死ぬ約束の話
エテンジオール
第1話
「大人になって、30歳になって、お互い……」
高校の帰り道、特に意味の無い雑談で長針を無駄に二回しくらいしたところで、話の流れで彼女はそんな言葉を口にした。
創作物でよく見るタイプの、“お互いに独身だったら結婚しよう”と言うやつだろう。お互いに憎からず思っていて、けれどすぐにどうこうする程の動機は無いから粉かけとこうというシチュエーションだ。純愛ものならくっついてからもっと早く……と後悔して、脳破壊物ならこんなことならあの時に……となる、どちらにせよ後悔にしか繋がらない約束。実際にはお互いに別で幸せになるなんてこともあるのだろうが、そんなことは知らない。
「お互いどうしようもなかったら、一緒に死のうよ。それか、君がダメになったら私が介錯してあげるから、私がダメになったら看取ってよ」
よく聞くタイプの、実質的な告白が来るかと準備していた僕に対して、彼女が口にしたのは予想と正反対の暗い言葉。未来に対する希望、とでも呼べるものを極限まで剥ぎ取って、諦観と希死念慮に浸かってしまったような後ろ向きな告白。
きっと一般的には、こんな告白はされて嬉しいものじゃないと理解しながらも、安堵のような悦びを得てしまう僕は、どこか間違えているのだろう。きっとそうだからこそ彼女はこの告白の相手に僕を選んだ。もちろんただ仲がいいのも理由ではあるだろうが、そもそも仲良くなれたのも僕がそういう人間だからだ。
「そりゃあとても光栄な提案だけど、もう少し明るい約束じゃダメだったの?一緒に旅行に行こうとか」
会ってから1年と少し、それほど長いとは言えずとも、それなりに密度の濃い関わりをしてきたから、彼女の言葉がその後ろ向きな表現とは対称的に、生きる理由を見つけるためのものだと言うことが僕にはわかる。現代とは合わない価値観の家庭に生まれ、息苦しさから慢性的に破滅を望んでいる彼女にとって、この言葉はすなわち“この約束のために30まで生きる”という宣言だ。
そこまでわかった上での代替案の提案に、彼女は“わかっているくせに”と、拗ねるように呟いた。
「……30までじゃ少し遠いから、5年ごとに刻もうか。20と25でも一回ずつ、まだ頑張れるか確認しよう」
その先があるのなら、その後もずっと5年ずつ。そう約束をすると、彼女はニヤリと笑った。こんな、断られて然るべきな提案にまんまと乗ってしまった愚かな僕を見て、餌につられて穴に落ちる鳩を見るような愉快そうな表情になった。
早まったかな、と少しだけ後悔したが、仮に冷静だったとしても僕はきっと同じ返事をするなと考えて諦める。こんな提案に乗ってしまうくらいには、僕は彼女のことが好きで、けれど別の提案をできないくらいには、距離を保ちたかった。
少年漫画の主人公なら、何も考えずに彼女を連れ去ったり、駆け落ちすることも出来たのだろう。そうすることを考えたことがないといえば嘘になるが、何度考えてもそこから僕らが幸せになれるとは思えなかった。
「それじゃあ、約束だね。破ってもいいけど、破られたらかなしいな」
人生を悲観しきっている彼女と、不満が無い訳ではないが概ね満足している僕。彼女は“お互い”なんて言っているが、これは実質最後の願い、彼女がダメになった時に看取ることがメインだ。どんな終わり方を考えているのかはわからないが、彼女が自決する時に、そばで見ているという約束。
自然と、第一発見者となることが決まった僕は、その時になったら周囲にどんな説明をするべきか考える。少しミスれば、いやミスらずとも人生設計その他もろもろをぐちゃぐちゃにしかねない約束。なるほど、彼女が破っていいと言うはずである。
そんな約束をしてから数年経って、二十歳になった僕の元に届いたのは、飲みの誘い。差出人は高校を卒業してからめっきり連絡を取らなくなっていた彼女で、“約束”のことを暗喩された文章を読んで、僕は自分がかつて交わした約束を思い出した。
