2 下働きの伯爵令嬢

 あの日見えた色は、感情の色だった。あの日以来、私は周りの人間に色が見えるようになってしまった。


 ……これがお母様の言っていた特別な力なのだろうか。それとも、無能だからこそ見えてしまうものなのだろうか。


 私の目には、いつでも青い色や紫色ばかりが見えていた。皆が私の事を疎ましく、不快に思っていることが目に見えてわかるようになった。


 彼らにはついぞ、他の色は見えなかった。

 今は制御できるようになったものの、私に見えるのは嫌な色ばかりだ。


 あの日を境に、私は使用人として働き続けている。


 フラウが怒り狂ったのは、「結局、長女が跡を継ぐのだ」とメイドたちが噂していたのを耳にしたからだ、と後から知った。


 そして、メイドとして働くことが日常となった今年。十七歳の春、私は義母に呼び出された。

 義母は満面の笑みを浮かべ、まるで私を思いやるかのような声で告げた。


「クローディア、あなたの結婚が決まったわよ。良かったわね、家に貢献できるのだから」


 彼らは、私を人外公爵と呼ばれるビアライド公爵に売りつけることにしたようだった。

 私の意思など、誰も気にしないまま話は進み、三ケ月。

 いよいよ明日、ビアライド公爵が私の事を迎えに来ることになっていた。


 もちろん、一度もその公爵に会ったことはない。

 どうやら伯爵家にとって、この結婚は大きな利に繋がるらしい。身分差を考えれば、通常ではありえない婚姻だということぐらい、私にもわかった。


 その為、屋敷中がぴりぴりとして慌ただしい雰囲気だ。


 私は今日も使用人として、ビアライド公爵を迎える為に部屋の掃除をしている。


「……っ!」


 机を磨いていた私の顔に、突然冷たい衝撃が走った。

 驚いて顔を上げると、そこには義妹のフラウが、ワイングラスを片手に立っていた。


 私にわざとだという事を見せつけるように、彼女の白く華奢な手が持つワイングラスはさかさまになっている。


 そこでやっと私は理解した。私の顔に向かって、義妹であるフラウがワインをかけたのだ。


 ……こんな日に、まだ嫌がらせを。


 私の顔をつたった赤い液体が、机を滴り落ち、じゅうたんに染み広がっていく。


 ワインが目に染みて痛いが、ここで動いたりすれば不敬だと罵られるのが目に見えていた。


 じっと動かない私に、義妹であるフラウは本当に困ったかのように首を傾げて見せた。


「あら、お義姉さま。大変、ワインがこぼれてしまったわ」


「……すぐに、掃除いたします」


 明日使う部屋をワインで汚すとか、一体どういうつもりなの……という言葉が喉元まで出てきたが、ぐっと飲み込む。


 そのままフラウはゆっくりとグラスを戻した。

 広がる赤を見つめわざとらしいため息をつき、困ったようにグラスに頬を寄せる。


「ああもう、あまりにも部屋が汚かったものだから、驚いてこぼしてしまったじゃない」


 長いまつ毛がぱちぱちと揺れ眉を下げるその姿は、まるで無邪気な少女そのものだ。

 いや、ある意味無邪気ではあるかもしれない。


「この部屋は完璧に掃除してと言ったはずよ。相変わらず無能なのね」


「申し訳ありません……。フラウ様のドレスが無事で良かったです」


 フラウのドレスが無事かどうかを見ていた私は、慌てて頭を下げた。


 身体にそったラインに細やかなレースをふんだんにつけたドレスは、先日届いたばかりのものだ。

 甘く繊細な雰囲気のドレスは、天使のような見た目のフラウを更に可憐に見せていた。


 このドレスが汚れていたら、もっとひどい目にあったのは間違いなかっただろう。


 まだ良かった。

 フラウはほっとした私を見て、眉を下げた。


「私のドレスはお義姉さまの服とは雲泥の価値だから、かかっていたらもっと大変だったわ。ああでも、困ったわね」


 私の服にはワインがべっとりと染みついているし、じゅうたんにすっかりワインはしみ込んでしまっている。


 ああ、今すぐ拭き取りたい。

 どんどん染みが広がるのを絶望ととともに見つめる。


「明日は公爵さまが来るというのに、お義姉さまはこんな不出来な掃除しかできていないんですもの。お父様をがっかりさせてしまうわ」


 フラウはため息をついて、冷たい視線で部屋を見回した。


 どこがどう駄目なのか教えて欲しい……昨日今日と、ほぼ寝ずに掃除をしていたのに。


 そもそも明日の昼にはこの部屋を使うのに。


 今からこのじゅうたんを洗って間に合わなかったらどうするつもりなんだろう。


 うちは伯爵家で、この部屋しか応接として使える場所はない。明日の為に我が家で用意できる一番いいものを、この部屋に揃えたのに。


 この絨毯だって、そうだ。


 ……いや、フラウは何も考えていないに違いない。


 私を貶める事しか考えていないのだから。私が困れば、その分ただ楽しいんだろう。


 ぐらり、と頭が揺れる。

 完璧に掃除をしなければ食事は与えない、と言われたのは昨日の朝だ。


 寝ようとしても空腹でとても寝られそうになく、結局一晩中掃除をしてしまった。

 寝不足と空腹で、頭がぐらぐらとして力が入らなくなってきている。


 でも、ここで倒れたらもっと大惨事だ。


 必死に揺れた視線を戻すと、フラウの周りに澱んだような不快な薄黒い色が見えた。


 ふいに見えてしまったけれど、相変わらず嫌な色だ。


 ぎゅっと目を閉じ、深呼吸をする。

 しかし、再び目を開けても、フラウの周りには不快な色が染み付いている。


 駄目だ。


 普段は制御できている能力だけど、体調が悪いために制御できない。

 見える色がどんな感情を示しているかはわからない。


 ただ、私が苦しいとき、彼らの色は赤黒く揺れた。今も同じ色が見える。きっと、愉悦だろう。


 今は、見たくないのに。

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