゴメンだ。不用心にも鍵は開いているので勝手に入る。カラカラと油の切れた換気扇やら扇風機が回っている……。

「何を一人でシコシコやってんだ? その鍵盤キーボードの付いたブラウン管は何だ?」

帽子屋は一心に何やらキーボードを叩きながら、挨拶もそこそこに答えた。

「テレビじゃない、これはマイコンだよ……いわゆるマイクロ・コンピュータ。半導体や集積回路、マイクロ・プロセッサを使った個人用の計算機」

「そんなもん何に使うんだ? 勘定の計算なんか電卓、カシオミニ……なんだったら算盤そろばんで充分だろ」

「ま、なんだ。技術に疎い君たちにでも分かるように説明すると、要は電子上の網絡ネットワークだよ。百年くらい前……西部劇の時代だってモールス信号で電信のやり取りができただろ? 世界中の各都市間を接続したヴィクトリア時代のネットワーク……つまり情報通信網さ。マイコンを使えば、タイム・シェアリング・システムによって個人間レベルで電子メッセージのリアルタイムなやり取りが可能になる」

「文字だけのお喋りか。それをすると、何が良いんだ?」

「これで仕事でも請け負おうと思ってね。九龍城内はまるで迷宮だろ? 直接会いに来るよりも、要所要所に電話の他にマイコンを設置することで、僕が寝てる間でも電信メールを受け取れるようにしておきたくてね。そのためのインフラもある程度整備した」

「お前も仕事中毒か?」

「電話で睡眠を煩わされたくないんだよ。あくまで生理的な希求さ」

で、何の用事? と帽子屋が尋ねた。

「銃は余ってないか?」

「あるよ。でもオモチャみたいなもんだよ。ほとんどは.22BB、6mmフロバートの蓮根銃とか……、より実用的なのだと.22LRとか.25口径、大きくても.32って感じ」

「6mmBB弾? デイジー・レッドライダーみたいなエアガンか?」

「エアガンもあるけど。一応は火薬を使った実銃だぜ。ちなみにBBといっても散弾じゃないよ」

「あたしはエアガンでもいいわよ。結局は護身用だから」

「じゃあこのスナブノーズとデイジーを貸すよ。これは何挺か持ってるから」

そう言って短銃身八連装の中折れ式とレバーアクション式のBBガンを手渡した。

「こういうオモチャが九龍内のあちこちに出回ってるのか?」

「ま、主たる用途は害虫・害獣駆除ペスティサイドだろうけど。みんな命の保証や保険は欲しいからね」

「不安を売る商売か」

「安心や安全と言ってほしいけどね」

「支払いはシコシコとペロペロで良いかしら?」

舌を見せながら手で軽くシゴくジェスチャーをしてデイジーが言った。

「とりあえず現金でいいよ」

「ちぇっ。あっじゃあ麻雀でもする? いまメンツが足りなくてさぁ」

「そんなんで誤魔化されないけど。でもちょうど暇だからいいよ」

そうして三人で廊下に出ると、ばったりと出くわす顔があった。面識のない強面の男で、同じように帽子屋の何でも屋を訪ねに来たのだろうか? デイジーが目を見開いていた。

「やば」

「何?」

「取り立て屋」

そう言ってデイジーは逃げた。男もそれを追いかけた。薄暗い回廊に忙しない足音が響いて、ややあって曲がり角の先から何発か銃声がして、僕たちは顔を見合わせた。

 僕はスナブノーズを片手に帽子屋はモンキーレンチを持っていた。懐中電灯の光。ゆっくりと廊下の角を曲がると、うずくまる背中に男の屍体。振り返ると血色の悪い顔のその口には死んだ男の血やら肉やら。使用済み注射器や動物の腸あるいはコンドームのようなバルーンが転がっている。

 ま……なんだ。ヒトってのは物を食べなければ生きて行かれない。食べるために食べるゆえに生きているとも言う。腔腸動物がそうであるように、動物の脳は腸から分化した。動物の基礎は脳よりも腸にあり、食事と消費行動とが生物の本懐にある。

 ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』よろしく、男の屍体も起き上がる。ブードゥーの呪いか道士の符呪か。両手を前に突き出し、虚ろな瞳でうめき声を上げている。壊疽を起こした四肢に、腐った肌や露出した骨。蟲やネズミに齧られた痕。

 だがどんな生物だろうが腹は減るのだ。食事をするということは胃腸が蠕動し、消化吸収のサイクルが回っているということだ。食べているということは、すなわち生きているということだ! ……それがどんなに屍体のような外見をしていようとも。

 つまるところ、こいつは……これは、いわゆる殭屍キョンシーだ!

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