結局高校生の間、ずっと一緒にいたけどどうにもならなかった彼女。家の都合で進学ができないからと言って、そのまま進路のことすら教えてもらえなかった彼女。
「高校卒業したら直ぐに嫁げって言われててね。君のことを考えるとたまらなく惨めな気持ちになったから、会いたくなかったんだ」
“家系が〜”とか言うなら、私なんか使わないで勝手にポコポコ産めば良かったのにね。そう言いながら、彼女は諦めたように自分の腹を撫でる。そこに何かが“いる”のか、あるいは何かが“いた”のか。その真偽は僕には分からないが、彼女に残っているであろう倫理観と理性、ついでに周囲の環境を推測するに、“いた”と考えるのが妥当だろう。我が友人ながらおおよそ倫理観からは程遠い人間ではあったが、それでも彼女には他人の命あるいは人生に対して思いやれる程度の善性があった。
少なくとも僕の記憶にある彼女はそうで、同時にそうであれば時期的、時間軸的に許容しがたい倫理的な矛盾が生まれることになるのだが、そこからは一度目を逸らす。理屈的に言えば、算数の話をすれば問題ない可能性もあることならば、この可能性を見逃すのも友としての役割なのだろう。それが人として成すべきことから離れていたとしても、僕にとって大切なのはあったこともない誰かの命や安全ではなく、彼女の心だった。
こんなもののせいで勉強の機会すら奪われるなんて嫌になる。そう言いながら彼女はレモンサワーを飲み干して、音を立てずにジョッキを置く。その後すぐ、“でも高校出れただけマシか。法改正に感謝しなきゃ”と続けたのは、それがなければ16の時点、僕らがあの約束をするよりも前に、そうなることが決まっていたからだろう。
親のお金で大学まで通わせてもらっている僕には、とても自分事として考えられない家庭環境。気持ちが分かるだなんて口が裂けても言えないし、理解しようとすることがそのまま彼女への冒涜だ。
僕にできることは、ただ彼女がそれを話したくなった時に聞いて、相槌を打つことくらい。愚痴を聞くことが苦にならず、むしろ吐き出してくれることを嬉しく思っているあたり、僕は本当に彼女のことが好きだったのだろう。元々うっすら自覚していた好意を、もうどうしようもなくなったタイミングで再認識した。
早く自覚していたからと言ってなにか変わっていたかと考えると、間違いなく何も変わっていなかっただろうし、まだ若かった僕では何かを変えようとしてしまったかもしれない。今も大して年齢が違うわけではないが、彼女の現状とこれまでを考えて、自分にはどうしようもないのだと諦められる。
「……私、こんなんだから。君も早くいい人見つけた方がいいよ」
自分の幸せを見つけるべきだよ。そう言って彼女は笑う。僕が今頃になってようやく自覚した感情は、彼女にとっては既知のものであったらしい。その事が恥ずかしくなって、すぐにそうでもなければあんな約束はしないかと我に返る。
ついでに、彼女の言葉も最もだった。心の片隅に誰かさんが居たせいで、これまで一度もそういう感情と向き合ったことがなかったのだ。“自分の幸せ”というものを考えるのであれば、向き合うのであれば、そういう相手を見つけるべきだ。
もともと、彼女と一緒に幸せになることは出来ないとわかっていた。彼女を繋ぎ止めたとて、僕らに持っているのは不幸な未来だけだと。だから、これは今更なのだ。そう考えて、少し特殊な形とはいえ、失恋直後とも言える心に、罰を与えるように塩を塗り込む。締め付けられるような胸がなぜだか少し心地よい。
ジクジクと痛む心を誤魔化すためにアルコールをどんどん入れて、肥大化した理性を叩き潰す。普段生活する上では有意義なことこの上ない
そう考えて、“悪い飲み方の例”として教科書に載せられそうなことをして、シラフだと話せなかったことや聞けなかったことなんかを話す。こうやってアルコールに頼ってようやくそれらができるような人間だから、僕はこんなのなのだ。
当たり前のように飲んでいるけれど、体のこととかは大丈夫なのかと聞いて、返ってきたのは「お前に任せてたらどうなるかわからないって言われて、とっくに引き離されている」という答え。どうやら件の旦那さまとは折り合いが悪いらしく、あちらからの印象も最悪だとか。
