秋に鳴らす鍵盤 ~べリサリウス戦記~ アド・デキムムの戦い
四谷軒
01 ニカの乱
鍵盤をたたくと、パイプに、水圧によって押し出された空気が通り、音が鳴る。
たたいた鍵盤の箇所によりパイプが選ばれ、そのパイプの長短によって音の高低が選ばれ、その音の連なりによって、
「…………」
しばしその音に聞き入っていたべリサリウスは、おもむろに立ち上がった。
戦車競技場の方から、とてつもない人数の叫び声が聞こえた。
「
と。
*
時は、西暦五二三年。
場所は、東ローマ帝国首都、コンスタンティノポリス。
のちに大帝と呼ばれる皇帝、ユスティニアヌス一世の
その年、いわゆる「パンとサーカス」という市民への娯楽提供である、戦車競技場の戦車競走は、青と緑の厩舎が一、二を争っていて、その争いは市民を巻き込み、戦車競走の枠を超えるまで過熱、ついには殺人事件を起こすまでになる。
コンスタンティノポリス市総督は、青厩舎の犯人を捕縛した。
当然ながら青厩舎、応援団は猛抗議し、市中で蛮行を繰り返す。
「……何ということを」
蛮行を抑えるため、やむなくユスティニアヌスは総督を更迭し、エルサレムに追放した。
総督の行動は正しかった。
それは誰よりもユスティニアヌス自身が知っていた。
知っていたからこそ、いつかはこのような市民どもを押さえつけてくれると内心決めていた。
そんな中、青と緑、それぞれを応援する者たち同士が、
犯人たちは捕まったものの、刑場に押し寄せた市民たちにより、犯人たちの一部が脱走に成功する。
彼らは再捕縛されたものの、今度は三日後に行われた戦車競走において、市民たちが脱走者の解放を要求した。
「
と、叫びながら。
これが、べリサリウスが
*
「ありえん」
さすがのユスティニアヌスも、その脱走者解放の要求は受け入れられなかった。
それを知った市民たちは、戦車競技場を飛び出し、暴動を起こした。
市の総督の官邸を破壊し、皇宮に火をつける。
おかげで、聖ソフィア教会も焼け落ちてしまう。
おまけに財務長官や司法長官の罷免まで要求してきたため、ユスティニアヌスは頭を抱えた。
「やむをえん」
ユスティニアヌスは要求を呑んだ。
さらに、先々代の皇帝・アナスタシウス一世がしたように、福音書を手にすべての市民を許す、責任は全て皇帝にあると宣言した。
ところが。
「豚」
「嘘つき」
市民たちはなじった。
それだけでなく、先述のアナスタシウス一世の甥のヒュパティウスを連れて来て、皇帝に擁した。
これはかつてローマ皇帝が、市民の承認を得て帝位に就いていたことによる。
「べリサリウス将軍、兵を出せ」
ただ暴動するだけなら、まだわかる。
が、皇帝を立てて来るなら、話は別だ。
速やかに鎮圧しないと、ユスティニアヌスの帝位にかかわる。
下手をすると、命すら危うい。
ユスティニアヌスは、ペルシア戦線から戻ったばかりのベリサリウスに、ヒュパティウス確保を命じた。
*
「失敗しただと?」
べリサリウスとしては、ヒュパティウスの身柄確保を優先し、市民の犠牲は最小限でという方針で、兵を用いた。
だが、後先考えない市民たちの奔流は、正規兵であっても近づけない勢いだった。
これではヒュパティウスを確保する以前の問題だ。
べリサリウスは撤退した。
「……そうか」
ユスティニアヌスはあきらめた。
叔父・先帝ユスティヌスと共に、貧農の出とされる彼は、
「お待ちください」
だがここでユスティニアヌスを止める者がいた。
その名はテオドラ。
ユスティニアヌスの皇后であり、彼の二十歳年下の、踊り子出身の美女。
そのテオドラのと結婚は、かつて、身分のちがいの結婚を禁じる法により、妨げられていた。
そこをユスティニアヌスがユスティヌス帝を動かし、法を変えた。
結果、テオドラは皇后となった。
そんな彼女は、皇后となった以上は、今こそその責務を行使すべきと判じた。
「陛下、陛下は帝衣こそが最高の死に装束であるいう古語を知っていますか」
テオドラは
ユスティニアヌスが命を助かることを望むなら、何の困難も無い。財貨を持っているし、眼前には海、海には船もある。
しかし。
「お考え下さい。そこまでして生き延びたところで、果たして死ぬよりましだったといえるものでしょうか?」
これはプロコピオスという、当時の軍官僚が書き伝えた「戦史」の記述による。
この言葉に奮起したユスティニアヌスは、あらためてベリサリウスに暴動鎮圧を命じた。
武力による鎮圧を。
「安んじてお任せあれ」
腹を決めたユスティニアヌスによる勅命を、ベリサリウスは十二分にかなえた。
ベリサリウスは、再び戦車競技場に向かい、ヒュパティウスのいる貴賓席ではなく、観客席に突入、なみいる市民たちに攻撃を開始した。
かくして、三万人ともいえる人数の死者を出し、ニカの乱は鎮圧された。
同時に「パンとサーカス」を否定することになったユスティニアヌスは、民主政治の名残りを断ち、専制政治へと傾いていく。
そして、こういう時の常套手段として、彼は軍事遠征を企図する。
「ベリサリウスよ、
世にいうヴァンダル戦争が、ここに始まる。
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