voice.  #01. bind.

 ――たったひとりの声が、今も私を支配する。


「声、ねぇ……? ふぅん? ああそう、え? それだけ?」

 ベッドのヘッドレストに背中を預けた私に、彼はあからさまな不満顔を向けて枕に頬杖をついた。

 そういうときの仕草も結構好き。

 自分の方がよっぽど背が高い癖にたまにする上目遣いも、気を抜いたときに出る生まれ故郷のスラングも、何でも可愛いと思えてしまうくらい好きなんだけど、それでも。

「やっぱりディディの声が一番好きだな」

「……あっそ」

 ディートリヒの機嫌はさらに急降下して頬杖を崩して煙草に火をつけた。「ねえ、寝煙草やめてよ」「わーってるって」苛立たしげにかきあげた少しくすんだ金髪の隙間から、ちらりと覗く額の白さも好きだった。

「オレの声好きなの? 今こうやって話してても?」

 私をひたと見つめては脳髄から指先までじんわり痺れさせる蜜色の目の力強さも好きだった。ディートリヒは私からそっと目を反らすと点いていないテレビを眺めて煙を吐き出した。私は苦笑いで愛した額にキスを贈る。

 ――さあ、拗ねていないで声を聴かせて。

「今こうやって話しててもドキドキするよ」

「じゃあデータで声だけ録っとく?」

「もう、拗ねないでよ」

「べつに。どうせ? オレは声だけの男ですからね」

 そういうのを拗ねているというのでは。ディートリヒは無防備に全部を見せてくれる。好きなものは好き、嫌なものは嫌。私だけの特別ではなくみんなに平等なのが少し残念ではあるけれど、全部惜しみなく晒け出してくれる。

 男の人の割りには細く見える骨ばった左手を握ると、ディートリヒは困ったような顔をして吸殻を灰皿に押し付けた。

「冗談だよ、そんな顔すんなって」

 特に嫌な顔をした覚えもなかったけど、少し寂しさが顔に出てしまっていたのかもしれない。私にはディディしかいない、いないけど、ディディには――。

 吸い差しを咥えてみたら指が震えた。シケモクにキス。少し深めに。

 どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。

 絶対に美味しくないのに、どこか甘ったるく感じた。

「――イケナイことしてるみたい」

 ディートリヒが肩を揺らして笑う。「おこちゃまだなぁ、アイリスは。ほら身体に悪いからやめときなさい」

「……全部好きだよ。好きなんだけどね」

「うん?」

 ディートリヒの全てを好きだけど、それでも私はディートリヒではないので彼の何もかもを知る術はない。それを分かってて「ぜんぶ」というのはあまりにも傲慢に過ぎるんじゃないだろうか。そこまで贅沢にもなれない。全部じゃなくていい。ひとかけらだったとしてもいい。その代わり、ディディが私にくれるディディは「ぜんぶ」私には愛おしい。

「で、私がもらったものの中では何が一番かって言ったら声なの」

「アイリスって」軽く瞠目して言う。「斬新だよなぁ。飽きない。ちょっと重いけど」  

 まあそれも可愛い。とどこまでも私に甘い彼は言う。

「ディディだってそうだよ」

「で、結局オレは声だけの男ってわけね」

「もーう! 何なの、何も通じてないじゃん……まあ、いいけど」

「よくないって」

「ディディも私のどこが好きかなんて言わないんだから、私の方が良心的でしょ」

 溜息をついてシーツにもぐりこんだ私にディートリヒはしばらく黙ったあと、繋いだ左手の第二関節を軽く食んで呟いた。

「指」

「えっ?」

「指かなぁ」

「なにそれ」ふはっ、と私は吹き出す。

「さんざん文句たれておいて自分だって大差ない」

「アイリスの指はなんかいいんだよ」

「ふぅん?」食まれた指をそっと振りほどく。「誰と比べてるの?」

「え⁉ いやいやいや比べてないって!」

「本命の彼女?」本気で否定するもんだから少しからかったら憮然として「いねぇっつの」低い声で言う。

「言ってみただけー」

 笑いながらもう一度左手を繋いだ。心臓に近い方の手を。絡めるように一本一本指を組み合わせる。

「やっぱいいわ、うん」

 ディートリヒは至極満足気に頷いて、絡めた手を強く引く。バランスを崩した私の耳元で囁いた。

「キスしよっか」

「キス好きじゃない」

 私は少し身体を引いてディートリヒを押し返した。何度も繰り返した問答。分かっているくせに彼は思惑孕みのしたり顔で訊く。

「嫌いだったっけ?」

「声、聴けなくなるでしょ」

「そんな好き? オレの声」

「世界で一番好き」

 嘘じゃないよ。

「――やっぱりデータ化でもしとくべきかね」

「いいの? いつでも聴けたらすてきだね」

「なんて入れてほしい?」

「何でもいいの⁉」

 勢い込んで聞き返すと、ディートリヒはちょっと面食らったように目を瞬いた後、渋い顔で「変なこと言わせんなよ」人差し指をピンと立てた。

「私の指への執着を語ってよ」

 愛してるとか好きだとか月並みなことをねだればよかった。データじゃなくて生の声がいいって言えばよかった。ああ、名前をたくさん呼んでもらうのもよかったかな。そうすればもっと私は冷静だったかもしれない。今さら後悔してる。なんでこんなこと言わせたんだろうって。

 白い正方形の箱。最低限の私物が彼の遺物。次世代型戦闘機クレイドルに搭乗して戦う私たちは死すれば骨も残らず虚空の狭間に消える。

 紺青色のジャケットに二階級特進の肩章がついた士官服。その上に置かれた小さなデバイス。

《オレとしては左手の薬指が彫刻でも勝てないくらい理想的だと思うんですが》

 知らないよ、薬指の理想なんて。ディディってほんと意味わかんない。

《その左手の薬指をオレに捧げてみませんか》

 泣きたいのか笑いたいのか罵倒したいのか、ぐちゃぐちゃで分からない。

 プロポーズって勘違いしてもいいの? 誰より愛されてたって自惚れてもいいの? こんな中途半端で許されると思ってんの? バカ、バカバカバカ! しかも声だけなんてひどすぎる。動画じゃなくて音声オンリーってなに? 声が一番好きって言ったのそんなに気に入らなかった?

 私は――わたしは、あたしは、――――

「おはよ、アイリス」

 あたしはただ耳元であたしを呼ぶ、かすれた声が好きだっただけ。あたしだけに、他の誰も知らない、あたしだけにくれた寝起きの声を独り占めしたかっただけ。

 好きだっただけ。大好きだっただけ。

 制服の内ポケットに二つのマリッジリングを見つけて、私は背中を強く打ち付けるように壁にもたれかかった。そのまま床に座り込んで、サイズの小さい方を自分の指にはめた。

《その左手の薬指をオレに捧げてみませんか》

 捧げる。捧げるよ。捧げるから、もう何も我儘言わないから、だから。

 ぴったりとはまるプラチナのリング。

 最期の抱擁にしないでよ。

《アイリスの指はなんかいいんだよ》

 ああ、もう還ってこない人の声だけが今もこんなに私を支配しているなんて。


 泣きたくても泣けないよ

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