「私だって、多少歩み寄りはしたんだけどね。いい歳して親の決めた通りに結婚なんか決めるいい子ちゃんには、ちょっと刺激が強すぎたみたい」
ちょっと食べ物に異物混ぜただけなのに、すぐ暴行がとか警察がとか言い出すんだからやになっちゃう。そんなことを言う彼女に対して、異物混入とは穏やかじゃないなと話を聞いてみたところ、“同一化”を図るために自分の体液を混ぜたのだとか。
確かそれで暴行罪が立件されたよなといらない知識を思い出して、この女スカした顔して何してやがると少し引く。
「そんな顔されると少し傷つくんだけど。私だって好きじゃない相手のを体の中にぶちまけられたんだから、向こうだって似たようなことされるのが筋でしょ」
そう言われると一理あるように思えるのは、それが理屈として妥当だからなのか、そもそも僕の感覚が狂っているのか。前者だと思いたい気持ちはあったが、彼女の表情を見るに後者な気がする。
「……そうやって、君みたいに受け入れてくれたら良かったのに」
僕だって、受け入れているわけではない。ただ一理あるなと思って、そういう考え方を理解しただけだ。
「昔バレンタインにあげた義理チョコ、あれの中に私の血を入れてたって白状しても?」
思い出したのは、ベリー系のドライフルーツがふんだんに使われたチョコレートのタルト。義理だと言いながらやけに手が込んでいて、ついでに目の前で食べ切るように強要された記憶。味の感想やお礼を言った時よりも、食べきった瞬間の方が満足そうにしていた彼女の表情。
なるほどあれはそういうことだったのかと今更になって理解して、普通なら抱いて然るべきな嫌悪感や忌避感を全く持たない自分に驚く。いや、ただ嫌じゃないだけではなくて、僅かにとはいえ嬉しくすら思ったのだ。
「本当に、君だったら良かったのにな」
きっと、そうだったら凸凹がピッタリ合っていたのだろう。幸せな人生かはさておき、心地よい人生になっていたのだろう。
けれどそんな事を考えたところで、彼女は僕の傍にはいない。それが現実で、それだけが全てだった。
お互いに、まだその時じゃないと認識を交わしてから五年間。彼女から引き摺らないように言われたこともあってか、僕には恋人ができていた。かつての片思いの相手から言われないと、自主的に恋人を作ることすらしないのは、少し人間としての欠陥を感じなくもないが、まあ結果が全てだ。
言われたから誰でも、なんて理由ではなく、しっかり自分なりに考えて、幸せになれそうな相手を選んだ。選んだ、なんて言うと少し相手に対して失礼な気もするが、そこはお互い様ということでいいだろう。妥協ではなく、選択として恋人になった。彼女と添い遂げるよりも、間違いなく幸せになれる相手だ。まだ籍なんかは先と考えているが、そこに関しても悩んではいない。
「……やっぱり、その気になればすぐに恋人くらい作れるんだね。なんというか、悪いことした気分だよ」
前回から5年経って、再び唐突に届いたメッセージ。そこからの流れに一つ違いがあるとすれば、誰にも断らずによかった一回目とは異なり、今回は恋人に一言伝える必要があったことくらいだろうか。
幸か不幸か、僕の恋人と彼女には面識があって、恋人は僕らの仲がいいことも知っていた。そうなれば当然、会う相手を伝えないのは恋人に対する不義理である。もちろん恋人がいながらも彼女に会おうとしていることが間違っているのは百も承知だが、僕にとっての彼女は異性である以前に友人なのだ。ただの友人に向ける感情じゃないと理解していても、友人なのだ。
恋人が“あなたを幸せにするのは私。あの子じゃない。裏切りは許さない”と言いながらも許してくれたことで、僕は彼女との再会を得た。久しぶりに会った彼女は少し疲れたような表情をしていて、少し無理をしているように見えた。その事が気になって聞いてみても、
「辛くないと言ったら嘘になるけど、君の幸せのためなら我慢できるよ」
