第二章 六話 『この世界の愛し方』
「大丈夫だよアビー。君の声は俺に届いてる」
それは――空から落ちてきた。
「……だれ?」
かすかな意識の中、アビーはうっすらしか映らない視界に確かに彼を見つけた。
奇妙な服装であった。
のっぺりとした黒い仮面。
ローブの裾は擦り切れて痛んでいる。
細く白い指。
アビーの知り合いにこんな信用ならない男はいない。そもそもアビーとロリアにはもう知り合いはおろか、友人や両親だっていないのだ。
だからアビーは、喜びより疑問が先に浮ぶ。
確かに、誰でもいいから助けてほしいと願った。死にたくないと叫んだ。この無秩序で不条理な世界を心の底から憎み嫌悪した。
憎んで憎んで、そしてまた助けてほしいと願った。
しかし――それは祈りというより悲鳴なのだ。言わずにはいられなかった、叫ばずにはいられなかった――ただそれだけ。
本当に誰かが来るなどと、欠片も思ってもみなかった。
だからもし、神様というものが存在したとして。
もし助けに来てくれるのならば。
「どうして……どうして今なんですか、神様」
森が焼かれている時でもなく。両親が殺されている時でもなく。
妹の元へでもない。
――なぜ私だけなんですか、神様。
「なんだこいつは……」
突然の土煙に、商人の息子を含めた全員が硬直し、音の方向――つまり謎の来訪者へと視線を向ける。
「この数日間……俺はずっと怖かった」
舞い上がる煙の中から聞こえた声は確かにそう言った。
ゆっくりと男たちの視界が晴れていく。
目の前に立つ男は奇妙な格好を――いや男とすら言い切れるか、商人と狩人たちには判断が付かなかった。発する声は確かに男のモノではあったが――それ以外から性別が分からなかったからだ。
「だれなんだお前は!」
狩人の一人が叫んだ。
だが眼下の人物はまるで意に介さず、
「いくつかのポイントがあった。アビーロスが現れるポイント。魔族陣営とガルディア国との境目――通称、幽霊の境界線。その中でも静かな水の音を楽しめる谷底であり、日時はスキャット兄妹の物語から数日前。いくつかのキー、物語は決まってる。見覚えのある風景――いや書き覚えのあるシーンだったから……君を助けれる可能性はそれなりに可能性が高いと思ってた。けど――」
けれど――と作者は綴る。
「この世界は想像以上に広大で、笑いたくなるぐらい美しかった」
語り部のように。
「もしかしたら見つからないかもしれない。もしかしたらダメかもしれないって。君が死ぬのにそれを助けれないんじゃないかって」
まるで隕石の如く現れた目の前の男。
それを見た狩人たちの反応は様々だった。困惑、警戒、不快――各々の感情が眼前の男に注がれている。
その中で、もっとも正しい反応を示したのは、狩人のような人間ではなく――この中で最も戦闘力の低い商人の息子だった。
アビーにまたがりながら商人は叫ぶ。
「なんなんだよお前!」
商人の息子は汗を一粒流す。
振り絞った怒りの声とは裏腹に、商人の顔が青ざめていく。その汗は恐れと吐き気による生理反応。
得体のしれない人物。
「なんでこの場所が分かった!? なぜエルフがここに逃げ出すと知ってる!?」
今、この場にいることすべてが偶然の結末である。
偶然、馬車が止まってしまった。
偶然、エルフが逃げ出した。
偶然、妹が姉を庇い、わずかな望みをかけて谷底へと突き落した。
偶然、歩ける程度の怪我だったエルフがここへ逃げた。
そして偶然――それを見つけた。
「俺たちがここにいるのは偶然のはずだ! 奇跡的にエルフが見つかったのも偶然のはずだ! なんでお前は……! まるでここにいることを
だからこそ商人の息子は恐れた。危険だと。
不快感と恐怖が商人の焦りを加速させていく。
「なんでお前は――そんなに安心した声色を出せる!?」
十数人の男たちが一匹のエルフを食い散らかそうとしている――この状況を見て。
「だから今は――良かったって思う。君を救えることに」
こいつは
「アビー……今は意識が朦朧としているから聞こえないだろうけど――それでも言わせて欲しい。本当にごめんな、怖かったろう。誰にも届かない聞こえないって分かってるはずなのに叫ばずにはいられなかった、そんな君の恐怖を想像すれば想像するほど――俺の心は罪悪感で潰されそうになる」
ゆらり――と煙の中男は体をくねらせ、
「――気持ちいい」
とマントから両手を出し、自身の体をで抱きしめる。
「あぁ幸せだ。誰かを救えるんだ。心に残っていた罪悪感が消えていくのを感じるよ……あぁ――胸の奥が熱い」
枯れ葉を踏み、幸せそうな声で近づいてくる。
「……さて私と同じ悪役諸君。交渉と行こうじゃないか」
「こ……交渉?」
「そうさ交渉さ。エルフの村を襲い、売りさばき利益を企む非道さを俺は君たちに求めた。だから責任というものがある。ここで引くなら――お互い水に流そうじゃないか。こっちへ来てずっと――悲しい気持ちばかりだったからね。誰かを助けれるという気持ちがこんな心地よいものだと今理解した。そんな気持ちを
