「お兄さん、ちょっとええか?」

Remi

ちょっとええか?

 俺、安在あんざいいつきは普通のサラリーマンだ。

 平日は仕事に追われ、休日は申し訳の自由を享受する、26で彼女のかの字もない男だ。

 今日も今日とて仕事が終わったので、誰もいない家への帰りを急ぐ。

 明日が休みの金曜となればその足も軽い。


 そんな俺だが、ここ1週間ぐらい…今週の頭、月曜日ぐらいからなんか調子が悪い。

 身体が重くて、頭がぼーっとする。

 …風邪だろうか?


 そう思って体温計で熱を測ったが…見事にド平熱。

 これでは会社は休めない。

 そう思って出勤した日もあった。


 結局、今週はミスばかりで上司に呆れられた1週間だった。

 思い返せばため息が出る。

 家に帰ってさっさと寝よう。


 そう考えながら、曲がり角を曲がる。



 すると、誰かとぶつかった。


 不幸なことに俺は疲れからか判断能力が皆無だった。

 いつもなら避けれたはずなのだが、こんなところまで不調が出てる。


 いや、今はそれどころじゃない。


 俺は焦りながらも顔を上げて、相手を確認する。


「お兄さん…ちょっとええか?」


 ぶつかった相手は黒いスーツに黒い眼鏡をかけた男。

 どう見ても裏社会の人間の疑いを拭えない見た目。

 相手の話す言葉が慣れない関西弁なので、男の恐ろしさを倍増させている。


 俺は慌てて少し下がり、腰を90度に曲げて「すみませんでした!」と全身全霊の謝罪をする。

 日本社会で鍛えられた謝罪スキル。

 これで突破できないものはない!


 ぶっちゃけると、この男が怖すぎるので早く解放されたいというのが本音だ。


「いやいや、お兄さん。謝罪はええねん。それより、ちょっと時間あるか?」


 謝罪スキル、完全敗北。


 もう俺に拒否権はない。

 仕方なく俺は「はい…大丈夫です…」と言う。


「そら良かった。んじゃ、ちょっと着いてきてぇな」


 そう言って男は歩き出す。


 逃げたい。とても逃げたい。

 今すぐ180度の反対方向を向いて走って逃げたい。

 だが、この男の足の速さがわからない。


 それに俺は足が速いわけではない。全身が重い今はなおさら遅いだろう。

 だったら諦めて着いて行こう。その方がきっと、早く解放してくれるはずだ。

 そう思って男の後ろを着いていく。


「ここら辺でええかなぁ」


 男がそう言って立ち止まったのは人気のない路地裏。

 駅からは近いが、走って逃げるには少し遠い距離だ。


 覚悟を決めろ、安在 樹。

 彼女がいない俺は失うものも、絶対に必要な金額もない。


「えっと…どのくらいお渡しすればいいですか?」


 俺はそう言いながら鞄から財布を取り出す。

 こういう状況はお金を取られる。

 古文書にも書かれている。


 逆に言うと、お金さえ払えば返してもらえる。

 ならば躊躇いなく払ってさっさと開放してもらおう。


 しかし、俺の方を向いた男の口から出た言葉は予想外の物だった。


「お兄さん…何で財布なんか出してはんの?」

「え…お金を取るためにここに連れてきたのではないんですか?」


 俺がそう返すと、男は笑い出した。

 笑いながら返事が飛んでくる。


「ちゃうちゃう!ただ人目が少ない方がええからここに連れてきたんや」


 …これはあれか?俺は今から殴られるのか?


 なるほど。お金はお金でも必要なのは慰謝料ではなく、医者料だったか。

 なんて冗談を考えて心落ち着かせようとしていると、男が続いて言葉を投げてくる。


「お兄さん、最近悩みとかないか?妙な事とか」

「は…はい?」

「何でもええから言ってみ」


 この男の考えがわからない。

 だけど、逆らったら何をされるかわからない。

 俺は自分の状態を素直に言う。


「ここ数日身体が重うて、頭がぼーっとするなぁ……それ、いつからや?」

「えっと…月曜ぐらいからです」

「なるほどなぁ…。お兄さん、最近妙なとこ行ってないか?」

「妙なとこ?」

「せやなぁ…人が寄り付かんとことか」


 男の言葉には心当たりがあった。

 俺は先週の土曜日、大学時代の友人たちと肝試しに山奥の廃墓地に行っていた。

 …そんなことを聞いてどうするんだろか。

 そうは思うが素直に答える。


「あぁ…やっぱりなぁ…そりゃあかんわお兄さん。

 …んまぁええか、とりあえず目ぇ閉じてくれるか?」

「は…はい?」


 やっぱり殴られるのか!?

 この男の考えがわからず、恐怖が一層高まる。

 だが男は「お兄さん、ええから早う」と言って急かしてくる。


 俺は覚悟を決めて目を閉じて、歯を食いしばる。




 しかし、一向に殴られない。


 何が起きているんだ?

 不審に思い始めたとき、「もう目ぇ空けてええで」との声が聞こえた。


 目を開けてみる。


 そこには目を閉じる前と何も変わっていない光景が広がっていた。

 この男はなぜ俺に目を閉じさせたんだ?

 そう不思議に思っていると言葉を投げかけてきた。


「身体、どないや?」


 その言葉でようやく異変に気付いた。



 さっきまで重かった身体が軽い。頭もはっきりする。


「さっきまでと…全然違います」

「そら良かった!」


 そう言った男の声は今までのやり取りで一番明るいものだった。

 自分の中の疑問が抑えれない俺は「…何をしたんですか?」と男に聞いてみる。


「お兄さん…世の中にはな、知らん方がええことがたくぎょーさんあるねん」

「は…はい…」

「これに懲りたら、もうおかしけったいなとこ行きなや」


 その男の声はさっきまでとは一変して、今までのやり取りで一番恐ろしい声色だった。

 当然、俺はそれ以上質問する気にはなれなかった。


「ほら、わかったならもう行きなはれ」


 そう言いながら男は俺の肩を掴んで、180度体を回転させる。

 そして来た道、駅の方へ向けて背中を押される。


 よくわからないけど、体の不調を消してもらったのに名前すら聞いてない。

 俺はそう思って「あの…お名前は?」と言いながら振り返る。





 しかし、振り返った時にはそこに男の姿はなかった。

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