と、返ってくるだけ。どんなことがあったのか、どれだけ辛いことがあったのか聞いてみても、決まって結論は一つだった。恋人のことを考えれば理由を聞いたところでどうしようもない僕が、手を替え品を替え聞いてみても、彼女の答えは大丈夫の一つ。
“大丈夫じゃない”という答えを聞いたら困ったことになる僕が、積極的にそれを聞こうとするのは、おそらく客観的にはバカバカしいことだ。それはわかるけど、それでも彼女のことを知りたかった。
結局流されて、僕は何も聞けないまま終わった。僕の関与しないところで、彼女が頑張るための動機になるだけで、僕の役割は終わった。
それはそれで、きっと彼女にとっては大切な役割なのだ。ただ僕が納得できないだけで、もう少しなにかしたかっただけで、求められていることは果たしている。彼女が僕に対して、命を奪うように強要しなかったことがそれを証明している。
だから、気にする必要はないのだ。久しぶりの会話が終わった以上、今の僕がするべきなのは彼女のことを考えることではなく、会うことを許してくれながらも少し不服そうにしていた恋人のケアをすること。
逆の立場なら凄まじい嫉妬に駆られて、とても冷静じゃいられないと理解していながらもそれを強行した僕には、恋人の不満を解消させる義務がある。不満を解消し、ご機嫌をとり、五年後に備える必要があるのだ。
そんなふうに考えて、何を要求されるかと内心怖がっていた僕が求められたのは、ペアリングを用意すること。それくらいならこんなタイミングじゃなくてもいいのにと思ったところ、“ちゃんと、私のモノって主張しとかないと。……毎日首に歯型付けられるのとどっちがいい?”との回答。僕と彼女の間に間違いが起きることはないだろうと理解していても、不快なものは不快だったのだとか。
それほど不快でありながら許してくれたのは、彼女が僕にとって大切な友人であると理解してくれたから。“あなたに会うなって言うなら、私も同じように友達みんなと縁を切らなきゃ筋が通らない。でもそんなことは出来ない”……僕にだって彼女以外に友人がいないわけではないのだが、彼女かそれ以外との友好かで選ぶとしたら迷わず前者を選ぶ程度には大切な友人だ。それほど的はずれな解釈ではないのだろう。
“だから、ゆるす”そう言ってくれた恋人のことを、大切にしなくてはいけないと改めて実感した。もちろん元々大切に思っていたし、しているつもりだが、より一層に。だって、彼女は確かに一番大切な友人だが、恋人は一緒に幸せになりたいと思えた相手なのだから。
そうやって僕の意識が変わったこともあってか、恋人が恋人じゃなくなるのには、それほど時間がかからなかった。口頭での約束、精神的な繋がりのみによって成り立っていた関係に、法的な根拠が着くようになった。
何もなくても、きっと最終的には同じ結果になっていたのだと思う。だから彼女と会ったおかげで、なんて言うつもりはないが、こうなるのがこのタイミングだったのは、間違いなくこれのおかげだった。
そこからの時期は、間違いなく僕の人生の中で一番輝いていた。それまでが真っ暗だったとか、そういう比較の話ではなく、僕の人生で最高の瞬間だった。
守りたいものができたおかげでモチベーションがかさ増しされて、一人ではやる気になれなかったことまでやる気になれる。“命懸けで”とか、“死にものぐるいで”なんて言葉、所詮比喩表現だと思っていたのが間違いだったと、頭ではなく感情で理解した。
なるほど、こんな気持ちであれば、確かに過労死するまで働けるだろう。生命保険のために事故死できるだろう。自分の命よりも優先して守りたいものというのは、こうして生まれるものなのか。
一年経っても、二年経っても、その気持ちに変わりはなかった。熱病のような一過性のものではなく、僕の核になっていた。夜泣きで起こされても、わがままや癇癪を受けても、変わることのない愛情。
「君は、ちゃんと幸せになれたんだね。よかった」