まるで酔っ払いがふざけた口調でおちょくるように。
あろうことかこの男は、一切妥協のない交渉ーーいや暴虐を提案してきたのだ。
「ふ、ふざけるな! なにが交渉だ!」
「ふざけてなんて――これっぽっちもないんだよ
「なんで俺の名前を……! いやそれよりもなぜさっきまでの会話を知ってる!? 隠れて聞いてたのか!!」
商人の息子――オリバーは唾が飛ぶほどの大声で怒鳴る。混乱と恐怖が彼の体を蝕む。
「聞いてはいないよ。ただ知ってるだけ、誰よりも」
ユグドラシルはひょうひょうと答える。
「で、どうするオリバーや狩人さん」
じっと仮面の中から彼らを睨む。
ユグドラシルの交渉に答えるかのように、睨んだ先の狩人が一人、一歩だけ前へ出る。
「たまにいるんだよな。正義感にかられて邪魔するやつは」
黒髪短髪の狩人が剣を抜く。
「『エルフだって生きてるんだ』なんて馬鹿みたいに騒ぐ愛護宗教がよ。高潔な精神か異教徒かベジタリアンかなんだか知らねぇけど――よそ様の仕事に口出しすんじゃねぇよ」
剣を抜いたのは一人ではない。
「俺たちゃ狩人だ――狩るのは得意なんでね」
気絶しているアビーに馬乗りになっているオリバーを除き、十数人の狩人たちが剣を抜き魔術を唱える。
「
「疑う
「天の
狩人の男たちは――即座に攻撃の準備を始める。
魔術の
赤。火を基盤にした自然拡張系魔術。
それは、エルフの村を焼き払った赤の詠唱。火を基盤にした自然拡張系魔術。アビーにとって悪夢のような色。
複数の狩人兼魔術師が
「焔環十四条――『
「焔環二十三条――『焔と色』」
「焔環十六条――『
彼らの放った魔術には意味がある。
焔環二十三条『焔と色』。これは敵を倒す術というより――敵を魅了する術である。渦巻く黒と赤が混じった二十三条はまるで絵具で描かれたもののように繊細で、鮮明な色使いをしていた。対象の認識を曲げ、ほんの一瞬――目と奪う焔。
そして焔環十六条『怨恨たる燈火』。大蛇を形どった赤の術式は、静かにユグドラシルへと襲い掛かる。
眼を奪い、動きを奪う狩人たちの連携攻撃。
狩人たちは、連携攻撃を行い村を焼き払った。聴覚が優れ、音に敏感なエルフと言えど、いくつも掛け合わされたテクニックに、太刀打ちなど出来るはずもない。
そしてそれが、今度は一人の男に向かって放たれる。
三種の炎環魔術が順番にユグドラシルへ放たれ――
「交渉は決裂ね……まぁ君たちならそうだろう。それにそっちのほうが都合がいい――ぶべばっ!」
仮面の男に全て命中した。
「ぎぃやぁああああああ!」
モロに魔術を喰らい火だるまになったユグドラシルは、落ち葉いっぱいの地面に転がる。
ほんの十秒。
魔術を施行し、ユグドラシルの全身を焼き尽くすわずかな時間。
燃え続けた男は真っ黒に焦げ――炎が消えぬままピクリとも動かなくなる。
「ははは! やった!」
確実に仕留めた、と商人のオリバーは理解した。
不敵で不気味な男だったが所詮は一人。魔獣を討伐、捕獲を
「ビビらせやがって」
あまりの呆気なさに魔術を放った狩人の一人が汗をぬぐう。
「なんだ本物のバカだったみたいだな」
「ははは! 啖呵を切った割に、口ほどにもないぞ」
焔環十四条によって燃え続ける遺体を見て、狩人たちは嘲笑する。
「バカがさ、調子に乗って偉そうなこと言うんじゃねぇよ」
オリバーが立ち上がり燃える遺体へ歩いていく。
肉の焦げた匂い、気化した油のべたつき。
「こんなただの馬鹿にちょっとでもビビっっちまったのが恥ずかしいぜ!」
オリバーは焔の中で骨となり燃えるユグドラシルへ、
「ぺっ」
とオリバーが唾を吐きかける。
炎へとたどり着いた液体はジュ――と音がなり一瞬で揮発する。
炎を立てパチパチと燃え続ける男の顔を覗く。
「悪く思うなよ……こっちも仕事だ。命がけだ。弱い奴は死ぬ場所だって選べない。あんたも、あのエルフもな」
この世は弱肉強食。生きる力のない者は、強いものに食べられる。それはオリバーが父親から学んだ一つの哲学だ。
だから、エルフの村を襲い狩ることに罪悪感などない。単純に彼ら彼女らが弱かっただけ。
「おい息子さんよ、問題は解決した。急いで戻ろう。あんたたちも取引があるんだろ?」
「ん……あぁ」
オリバーは声をかけられ振り返る。しっかりとした足取りで森の土を踏む。
「待て!」
その時――魔術を放ったうちの一人が呼び止める。汗をかき、懐疑的な目で燃え続ける男を見つめる。
「あっ?」
「オ、オリバーさん……『気楽気ままな
「あぁ? だからなんだよ。当たれば絶対に殺す術だろ? それが当たったんだ。何か問題あるか?」
「おかしい……おかしい」
震えた手で死体を指さす。
「どうして……どうして
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