暗殺者たち 暗殺ミッション

一章 私怨

一 轢断

　二〇二〇年、五月十五日、金曜、夕刻。

「ここ、いいかしら？混んでるから、ここしかあいてないの」

　四ッ谷駅近くの居酒屋で、大山の席の前に、薄茶のサマーカーディガンに紺のテーパードパンツの女が立った。髪はショートカットで化粧はしていない。

「ああ、いいよ」

　女が大山の前に座った。すぐさま定食が女の前に置かれた。女は食べながら言う。

「仕事はどうですか？」

「うまくいった。言われたとおり話したら契約が成立した。皆と会食してここに来た。これからも俺に助言してくれ。もちろん占いの裏の仕事は内密にしておく」

　大山は声を潜めてそう話した。女は何か魂胆がありそうな大山を見逃さなかった。

「それなら、明日、お祝いしましょう」

　女は定食を食べて大山に店を出るよう促し、一足先に店を出た。週末の退社時、店内は混んでいる。話し声も聞えない。大山は酎ハイを飲み干して店を出た。

　この日、菱芝建設（株）に勤務する大山は、新橋で取引先と仕事の打ち合わせを無事にすませ、皆で祝杯をあげたばかりだった。

　大山はしばらく女と通りを歩き、女を路地に連れこんで抱きしめた。

「ここではダメ。はい、これを飲んで。気分がよくなるわ｣

　女は大山に何か飲ませて首に手を触れた。

「あっ・・・」

　大山が小さく叫ぶと女は大山を抱きしめて耳元で何か囁き、少し間を置いて大山が頷いた。女から顔を離して笑顔で女の頬に口づけし、抱きしめた腕を解いて女の腕を取り、表通りへ歩いた。

「そしたら、明日・・・」

　大山は女と別れた。

　午後七時すぎ。　

「ギャアッ！」

　中央線四ッ谷駅ホームにブレーキ音が響き、轢断された肉片と血まみれの衣類が電車の車体と線路に飛び散った。帰宅ラッシュのホームに悲鳴と怒号が溢れた。

　ホームから人が転落して轢かれたと連絡を受け、駅員がブルーシートとスコップ、掃除道具を持ってホームの人混みをかき分けて走った。

　現場に到着するとホームから人々を遠ざけ、ホームに支柱を立てて現場をブルーシートで隔離した。その間、他の駅員が電車から乗客を降ろしてホームの人々を誘導した。

　所持品から身元は判明した。線路に落下したのは大山仁、二十五歳。中央線下りで帰宅途中らしかった。轢断された身体から酒が匂った。

『本日、午後七時すぎ。中央線四ッ谷駅で人身事故があり、現在中央線が運転を見合わせています・・・』

　四ッ谷荒木町のパブ・ミムラで、午後九時のニュースが四ッ谷駅の事故を報道した。

「いやねえ、またよ。何もホームから落ちるほど飲まなきゃいいのにねえ。

　しんちゃん、気をつけてよ。いつもへべれけまで飲むんだから。今日は私の家に泊まんなさい。私が介抱してあげるわ」

　パブ・ミムラの支配人三村珠樹が、酔った馴染み客の奥野慎司を労っている。奥野は独身で住まいは店の近くだ。婚約者の珠樹の顔を見るため、三日に一度は店に来る。今日も仕事の打ち合わせの飲み会の後に店を訪れ、四ッ谷駅で事故があったと聞き、奥野は店のテレビを他チャンネルのニュースに切り換えていた。

『電車に轢かれたのは、会社員大山仁さん二十五歳です。大山さんは・・・』

　ニュースが電車に轢かれた男の名を告げた。カウンターにもたれて眠りそうになった奥野は、跳び起きてウィスキーグラスに肘をぶつけてひっくり返した。顔が青ざめている。

「なんてこった！」

「どうしたの？しんちゃんの知り合い？」

　珠樹は奥野の急変に驚いた。

「先日、ここに連れてきた大山だ！夕方、新橋で取引先と仕事の打ち合わせがあって、その後、皆で祝杯をあげた。六時頃だ。大山は、帰る、と言うから新橋で別れた。俺はそれから同僚と飲んで、ここに来た・・・」

　奥野は別れ際の大山仁を思いだした。帰ると言った大山はいつもよりうれしそうな顔をしてた。大山は一時間、何をしてた？自殺するような顔をしてたか？そんなことはない。大山仁は自殺したんじゃない・・・。

「ねえ、しんちゃん。今日は私の所に泊まりなさいよ。

　佐枝ちゃん。ちょっとお願いね」

　珠樹は奥野の様子が気になった。一人にしておけない・・・。店に隣接した自宅はカウンター裏から入れるが女の一人住まいだ。店に客がいる今は、カウンター裏から自宅に出入りできない・・・。珠樹は奥野の隣席から、カウンターのバーテンダー木村佐枝に目配せして店を出た。

　珠樹は店の左隣りにある自宅に入った。一階は広いＬＤＫ、バストイレがある。二階はリビングと珠樹の部屋と客用の二部屋だ。二階にもバストイレがある。

　酔った奥野を二階へ運ぶのは大変だ・・・。珠樹は一階リビングのソファーベッドをベッドメイクした。これでしんちゃんが来てもすぐに眠れる。お風呂に入りたいと言ったら入れてあげよう。一人で入れないなら、いっしょに入って身体を洗ってあげよう・・・。珠樹はバス用品をスツールに置いて自宅を出た。

「珠ちゃんはどこだ？」

　カウンターの奥野は指先でグラスを持ちあげ、氷をカラカラ鳴らしてウィスキーをお代わりした。大山仁の名を聞くまでは美味いと思ったウィスキーが、今は味も素っ気もなくなり、消毒用アルコールのような匂いがする。

「もうすぐ戻りますよ」

　佐枝はカウンターから奥野にほほえみ、気を利かせてカウンターにウィスキーグラス二つと水のグラス二つを置いた。ウィスキーグラスにダブルのウィスキーを注いで、水のグラスには氷を入れてダブルの水を注いだ。

「ヤツの好みを知ってるな・・・」

　俺がここに大山を連れてきた時、大山はウイスキーのストレートと水を頼んで酒飲みの飲み方だと話した・・・。

　それにしても妙だ。大山は酒豪だ。酒に強い。酔ってホームから落ちるなんであり得ない・・・。酒に何か混ぜられて飲まされたのか？もしそうなら、大山を危険な目に合わせた者がいたことになる・・・・。

　夕方、大山と別れた時、いつになく大山は笑顔だった。あの後、誰かに会ったのだろうか？もしかしたら、大山が会っていたのは女か？大山があんな笑顔を見せるなんてインカレ以来だ・・・。

　奥野の脳裡にインカレの記憶が蘇り、勝利の酒に酔いしれる大山の笑顔が、夕刻に見せた別れ際の大山の笑顔と重なった。何があったか知らないが、うれしい事があったのはまちがいない・・・。

　考えながら飲む奥野の手は、いつのまにか二つめのウィスキーグラスに伸びていた。

　佐枝は、空いたウィスキーグラスに、そっとウィスキーを注いだ。