久しぶりに会った彼女にそう言われて、一秒の迷いもなく肯定できるくらいには、僕は幸せだった。疲れきったように見える彼女に対して、助けようかと尋ねることも出来ないくらいには。
間違っていることは、わかっている。一度約束した以上、彼女が本当にそれを望んだのなら、僕は応えるべきなのだ。けれど、安易な気持ちで応えるには、僕には守るべきものが増えすぎた。自分の命、人生だけであればともかく、子供の親を犯罪者にはできない。
けれどそれと同じくらい、彼女にそれを望まれたら、応えたいのも事実なのだ。ただの友人である僕らを、ここまで繋いできた約束。五年に一度しか会わずとも、一番の友だと言い切れる相手との約束。それを破るのはとても辛いことで、それが伝わったからだろうか、なにか言いたそうな彼女がそれを僕に伝えることはなかった。
その事に、僕は安堵した。心の底から良かったと思って、同時に僕らが会うのはこれが最後かもしれないとも思った。きっと彼女は僕のことを見限って、僕に約束を求めなくなるだろう。その事が少し苦しくて、安心した。
僕には、自分が守るべきものがあるのだ。守れなくなった約束はもう忘れるべきで、大切だった友情にも区切りをつけるべきだ。子供のために、友と別れるべきだ。彼女はそれを責めるような人ではないのだから。
大切な友人と子供のことを天秤にかけて、僕は子供を選ぶ。そのことを彼女に伝えるのは、機会が来れば五年後だ。その時よりも先に彼女が旅立って、来ない可能性も十分あるが。
そう心に決めると、気持ちが暗くなるのとともに肩の荷がおりたような気分になる。どうやれ僕は、いつか彼女のことを看取る前提で、気負っていたらしい。逃げることを決めて始めて、それが自分にとって重圧だったのだと気が付いた。気が付いて、これからは家族の為だけに生きようと誓った。
けれど、僕がそうやって決めた時には、どうやら何もかもが手遅れだったらしい。もう夕方なのに何故か電気の付いていない家に帰って、妻と子供が帰ってくるのを待つ。確か今日は、僕が彼女と会う間に、子供が行きたがっていたヒーローショーへ連れていくと言っていた。
きっと、混んでいるのだろう。人気のイベントだし、人も多い。交通機関だって混み合うし、携帯を見たら遅延の通知も来ていた。人身事故で遅延、込み合ったホームから転落して、現場は騒然との事だ。なるほど、そんな大変なことになっているのであれば、帰りが遅いのも連絡が来ないのも仕方がない。子供を宥めるのに忙しくて、こちらまで気が回らないのだろう。
そう考えて、思い込んで、嫌な可能性からは目を逸らした。それなのに、何時間たっても連絡は来なかった。公衆電話からの連絡もなく、未読のままのメッセージと発信履歴だけが増えていく。
現実逃避に限界が来て、警察署に向かう。ネットニュースにもなるような出来事だったからか、発生からしばらく経っているのに、忙しそうに人が動いていた。
そして、僕が着いたことで、その忙しさには一区切りがつく。不明だった犠牲者の身元がわかって、探していた身内がやってきたからだ。
誓いを伝えることすら出来ず、僕は全てを失った。
なにも、残らなかった。妻と子供だったものは清掃され、区別もできない。酷い状態だからと会うことすらできず、僕の前に残ったのは原型を保たない骨だけ。
現実を受け入れられなくて、自律的に動くことすらできなくなった僕が生きながらえたのは、実家の両親が面倒を見てくれたからだった。
働くことも出来ず、二人の元に向かおうとする体。何もする気になれずに、どんどん減っていく蓄え。このままではまずいと頭では理解していても、だからどうしたと無気力な心が諦める。
そんな、どうしようもない状態から脱することが出来たのは、“約束”を思い出したおかげだった。
消えてしまいたい、終わってしまいたいと願いながらも実際に行動に移すことはできないままだった僕に、すぐに死なずにしばらく生き続ける理由をくれたのは、彼女との約束だった。次似合う時まで、5年後まで何とかすれば、きっと彼女は一緒に死んでくれる。妻子から取り残されて、何も出来なくなってしまった僕でも、彼女ならきっと受け入れてくれるだろう。
それに、一度諦めた約束を守ることだってできる。そう考えると、不思議と無気力だった体に力が湧いてきた。約束の日のために、それまで生きる気力が湧いた。幸いなことに、子供の将来のために貯めていた貯蓄があれば、何もせず五年を耐えることも十分に可能だった。
日付が変わる度に、カウントダウンをする。細かな日程なんて決まっていないから、大体のもの。1000を超えるカウントは大きかったが、一日ごとに減っていくおかげで何とか気力が保てた。約束の“その日”のために、“その日”まで生きているために、残りの人生を消化した。
物価の影響で蓄えが足りなくなり、バイトを始めた。半分廃人になっていた僕がここまで立て直したと、両親は喜んでいた。全ては約束の日まで生きるためだった。
起きて、日付を数える。やることがあるおかげか、近頃は減るのが早い。起きたと思ったら直ぐに夜になって、眠って起きれば数が減る。目標なく始めたバイトだっていつしか頼られることが増えて、店長からは社員にならないかと言われるようになった。
普通の人に戻る準備は、少しづつできていた。 このまま少し頑張れば、普通の生活が送れるようになるだろう。穏やかな老後を望めるようになるだろう。
そうわかっているのに、その事に欠片ほども魅力を感じないのだ。
朝、起きる度に頑張る気になれるのだ。残った数字の分だけ耐えれば、その先には救いが待っている。僕の先に待っているものが一般的に救いと呼ばれるかなんて、関係ない。
きっと、彼女もこんな気持ちで日々を過ごしていたのだろう。本当に来るかも分からない救いを心の支えにして、耐えてきたのだろう。“約束”から15年以上経って、初めて僕はその事を理解した。
そして同時に、彼女に対して深い畏敬の念を覚えた。だって、こんな思いで日々を過ごしながら、彼女は“僕を犯罪者にしない”ためにその機会を何度も見送ってきたのだから。形こそ違うが、一緒に幸せを目指すものではないが、それは限りなく“愛”に近いものだったのだろう。
そう考えると、それをただの逃げ道にしてしまった自分がひどく情けなく、罪深いものに思えてくる。思えてくるが、今更頑張る気にもなれない。
数字が減る。途中調整が入って、また減る。どんどん減って、ゼロになる。
久しぶりに会った彼女は、五年前同様疲れきった顔をしていた。もしかしたらそれ以上だったかもしれないが、細かな違いに気付けるほどの余裕は、今の僕にはない。
だから、きっと僕の表情を見た事で、彼女の顔が明るくなったのは気のせいだ。一瞬の見間違い、思い違い。そうであるはずで、そうであるべきだ。だってそうじゃないと、彼女は僕の不幸を喜んだということになる。
そんなのは、彼女らしくない。僕が彼女を見て嬉しくなり、安堵したように、彼女も同じような気持ちになってもおかしくはないが、“らしく”はない。
だから気のせいだろうと思って、そのまま近況報告をする。この5年間で何があったのか。僕の話をして、彼女の話を聞く。久しぶりに聞けた彼女の状況は、僕と比べてトントンか上回るほど酷いものだった。
境遇を話しながら、聞きながら、彼女の表情は今度こそ明らかに明るくなっていく。嬉しそうに、愉快そうに口角が上がる。自分のしっぽを追いかける犬を見るような、微笑ましいものを見るような、馬鹿なものを愛でるような、上から目線の笑顔。
「もう、頑張らなくてもいいんだね。私も、君も。楽になっていいんだ」
そういえば、彼女はこんなふうに笑うのだった。周囲からの評判が悪い、けれども個人的には嫌いじゃない笑顔。いつぶりかもわからない笑顔を浮かべながら、彼女は僕のことを見つめる。
「よかった。これでやっと、私のモノにできる」
死ぬ約束の話 エテンジオール @jun61500002
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